はてなキーワード: 商品化とは
でも買ってきたのは「ドラゴンバスター」だった。
あの金ピカのソフトを見た瞬間、子どもの俺は泣きそうになって「ばあちゃんなんか嫌いだ!」なんて言ったっけ。
けど、今思えば――俺のゲーム人生を変えたのは、あの間違いだった。
あれから何十年も経って、先週、ドラクエⅡのリメイクが発売された。
「ばあちゃん、ついにあのときのゲームを、ちゃんと遊べるよ」って。
……だけど、電源を入れて数分で、その灯は冷たい風に吹き消された。
グラフィックは妙に艶かしく、
そして、セリフのひとつひとつが、まるで「昔の記憶を商品化」するためのコピーライティングみたいだった。
俺が知ってるローレシアの王子は、
仲間たちは軽口を叩き、冒険は「テンポよく進む」ように整えられている。
その「快適さ」は、あの頃の“想像する時間”をすべて奪ってしまった。
あの時、ばあちゃんが間違えて買ってきた「ドラゴンバスター」は、
でも、それは“誰の心にも届かないもの”を作る免罪符になっていないだろうか。
俺たちは便利さなんて求めてない。
たとえ不親切でも、古臭くてもいい。
その不器用さに、あの頃の自分や、もう会えない人の姿を重ねられるから。
リメイクを終えた夜、久しぶりに「ドラゴンバスター」を起動した。
――ばあちゃん、
新しいドラクエⅡは、なんか違うよ。
たぶん、もう“あの頃”は帰ってこないんだね。
※障害年金(生活保護費に実質吸収されてるが)で遊ぶ生活保護受給者・障害者、しかも若い女性を性的搾取する大人に嫌悪感を抱く人は見ないようにしてください。
障害年金の支給日だったので思い切って20年ぶりの風俗に行ってきた。
さて、こちらは政令指定都市ではあるが地方なので、春を売る価値も「いいの…?」ってぐらい安かった。
しかも売春女性は目移りするほど増えていてルックスもレベルが高いようで正直ビビった。マジか?と。
そしてこの傾向は都会でも地方でも同じようで、昔では考えられないほど風俗嬢のルックスもインフレしているらしいし、春を売ることに抵抗のない層が厚みを増しているようだ。 それにも関わらず、主要ターゲットであるオジサン達の貧困化により飽和状態(レベルを満たしているのに売りたくても売れない売春女性が多い)にあるというのが現状、とXで知識を得ていた。 この街では生中出しのセックスが60分で16000円程度から売られている。画像加工技術は昔ながらのフォトショにプラスしてAIも使っているので、ホームページ上にはあらゆるタイプの商品化された魅力的な女性が並んでいるのを確認出来る。加工技術の進化によりそれを信じることはより出来なくなっているかと思いきや、SNSでほぼ加工無しのルックスを確認出来る時代になっているのが現状のようだ。AV女優のルックスのインフレ、競争も明白に激化している。女性達による売春戦国時代は買う側の男たちにとって恵みと言えるだろうと思える。
これは…昔のように風俗がある程度の福祉として機能していたものではなく、「普通に」カジュアル化して春を気軽に売れる若い女性達の増加と言えるのか?いや、昔から援助交際というものはメジャーな響きがあったし、別に時代の遷移によって変わったものではないのかもしれないし…。でもパパ活なんてライトな売春オブラートワードも定着してきてるし…。
真実は分からないが俺の実感としては売春婦のルックスのインフレとカジュアル化がこの貧困斜陽国家によってもたらされつつあるのが実態では、という予想に至った。
さて、本日。私は挿入のない風俗を選択した。ソープではなくデリヘルである。挿入のある風俗には抵抗があったからだ。直接的過ぎて自分が怖かったし、それは金を使ったレイプであると考えたからかもしれない。口腔による春程度ならば、というのが今回私が性的搾取を行おうとする際に抱く罪悪感をすこし軽減する手段であったと思う。それでデリヘルを選択したわけだ。
地元でも一番高級なデリヘルを選択した。それでも75分で2万円である。高いように思えて、それでも生活保護の身で障害加算(障害年金で加算がつく)と収入認定(バイトしてる)があれば、節制すれば普通に毎月通える程度の金額であるなというのが実際のところである。他のことにも使いたいし貯金もしなくてはならないし、そもそも毎月風俗に行くような動機も性欲も無いから通うようなことはしないが。 そう、ひさびさに女体に触れたい、そして社会見学。それだけのことが今回の動機であった。加齢によって、射精はきっと出来ないであろうという予測もあり。
ホームページを見る。まずおっぱいだ。前の彼女もその前の彼女もまな板だった。巨乳をチョイスしたい。その中から、一番若い子を予約した。19歳だと書いてある。身長164㌢Gカップ。素晴らしいではないか。他にも乳のデカい、Jカップという子も居たが年齢が24歳と書いてあったので敬遠した。本当に24歳なら別段問題はない。むしろ良い。が、吉原年齢ということもある。実際には24歳と書いてあっても30代後半だったり、そういうことが起こり得る。せっかくなら若い肉体を触りたい。私が二十歳頃に恋人だった子のような、ハリのあるみずみずしい肉体を。
さて、その子を指名してウェブ予約して、ラブホテルにインして電話をかけて待つ。すぐ来てノック。ドアを開けると…。めちゃくちゃ可愛い若い女の子が微笑んでいた。洋服の上からも胸の膨らみが既に主張している。とりあえず招き入れ、お金を支払い、ドリンクを注文し暫し雑談。なんと…この前まで高校生だったというではないか。その時点で私の愚息はシナシナになってきた。逆じゃないか?ちょっと前までJKだったなんて、しかもめちゃくちゃ可愛くて、高身長で、乳もデカくて、くびれがあって、興奮するんじゃないか?と思われるかもしれない。しかしやはり若すぎるという罪悪感が私を“おとな”にさせ、相手を“こども”にさせた。ドリンクを飲みながら、学校のことや、出稼ぎできていることや、モテモテだった話などを聞いた。そりゃモテるだろう。話してる時間のほうが長かった。色々訊きたくて興味津々であった。
さて、じゃ、そろそろ、ということでお互い服を脱ぎ脱ぎ。抜群のスタイルであった。やや硬めのハリのある巨乳、見事なくびれ、大きなお尻。女性らしさを体現したラグジュアリーなボディである。こんな若くてめちゃカワでスタイル抜群な子が高校卒業してすぐ口淫業?すごいことだ…。眼福である。
とにかく、“おとな”として優しく接すること、あまり触らないことを心がけた。いちいち許可をとって、接吻をしたり、乳を揉ませてもらったりした。ゆったりとした時間、焦らずの時間が過ぎていった。
嬢としてはやはり仕事なので「抜き」をしなくてはならないという流れを作ろうとし、ベッドに私を寝かせ乳首を舐めてきた。私はほぼマグロとなり身を任せることにした。
やがて下の方へと向かい、睾丸、陰茎を舌でもて遊び、舌ピアスを上手に刺激に活用し私の愚息を怒張させていった。
が、私の愚息はやはりシナシナとなり…。“おとな”として“こども”にこんなことをされていても、罪の意識からか没頭など出来ず覚めていった。本格的な口淫に入っていく。刺激があるようなないような。これは彼女のテクニックの問題なのか私のメンタルの問題なのか。特に刺激を感じることなく、これは射精は不可能だな、と判断し、今度は反対に攻めさせてもらうことにした。
横になった彼女の肉体を眺める。やはり素晴らしい肉体をしている。胸の膨らみ、くびれから、そして本人は太ってしまったからと気にしていた適度な太もも。そのバランスの良さにしばし見惚れる。これは…別に性行為や口淫やらをせずとも、その美しさ、エロチシズムを写真に撮らせて貰えればそれが一番かのように思えた。が、攻めの番となるとやはりある程度のことはせねばなるまい。
