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はてなキーワード: ポスト構造主義とは

2025-10-20

フェミニズムの分類を教えてあげよう

anond:20251018215455

増田はてなが雑なのはいつものことなんだが、そろそろフェミニズムにも分類があるってことを皆さん認識してはどうか。

ざっくり整理してやるから各自勉強とき

 

リベラルフェミニズム自由主義フェミニズム

法の下の平等参政権教育労働平等機会を重視。例:メアリウルストンクラフトジョン・スチュアート・ミル

サフラジェット運動女性参政権運動

社会主義フェミニズムマルクス主義フェミニズム前身

資本主義と家父長制の二重の抑圧を批判ナンシーフレイザーなど。

ラディカル・フェミニズム(根源的フェミニズム

→ 家父長制の構造のもの批判し、性の政治を重視。例:ケイト・ミレット、シュラミス・ファイアストーン

マルクス主義フェミニズム

女性の抑圧を労働分業と再生労働観点から分析

エコフェミニズム

女性自然の抑圧を並行的に捉え、環境問題ジェンダー問題を結びつける。

文化フェミニズム

女性特質価値共感ケアなど)を肯定文化的再評価を目指す。

ブラックフェミニズム黒人フェミニズム

→ 「白人女性中心主義」への批判。例:ベル・フックス、アンジェラ・デイヴィス。

レズビアンフェミニズム

異性愛中心主義男性依存からの脱却を主張。

精神分析フェミニズム

フロイトラカン理論ジェンダー批判的に再解釈ジュリア・クリステヴァルース・イリガライなど)。

差異フェミニズムdifference feminism)

→ 「平等」よりも「差異」の承認を重視(イリガライなど)。

ポスト構造主義フェミニズムポストモダンフェミニズム

→ 性や主体流動性を重視(ジュディス・バトラー、ダナ・ハラウェイなど)。

クィアフェミニズム

性的指向ジェンダー身体多様性を含める。フェミニズムとLGBTQ+理論の交差。

インターセクショナル・フェミニズム(交差性フェミニズム

人種階級性的指向障害など複合的差別分析キンバリー・クレンショウ)。

ポストコロニアルフェミニズム

西洋中心的フェミニズム批判し、植民地主義文脈分析(チャンドラ・モハンティなど)。

トランスフェミニズム

トランスジェンダー女性視点を含むフェミニズム

サイボーグフェミニズム

科学技術身体・性の境界を問い直す(ダナ・ハラウェイ『サイボーグ宣言』)。

デジタルフェミニズム

SNSオンライン空間における性差別問題運動(#MeToo、#TimesUpなど)。

ボディ・ポジティブフェミニズム

身体規範(痩身・若さ・美の基準から解放

メディアフェミニズム

映画アニメゲームなどの表象分析

メンズフェミニズム男性フェミニズム

男性立場からジェンダー平等を推進。

ポストフェミニズム

フェミニズムの成果を前提にした「個人選択」重視の潮流(批判も多い)。

日本フェミニズム

平塚らいてう田嶋陽子上野千鶴子古川直子など。

日本型の「母性保護論」「差異政治」「ケア倫理」なども特色。

アジアフェミニズム韓国台湾中国など)

イスラームフェミニズム

ラテンアメリカフェミニズム

先住民フェミニズム

障害フェミニズム(ディスアビリティフェミニズム

老年フェミニズムエイジングフェミニズム

2025-10-03

anond:20251003144136

その辺は、当代最もまともなフェミニストである古川直子先生の本を読むとええで

ポスト構造主義フェミニズムとは何だったのか古川直子 著)

https://note.com/kyoto_up/n/n3c8131ef76df

性的マイノリティフェミニズムというテーマについて、近年かつてないほど急速に社会的な関心が高まりつつある。その一方で、セックスジェンダーという用語が何を意味するのかという、概念レベルでの理論的な検討作業は長く停滞している。90年代ポスト構造主義フェミニズムの台頭によって、社会的性別であるジェンダーのみならず、生物学的な事実としてのセックスもまた社会的構造物しかないという見方が出現した。本書はバトラーフランス唯物論フェミニズム、ケスラー/マッケンナの性別二元論批判的に考察し、その問題点を明らかにする。これによって90年代以降停滞していた当該領域における概念的枠組みを刷新することを目指す。

2025-09-04

虚人たち

以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者学術誌の査読ピアレビュー同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌受理された。

このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。

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1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小関係者の姿をアナロジカル揶揄している。

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2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり特定コミュニティ支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教偶像崇拝にすぎないことを示唆している。

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3. 投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換議論デマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化選択肢があることを付け加えたい。

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4. 敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてな投稿分析すれば論文が書けるかもしれない。

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この論文概念的なペニス社会構成である」は、ジェイミー・リンゼイピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダーアイデンティティ生殖に関するアイデンティティ社会および家族力学に深刻な問題引き起こし女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプ普遍的な原因であり、さら気候変動の概念的な原動力である結論付けています[2-4]。

1. 緒論:ペニス伝統理解への異議**

伝統的に、ペニス男性生殖器または性器として圧倒的かつ議論余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間経験多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。

この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニス生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。

さら重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的有害常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間表現多様性という重要事実に照らして、ペニスを具体的に男性解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討喫緊必要であるとされます[6]。

2. 概念的なペニス定義と「毒性のある男性性」との等型写像関係**

著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニス解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為発言を通じて社会確立されるペニス操作的な表現です[6]。

この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理鏡像のように一致しているということです。

特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10, 11]。マチスモは本質的攻撃的な男性プライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性権力ダイナミクス遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。

この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリン男性権力のない主体的立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。

**客体としての概念的なペニス自己客観化)**: 多くのシスジェンダーハイパーマスキュリン男性は、ペニス男性権力支配制御能力、魅力、攻撃性の象徴として捉え、自らの男性性の最も明白な側面をペニスと同一視する傾向があります[9]。これは、彼らが自身概念的なペニスを通じて自己を客体化する行為であり、弱さの心理闘争を緩和するための権力再配置として機能します[12, 15]。男性勃起不全を「機能不全の非貫入的(異性愛男性性」という「虚構」として捉えることも、この自己客観化の例とされます[15]。

**主体としての概念的なペニス**: ハイパーマスキュリン精神性は、社会化された男性個人を、彼の概念的なペニス刻印され、具体化された延長と混同することがよくあります[13]。この混同を通じて、ハイパーマスキュリン男性自身概念的なペニスを「主体」とし、自身の核となるアイデンティティをそのペニスを通して表現します[13]。この現象は、新資本主義唯物論が「性的アイデンティティ客観的な価値を持つ」と示唆している状況で、特に不利な立場にある人々を抑圧する結果をもたらすとされます[13]。男性性的アイデンティティ客観的な価値があるという誤解は、権力のないハイパーマスキュリン男性主体を、彼の概念的なペニスによって強力なものとして再配置する結果を招きます[13]。

この主体としての役割は、男性性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女もっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニス女性経験の知覚された主体に変え、概念的なペニス男性ジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニス主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。

**動詞としての概念的なペニス**: ハイパーマスキュリン男性は、「dick」(ペニス意味する俗語)という言葉を、行動を表す動詞として頻繁に使用します[14]。例えば、「to dick someone」(誰かを騙す、または性交する)や「I dicked her good」(彼女を十分に性交した)といった表現は、男性権力支配的な男性セクシュアリティテーマ表現するために利用されます[14]。これらの使用法は、男性自身主体的立場にある様々な言説の相互作用直感的に理解し、特定の状況、特に実際の性的な遭遇においてそれを調整することを可能します[14]。また、「I dicked him over」(彼をひどい目に合わせた)のように、他の男性に対する権力ダイナミクス表現するためにも使用され、支配的な男性ヘゲモニー思考を示しています[14]。

