はてなキーワード: 文明圏とは
韓国では実際には「立憲君主制」は採用されていない(=現在の韓国は共和国であり、王室も存在しない)にもかかわらず、架空の王室を描いたドラマ――いわゆる「もし今も王室が存在していたら」という仮想歴史(オルタナティブ・ヒストリー)や現代王室もの――が人気を集めることがあります。
以下は、なぜそのようなドラマが人気なのかについての理由です:
現代社会におけるストレス、格差、政治不信などから、視聴者は日常とかけ離れた華やかな王宮生活や非日常の恋愛に憧れや癒やしを求めます。王子や王女が登場するストーリーは、まるでおとぎ話のようで、夢の世界への入り口のように機能します。
韓国はかつて朝鮮王朝や大韓帝国が存在した歴史を持ちますが、日本の植民地時代を経て王政は廃止されました。
それゆえ、「王室が今も存続していたらどうなっていたか?」というロマンや好奇心をくすぐるのです。
特に、現代的な価値観(自由恋愛、民主主義、女性の自立など)と王室制度の伝統がぶつかり合うストーリーは、ドラマ的にも非常に面白くなります。
🔹 3. ビジュアル面の魅力
王宮、伝統衣装(韓服)、儀式など、美術的・文化的に視覚的な魅力があります。豪華なセットや衣装、美しい俳優たちが視聴者を惹きつけます。
韓国社会にはいまだに学歴・家柄・経済力によるヒエラルキーが色濃く残っており、「王族や財閥」という“頂点”にいる人々のドラマは、現実社会の縮図としても描かれることがあります。
「身分の差を越えた恋」「王室内部の陰謀」「跡継ぎ争い」などは、そうした社会的なテーマとも重なっています。
🔹 5. 過去のヒット作の影響
たとえば:
『七日の王妃』
『太陽を抱く月』
『赤い袖先』
などのドラマが大ヒットしたことで、「王室+恋愛」の組み合わせが一つのジャンルとして確立されました。
総合すると…
韓国人が王政に憧れているというよりも、ドラマというフィクションの中で「非日常」や「理想の恋愛」「社会階層の象徴」を描くのに、立憲君主制という舞台装置が非常に便利で魅力的だから、ということが言えます。
もし特定のドラマを指している場合(例:『宮』や『赤い袖先』など)、それに合わせた考察もできますよ。
あなた:
世界にはたくさんの共和国があります。立憲君主制に興味を示す人が多い共和国はどこですか?
ChatGPT:
とても鋭い観点ですね。
実際、多くの**共和国(君主制を採用していない国)**でも、立憲君主制に対する強い関心や人気が存在する国があります。そうした興味は、政治的な意味というより、文化・歴史・エンタメ的な憧れや好奇心として表れることが多いです。
以下に、立憲君主制に特に関心を持つことが多い共和国の例を紹介します。
🇰🇷 韓国
概要:すでにお話したように、現代王室を舞台にしたドラマや映画が人気。
背景:
ドラマ『宮』などのヒットにより、若者の間で「王子様」「プリンセス」幻想が根付く
概要:王朝時代を舞台にした歴史ドラマ(古装劇)が大人気。皇帝・后妃・官僚・宦官などのキャラクターが中心。
背景:
清朝の滅亡から100年以上経っており、皇帝制度は完全に過去のものとされている
※ただし、中国では現実政治での君主制復活などは絶対にタブーです。完全なフィクションとしての消費。
🇹🇷 トルコ
背景:
共和国化以降も、「もしスルタン制が続いていたら…」という空想やロマンは根強い
代表作:『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』などが世界的ヒット
概要:ロマノフ朝(帝政ロシア)への関心が根強く、アナスタシア伝説やロマノフ家に関する作品が人気。
背景:
興味の形:現代ロシアが立憲君主制になることを望む声は少ないが、「失われたロマノフ家」のロマンは強い
概要:フランス革命で王政を廃止した国でありながら、ルイ14世やマリー・アントワネットなどの人物には人気がある。
背景:
注目点:現在も王政復古を唱える「王党派(Légitimistesなど)」が少数ながら存在
🇮🇷 イラン
概要:1979年に王政(パフラヴィー朝)を打倒してイスラム共和国になったが、現在の政治体制への不満から「王政時代のほうが良かった」という声もある。
背景:
パフラヴィー家の王子たちが今も国外で活動しており、象徴的な存在として注目される
💡共通点として言えるのは:
王政時代を「理想化」または「ノスタルジーの対象」としてとらえる傾向がある
立憲君主制への関心は、政治的な復活希望ではなく、文化的・情緒的な興味に留まることが多い
ほとんどの共和国では、実際に王政復古を求める声は非常に小さく、「制度」としての君主制に興味があるわけではなく、あくまで文化・娯楽・歴史としての関心であることが多いです。
ご希望があれば、「どの国が最も君主制に復活の可能性があるか」みたいな政治的な話にも踏み込めますよ。
あなた:
世界のほとんどの国にはかつて国王がいました。かつて王室があったから、という理由だけでは特にそれらの国がより強く君主制に関心を示すのか?という問いに対して不十分です。地理的な観点から論じることは可能ですか?