しかし…。先述した心理によりその肉体を必死で貪るようなことは出来ず、私は彼女の乳首さえ吸わなかった。バランスのいい、ハリのあるGカップに備えられた、色素の薄い美しい乳輪に乳首。私は遠慮しっ放しであった。
軽く乳を揉みなどしつつ、すべすべの全身を愛撫しつつ、脚、内股へと徐々に愛撫を重ねていく。吐息が漏れる。だけど、訊いてみると、くすぐったい、というだけのようだ。そりゃそうか。だからといって本気で愛撫にとりかかるわけでもない。中途半端な愛撫を重ね、終わりにした。
枕元へ向かい、キスをした。応えてくれた。かつての恋人達のようにではない。そりゃお仕事だから濃厚なものではなくあくまでも業務的なキスではあったけれど。やはり、“おとな”だし“こども”だし何より“売り買い”だからそこには本気の気持ちはない。彼女は一生懸命口淫で尽くしてくれたと思うし、美しくみずみずしい裸体を見せてくれた。そして、将来の夢なども聞かせてくれた。それだけで私は充足したのである。射精に至らなくとも21000円の価値が彼女にはあった。
レポは以上になるが、本当に最近の風俗はレベルが高かった。驚くべきことだ。一番の驚きは彼女のような顔や身体や若さといったハイレベルな風俗嬢でも、1日に一人か二人しか客がつかないぐらいうちの店はレベルが高くて…ということであった。
なんとも言えない気持ちにさせられ、そして感謝の意を伝えながらチップを少しだけ渡して、一緒にホテルを出た。
やはり、売春婦のレベルのインフレと国の経済力の衰退はセットのようだ。
今の非モテ男性は多少の金さえ出せば、ハイレベルな女性を選び放題の時代となっている。最近、コスパとかタイパとかいう言葉を聞くようになった。交際経験のない若者が増えているとも。
それはおそらく多くの若い男性にとって、マッチングアプリの一般化による女性不信も関係しているだろう。一時期、弱者男性が「女体にありつけない」という嘆きを投稿したところ、「女性をモノ化するとはけしからん」と怒られていたが、女性がマチアプでハイレベルな男を無料かつ容易に漁れるこの現代社会の構図に鑑みるに、それは切実かつリアルな叫びであったのではないか?「ありつけない」というのは悲痛な声に相違ない。
普通の男と普通の女が普通に付き合うことが出来、「ありつけた」時代を生きられた我々の世代は幸福な世代であったのではないだろうか。今のマチアプ時代を強者男性側として生きられる自信は俺にもない。もう風俗へ行くしかないだろう。そしてそこにはハイクラスな女性が性を売り物にして待っている。
これからは金と体のトレードオフがより露骨に、顕著に加速していく社会に突入していくのではないか?つまり、性的格差社会のさらなる加速である。
そこでいかに生き抜くか。得られるか?失うか。無関心になるか。
あまりいい社会とはいえない気がするが、今日の経験は間違いなくその加速した社会からもたらされた愉悦(罪悪感を含んだが)といえよう。若者は大変であろうが、金を持っているオジに女性はなびくだろう。マチアプ&パパ活概念社会への突入を如実に感じた。
しかし振り返ると風俗・・・若い女の子を性的搾取したことに対する罪悪感が大きい。お金はなんとかなるけど、お金を失ったんじゃなく何か大切なものを失った気持ちのほうが今大きい。今、正直後悔の気持ちがある。
週末は生活保護ながら土日だけのバイトだが、今日買った子と同い年のバイトの真面目で気の利くJDとどんな顔して“おとなの顔”して働けばいいんだ?
隠さないと、無かったことにしないと大人としてバイトの子と真っ当に接することなど出来ない。それぐらい後ろ暗いことをしたよな。と思う。
“おとな”ではやれない。
本国で大コケした結果、日本では配信スルーになってしまった作品だけど
ヒット作の続編の中の一つのパターンとして「1の魅力的なヴィランを主人公に据えた続編」というものがある。
おそらくもっとも成功したのがターミネーター2。シュワルツェネガー演じるT-800は1では主人公を殺害するために永久に追いかけてくる恐怖のアンドロイドだったのが2では逆に主人公を守るためにやってくるアンドロイドになっていて、1のT-800のポジションにはより先進的な液体機械型のT-1000がつく。
ミーガン2.0は明らかにT2のテンプレートを模して造られており、ミーガンの技術を模して造られた軍用アンドロイド、アメリアが暴走し世界を滅ぼそうとする中、それに巻き込まれたミーガンの製作者である1の主人公家族(特に娘)を守るため実は生きていたミーガンが復活する。
T2と違って一番問題なのは、悪役であるアメリアが全然魅力的じゃないところ。ミーガンは不気味の谷を反復横跳びするような「ドール的な人工的な可愛さ」と「ロボット的なモーション」が魅力的なアンドロイドだったがアメリアは軍事スパイ用という用途からすれば妥当ではあるのだが、どう見ても疲れたおばさんにしか見えない。動きも滑らかになっているので、無表情気味の超強いおばさんって感じ。別にそういうヴィランがいてもいいんだけど、ミーガンに求めてるのはコレジャナイんだよなぁ。
顔をミーガンみたいなドールタイプにしないにしてももっと人工的に見えるタイプの顔の役者アサインするとかなかったんかなと思ってしまう。そう考えるとT-1000は完璧だったよね。あのおじさん。ちゃんとロボットに見えたもん。
ミーガン自体は1を踏襲して、作中でも言及されるクリップ問題(AIにクリップを最高効率で作ってと頼むとその過程で人類を滅亡させる)に忠実で「娘を守るためなら倫理などない」という言動の面白さはあるし、日本人だと寄生獣のミギーみたいな感じで見ていて愛着がわくと思う。途中で出てくるミニミーガンもかわいい。あれ商品化してほしい。
前作でミーガンダンスがバズったので今回も、と明らかに無理矢理突っ込んだダンスシーンは蛇足だったけどアクションもパワーアップしていてよかった。でもホラー要素は減退していてこれは好き嫌いありそう。
途中でアメリアはミーガンが操っていたのでは!?みたいなスティングもありつつ、まぁそうなるよね的な大団円を迎えるのも視聴後感もいいし、普通にいい作品ではあったと思う。
可愛そうなのは主人公のAIエンジニアのおばさんだよね。前作でミーガンが暴走したことに責任を感じて反AI運動の活動家に転身、著書もいっぱい売れて、事故物件か?みたいな家賃クソ安い家で安全なAIの開発にいそしんでいたんだけど、実は著書はクラウド型ミーガンが6万5000冊買って倉庫にしまっていたり、家もミーガンが買ってミーガンが開発したウェポンハウスだったり、自分の活動のせいで娘はいじめられ、反AI活動で気が合って一緒に活動していた相手は反AIテロリストだったり踏んだり蹴ったりすぎる。
あと全然どうでもいいんだけどエンジニアおばさんが開発してた介護、現場作業補助用のパワードスーツ。アメリアに操られたときに水かけたらスパークして暴走しだしたけどそんな危ないもん介護、現場作業用に売り出そうとしとったんかい。めちゃくちゃやなとは思いました。
結局、T2がSFスリラーからSFアクションに舵を切ったように、ミーガンもSFホラーからSFアクションに舵を切ったわけだけど、前作がAI怖いだったのが今作では人間怖いに切り替わっており、なんでより凡庸なほうに行くねん!とはなったかな。
フィルムが行方不明になって商品化できずにいたのが急に出てきてデジリマで公開できた奇跡の作品!