この傾向は、性的アイデンティティ根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリン男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキー強制し、自己認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニー分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニス睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニス遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理空間占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。

マチスモはハイパーマスキュリン本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマ自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人アセクシュアル個人にも関連性を持たないため、ペニス既存男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。

3. 気候変動と概念的なペニスの関連性**

概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティ特定有害テーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニス識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。

著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学政治経済の言説におけるハイパーマスキュリン支配と、生態系への修復不能ダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニス役割認識することによって最もよく捉えられます[19]。

特に資源安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会地球生態系メタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。

この問題のある傾向の根底にある理由は、現代資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義唯物論の支持に自身適用します[20]。この新資本主義唯物論は、特に炭素排出化石燃料技術の無制限使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。

この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンペニス中心の視点を避けるように、政治科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。

4. 結論提言**

結論として、著者らは、ペニス男性性器生殖器として理解されるべきではなく、むしろ Permalink | 記事への反応(0) | 19:03

2025-08-08

朗報フェミニストさん、トランス思想ボコってしま

わたし自分著作でしだいに「ジェンダー」を使わなくなっていった。代わりに、性的差異(このタームは固定した差異を前提にするものではなく、差異の働きを検討するためのものであ

る)や、歴史的に可変的な概念としての生物学セックスについて語るようになったのである。(Scott 2001, p. 34、下線引用者)

そもそも Scott において可変的でないものはいったい何なのか。

この混乱を踏まえるなら、「肉体的差異に対して意味確立する知」という Scott によるジェンダー代表的定義も、妙に曖昧に思われてくる。

どのような 肉体的差異に対する意味づけであるのかが省かれているのには、何か事情があるのだろうか。

Scott は「男女間の固定的で自然身体差異」や「身体的な性差」の実在に触れることを慎重に避けるが、これが存在したとしていったい何が困るのだろうか。

ある特定身体形質が社会的有意味差異として切り出され、その身体形質にもとづく人間の分類が異なる処遇によって特徴づけられるような社会集団として成立する。

ポスト構造主義フェミニズムにおける知としてのジェンダー概念は、本来この局面をラディカルに問いなおすはずのものであった。

それは生殖機能に関わる身体形質が社会的に意義を帯びるという普遍的と思われる事態のものを、議論の射程に含みうるだけのポテンシャルを有していた。

しかし、Scott らは意味づけの対象となる身体形質について曖昧しか語らないことによって、この優位点を掘り崩してしまっているのである

生殖機能と関わる身体形質がきわめて重要意味づけの対象として切り出されるという事態自明性を問いなおすうえで、性別生物学差異であることを否定する必要はまったくない。

それは血液型というマージナル身体形質が重大な社会的意義を帯びているという状況の奇妙さを認識するために、血液型生物学的な定義(ABO 型ならば赤血球上の抗原と血清中の抗体基準とする分類)を疑う必要などまったくないのと同様である

セックスもまたジェンダーである」のか?── ポスト構造主義フェミニズムにおけるジェンダー概念再考に向けて

https://www.jstage.jst.go.jp/article/genderstudies/26/0/26_2/_pdf/-char/ja

2025-08-04

職業に貴賎なし増田レベルが低すぎる

anond:20250803001833

 

文化人類学だのポスト構造主義だの書いてるが、正直レベルが低すぎる、芯を食っていないからただの権威付けにしかなっていない。

まず基本1、ポスト構造主義等のジャーゴン権威付けの為に利用する(または結果的にそうなる)ことは恥ずかしい事だと認識しよう。

 

次に基本2、ジャーゴンを使うならそれぞれの位置付け位は理解して使おう。

途中で「文化人類学的な視点」と言っているが「女性氏族交換によって価値を生む存在からこれは構造主義を指す事が分かる。周知のとおりポスト構造主義構造主義への批判により成立してきた経緯がある。

従って「構造主義」と「ポスト構造主義」を同じ文章の中で何らの言い訳もなく一緒に使うのは、「自分意味も分からずに使っています」と告白してるも同義、恥ずかしいから君レベル理解なら使わない方がマシです。

 

基本3、基本的に多くの理論は「批判理論であることを理解しよう。

例えば構造主義増田の言う「穢れ」等の概念が、実は構造により生成された「フィクションであることを暴露することを通じて、そのフィクションに従う人々を批判する。

まり普通に使うなら件の発言者は「穢れというフィクションに左右されて差別発言をした人」になる、という基本的構造理解して使わないと、ちぐはぐになってしまう。

フーコー社会による「狂気」の生成を批判したように、増田は「穢れ」の生成を看過するためではなく批判するために各思想を使わなければならなかった。(やってるつもりかもしれないが、甘い)

さらポスト構造主義はそのような構造主義の考える「構造」が静的すぎることを批判し、より動的なモデルを描く。ここについては増田の考える描像は静的過ぎて、ポスト構造主義的では全く無い。使ってる意味が無いし、権威付けにしかなってない。

このように基本的に多くの理論はなにかに対する「批判」で成り立っている事、そして何を批判しているのか理解して使わないと意味が無い。

 

基本4、古い理論を使うなら現代との関係意識しよう。

増田の言う「男性主権社会」は、「前近代的価値観の復活」などと言っている通り、前近代的構造であり、普通に考えるなら現代より随分古い時代構造である。対して現代は「ポストモダン」等と言われてからもすでにかなり時間が経ってる。

従って件の発言者は「男性主権社会」という今となっては古い社会価値観に従って時代遅れの差別意識を露わにした、ということになる。要するに「価値観が昭和おっさん昭和発言をして炎上した」と同じで、昭和おっさん昭和価値観のままなのは男性主権社会」よりもその人自身責任である

こうした時代による遠近感を増田意識できていないから、主張がおかしくなる。

既にポスト構造主義すらかなり古い思想だ。現代問題に使うならそれが適用可能であることを確認説明してからでないと「前時代価値観に引き摺られた」等の意図しない意味付けを付与してしまう。

 

基本5、結論を都度都度ちゃんと考えよう

増田文章全体に言えることだが、あるトピックに話が移ったかと思うとその結論が碌に出ないまま別のトピックに話が移る。こうして全体がふわふわしたまま大学生レポートにような無難ほとんど意味内容の無い「結論」と称した抽象的なスローガンに落ち着く。

文章には消費するカロリーのようなものがあり、いろんなところにふわふわ漂って結構な文量を読んだ結果、結論が「男性主権社会がその構造を生み出していた」ではカロリーが見合ってないんだよ。

そのようにふわふわした結論しか導き出せないのは、各トピックを十分掘り下げることや時には「自分にとって都合の悪い」結論が出る事を避けて通っているせいだと思うよ。

今の増田は、結論ありきで話を進める割に、自分に都合の悪い結論を避けるため掘り下げも中途半端になり、結果ふわふわした結論めいた何かしか出せていないように見える。

理論思想を使って考えた結果、一時的にでも都合の悪い結論が出てしまうなら、それを受け入れる度量も必要。むしろ「思ってもみなかった結論」は本来言祝ぐべきものだ。

 

基本6、前提を理解する

まず、そもそも件の発言者価値観や「穢れ」が前時代的で時代遅れであることは、多くの人がすでに分かってる。今更増田発見したように言う事では全然無いんだよ。

職業差別」や「職業に貴賎なし」はそうした前提をパラフレーズしたものであって、増田は多くの人が前提としている事を結論として再発見してしまっている。(結論の薄さの原因はなによりもこれだろうね)