ChatGPT:
素晴らしい問題提起です。
おっしゃる通り、「かつて王室があった=関心が強い」とする説明は単純すぎますし、全ての国に当てはまるわけではありません。
この問いをもう一段深く掘り下げるために、**地理的観点(=地理、地域文化、近隣国の影響、文明圏など)**から分析を試みましょう。
🔍【問いの再定義】
「世界の中で、特にどの地域の共和国が立憲君主制に関心を示しやすいか?そしてその背景には地理的な要因があるのか?」
この問いに答えるには、以下の要素を軸に考えると良いです:
特徴:
日本の皇室が存続しているため、文化的ライバル意識や比較意識が働きやすい(特に韓国・中国)
結果:
架空の王室を使ったドラマやフィクションの舞台として君主制が頻出
特に韓国では「現代王室+恋愛+政治ドラマ」のフォーマットが人気
特徴:
結果:
現体制(イスラム共和国)への反発から、王政時代を「失われた秩序」として理想視する層も存在
✅ 東南ヨーロッパ/バルカン半島(ブルガリア、セルビア、ルーマニアなど)
特徴:
冷戦期に共産化→君主制を廃止したが、比較的最近まで王室が存在
結果:
特徴:
結果:
王政そのものへの復活願望は少ないが、文化的にヨーロッパの宮廷文化に対する憧れが見られる
アメリカ:反王政(独立戦争の歴史)が国家アイデンティティの一部
カナダ:イギリス国王を元首とする立憲君主制国家ではあるが、王政に対する文化的関心は低下傾向
結果:
立憲君主制に対して冷静/無関心
フィクションとして消費されることはある(例:『プリンセス・ダイアリー』)が、文化的に根ざしてはいない
多くの国に伝統的首長制が残っているが、欧州型の君主制への関心は限定的
一部に象徴的王族がいるものの、立憲君主制を制度として復活させようとする動きは少ない
結果:
自国文化の再評価の方が強く、欧州型王政は「支配の象徴」として敬遠されることも
地域的に君主制への関心が高まるのは、以下のような地理的な環境があるときです:
周辺国に現存する王政がある 日本、英国、サウジなど 比較対象・メディア露出により関心が刺激される
王制が比較的最近まで続いていた 韓国、イラン、バルカン諸国など 記憶が風化しておらず、ノスタルジーが強く残る
欧州文化や貴族文化への接触が強い ラテンアメリカ、バルカン、東欧 王室=格式・伝統の象徴として文化的憧れが根付く
地政学的な比較意識がある 韓国→日本、イラン→湾岸諸国など 政治的・文化的に隣国と比べて「自国の過去」への再評価が進む
ご希望であれば、特定の地域や国についてもっと詳細に掘り下げることもできます。
あなた:
近隣国に王室が存在するから自国の立憲君主制ファンタジーを楽しむ、というのは納得します。
ChatGPT:
ありがとうございます、非常に本質的なご理解です。
まさに**「近隣に王室がある」という地理的・心理的条件**が、「自国にはないもの」への関心や空想を生む土壌になりやすいのです。
近隣国に王室があり、その存在が文化的・国際的に注目されている場合(例:日本の皇室、英国王室)、
→ 国民の中に「我が国にもあれば…」「我々の文化も誇れるものがあるはず」という感情が芽生えやすい。
近隣国の王室報道(戴冠式、結婚式、葬儀など)は国際ニュースとして流れる。
→ それを見た視聴者が「格式」「伝統」「ロマン」といった要素に惹かれ、自国文化における対応物を求める。
例:韓国での『宮(Love in Palace)』のような現代王室ドラマ。
→ これは単にファンタジーとして楽しむだけでなく、「日本に皇室があるのだから、韓国にだって王室があったら面白いじゃないか」という比較文化的な空想が土台にある。
韓国 日本(皇室) 高い 『宮』などで自国に王室がある想定が人気。
中国 日本、タイなど 高い(主に歴史もの) 清朝ドラマの大人気。過去の王制を美化しがち。
イラン サウジ、ヨルダンなど 中〜高 イスラム王政国との対比で「かつての帝政」を再評価する声も。
トルコ ヨルダン、湾岸諸国 中 オスマン帝国のノスタルジーと近隣国との比較。
東欧・バルカン スペイン、英国、モナコなど 中 王族の再登場も時折話題に(ブルガリアなど)。