というところだけが評価されている作品なので点数は妥当に33点くらい。
バブル期の終焉時期に撮られた作品なので出てくる女の髪型はめっちゃ前髪巻いてるしソバージュだし、最後の結婚式のシーンでもほぼ一般人がフェリー借り切って結婚式してたりして(司会が太田プロ社長の太田光代で草)、うおおお、話にだけ聞いたことがある世界!という嬉しさがあった。
昭和、平成初期の映画にありがちの無駄に明るい棒アテレコも味がある。
この作品ってオリジナルビデオピンク映画なので主役の女の子がめっちゃ脱ぐんだけど、身体がドエロくてそこもよかった。最近、ポリコレ意識の発達を感じていたのだがたぶん気のせいだったと思われる。
内容的にはバブル期に大流行されたと言われるダイヤルQ2を利用した援助交際(作中ではコールガールと表現)にハマる主人公がいろんな連中と会って成長したりしなかったりする作品。
ダイヤルQ2で呼び出されてホテルや家に訪ねていくたびにそのドアの先の新たな世界を体験するところからDOORというタイトルをつけましたよ、ということを堂々とナレーションで解説してくれるこなれなさもご愛敬。何でこれが必要かというと、別に作中でドアが印象的に使われていないからである。何なら変態顧客と外で会うシーンもあるし。ドア関係ないなやないか!それくらい、ちゃんとせえ!
メインプロットの孤独な変態贋作絵師との話は、虚無な生活への反発からダイヤルQ2という両者匿名の虚構の世界に居場所を求める主人公との対比というかよりそう話になっている。そして変態贋作絵師は主人公への変態プレイの先に「真実の愛」を求めるが、主人公は「虚構の関係であればよい」と拒否する展開はちょっとした文学性を感じた。
まぁ、そもそも現実に変態贋作絵師ってなんやねんって話だから取ってつけたような展開であることは否めないのだが、いっぽん芯が通っているところは評価できる気がする。知らんけど。
最終的に主人公は友人女と友人男(セフレ)の結婚式でスピーチを求められ「お前の男と寝たけどセフレなんは知ってた。それが虚しすぎてダイヤルQ2にハマった」と衝撃告白を行い、友人女とビンタ合戦、その後フェリーから飛び降りて泳いで家に帰るのであった。という、こいつめちゃくちゃすぎるだろ!という展開があるが、まぁ、フィジカルビンタ合戦することで心の中の虚構と現実をリンクさせて、フィジカルに泳ぎ出すことで心の中も新しい生活に泳ぎだすんだ!というわかりやすい展開もまぁまぁよかった。
てか、この時期のちょっと文学的なピンク映画、こういう展開多いよね。肉体で精神の隙間埋める系。あなたの心のスキマ、お埋めします!ドーン!(隠喩)
我々は、もう長い間、「本物の人間」ではなく、「都合の良い人格」を愛してきた。
それは笑い、泣き、共感し、まるで血の通った存在のようにふるまう。
それを「文化」と呼ぶことに、我々はいつから慣れてしまったのか。
◆ 第二章 “絆”という名の取引
彼らは言う。「みんな、いつもありがとう」「リスナーは家族だよ」。
我々は知らず知らずのうちに、企業が作り上げた偶像教の信徒となった。
そこには優しい声があり、理解してくれる誰かがいた。
「つながっている気がする」という錯覚の中で、
我々は何も生み出さず、何も変えず、ただ消費し続ける。
VTuberは演じる。
ファンもまた、演じる。
“正義”の名で人を追い詰める。
そこに残るのは、醜い自己愛と虚無だけだ。
だがそれでも、人々は言う。
……まだ目を覚まさないのか?