また、ポスト構造主義は他の思想から相対主義すぎる」と批判されることも多い思想だ。そうした相対的相対主義の強い思想から、例えば「内面自由を認めることは差別再生産に繋がること」みたいな保守的全体主義的過ぎる結論はまず出ない。

更にそもそもポスト構造主義は、増田がやっているような「静的な構造男性主権社会)により穢れが生まれているんだ」というような構造主義的な主張を批判して生まれてきた。

そうした各思想に対する大雑把な前提も入ってないから、思想に合わない変な結論が出てしまう。

何が前提なのかを理解してから考えないと、こういう事になってしまう。

 

他にも色々あるかもしれないが、まぁまずはこのあたり。

というか基本的に、生半可な知識ポスト構造主義とかなんとか名前だけ出すのはやめた方が良いと思うぞ。単純にリスクが大き過ぎる。

2025-08-03

職業に貴賎なしへのコメントに対するアンサー

あーごめんごめん、お察しの通り前の文章は生成AIと一緒に作ったやつで30ラリーくらいした上で最後添削のところで手伝ってもらったから臭さが残っちゃったね。

今度のこの文章100%pureメイドバイ人力なので安心してえろ(絶対添削で残らない語尾を敢えて残すことで証左を高めるテクニック!)

私が前の文章書くにあたって、穢れの部分については文化人類学男性主権社会構造分析にはポスト構造主義、他にもフーコーハンナ・アーレントあたりを援用しながら考察を進めていったか議論拡散しすぎてはてなーには理解不可能だったかもね。

でもおかげで論点がより可視化されたのでさらに一歩進めることができたよ。BIG LOVE🩷 あと、積極的に私の話を聞いてくれたひとには感謝しかない。

私の主題は、罪を男性に擦りつけることではなかったよ。でも今更こういったところで、ヒス女が話聞いてくれなかったか尻尾振ってきたくらいにしか思われないし、男女対立にした瞬間に血圧200超えちゃうひといるからどうしようもない問題かもしれない。Koshianxさん、昔はあなたが好きだったから寂しい限りです。

前回の私の文章問題点として挙げられていたのをまとめると以下の3つだと思っている。

①公開垢で言うのが間違い派

女性同士の争いなのに男性のせいにするのはただの責任転嫁

ウェディングドレス純潔性なんてないよ派

①について、確かに、私の素朴に感情を呟くという表現は迂闊だった。反省している。でも、はてブならいいんかってレベル差別発言してるひといるよね? てかAV女優ときが何を偉そうにと言っているひともいるし、そいつら一人ひとり叩き潰してから掛かってこいよってこれまた燃えるね。

いかい、投稿者は元AV女優が私が着る予定だったドレスを着たことを問題にしたんだ。三上悠亜という名指しをしたわけではない。

そこにあったのは、自分の見られ方をコントロールできないという諦めからとも読める。内心の自由否定しないはてなーなら、アイツの着てるドレスAV女優と同じなんだって、ぷぷ、インフルエンサーなんて同列だから仕方ないねw だったり、AV女優と同じ衣装着てるってエロw 同じドレス着るなんて穢れが移ったね、という見られ方をするのは仕方ないってことなんだよね。これはポスト構造主義議論

前回の文章ではここの部分を端折りすぎて議論拡散していたから丁寧に書くよ。

内心における差別自由否定しないなら、誰かにどう思われることも否定しないってことだよね。**

じゃあ、そもそもAV女優から最悪って思う心はどこから来ているんだって話。

ここから文化人類学的な視点になる。穢れというのは、処女性=純潔性→神聖さと対立する概念であって、女性氏族交換によって価値を生む存在である。その価値担保するのが穢れのなさである。それを示すのが白無垢=ウェディングドレスだ。逆に言えば、自分自身を商品化する女性には価値がない、けれど社会を維持するためには必要存在として穢れを負わせることで内包していた—もちろん、コメントにあるように病的な意味で穢れという身体的な惹起があることも確か。

穢れを持つもの身分固定化されやすく、この差別とは再生産され続けていた、というのが歴史的な経緯。

で、ここからフェミニズム的な見方になるんだけれど、職業選択の自由女性選挙権をはじめとする自主決定権が与えられてから世代で言えば4世代くらいは経っている現代において、建前上は穢れによる身分固定化というのはないことになっている。

けれど、一方で経済的事情から身体商品化する職業を選ばざるを得ない家庭に育つひとがいることも確か。

こうした、選択肢がないものしか選べない職業ということでセックスワーク現代においても賤業として見られている。

そこに近代以前の穢れ観と結びついて、AV女優をその職業理由区別することは、差別だと言われる、と私は読み解いたよ。

他の差別と比べて難しいのが、他の前近代的差別教科書に載せて、また教育によって廃止するというスローガンがある一方、こちらの穢れについては明文化されてこないものであった。

まり投稿者にとってAV女優が着て最悪と言ったのは、現代的な価値観やそもそも身体商品化している職業者と同一視される可能性を危惧してのことかもしれない。けれど、過去から文脈を知るものが、穢れと結びつけて差別だと批判したんだよね。

で、ここまで来てようやく私の本題に入るんだ。

この穢れの構造を作ったのは、女性か? 女性は、コメントにあったように自らの商品価値を高めるために他者純潔性を貶めることをしたり争ったりと主体的再生産に寄与していた側面はあることは確かだが、そもそも、この純潔性は自らの商品価値であり値付けをする存在いるからこのマーケットは成り立つんだよね。

そのマーケット主催者歴史的男性だったんじゃないの???

勘違いしてほしくないのは、別に現代に生きる男性糾弾したいわけじゃない—むしろ私たち女性に選ばれる側、値付けされる側として大変だもんな。これまでと価値観が転倒してそれに対応するので精一杯だ。でも、女性達が結婚式で着るウェディングドレスの純白には、過去私たち価値観が色濃く(むしろ真っ白に)残っている。

ここを認識しないと、この差別を無くすための第一歩にならないということだ。みんな、公共の場差別を叫んではいけない、という道徳規範を持っているなら、差別撤廃しようという運動にもベットしてくれるよな?

過去から分断した価値観を持つ者はとっくにこの枠組みから逃れていて、だからこそAV女優について非難することは差別だと思うのかもしれない。けれど、そう言えるのは男性だけであって、今でも値付けされた側には純潔性を巡る呪いから逃れることはできないままでいるんだ。

からAV女優に対して普段から暴言を吐かれていても可視化されなかったが、今回炎上したのは、この純潔性の呪いがはっきりと顕れる事象だった、しかミソジニーが喜ぶ構図で、という最悪の掛け算が起こったからなんだと思う。

そうやって純潔性の呪いから抜け出せないことは前近代的価値観の復活であり、それはつまり男性主権社会復権の足掛かりなんだから

私の前回の文章は、議論範囲トーンが整理されていなかったことや、現状認識の甘さがあったことは認める。SNSは素朴じゃダメだよな。そこは素直に謝りたい。ごめん。

だけど、私が訴えたかったのは、

ここまで来れば、女性自分にかけられた呪いを解くターンにあることは確かだし、その呪いを再びかけようとする存在意識することができる。

私は今回の炎上から、この一歩の必要性を感じたよ。あなたはどう?