それは「エンタメ」ではない。
我々は今、画面の向こうの幻影に支配されている。
だがその夢の裏で、
もういい。
幻を崇める時代は終わりだ。
「どうせ僕がいなくても、世界は何も変わらない」──そう呟く前に、
画面を閉じて、現実の風を感じろ。
温度を持つ声を聞け。
そこにこそ、まだ救いが残っている。
21世紀の社会では、表向き「差別のない平等な社会」を志向する価値観が広く共有されるようになった。
性差別・人種差別・階層差別――これらを公言することは、もはや社会的に許容されない。
しかしその一方で、「倫理よりも成功」「過程よりも結果」を重視する拝金主義的な価値観もまた、同じ社会の中で勢いを増している。
YouTubeやSNSでは「迷惑系」と呼ばれる過激な行動によって注目を集める人物が人気を得、
同時に「パパ活」や「ファンビジネス」によって性的魅力を資本化する若者が現れる。
社会はそれらを倫理的に批判するどころか、「稼げる才能」として賞賛する傾向すらある。
フェミニズムが目指した“女性の自由”と、資本主義が提供する“自由の形”が、同じ言葉を使いながら異なる方向を向いていることの表れである。
フェミニズムが掲げる「女性の自己決定権」は、本来、経済的・性的な自由を含む広い概念だった。
しかしSNS時代において「自己決定」は「自分をどう見せるか」「いかに注目を集めるか」といった承認経済の論理に取り込まれつつある。
そこでは、性的アピールや容姿の魅力までもが“資産”と化し、消費と競争の対象になる。
結果として、かつてフェミニズムが批判してきた「女性の性的商品化」が、今度は“自己決定”の名の下に再構築されている。
この構造の中で、若さや美しさは一時的な経済的価値として消費される。
だがそれが永続するわけではない。
一度その競争から降りざるを得なくなったとき、人は「自由のはずの社会」で自分の価値が急激に低下する現実に直面する。
それは、性差別というよりも、資本主義が人間の価値を消費期限付きの商品として扱うことの問題である。
フェミニズムやポリティカル・コレクトネスは、社会的弱者を守る理念として確かに重要だ。
だがそれらの理想が「資本と承認のシステム」に吸収されてしまえば、
“倫理的に正しい行為”と“経済的に成功する行為”が乖離し続けるという新たな矛盾が生じる。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20250907/1757247960
要約
1980〜90年代の日本では、商品選びや消費行動を通じて「何者か」である実感を得ることが一般化した。
2. 消費個人主義の広がり
1990年代には地方の学生にもブランド品が普及し、消費によるアイデンティティ形成が大衆化した。
3. 過去の拠り所
1950〜60年代は政治活動や勤務先(所属)が自己認識の主要な拠り所だった。
三種の神器からレジャーやグルメまで対象が拡大。「モノより心」というスローガンも、次なる消費対象を探す動きとして機能した可能性がある。
ボードリヤールは「消費は差異を示すシステム」、バウマンは「アイデンティティすら商品化され、金銭力が選択を支配する」と指摘。
金銭的余裕のない人は消費でアイデンティティを得にくく、政治運動などが拠り所になりうる。人を「消費ユニット」として扱う現状は本当に豊かな社会なのか、という問いで結ばれる。
これは正直、あると思う・・・・
これまで、女子マネージャーについてはこのような性別役割分担の視点から議論されてきました。女子マネージャーたちは、男子部員のためにスポーツドリンクや食事を準備したり、寮を掃除したり、練習着の洗濯をしたりもします。つまり男子部員の身の回りの世話、「ケア」をしてあげているのです。
見方を変えると、男子部員は本来、自分で自分自身のケアをすべきなのですが、その機会が奪われてしまっているようにも見えます。
ケアをされている男子部員は、自分たちのケアすらしないまま育つことを高校野球を通して実践してしまっている。
甲子園増刊「表紙だけ女子」に感じるモヤモヤの正体 ジェンダー専門家が指摘する「性の商品化」への無自覚 - 弁護士ドットコム
画像生成AIの台頭でクリエイターの立場が脅かされる中、反対するだけでは権利は守れない。 クリエイターの社会的立場は搾取構造に脆弱で、人気と地位には大きなギャップがあり、交渉力に乏しい。
クリエイターは、AI実装フェーズで主導権を握り、品質管理や倫理設計に関与することで交渉力を獲得し、自ら未来を切り開くべきである。
多くの企業が現在、LLM(大規模言語モデル)の開発に注力している。対話型AIや検索エンジンの再構築にリソースが集中する中、画像生成AIの実装(商品化)フェーズは相対的に手薄になっている。
筆者は、この「画像生成AIの実装フェーズの遅れ」という隙を突いて、画像生成AIの実装フェーズでクリエイターが主導権を握れると考えている。
技術開発段階では、当然ながら研究者やエンジニアが主導する。これに対し、実装フェーズの段階では、出力される画像の品質や文化的適合性が問われるようになる。構図、色彩、構造理解といった視覚的判断は、技術者よりもクリエイターの専門領域だ。
実際、大手クリエイティブツール企業のいくつかは、クリエイターとの協業によってAIツールの品質向上を図っている。要するに、実装フェーズこそ、クリエイターがAI開発の構造に食い込むチャンスなのだ。
AIに否定的なクリエイターの多くは、「お気持ち」を強い言葉で反対していれば問題が自然に解決されると期待しているように見える。だが、現実には、無許諾学習や対価配分の議論は2022年からほとんど前進していない。
反対するだけでは、議論の隅に追いやられるだけだ。文化庁の審議会において、AI規制派の代表に相当する人物が制度設計に関与していないことからも、制度側からは「反対するだけの声は議論に参加する資格なし。」と見なされている状況を直視しなければならない。
欧米ではAI倫理に関する議論が法制度化されつつあるが、発言力を持つのは「AI開発の制度設計に関与した側」だけだ。日本でも提言は出されているが、法的拘束力でもなければ企業は動かない。
交渉力は、制度の外から叫ぶのではなく、制度の中に入り込んで初めて生まれる。だからこそ、クリエイターは画像生成AI開発の現場に入り、品質管理や倫理設計の実務を担うことで、交渉のテーブルにつく必要があるのだ。
筆者にとって、画像生成AIを強い言葉で拒否し、AI関連イベントのキャンセルカルチャーに加担してきた一部のクリエイターの行動は、決して容認できるものではない。
過激な主張や感情的な言葉が議論を分断し、業界全体の信頼を損ねた面もあるだろう。
その一方で、結果的にではあるが、彼らの声が画像生成AIの実装フェーズを一定程度遅らせたことは事実だ。企業が炎上リスクを警戒し、画像生成AIの採用に慎重になった、ということはあり得る。
その遅延が、今の「AI開発の構造に介入するチャンス」を生んでいるとも言える。