追記。私はフェミニストではないよ。ただの人文系大学時代に齧っただけのものから理論の正確性に欠ける部分はあるけれど、この問題を解きほぐすためには人文学知識を総動員しないといけなかった。大学時代、使うことはあっても何か定規で測っているだけのようだったけれど、初めて知の巨人肩に少しだけ乗れた気がする。

2025-06-28

うーうー学は、球体の完全性に内在するトポロジカルな均質性と、それが現実物理における弾性変形を伴う際に生成される非線形応答性の間のヘテロトピア関係性を探求する新興の学際的ディシプリンである。ここにおける「うーうー」とは、単なる形態的逸脱にとどまらず、メタ存在論的枠組みの下で、理想的球体のモノイド的閉包性と物理的制約によるアフォーダンス共鳴点としての複合的存在様態を指示する。

学問は、フーコー的な空間異質性ヘテロトピア)とハイデガー存在論的差異の交錯により、うーうーの形態的特徴を生成論的に再解釈する。すなわち、球体の完全なる対象性と、物理的軟性の存在論的緊張が生成する境界状態としての「うーうー」は、不可逆的時間性のなかでの存在の流動的実存象徴するメタファーとして機能する。

さらに、うーうー学は、形態生成のカオス理論アプローチとともに、システム論的視点から自己組織化臨界性(SOC)を示唆し、物理的変形と認知意味生成の複雑系相互作用を探る。これにより、「うーうー」は単なる物理現象の域を超え、ポスト構造主義テクストとして、自己言及性他者性の境界を跨ぐエクリチュールとして位置づけられる。

こうした議論は、ラカン鏡像段階理論デリダ脱構築の枠組みを援用しつつ、うーうーの「眼」の有無問題においても、視覚主体性解体と再構築を促進する。結果として、うーうー学は、物理学的実証主義形而上学現象学の融合を試みる、現代思想における新たなエピステーメーの創出を目指すものである

2025-06-09

ストーリーが重視される時代ってホント

箕輪ちゃんが「物語現代油田物語は欠落からしか生まれない」って言ってたんやけどさ

ひろゆきちゃんが言うように、教え(あるいはストーリー)を崇拝してもいい要素って、ストーリー作成者が死んで何世代も経つ場合だよね

じゃないとカルトなっちゃうでしょ、「7月5日世界が滅びまーす」も白装束集団と同じカルトなのよ

新興宗教カルトだし、クソフルエンサーとそれに群がる民衆カルト推し活もカルトなの

物語ってのは、作った奴の生存によってそのつど更新され得る限り、閉じた体系とはなり得ず、絶えず可塑的で操作可能情報空間として機能し続けるんだよな

これがリアルタイムインフルエンサー宗教指導者政治的指標の持つ危険性ね

死んだ語り部によって残された物語は、作者の不在により意味の生成主体が不在となり、解釈自由度が最大化される

ここで初めて、物語はその共同体内において普遍的記号となりうるが、これはその物語が語り得ぬものとしての神話に近似していくことを意味する、聖書がわかりやすい例ね

作った奴が現在進行形存在し続けている物語は、それが単なるナラティブではなく、統制装置プロパガンダとなるリスクを孕むんだよ

情報の非対称性と従属的解釈モデル固定化されることで、構造的に思考停止を内在化するから

物語の強度とは、それがいかに「解釈の余白=意味の欠落」を孕んでいるか依存する

欠落とはつまり全的説明の不在すなわち真理の脱中心化を意味し、そこにこそ物語エネルギー源がある

箕輪ちゃんの言う「欠落からしか生まれない」という言葉は、ポスト構造主義的には極めて正確な命題であり、物語エントロピーこそが想像力駆動因子なのよ

物語を生きた人間が語るとき、それはもはや物語ではなく「命令である

これは、語り部意味の独占者である限りにおいて避け得ない事態であり、その意味で、すべての現代物語は、カルト紙一重構造宿命づけられているってわけ

2025-03-04

【DeepSeek R1東浩紀存在論的、郵便的』を高校生向けに解説

ベンチマーク的な記録として。

DeepSeekは人文系に強い印象がある。相対的に。

プロンプト:

東浩紀存在論的、郵便的: ジャック・デリダについて』の内容を高校生3年生でもわかるようにわかやす説明してください。

DeepSeek R1:

東浩紀の『存在論的、郵便的: ジャック・デリダについて』を、高校生向けに哲学の基礎を交えて解説します。

(※「存在論」や「ポスト構造主義」の概念に触れつつ、現代社会との関連性を意識して説明します。)

---

1. 「存在論」とは何か? ~デリダと「脱構築」~

哲学で「存在論」とは、「存在するとはどういうことか?」を探る分野です。

デリダは「脱構築(だつこうちく)」という方法で、従来の哲学が「絶対的な真理」や「固定された意味」を前提としていたことを批判しました。

→ 例:

「善 vs 悪」「現実 vs 仮想」といった二項対立は、本当に絶対的か?

東浩紀は、デリダ思想を「現代インターネット社会」に応用します)

東浩紀は、SNSVRなどで「現実」と「仮想」が混ざり合う現代を「存在不安定化」と表現

アバター匿名アカウントでの「自分」は「本当の自分」か?

→ 「存在」はもはや単一ではなく、ネット上に分散している。

2. **「郵便的」の核心 ~「差延」とコミュニケーションのズレ~**

意味」は決して確定せず、常に「遅延(ちえん)」と「差異(さい)」が生じるという思想

→ 例:LINEで「笑」と送っても、相手が「嘲笑」と受け取るかもしれない。

言葉意味は「送り手」と「受け手」の間でズレる。

東浩紀は、デリダ思想を「手紙が宛先に届く過程」に例えます

- 手紙は途中で紛失したり、誤解されて読まれたりするリスクがある。

- 同様に、言葉情報は「完全に正しく伝わることはない」という前提が重要

3. **現代社会は「誤配時代」 ~SNS情報暴走~**

東浩紀は、インターネット時代を「郵便が誤って配達される(誤配)のが当たり前の世界」と表現

→ 例:

- ツイート意図せず炎上する

- デマ情報が独り歩きする

- 匿名掲示板での言葉現実人間関係を壊す

  • **「正しさ」より「受け取り方」**

デリダ的な視点では、「絶対的な正解」を探すより、「多様な解釈が生まれること自体」を認める必要があると説きます

→ 例:

愛国心」という言葉も、人によって解釈が異なる(「誇り」か「排他主義」か)。

4. **高校生に刺さる具体例で理解**

匿名書き込みは、送り手の意図を超え、受け手解釈暴走する。

→ 「郵便的」なズレが、現実に深刻な被害を生む例。

VRChatやゲームアバターでの「自分」は、現実自分とどう関係する?

→ 「存在」が複数化し、固定的な「自分」という概念が揺らぐ。

  • **例3:AIとの会話**

ChatGPTが生成する言葉は「誰の言葉」か?

意味の所有者が不明確になる現代的な「郵便的状況」。

哲学メッセージの核心

東浩紀デリダから引き出すのは、

私たち言葉存在は、完全なコントロール不可能な『郵便物』のようなもの

しかし、その不安定さこそが、創造性や自由を生む土壌でもある」**

という思想です。

受験や進路に悩む高校3年生にも響く点:

  • 絶対的な正解」がない世界で、どう自分定義するか?
  • SNSの「誤解」や「ズレ」に振り回されないためには?

→ 「不確実性を受け入れ、柔軟に生きる力」が現代には必要、という提言です。

2025-02-27

ポスト構造主義東洋思想

ポスト構造主義は「社会構造を疑い続ける」。

東洋思想特に禅)は「疑うことさえ超えて、直感的な理解悟り)を目指す」。

例:デリダ vs 禅僧

デリダ:「意味は固定されない。だから解体し続けるべき」

禅僧:「そんなこと考えても仕方ない。茶でも飲め」

まりポスト構造主義は「分析批判」にとどまるが、東洋思想は「最終的に超越する」方向に向かう。

2024-09-10

anond:20240909200421

ハプスブルク家

ジャムパン

ポータブル充電器

ボールペン

泉ピン子

ペヤング

パパ活女子

ピーターパン症候群

ポンタカード

おぱんちゅうさぎ

ハリーポッター賢者の石 など

ピンクフロイド

ペドフィリア

ペドロマルティネス

ペーパードライバー

プラスドライバー

ポスト構造主義

ポスト資本主義

ポストモダン

郵便ポスト

爆乳戦隊パイレンジャー

神秘主義

ポーツマス条約

ピラミッド

ピタゴラス

ピクトグラム

アンダーパー

ぷっちょグミ

激おこぷんぷん丸

パニック障害

ポケモンカード

ポン酢

ぺんぺん草

ポートアイランド

ポルトガル

パターゴルフ

ピクシブ

ピンクレディー

ピザ

グランドピアノ

モンキー・D・ガープ

Bカップ など

プディング

ポーズ

ゴールキーパー

ヤマザキ春のパンまつり

ページ

パジャマ

ジップファイル

パラサイトシングル

ジブリパーク

オピニオンリーダー

アルバートプホルス

カルレスプジョル

1本満足バー

ブレーズパスカル

ポケットモンスター緑 など

ポケベル

ピューと吹く!ジャガー

倍プッシュ

板氷

パグ

ペグ

ピグレット

アメーバピグ

ポールポグバ

ポールダンス

レオナルドディカプリオ

ジャンポールサルトル

ピーターシンガー

サンピエトロ大聖堂

ウラジミールプーチン

ピュレグミ

サンリオピューロランド

ソニーピクチャーズ



うんこしながら考えてたらうんこよりもドバドバ出てきてまだまだいけそうだけどとりあえずここまで

2024-05-14

ポスト構造主義マルクス主義は、構造主義マルクス主義の要素を組み合わせつつ、両者を批判的に再解釈し、社会経済分析を行う理論的枠組みです。このアプローチ代表する重要思想家の一人がジャック・デリダであり、彼の弟子とされる学者には以下のような人物がいます

### ジャック・デリダ弟子

1. **スラヴォイ・ジジェク**

- ジジェクは、ラカン精神分析ヘーゲル哲学、そしてマルクス主義を融合させ、現代イデオロギー政治批判的に分析しています。彼の思想ポスト構造主義マルクス主義の影響を強く受けています

2. **ジャックランシエール**

- ランシエールは、デリダの影響を受けつつも独自政治哲学を展開し、平等民主主義について深く探求しています。彼の著作は、ポスト構造主義マルクス主義の融合を感じさせるものです。

3. **エルネストラクラウ**

- ラクラウは、チャンタル・ムフと共に「ポストマルクス主義」の理論を発展させました。彼らはヘゲモニーポピュリズム概念を再構築し、デリダの影響を受けつつ、マルクス主義批判的に再解釈しました。

4. **ガヤトリ・チャクラヴォルティスピヴァク**

- スピヴァクは、ポストコロニアル理論の主要な学者であり、デリダの解構学を用いて、サブオルタナート(被抑圧者)の声を取り上げています彼女研究ポスト構造主義マルクス主義に関連しています

これらの学者たちは、それぞれが異なるアプローチを取っていますが、共通してポスト構造主義マルクス主義対話を通じて現代社会の諸問題分析しています

2022-05-31

野生の思考とシンウルトラマン

【シン・ウルトラマンネタバレあり というかネタバレ気にせず話す】

 

 

 

 

 現在公開中の『シン・ウルトラマン』を2回見てきた。あまりにも良かった。感想をどっかで書きたい。

 ところで、その感想叫びを漁る中で見かけた勘違いが「リピアくんが『野生の思考』って本を読んでる!」→「リピアくん地球人類のこと野生動物か何かと思ってる?」というもの

 別に誰がどんな感想を持とうが、或いはその人やそれに近しい観点を持ってしまった人が何をどう勘違いしていようが、それ自体全然どうでもいいのだけれども、リピアくんとこの本の著者(レヴィ=ストロース名前は聞いたことある人多いだろう)の名誉のためにもツッコミ言葉ネット上に残しておきたい。ついでに、この映画にこの本が登場した意味考察をちょっぴり披露させてほしい。

 

 

 

 

●要約と見出し
①『野生の思考』を超要約すると「いわゆる”文明人”の思考と”未開人”の思考根本構造的な違いはないよ。つまり両者の思考のものに優劣はないよ」だよ

 

 

②ザラブ、メフィラスは地球人類をいわゆる『未開人』と見ていたよ。ゾーフィもたぶんそう。

 

 

③『野生の思考』がリピアくんあるいはこの映画に与えた影響は不明だよ

 

 

 

 

①『野生の思考』(クロード・レヴィ=ストロース/1962)

 1950年代までのフランスをはじめとした西欧に多かった(今でもかなり多い)哲学思想が「西欧文明における思考と、アジアアフリカ中南米の未開文明思考とでは根本的に違う」という考え方で、主に科学技術文化の面での進歩史観優越感、啓蒙思想資本主義と結びついて植民地主義覇権主義の土台の一つになっていた。それに異を唱えたのがフランス出身人類学レヴィ=ストロースの『野生の思考』という書。特に文化人類学者やリベラル系の人に言わせれば「戦後思想における最大の転換点」となっており、いわゆる人文系に広げてみても、構造主義を生み出し、更にその後のポスト構造主義などの思想もつながる端緒となったという点ですごく重要な一冊になっている。

 

 

 内容をものすっごく要約すると「『事象の切り取り方』『概念の置き方』ひいては社会秩序の維持や幸福追求に対する考え方はどの文化においても根本的な構造は変わらず、表出の仕方、あるいは社会が持つ興味の向かう先と取捨が違うに過ぎない。あらゆる文明進歩史観的考え方を持つわけではなく、発展を望む文化もあれば安定を望む文化もあるというだけ。栽培思考(=科学によって裏付けられ、概念を用いて行われる文明思考)と野生の思考(=記号によって行われる思考。「野蛮な思考」ではない)との間に優劣があるわけではないし、一つの文化の中で両方の思考は両立しうるし、実際個人の中ですら両立している」といったもので、その歴史的意義は「20世紀半ばの西欧にはびこっていた進歩主義特に西欧文化を中心とする思考科学技術を背景に自分達を上位に置こうとする考え方への批判を行ったこと」「しかし、だからといっていわゆる”未開文明”や自然主義を礼賛するわけではないこと」「文化を『仕組み(構造)』に置き換えて分析するツールとして学問の場に登場したこと」あたり。

 「文化構造的に捉え、それぞれの要素が社会の中でどう表出しているか研究する」という所から後に『構造主義』と呼ばれる思想を生み出したことで有名。更に言えば西欧の奢りや発展途上国(昔は「後進国」と言われてたよね)への見下しを批判する流れを生み出したという点でも評価を受けている。

 

 

 「野生動物思考方法」みたいな生物学の本ではない。

 

 

 

 

②ザラブ、メフィラス、或いはゾーフィの考え方とは

 ザラブにしろメフィラスにしろコミュニケーションの初手は「自分科学力、技術力を地球人類に見せつける」事から始まる。その科学技術力の差を背景に、劣等感と焦りを刺激して地球人同士を争わせようとするのがザラブであり、劣等感無力感……謂わば絶望によって人類心理的支配し最終的に兵器として利用しようとするのがメフィラス。それらに抗うのがウルトラマンたるリピアくん、というのが中盤の流れだった。

 

 物語の序盤で、わざわざ観客に見せつけるようにリピアくんがこの書を読んでいた(演出しての)理由はここにある……気がしなくもない。16世紀から20世紀……あるいは紀元前から現代に至るまで、我々地球人類が奴隷植民地後進国、押し並べて言うなれば『未開人(文明人/強者たる自分達とは構造的に違う考え方をする者)』である他者に対する接し方は、ザラブやメフィラスをそこまで強く批判できるような立派なものではなかった。