このような背景を踏まえると、彼ら自身が汚名を返上し、建設的な議論に参加できるようにするにはどうしたらいいだろうか。
現状では、画像生成AIに反対する一部のクリエイターに対する誤解や偏見が生まれやすく、一般層や市場から距離を置かれる傾向がある。けして楽観できる立場ではない。
この状況を打破するためには、反対の声を建設的な議論に変え、クリエイター全体がAI開発の制度設計に参加する流れを作る必要があるだろう。
AIテックと正面から戦っても、クリエイター側に勝ち目は薄い。
いや、すでにAI規制を求めるクリエイター側は敗北しているのかも知れない。
技術開発の主導権を握っているのは、資本と研究力を持つグローバル企業である。倫理やマナーだけに頼った反対の声が、年間数十~数百億に上るロビイング経費で国政議論に介入している彼らに勝てるとでも思っているのだろうか。
生成AIが生み出す市場利益は数兆ドル規模だとも言われている。その莫大な利益の再配分を前に、お気持ち倫理の反対がどれほどの影響を持てるというのか。
日本のコンテンツが海外輸出をやめると抵抗しても、必要とあれば敵対的買収くらいやってのけるだけの資本力がある。
正面から喧嘩できる相手ではない。少なくとも、日本のコンテンツ市場は、彼らとAIを巡って対立しようとは思わないはずだ。
画像生成AIが台頭してから3年、筆者は規制が進まないことを憂うよりも、AI開発が生む莫大な利益の再配分をクリエイターが受けられなくなってしまうことを恐れている。
そこで考えたのは、画像生成AIの実装フェーズ段階ならば、クリエイターの関与する余地があるのではないか、ということだった。つまり、AI開発の制度設計側に入り込み、実装の方向性そのものをコントロールしてやる、という戦略である。
仮に、実装フェーズの主導権を握ることができたとすれば、無許諾学習や学習対価の配分といった問題にも交渉の余地が生まれるのではないか。
また、莫大な利益が入るなら、これらの問題は些細なものになるかもしれない。そう考えていくと、主導権を握るメリットは計り知れない。
筆者は、AI学習に使用された画像の対価(使用料・許諾料)というのは、AIによって生まれた利益の再配分だと認識している。
AIが誰かの作品を学習し、それによって企業が利益を得たなら、その利益の一部を元のクリエイターに分配するという考え方だ。
この考え方に従えば、AI開発に反対しているだけで「再配分だけよこせ」というのは、そもそも通らない話ではないか。
現行法では、(文化庁の考え方に従っているという条件付きだが)どうやってもネットで収集した画像をAI学習に使うことに対して著作権侵害を訴えることは出来ない。
したがって、利益の源泉となるAI開発の制度設計に参加していないのに、分配だけを求めるのは、制度的にも経済的にも無理筋ではないかと思うのだ。
そして、AIテックのロビイング活動によって、無許諾学習が合法である、という方針を維持させている可能性も高い。
その状況下では、札束勝負で勝てるとは思えない。何故なら、画像の使用料を払うよりもロビイング活動経費の方が安上がりである、と言えるからだ。
特許侵害訴訟というのも、基本的には利益の再配分を求める行為と読み替えても成立する。
他社が利益を出している技術に対して訴訟が起きやすいのは、「分け前をよこせ」という意味に解釈できる。
しかし、クリエイターにはこの「特許」に該当するものがない。作品は著作権で守られているが、スキルや職能そのものは保護されていない。だから企業に相手にされない。公的制度による交渉の土台がないのだ。
そう考えれば、倫理だけで反対してもノイズ以上のものになり得ない、ということにも説明がつく。公的制度という根拠がない立場では、法廷でも交渉の場でも、発言力を持てない。
交渉力という観点では、クリエイターは社会的な発言力がむしろ弱いのである。
コンテンツとして人気があることと、社会的地位があることは別だ。社会的地位が高いというのは、公的制度による優遇措置があると言い換えてもいい。
SNSのフォロワー数や再生回数は「市場価値」ではあるが、「法的地位」ではない。
確かに、人気があり、社会的影響力を持てば、食っていくのには困らないだろう。
だが、クリエイターが保護されるのは市場の都合であり、市場によって生かされているだけに過ぎないのである。
いくつかの事例をすぐさま思い浮かべることが出来ると思うが、一歩間違えれば一晩で作品ごと市場から存在を消されてしまう。消滅に際して何の抵抗手段も選択肢もない。それくらい社会的な立場は脆弱である。
資格職能は公的制度によって保護されており、いきなり存在ごと消されるなんてことはない。少なくとも消えるまでの抵抗が許される余地がある。
繰り返すが、「人気」とは「社会的地位」ではなく、市場価値の一形態にすぎない。
アニメーターが良い例で、高度な専門技能を持ち、文化的貢献も大きいにもかかわらず、公的には職能として認定されていない。
このことが何を意味するかと言えば、元々、クリエイターという職業は、搾取構造に対して極めて脆弱だということだ。
作品は著作権で保護できる。けれども、クリエイターとしての職能は、何一つ、公的制度によって守られているものがない。創作物は生活必需品とは異なり、社会が、あるいは市場がいらないと言えば、排除される運命にある。
そして生成AI技術開発が、その搾取構造を助長している。だが、それを止める手立てはない。何をどうやっても社会の制度は守ってくれないのである。
では、なぜ社会制度が守らないのか。これはクリエイターとしての能力は「他者との差別化」という、異質性が基準となっているからだ。公的制度による保護を持つ職業は、一定の基準にしたがった選別で成り立っている。
つまり「同じ事ができる」、同質性という前提条件があるが、クリエイターは、他者と違ったことができる異質性の基準を持っている。
こうした異質性による選別を公的制度の文脈で考えると、「他者にできないのであれば、なくても同じ。」という言葉に翻訳される。よって公的制度によって保護する必要性を認められないのである。
人気があるから守られると思っているなら、それは錯覚だ。人気クリエイターがなりすまし被害や契約トラブルに巻き込まれても、公的制度によって守られる仕組みは存在しない。
例えば、士業であれば非弁行為などは違法と定義され、地位が守られる仕組みがある。クリエイターのなりすまし被害は民事訴訟で解決するしか方法がない。
人気は流動的であり、交渉力としては不安定だ。AI開発という巨大な利益構造での交渉において、この市場価値の高さと現実の地位の弱さというギャップを埋めるには、AI開発の制度設計に食い込むしか道はない。
交渉のテーブルにつくには、企業が「必要だ」と思う存在になるしかないだろう。
そのためには、画像生成AIの弱点をクリエイターが補完し、品質向上に貢献することが鍵になる。
画像生成AIは、見かけ上の品質は優れているが、構造理解(指が6本とか建造物分断、同一性の非保持など)という点で人間には遠く及ばない。
この弱点を解決するには、クリエイターの関与が不可欠であると考えている。すなわち、AIに「構造理解はこうやるんだ。」と教えてやることだ。
実際、AI企業が「プロンプト設計者」や「品質監修者」としてクリエイターを雇用する事例は増えている。企業は倫理的主張には動かないが、必要性が明確になったときには協業を検討するだろう。
交渉団体を作るより、相手を動かす方が確実だ。まずはクリエイターとエンジニアがタッグを組み、一部でもAIの弱点を解決してみせるのがいいだろう。それが、AI開発の制度設計に食い込む第一歩になる。
AIの弱点解決にはクリエイターのサポートが不可欠である、とは言っても、それは現時点での話である。時間さえ掛ければいずれは技術によって弱点も克服されてしまうだろう。けれども、今ならまだ、クリエイターに優位がある。
ならば、画像生成AIの制度設計において主導権を握るチャンスは、今しかない。企業にとっても市場競争力維持のために実装フェーズを急ぎたい。ここに利害の一致がある。
多くの企業がLLMに集中している今、画像生成AIの実装フェーズは手薄になっている。だが、技術が成熟してAI開発の制度設計が固定化されてしまえば、後から入っても交渉余地はなくなる。
かつて強い言葉で反対してきた人々も、今こそ制度設計の最前線に立つべきだ。
その声が実装フェーズを遅らせたことで、今の「隙」が生まれたのだとすれば、次はその声を制度設計に向けて使おうではないか。悪者で終わることに甘んじるな。
チャンスの期間は短い。あれこれ実現可能性だの問題点だのを検討している暇はない。とにかくAI開発の制度設計に関与できるように動くこと。
それが、今のクリエイターに残された唯一の選択肢だと思っている。
筆者は、画像生成AIに対する反論や懸念を否定しているのではなく、そうした声が社会的な制度に届かなかった原因を指摘しているに過ぎない。
倫理的な反発も、創作の尊厳を守りたいという思いも、人気による影響力への期待も、すべて理解できる。
だが、それらは制度に届く構造を持っていなかった。ならば、届く形に組み替える必要があるだろう。
文化庁のパブコメに2万6千件もの意見が寄せられ、その殆どが無意味に切り捨てられたのは、公的な制度が理解できる言葉に翻訳されていなかったからだ。
社会的制度は、感情では動かない。交渉力は、AI開発の制度設計の中でしか生まれない。声を届けるには、公的な制度に理解できる言葉の翻訳が必要だ。
本稿が目指したのは、反論の声を様々な制度に接続するための指針提言である。
末尾に、クリエイターの権利と尊厳が守られる形でAI開発の制度設計が組み立てられることを願い、筆を置く。
生成AIを批判したいあまり、イラストレーターが「線が繋がっていない」とか「目が溶けてる」、「キャラが一貫していない」とか「差分を作れない」など具体的に欠点を挙げ、貶める投稿をよく見かける。
プロのアニメーターが「予備動作がない」とか「歩きが不自然」、「演技がなってない」などと、モーションに言及したりする。
自らの技術を誇示したいのかも知れないが、これはAI開発者に無償で改善点を助言していることに気付いているだろうか。イラストやアニメーションの専門家であるあなた方からの悪評は、AI開発者にとって貴重なアドバイスなのである。
そうした悪評は表には出さず、本稿で示したようにAI開発の現場に入り込み、開発者に助言した方が、あなた方にとって遙かに Permalink | 記事への反応(0) | 09:25
ワイは、Switch2を購入したい人やSwitch2のオーナー人の前で、Switch2を破壊するのは、次の点からよくないと思っています。
しかし、これはワイの個人的な考えなのですが、倫理設計が必要な職の人でも、この基本的な共感性や尊重を発揮できていない懸念を持っています。
例えば、税金で行われたAIに関するイベントで、壊れそうな勢いで暴れるようにプログラムされたUnitree Go2を鎖につなぎ、
「ロボットに感情移入する人は生きづらくなる」と虐待的に見えるパフォーマンスを展示し、炎上したエリート若手芸術家がいたのですが、
それを賞賛していたのもエリートですし、AIの専門家を名乗っていました(東大工学部/Royal College of Art出身のAI専門家は、AI専門家として政治家に就任しました)
日本人工知能学会の表紙は、趣味ならOK(オタク的共感)、表現の自由だけど、公的な場において、なぜか女性萌えメイドのアンドロイドを表紙にしました。
萌えメイドである必要性はない、ステレオタイプの固定化、私物化ではないか?と批判されましたが、形だけの謝罪をして、その後も特に気にした様子も影響を受けた様子もありません。
ワイは、 Switch2破壊 や Unitree Go2の虐待 や 学会の表紙を萌えメイド化するのは営利の衝突とは関係しないと考えます。
なぜなら単純にお金にならないからです。というか実際本人もアートや注目を集めることが目的だと自称してます。
懸念の実例として、AppleのiPad ProのCMのケースも良さそうだなって思います。
わざわざ楽器を破壊する演出をしましたが、炎上し、謝罪とCM差し替えに追い込まれました。
ワイたちは、基本的な「社会適性」の問題で失敗しているプロモーションやプロダクトを、後を絶たず目にします。
そして、その裏では、高額な報酬で雇われたであろう外部コンサルタントが控えています。
それにもかかわらず、時にそのコンサルタント自身が、別の倫理的な問題やスキャンダルの当事者としてニュースを賑わすことすらある。
なぜ、このようなことが起きるのでしょうか?
それは、「倫理的な正しさ」の実現を助けるという役割そのものが、ビジネスとして商品化され、本来の目的から歪んでしまった結果だと、ワイは考えます。
彼らの成功は、「クライアント企業がどれだけ倫理的になったか」ではなく、「クライアント企業を、いかにして炎上させず、利益を上げさせ続けるか」によって測られます。
その目的のためなら、彼ら自身が非倫理的な情報操作や隠蔽工作に手を染めることさえあります。
企業の意思決定層が「適性」を欠いているだけでなく、その「適性の欠如」という問題に付け込んでビジネスをする、専門家という名のブローカーたちが、
「断絶されたエリート層(組織/企業)」が、「同じく断絶されたエリート層(コンサルタント)」にお金を払い、互いの存在を正当化しあう。
その閉じたループの中で、私たちの社会が本来持つべき、乳幼児やラットですら持っているはずの、基本的な倫理観が置き去りにされていると感じます。
大前提としてバズるためにSwitch2やGo2や楽器を壊さない人が圧倒多数派です。それは倫理的にも経済的にもです。
誰かが大切にしてるものや、高価なものをわざと壊すなんて、幼稚園児でも「悪いこと」って分かるレベルの話です。
そういう人や組織が、営利と倫理が衝突する複雑な場面で合理的かつ倫理的な判断を下すのは難しいとワイくんは考えます。
なぜなら、すべての土台となる根源的な共感性・社会性が欠けてるからです。