 宇宙人ゾーフィもそう。彼が裁定行使できる者・絶対者としての力を行使したのは「『未開人』である地球人類が、未開人のまま我々『文明人』並みの危険性を持つ可能性が出てきた」からじゃん。

 使用を思いとどまったのも、リピアくんもといウルトラマン意思感情を汲んであげたのもあるけど、基本的には、地球人類がβシステム自力で解析・利用し、グリッチじみた手法ではあるがゼットンを無力化せしめたことで「『未開人』から文明人』に格上げされた」だけに過ぎない。

 そんなゾーフィにもリピアくんは抗う、というのが終盤のストーリー。もちろん滅ぼされる我々としてはたまったものではないけれど、じゃあ地球人類の歴史において、他人他国人、あるいは他の生命に対してゾーフィと似たようなことをしてこなかったか、を考えると……やはり「滅ぼされるのは困るからやめてくれ」くらいしか言えない。

 

 

 逆に言えば、あの外星人や地球人の中でリピアくんだけが”変”なのよ。我々が他者と相対する時、普通はザラブとはいかんまでも、マイルドメフィラスかゾーフィくらいの扱いになるし、そうでなくとも暴力政治で言う事を聞かせてその力を利用しようとする各国政府みたいな事をする。地球人類とリピアくんとの科学技術の差や大きさの比で考えれば、虫か何かを前にした人間、の方が理解として近いかもしれない。

 しかし、リピアくんは(各国政府ひいては人類歴史悪辣さを知りながらも)、あのネロンガ戦のたった一度、リピアくんの足下でただ一人リピアくんだけに見えた星のような輝き、小さな他者のために命をかけられる個、そういう価値観を共有できる群体のために命を張った。そういうことをできる生命体のことを知りたくて、知り続けるために守りたくて、学んで、感じて、支えて、何度か支えられて、それでも分からなくて、その果てに見つけた『他者のために命を賭けられる自分』。虫のような他者のために、ネロンガの電撃や、ガボラの激ヤバ光線や、メフィラスのグリップビームや、1兆度の火球の前に身体を晒せる者。ザラブにもメフィラスにもゾーフィにも、あるいは普通地球人類の日常の中にもない”変”な価値観を持つ、だからこそ『ヒーロー』、ウルトラマン

 

  

 自分が今回の『シン・ウルトラマン』に感動したのはまさにここで、「ウルトラマンとはこういうヒーローなのだ」「我々がウルトラマンヒーローだと感じてしまうのはこういう理由なのだ」を2時間かけてぶつけられたのがあまりにも気持ちよかったかなのだ

 

 

 

 

レヴィ=ストロースウルトラマンにどれだけ影響を与えたか

 結論から言うと「わからない」。それはリピアくんに対してという意味でも、『シン・ウルトラマン』という作品に対してという意味でも。

 というのも、リピアくん、地球人類のことをめちゃめちゃ頑張ってお勉強してて(かわいいね)、ものすごい量の本を超速で読んでるわけで、『野生の思考』だけがピアくんの人格形成思想信念の確立寄与しているかと言われれば、まあもちろんそんなことはないだろうという演出はなされてる。レヴィ=ストロース思想だってその後にやって来たグローバリズム等の思想史において批判を受けてきたわけだし。

 そもそもピアくんがザラブやメフィラス、あるいはゾーフィから地球人類を守ろうとしたのは「我々と彼らの文明構造的に違わない」という計算、あるいは知識を基にした思想や信念からではない。「彼らの事を知りたい」という知的欲求から来る寄り添い、ゾーフィが言うところの「好き」、米津玄師が言うところの「あこがれ」という感情こそが、リピアくんの力の根本なわけで。

 

 

 文化人類学の中でも大きな意味を持つ書でもあるし、作中においても先の展開を示唆しかねないアイテムでもあるけど、知らずに見ていた人なら分かる通り、別にこの書が作品全体に超大きな影響を与えているかは正直微妙かもしれない。でも、知っておくと↑のような考察も楽しめるという点では面白いよ。

 

 

 

 

結論

・『野生の思考』という本は生物学ではなく文化人類学の本だよ

・本の内容は『シン・ウルトラマン』という作品意味を落としているかもしれないし落としてないかもしれないよ

・それはそれとして読んでおいて損はない本だよ

以上

2021-10-05

anond:20211005070601

のろま早くしろとか発破かけてるフリしてるけど

今更こんな批判出してくる時点で

色々と長引かせたいのが見え見えなんだよね

本当にいい人間だったら

これもっと早く言うよね〜〜

0670 考える名無しさん 2021/10/03 23:43:09

>>669

デリダドゥルーズが共にやったことは、

ソシュール記号学批判して、パース記号論哲学を捉え直した点。

構造主義記号学

ポスト構造主義記号論

>>496の中に、一言でも「記号学とあるかい

パースを知らず、ソシュールの「シニフィアンシニフィエしか知らないようでは、

ポスト構造主義ポストモダンを読んでもチンプンカンプンポエムしか見えないだろう。

( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

辞書も引かずに哲学をやっていると、何千時間無駄にするよ。

2018-06-09

現代思想っていうネーミングまずくね?

あれの実態ポスト構造主義ってことになるんだろうけど、いつかの未来にはまた新たな思想が発生するだろ、たぶん

そのときに、現代思想とか、あとポストモダニズムって言葉が、特定主義思想と結びついて認識されたり、書籍に書かれて後世まで残ってたりすると、後々わけわかんねえことにならねえ?

百数十年前の、とっくに過去のものとなった本に「現代思想とか書かれてたら嫌だろ

それとも「現代思想」とかそれにあたる言葉認識は、今に至るまで、時代思想の変遷に伴って更新されてきてたのか?

2016-03-07

キモオタによるフェミニズム概論

フェミニストからキモオタ死ねと言われ、私はもちろんキモオタであるから激昂してクソフェミ死ねと言い返しかけて、そこでふと気がついて困惑した。

フェミニズムとは何だろうか。

私はフェミニズム名前ぐらいしか知らない。しかし知らないものを知らないままにしておくことは、少なくとも私にとってキモオタしからぬ行為である。私は自分に自信をもってキモオタでありたい。クソフェミ死ねと罵られるキモオタであることに誇りを持ちたい。ならばフェミニズムについて知らなければならない。

しかフェミニズムについて知りたかったら何を読めばいいのか。これが意外と分からない。ロールズやセンを読めというのを見つけたので読んでみたが、やはりフェミニズムが分かった気になれない。

そこで手当たり次第に適当にフェミニズム書籍を読んでまとめみることにした結果が本稿である。決して十全ではないが、私同様、フェミニズムをよく知らないオタク諸姉諸兄にとって、フェミニズム理解の取っ掛かりになれば幸いである。

フェミニズムとは

フェミニズムは大きく三種類ある。ラディカル・フェミニズム(以下ラディフェミ)、リベラルフェミニズム(以下リベフェミ)、そしてマルクス主義フェミニズム(以下マルフェミ)であり、それぞれ理論の組み立ては全く異なる。以下順に見ていこう。

ラディカル・フェミニズム

現在のラディフェミ理論的支柱はキャサリン・マッキノンと言っていいだろう。「性の不平等の源はミソジニー(女嫌い)」であり、「ミソジニーの源は性的サディズムにある」(C.マッキノン,"フェミニズム表現の自由",1987,*1)。そして社会に溢れるポルノグラフィ(以下ポルノ)こそが「性差別主義者社会秩序の精髄であり、その本質をなす社会的行為」(*1)に他ならないと喝破する。この諸悪の根源ポルノであるという揺るぎない確信からポルノ法規制を推進する。