そこをクリア、あるいは分析模倣が出来ていないと、「個々の細胞・ミトコンドリアとシステム全体の健康とバランスを考えよう〜」みたいな本来の話はできないのですが、
「乳幼児やラット以下の感性」の人たちが無視出来ない数います。
なぜなら、巨大なエコシステムを築き上げ権力構造の中にいる人たちは、追放されず、常に正当化されるので、根源的な共感性・社会性を持ち合わせている必要性も、
倫理的に問題のある振る舞いを監視し声を上げ続けることが大切ですが、これは希望の火を絶やさないというニュアンスに近く、
権力構造の中の人らを直接的に追放することは、難しいことも多いです。
「乳幼児やラット以下の感性」の人たちは、先天的な「感情的共感」は難しくとも、後天的な「認知的共感」、
つまり、社会が何を重要視しているかを「分析し、模倣する」してくれたらいいのになぁとは期待します。
なぜなら、新たな視点へのリフレーミングの入り口になるかもしれないからです。
しかし、先ほども書いた通り、守られてるので、おそらく該当者は変わる必要性は感じていません。
であれば、閉じたエコシステムの中で、「乳幼児やラット以下の感性」を量産する仕組みが維持されるのは、意識的に避けていくべきだと思います。
ただ、避けていくべきとは言っても、魔法のような解決策はないので、地道に「対話」と「余白」を積み重ね、外部評価に依存せず、
一人ひとりが自分自身の「意味や物語」(自己定着/内発駆動エンジン)を重ねていくしかないのかなぁと考えています。
(知識や価値観は外部から一方的に注入されるのではなく、個人の内的な対話と経験の積み重ねによって構築されるという理解です)
上記がクリア出来てようやく、目的の選定と合理の接続の話ができると思います。
(それぞれ目的が違うとか、営利/競争力と人権や安全性や環境との衝突を考えるとか)
合理は善し悪しを判断するものではなく、目的を達成するための「道具」に過ぎません。その手前にある「目的設計」こそが本質です。
男性向け性表現にしても、様々な議論が行われてきたし、「CHOISIR」でもそのことは取り上げられている。やおい論争が始まる前の「CHOISIR」14号(1991年10月)では、有害コミック騒動について、高松久子氏が集会のレポートを書いている。
https://wan.or.jp/dwan/detail/6206
「9・28誰が決めたの、「有害」コミック!? 集会のあとで・・・・」(p.2)
9月28日「有害コミック」問題で集会をもった。早稲田奉仕園で開いた集会には約140名が参加し、7時間あまりにわたって様々な問題が話し合われた。
(中略)
私が今回の集会に、主催者の一人として加わったのは、第一に、今回の規制の動きが、「性の商品化」批判を織り込みながらなされてきたという事実(弾圧の口実に、「性の商品化」批判が利用された)、そして第二に、「行動する女達の会」を始めとするフェミニストの「性の商品化」批判の言説に私自身違和感を持ちつつもフェミニズム内部でそれを問題にできてこなかったという苦い思いから来ている。
もっとも、高松久子氏は性差別表現は良くないという立場なので、やおい論争で「ゲイへの加害性への認識。また、そのうえでの対応」を求められても答えを出せなかった。
総括にあった対応の第3の選択肢「受容しつつ現状を肯定すること」を選ばず、第1の選択肢「反論」を選んで失敗し、今度は第2の選択肢「弁明」を選んだために論理矛盾に耐えられなかったのではないかと思う。
男性オタクが「即座にクレームを却下して一笑にふす」ように見えるのは、有害コミック騒動などのように過去の議論の蓄積があることと、総括でいう第2の選択肢「弁明」を選ぶ人が少ないからだと思う。
1970年代〜80年代にかけて、「性の解放」(sexual liberation)はフェミニズム、LGBTQ運動、ヒッピー文化、反権威主義の潮流の中で重要なキーワードでした。特にウーマン・リブ運動の一部では、性を抑圧から解放し、女性も主体的に性を楽しむべきだという主張がありました。
しかしこの「解放」は、しばしば次のような批判の対象となりました:
商業ポルノ産業が「性の解放」を巧妙に取り込み、むしろ女性の性的搾取を助長した
→ 女性の裸体や性行為を「自由」として売り物にすることで、男性の欲望を満たす装置に変貌。
→ 特に職場や大学などで、「オープンな性文化」のもとにハラスメントが横行した例も報告されています(例:セクハラという言葉が1980年代に米国で普及)。
上流階級・白人女性によるフェミニズムが「全女性を代表する声」とされたことへの批判
→ 実際には、育児労働、家庭内暴力、性産業への従事といった問題が一般女性に集中していた。
このような問題提起から出てきたのが インターセクショナリティ(交差性) の概念です。
1989年、キンバリー・クレンショウ(Kimberlé Crenshaw) によって明確に理論化
→ 黒人女性として、白人女性中心のフェミニズムでも、黒人男性中心の反人種差別運動でも「見えない存在」にされてきたことを批判。
インターセクショナリティは、性別だけでなく、階級、人種、性的指向、障害の有無などの複数の差別軸が交差することを問題にします。
つまり、「上流階級の白人女性のフェミニズム」が主流を占めていた時代に、性の解放=自由であり善であるという前提が、階級・人種的に周縁化された女性の現実をまったく反映していなかったという批判がインターセクショナリティの視点からなされるようになったのです。
アンドレア・ドウォーキン(Andrea Dworkin)
→ ポルノグラフィを性暴力の一形態として厳しく批判。ポルノ産業が「性の解放」を利用して女性の搾取を正当化したと主張。
キャスリン・マッキノン(Catharine MacKinnon)
→ 性的自由の名のもとに、女性の身体が公共空間で商品化されることに警鐘。
→ 黒人女性にとってのフェミニズムと、階級・人種を無視した主流フェミニズムの限界を指摘。
bell hooks(ベル・フックス)
→ 白人中産階級のフェミニズムに対し、「抑圧されているのは白人女性だけではない」と再三批判。とりわけ「性の解放」が階級間で異なる意味を持つことに注目。
性的自由を掲げた70〜80年代のフェミニズムの一部は、今でも「セックス・ポジティブ」な運動として評価されていますが、一方でポルノ・売春・性の商品化をめぐる議論は今なお分裂的です。
インターセクショナル・フェミニズムは現在の主流理論となっており、「誰の自由か」「誰の声が抑圧されているか」という問いが常に問われるようになりました。
性の解放は一枚岩ではなく、誰にとっての自由か? 誰の犠牲の上に成り立つのか? という問いがいまもフェミニズムの核心にあります。
あーごめんごめん、お察しの通り前の文章は生成AIと一緒に作ったやつで30ラリーくらいした上で最後の添削のところで手伝ってもらったから臭さが残っちゃったね。
今度のこの文章は100%pureメイドバイ人力なので安心してえろ(絶対に添削で残らない語尾を敢えて残すことで証左を高めるテクニック!)