ポルノ性犯罪を誘発するという統計的証拠はあるのか。この批判に、しかしマッキノンは自覚的である。誘発するという調査もあり、無いという調査もあると率直に認める。従って彼女が起草した反ポルノ法は「被害をもたらすことが証明されうる物だけが告発できる」(C.マッキノン&A.ドウォーキン,"ポルノグラフィ性差別",1997,*2)。「証明されるべき被害は、強制行為、暴行脅迫、名誉毀損、性にもとづいて従属させる物の取引といった被害でなければなら」(*2)ず、不快に感じた、宗教上の信念を侵しているといった被害は認められない。被害者ではない第三者告発することも認められない。

ポルノには、ホモレズ二次元も、古典文学から芸術作品まで被害をもたらすことが証明される限り全て含まれる。自分が叩きやすゲームマンガだけを槍玉にあげて、自分が叩かれやすい文学や芸術から目を背けるチキンではない。殴るからには全て殴る。それがマッキノである

なお、田嶋陽子はラディフェミを名乗りドウォーキンへの共感を示しているが、ポルノ諸悪の根源とはせず、現実的政策としてはリベフェミに近い内容を述べているため注意されたい("愛という名の支配",1992)。

リベラルフェミニズム

J.ロールズの「公正としての正義」やA.センの「不平等の再検討」をその理論的土台とし、リベフェミは次の点を問題視する。「ジェンダーシステムは、その根を家族における性別役割にもち、事実上わたしたちの生活の隅々まで枝葉をはびこらせた、社会の基礎的構造のひとつ」(S.オーキン,"正義ジェンダー家族",1989,*3)であり、「女性男性重要差異が、家族内で現在おこなわれている性別分業によって作られる」(*3)。

夫婦がともに働いている姿を子供に見せることが教育上望ましいと考え、そして共働きにおいて妻にだけ家事育児押し付けられることは不平等であり、二人で平等に分担するべきであるとする。もし専業主婦なら、夫の稼ぎは夫婦二人で稼いだものとして両者で均等に等分すべきだとオーキンは言う。

このように家庭内賃金労働の不平等の解消によって性差別の無い社会が構築されるとする考えから、リベフェミ女性社会進出を推奨し、出産休暇や託児所の拡充、男性育児休暇取得を推進する。また「子どもたちがなりたい人間になる機会」(*3)を拡大するため――その機会を無知ゆえに狭めないために、性教育重要性を訴える。

なお、「男性を敵視し憎む分派は消滅するだろう」(B.フリーダン,"新しい女性創造",1965)が示すように、フェミニズム男性女性権力闘争化することに否定的立場をとる。

マルクス主義フェミニズム

出産を含む女性の家事育児は明白な労働行為である。にも関わらず男性社会はそれに一切の支払いをしてこなかった。ゆえに女性とは搾取されるプロレタリアートであり、その意味で男性とはブルジョワジーである女性の抑圧は、資本制と家父長制の構造上必然的に生じたものであると喝破し、資本制・家父長制の打倒を訴え、そしてこれが日本の伝統フェミニズムである

女性社会進出に関してはリベフェミの主張とほぼ同一だが、フェミニズムの主要な敵は男性であると断じ、マルフェミでは家事育児という労働に対する賃金の支払いを請求する(上野千鶴子,"家父長制と資本マルクス主義フェミニズムの地平",1990,*4)点で異なる。ただし誰に請求しているのか、また家父長制を崩壊させるために「資本制との新しい調停」を、というが、それが共産制かというとそれも曖昧で判然としない。

日本ではさらにそこに独自思想が入り交ざる。例えば男女混合名簿の推進は「日の丸君が代シンボルとする儀式を撃ちくずす」(河合真由美,"「男が先」を否定することでみえてくるもの――学校の中での性差別男女混合名簿",1991)から良いのだ等、目的が何なのか、いささか混沌としている向きも見受けられる。

その他のフェミニズムと補足

レズビアンフェミニズムブラックフェミニズムエコロジカルフェミニズムポストモダンフェミニズムなど多岐にわたる。マルクス主義フェミニズムの派生であるサイボーグフェミニズム(D.ハラウェイ,"サイボーグ宣言",1985)は読むとつまらないがネタとしては面白い。あとキワモノで言えばスピリチュアルフェミニズムとか。

補足1:クィア理論

同性愛者とフェミニスト関係は、従来男性権力社会に対する「敵の敵は味方」関係に過ぎなかった。そこで登場したのが「フェミニズムと、ジェンダーに関するゲイレズビアンの視点と、ポスト構造主義理論を、政治的ひとつに纏め」(J.バトラー,"ジェンダートラブル",1990)たクィア理論である。これにより統一戦線理論的に張ることが出来るようになった。

補足2:男性差別

リベフェミは広範な男性差別否定するが、アファーマティブ・アクションでの男性差別肯定する。ラディフェミ男性敵視の姿勢を持つが、しかしマッキノンは男性けが徴兵されることは男性差別だとして否定する。「平等とは、ジェンダーの違いではなく、ジェンダーヒエラルキーを問題にし、その根絶をめざすものである」(*1)からである。マルフェミはよくわからなかった。女性兵士に反対しているので、男性差別肯定されるのかもしれない。

フェミニズムが扱う問題

セクハラ家庭内暴力中絶女性兵士等色々あるが、本稿ではオタク、わけてもアニメオタク関係の深い「性の商品化」について取り上げる。

「性の商品化」の法規制

マッキノンは、猥褻として過去に規制された、まさに「性の商品化であるユリシーズ(J.ジョイス,1922)について「ポルノではない」と述べる(*2)。現実の被害が証明されていないからである。「性の商品化」は法規制の理由にならない。

リベフェミであるN.ストロッセンは「子供や妻への虐待強姦日常的な女性への屈辱行為などを正当化する内容が詳細に述べられている」書籍として聖書をあげ、「禁止されない安全思想などほとんど存在しない」("ポルノグラフィ防衛論",2000)とする。そして性教育がかつて猥褻として政府に規制された例を上げ、ポルノ禁止法は政府検閲に利用されると強く批判する。

一方、上野は「性の商品化」だとしてミスコン廃止を訴えるフェミニストについて、彼女らは「法的取り締まりを要求したわけではなく、受け手として「不愉快」だという意思表示権利行使であると言う。そして「性の商品化」は「メディアのなかでも、なんらかの基準がつくられる必要がある("「セクシュアリティ」の近代を超えて",新編日本フェミニズム6,2009)」とする。

ここから見えてくる点として、女性が「不愉快であることが問題なのだということが分かる。「性の商品化」とは何か、それに実害があるかは、おそらく最終的にはどうでもいいのである。さらに求めているのは自主規制であって法規制ではない。自主規制によって発言者は自ら口をつぐむのだから表現の自由は全く関係のない話である

不愉快」による法規制正統性

リベフェミであるマーサヌスバウム嫌悪感を根拠とした法規制を徹底して批判し、ゾーニング妥当性を論じるが("感情と法",2004)、マルフェミである永田えり子は「ポルノ市場が成立すれば、必然的ポルノ市場の外部に流出する。そして流出すると不快に感じる人がいる」("道徳フェミニスト宣言",1997)としてゾーニング効果がないと批判する。

ポルノは「人々に広く不快を甘受させているかもしれない。そして事実不快だという人がいる。ならば、それは公害である」。「性の商品化は多くの人々に対して、確実に何らかの不快や怒りを与えるはず」であるがゆえに規制されるべきだと主張する。

そのような不快感を根拠とした規制は恣意的運用がなされるという批判は当たらない。曖昧な法は他にもあるが、現に警察と司法は正しく運用しているかである。性道徳に根拠が無いという批判も当たらない。「根拠がないということがすなわち不当であるわけではな」く、それは「正しいから正しい」のである

なお、福島瑞穂非実在児童ポルノ規制は法的安定性が保証されないとして反対しており、この永田見解がマルフェミ共通見解でないことは述べておく。が、例えば児童ポルノ法規制に対して日本ユニセフ協会広報室長の中井裕真から司法は正しく運用してくれる旨の見解が述べられており(永山薫昼間たかし,"マンガ論争勃発2",2009)、これがフェミニストの通説でないことは明らかだが、一定存在する見解であるように思われる。

日本草の根フェミニズム

初期の日本フェミニズムには「反主知性主義」があり、「女性であれば(女性としての経験をもってさえいれば)誰でも女性学担い手になれること、専門的なジャーゴンや注の使用を避け」、「プロアマ距離をできるだけ近づけること」が目指されたと上野は述べている("女性学の制度化をめぐって",2001)。

こうした取り組みで女性が声をあげられる空気を作り出すことに成功したが、結果としてフェミニズムは「一人一派」と化した。筆者の私見に過ぎないが、これは同時にフェミニズムと「私」の区別を曖昧なままにしたのではないか。

「私」とフェミニズムが一体化しているとすれば、「私」が不愉快ならフェミニズム上も不公正に決まっている。それが従来のフェミニズム理論と矛盾していたり整合性が取れなくとも関係ない。「「オンナ対オトコ!」なんて言ってるフェミなんて、いないのになぁ」(北原みのり,"フェミの嫌われ方",2000)が示す通り、従来の理論について知識も興味もないフェミニストは珍しくない。知らなければ(当人の中で)矛盾はしない。

理論を欠いた思想は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである」(*4)と上野は言う。そのような啓蒙主義者にとって「真理はつねに単純である。(中略)真理を受け容れることのできない人々は(中略)真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるほかはない」。そうして治安警察国家を招き寄せる人々は「反主知主義の闇の中に閉ざされる」。

これは実は上野によるリベフェミへの批判なのだが、筆者にはリベフェミではないところに突き刺さっているように思えてならない。

おわりに

このようにフェミニズム一言で言い表せるような概念ではもはやない。日本の初期フェミニズムはマルフェミが中心であったが、現代日本フェミニストは必ずしもそうではないだろう(例えば堀田碧は"「男女共同参画」と「日の丸フェミニズムの危うい関係"で一部の若いフェミニスト愛国心に苦言を呈している)。

最後になるが、フェミニズムはクソだという見解に私は全く同意しない。職場上司女性社員の尻を撫でることは強制わいせつ以外の何物でもないし、家庭内暴力夫婦喧嘩ではなく傷害である。どれだけ成果を上げようが性別を理由に賃金を低く抑え、出世コースから排除するといった制度の是正フェミニズムが尽力したことを、私は決してクソだとは思わない。

私がクソだと思うのは、……まぁ、書かなくても察してもらえるかと思う。

いささか長い増田になった。この程度の調査力でキモオタとかw という批判は甘んじて受けるしか無いが、とはいえもし誰かの理解の役に立ったのならそれに勝るものはない。

2015-09-21

http://anond.hatelabo.jp/20150921135616

まんがなんでそんなに怒ってるんだ?

そもそも俺はポスト構造主義特に信奉してると言うわけではないよ

つの文学関係における成果であろうと思われるポスト構造主義ですら、むしろ文学性」の存在懐疑的だとすれば、一体何を信用すればいいのか、って話

まりポスト構造主義以外のなにか確固たる信用できる何かがあるなら簡単にそちらに鞍替えするし、ポスト構造主義は単なる一例であってどうでもいい、なにかあるなら教えてくれ

というか君は目についた細部にツッコミ入れてるだけで、大本の問いにはあまり答えてないような……

価値が無いとも言えるしあるとも言える文脈によるし固定した答えを出すべきものでもない

と言うが、まるで答えがあるとでも言わんばかりの人がむしろ多数派じゃありません?

でなけりゃ「文学」が今ほど権威になったりしないだろうし(その意味では権威という固定した答えが既に出ている)、ラノベ叩きなんてことも起こらないのではありませんこと?

・追記

あと「自分は盲信してないのか」「ポスト構造主義以外のなにかに対しては盲信以外の態度がありうるのか」って質問にはどう答えるつもりなんでござんしょ、たしかに?

・追記2

君は他人の言ってることを「違う」と言ってるだけで、即ち「~ではない」という消極的事実しか言ってない

俺が求めてるのは「…ゆえに~には価値がある」という積極的事実であって、君のやり方では永遠に俺の求めているものを示せそうにない

しろ君のやってることは「文学がわからない」という俺の今の状態を強化するものしか無いことは賢明な君なら既に分かっていることだろうと思う、つまり君は苛立っている相手の援軍しかしてないわけだがなんでかな? なんでかな? ちょっとよくわかんないスねー、賢い人の考えることはようわからんでごわ

・追記3

結局、文学とはなんですか?

http://anond.hatelabo.jp/20150921125708

ポスト構造主義以外なら「盲信」以外になんかあるの? 絶対的裏付けが?

ある文学価値は「盲信」以外にされうるの? 君はしてるの? どうやってしてるの? どうやって自分のは「盲信」じゃないと区別してるの? できるの?

俺にとっての「ポスト構造主義」が君にとっては別のなにかに入れ替わってるだけで、「盲信」の部分はなにも違わないんじゃないの?

「盲信」してない君と意見が違う人は間違ってるの? ポスト構造主義は間違ってるの? どうやって証明するの? どうやって? やって?

なにか確かなことが言えるの文学について? 君は「文学」がなにか分かってるの? たしかに?

 

・追記

ポスト構造主義立脚したり依存した「文学」は価値が無いの? 価値が無いと言えるの? それだけは確かなの? 違うの?

違うなら結局なんなの? ポスト構造主義を盲信しないことは「文学」をわかるために何の役に立つの? 「盲信してる時点で」なんなの? 次の時点では「文学」を分かるようになるの? ならないの? ならないなら要らないんだけど趣旨わかってる? わかってないの? たしかに?

2015-09-20

未だに文学がわからない

一般に「文学」と呼ばれるジャンル本が好きだ。それ以外のジャンルも好きだ。ラノベとかも好き。

でも未だに「文学」や「文学性」といったものがわからない。

ポスト構造主義とか批評についての本も読んでみた。

それでも「文学」がなんなのか分からない。

いや、調べれば調べるほど分からなくなった。

ポスト構造主義形而上学批判だ。そして「文学性」は明らかに形而上学だ。

批評? でも批評や読み方に正解なんてあるのか? 作者は死んだのに?

からない、ぜんぜん、なにも、わからない。

古い文学は今でも価値があるんだろうか? 「あの時代にこれをやったからスゴイ」ではなく?

時代によって「文学性」の定義も変わっているように見える、

では「あんもの価値は無い」と仮想敵として廃棄された過去の「文学性」は今でも価値が無いのだろうか?

それとも「あんもの価値は無い」と言ってる側に価値が無いのだろうか?

ある「文学」に価値があることが他のある「文学」に価値が無いことを導いたり必要とすることは無いだろうか?

からない。みんなわかってるんだろうか? わかってないんじゃないだろうか? 「みんなわかってないよ」と言ってた。誰かが。

でもわかってないならなんであんなに偉そうなんだろうか? 「わかってないから偉そうなんだよ」と言ってた。誰かが。

お前誰だ。

 
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