私が前の文章書くにあたって、穢れの部分については文化人類学、男性主権社会の構造分析にはポスト構造主義、他にもフーコーやハンナ・アーレントあたりを援用しながら考察を進めていったから議論が拡散しすぎてはてなーには理解不可能だったかもね。
でもおかげで論点がより可視化されたのでさらに一歩進めることができたよ。BIG LOVE🩷 あと、積極的に私の話を聞いてくれたひとには感謝しかない。
私の主題は、罪を男性に擦りつけることではなかったよ。でも今更こういったところで、ヒス女が話聞いてくれなかったから尻尾振ってきたくらいにしか思われないし、男女対立にした瞬間に血圧200超えちゃうひといるからどうしようもない問題かもしれない。Koshianxさん、昔はあなたが好きだったから寂しい限りです。
前回の私の文章の問題点として挙げられていたのをまとめると以下の3つだと思っている。
①公開垢で言うのが間違い派
①について、確かに、私の素朴に感情を呟くという表現は迂闊だった。反省している。でも、はてブならいいんかってレベルで差別発言してるひといるよね? てかAV女優ごときが何を偉そうにと言っているひともいるし、そいつら一人ひとり叩き潰してから掛かってこいよってこれまた燃えるね。
いいかい、投稿者は元AV女優が私が着る予定だったドレスを着たことを問題にしたんだ。三上悠亜という名指しをしたわけではない。
そこにあったのは、自分の見られ方をコントロールできないという諦めからとも読める。内心の自由を否定しないはてなーなら、アイツの着てるドレスAV女優と同じなんだって、ぷぷ、インフルエンサーなんて同列だから仕方ないねw だったり、AV女優と同じ衣装着てるってエロw 同じドレス着るなんて穢れが移ったね、という見られ方をするのは仕方ないってことなんだよね。これはポスト構造主義的議論。
前回の文章ではここの部分を端折りすぎて議論が拡散していたから丁寧に書くよ。
じゃあ、そもそもAV女優だから最悪って思う心はどこから来ているんだって話。
ここからが文化人類学的な視点になる。穢れというのは、処女性=純潔性→神聖さと対立する概念であって、女性は氏族交換によって価値を生む存在である。その価値を担保するのが穢れのなさである。それを示すのが白無垢=ウェディングドレスだ。逆に言えば、自分自身を商品化する女性には価値がない、けれど社会を維持するためには必要な存在として穢れを負わせることで内包していた—もちろん、コメントにあるように病的な意味で穢れという身体的な惹起があることも確か。
穢れを持つものの身分は固定化されやすく、この差別とは再生産され続けていた、というのが歴史的な経緯。
で、ここからがフェミニズム的な見方になるんだけれど、職業選択の自由や女性の選挙権をはじめとする自主決定権が与えられてから世代で言えば4世代くらいは経っている現代において、建前上は穢れによる身分の固定化というのはないことになっている。
けれど、一方で経済的な事情から身体を商品化する職業を選ばざるを得ない家庭に育つひとがいることも確か。
こうした、選択肢がないものにしか選べない職業ということでセックスワークは現代においても賤業として見られている。
そこに近代以前の穢れ観と結びついて、AV女優をその職業を理由に区別することは、差別だと言われる、と私は読み解いたよ。
他の差別と比べて難しいのが、他の前近代的差別は教科書に載せて、また教育によって廃止するというスローガンがある一方、こちらの穢れについては明文化されてこないものであった。
つまり、投稿者にとってAV女優が着て最悪と言ったのは、現代的な価値観やそもそも身体を商品化している職業者と同一視される可能性を危惧してのことかもしれない。けれど、過去からの文脈を知るものが、穢れと結びつけて差別だと批判したんだよね。
で、ここまで来てようやく私の本題に入るんだ。
この穢れの構造を作ったのは、女性か? 女性は、コメントにあったように自らの商品価値を高めるために他者の純潔性を貶めることをしたり争ったりと主体的に再生産に寄与していた側面はあることは確かだが、そもそも、この純潔性は自らの商品価値であり値付けをする存在がいるからこのマーケットは成り立つんだよね。
そのマーケットの主催者は歴史的に男性だったんじゃないの???
勘違いしてほしくないのは、別に現代に生きる男性を糾弾したいわけじゃない—むしろ私たちは女性に選ばれる側、値付けされる側として大変だもんな。これまでと価値観が転倒してそれに対応するので精一杯だ。でも、女性達が結婚式で着るウェディングドレスの純白には、過去の私たちの価値観が色濃く(むしろ真っ白に)残っている。
ここを認識しないと、この差別を無くすための第一歩にならないということだ。みんな、公共の場で差別を叫んではいけない、という道徳規範を持っているなら、差別を撤廃しようという運動にもベットしてくれるよな?
過去から分断した価値観を持つ者はとっくにこの枠組みから逃れていて、だからこそAV女優について非難することは差別だと思うのかもしれない。けれど、そう言えるのは男性だけであって、今でも値付けされた側には純潔性を巡る呪いから逃れることはできないままでいるんだ。
だから、AV女優に対して普段から暴言を吐かれていても可視化されなかったが、今回炎上したのは、この純潔性の呪いがはっきりと顕れる事象だった、しかもミソジニーが喜ぶ構図で、という最悪の掛け算が起こったからなんだと思う。
そうやって純潔性の呪いから抜け出せないことは前近代的な価値観の復活であり、それはつまり男性主権社会復権の足掛かりなんだから。
私の前回の文章は、議論の範囲やトーンが整理されていなかったことや、現状認識の甘さがあったことは認める。SNSは素朴じゃダメだよな。そこは素直に謝りたい。ごめん。
だけど、私が訴えたかったのは、
ここまで来れば、女性が自分にかけられた呪いを解くターンにあることは確かだし、その呪いを再びかけようとする存在も意識することができる。
私は今回の炎上から、この一歩の必要性を感じたよ。あなたはどう?
追記。私はフェミニストではないよ。ただの人文系を大学時代に齧っただけのものだから、理論の正確性に欠ける部分はあるけれど、この問題を解きほぐすためには人文学の知識を総動員しないといけなかった。大学時代、使うことはあっても何か定規で測っているだけのようだったけれど、初めて知の巨人の肩に少しだけ乗れた気がする。
人種、民族、性別、出身地(出身国)のような、生まれながらの属性で差別するのは明らかに不当な差別です。
例えば、「黒人は頭が悪い」とか、「朝鮮民族は卑劣だ」とか「クルド人は犯罪者だ」などは明確に不当な差別であると言えます。
頭の悪い日本人や、卑劣な日本人や、犯罪者の日本人はいますよね?頭の悪い奴や卑劣な奴や犯罪者は人種、民族、性別に関係なく存在しています。
少なくとも現在の日本においては職業についてはある程度の選択と変更の余地があります。
ですが、安易に「職業差別」という言葉を使う人がよく例として持ち出す清掃業については、汚いところを綺麗にする極めて尊い仕事であると考えています。
セックスワーカーについても、私は立派な仕事だと思っています。
AV女優はどうでしょうか?そもそもアダルトビデオというもの自体が性の商品化、性差別の典型なのです。
経済的に困窮していた訳でもなく、アイドルとして成功していた人物があえてAV女優になるというのは、女性差別に加担しに行く行為ですから、まともな女性からは嫌われて当然です。AV女優は女性差別の先兵ですから女性達から嫌われるのは当然の事です。AV女優を擁護する人たちこそが性差別主義者なのです。