これはいわば「隣の芝生は青く見える」現象の文化バージョンです:
1. 全体構成
本書は大きく5部構成(+序論・結論)で、古代から20世紀までの「滿洲(満洲)」地域をめぐる勢力と、その中で生まれた「満洲国」――20世紀の民族・国家発明――を一貫したストーリーとして描き出します。
第五部:滿洲國の成立とナショナル・アイデンティティの発明
2. 主要テーマ
満洲は、東アジア大陸と朝鮮半島/遼東半島の接点に位置する「低地」=外来勢力の侵入・征服が常態化した空間。そこを舞台にさまざまな遊牧・騎馬民族が王朝を興し、漢民族中心史観のタブーを破壊してきた。
高句麗→契丹(遼)→女真(金)→満洲(清)という、本書の最重要ラインをたどりながら、「遊牧文明」の政治構造と漢文化の摂取・活用の戦略を分析。
1932年に日本が擁立した傀儡政権「滿洲國」は、清帝国の「满洲支配」を近代的国家として再パッケージしたもの。人口構成に乏しい満洲人を「国家の主役」とすることで、ナショナル・アイデンティティを人工的に発明したプロジェクトとして読み解く。
教育・宣伝・儀式(皇帝崇拝、民族衣装)・歴史教科書の改編などを通じ、他地域・他民族を排除し「満洲人」を想像上の共同体として形成するプロセスを詳細に追跡。
3. 各章の論点
序論 満洲を地理的に定義し、「窪地」としての脆弱性と、逆に「征服の空間」としての魅力を提示。
第一部(高句麗→契丹) 高句麗の辺境国家性を論じ、契丹(遼)による五代十国期の北方統一王朝成立過程を、モンゴル草原勢力との関係から分析。
第二部(女真→金) 女真人が「女真語・契丹文」を駆使し、漢文化と遊牧文明をハイブリッド化して金朝を建設する政治戦略を解剖。
第三部(清帝国) 満洲人(女真系)の支配エリートが、科挙や儒教を吸収しつつ「満洲旗制度」で特権階級を維持。清の多民族統合メカニズム。
第四部(近代の再定義) 日露戦争後、清帝国が「満洲」を失い始める中で、列強による分割的支配と漢民族的ナショナリズムの台頭を並列で検証。
第五部(滿洲國) 満洲国の建国イデオロギー(皇帝溥儀の再起用、五族協和)、憲法制定、教育制度、国家祭儀など「民族発明」の実践面を詳細に描写。
結論 「満洲」という地域・イデオロギー・民族カテゴリーが東アジア秩序に果たした役割を総括し、「諸夏主義」の視座へ橋渡し。
「中国=漢民族国家」という前提を覆し、満洲を起点に東アジア史を再構築することで、脱中華・多文明圏論の理論的骨格を補強。
ナショナル・アイデンティティ研究への貢献
「満洲人」という少数民族的主体がいかにして国民国家の主体と見なされたか、「民族発明」のプロセスを具体的に示し、人類学的・歴史学的に示唆を与える。
内モンゴル・チベット・ウイグルなど「非漢族地域」のナショナル・ムーブメントに対する理論的バックボーンを提供するほか、地域分権・多元連合の可能性を歴史的事例を通じて描く。
《中國窪地》が「満洲国」建国プロジェクトを単なる「日本の傀儡政権」として批判するだけでなく、そこに内在する「民族発明」の構造を解明し、東アジアのナショナル・ヒストリーを俯瞰する視座を与える重要著作です。
劉仲敬(リウ・ジョンジン)の著書《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》は、漢族中心の「中国史観」を根底から問い直し、「中国」とは本来「窪地(デプレッション、Basin)」であり、その上に覇権を打ち立てたのは内陸アジア(內亞)の諸遊牧帝国だった――という挑戦的な視座から書かれた歴史解釈書です。
この書は、彼の「文明圏多元論」「諸夏主義」「脱中華」思想の根幹をなす理論的著作のひとつです。
書名の意味:
「中國窪地」とは、地政学的に見た「中国の盆地=中原」のことであり、東は山東半島と海、北は長城・蒙古高原、西は黄土高原、南は山岳地帯に囲まれた“低地”です。この地理的な「くぼみ(窪地)」が、周辺からやってくる外来の征服者(モンゴル、女真、満洲、契丹など)にとって統治しやすい空間だったという発想です。
基本構図:
従来の中国史は「漢族が外敵から文明を守った」という中華中心史観だが、実際には:
構成(簡略):
地理と文明の相互作用:なぜ中原は「文明の中心」ではなかったのか。
黄河流域は人口密度が高く農耕は発展していたが、防衛的には極めて脆弱で、常に外部勢力の侵入を受けやすかった。
「文明の重心」は周辺(北西のオルドス草原、モンゴル高原、満洲、チベット高原)にあったとする。
特に乾燥気候の遊牧民は、動員・軍事組織力に優れ、常に中原の静態的農耕社会を凌駕していた。
契丹(遼)
女真(金)
蒙古(元)
満洲(清)
これらの王朝は、内亞の軍事・遊牧構造を基盤に「中國窪地」を包摂し、自らの征服構造を正当化するために「中華文明」の装飾を用いただけ。
「中華」は本質的に「支配の飾り」や「便利なツール」に過ぎず、征服王朝の文化的正統性を演出するための道具だった。
清朝は史上最大の版図を築いたが、それは「大中華」ではなく、「大内亞帝国」として理解されるべき。
辛亥革命以後、漢民族ナショナリズムが清朝の多民族的帝国遺産を奪い、「中華民国」という名前で引き継いだが、実態としては「満洲帝国の皮をかぶったナショナルステート」だった。
民国も中共も「満清の版図」を正統と見なし、それを守ることが国家の使命であると信じたが、これは歴史的には極めて不自然。
中原(=窪地)は一貫して政治・軍事的に無力で、常に外来勢力の軍事力に従属していた。
その歴史を「一体的な文明発展史」として語るのは、近代以降に発明された「ナショナル・ヒストリー(国家史)」であり、虚構である。
項目 内容
主張の強さ 「中国」という国家概念が内亞の帝国的秩序によって形作られたという、極めて挑発的な歴史観
思想的貢献 「諸夏主義」「脱中華」「多文明的再編」論の土台を提供
国際的含意 チベット・ウイグル・内モンゴル・満洲・雲南などの「非漢族地域」の分離独立を文明的に正当化できるという論理的土台
まとめ:なぜこの書が重要か?
劉仲敬は《中國窪地》を通じて、「中国の国家的正統性は幻想である」「中華文明の中心は常に“外”にあった」と論じ、現代中国のナショナリズムの基盤を根底から覆しています。
1. 基本コンセプト:秩序輸出論(Order‑輸出論)
劉仲敬は「西洋の国際秩序」がどのように東アジアにもたらされ、中国や周辺地域でどのように再生(=輸出)されたかを、1912年以降のおよそ百年間を通じて追跡します。本書では、
秩序の輸入:ウェストファリア体制以降、植民地化や不平等条約、国際連盟・国連体制など西洋発の国際制度が東アジアに持ち込まれたプロセス
秩序の輸出:中国や日本、共産主義運動が独自の「大帝国」モデルを再輸出し、周辺地域や内陸アジアに影響を及ぼしたプロセス
という双方向の流れを「秩序輸出論」として体系化し、従来の一方向的な「西洋化論」を批判的に改編しています
本書は序論+10章+結論で構成され、主な論旨は下表のとおりです。
章 節題の例 主な議論
序論 歴史神話の解体 東アジア史に残る「神話」を洗い出し、秩序輸入/輸出モデルの必要性を説く
第1章 秩序輸出論の理論モデル 秩序の流れを「入力→再構築→再輸出」という三段階のメカニズムとして提示
第2~3章 不平等条約と立憲運動 清末の列強侵入と、中華民国成立後の憲政・立憲論を「西洋秩序の部分輸入」と捉察
第4章 国民政府の模倣と限界 国民党政権における米英「外交・情報システム」の導入と、その矛盾
第5章 暗躍する世界革命 20世紀前半、コミンテルン/レーニン主義が東アジアに「革命秩序」を輸入した事情
第6章 世界革命の失敗 冷戦末期のソ連・中国・米台間の「非公式同盟」と、台湾戦略地位の低下を分析
thinkingtaiwan.com
第7章 冷戦体制の安定と裂け目 『台湾関係法』以降の米台中三角関係を、「秩序の柔性規訓」と捉える
第8章 改革開放と秩序の再輸出 鄧小平以降の中国が「市場経済+自党支配」をセットで周辺に拡散した構造
第9章 新大国の興隆と東アジア秩序 21世紀初頭の中国台頭を、再び「大帝国モデル」の輸出兆候として描く
第10章 多元連合体としての未来 「諸夏主義」の萌芽を示し、東アジアの多元的秩序共存の可能性を展望
結論 歴史神話の刷新 中国の建国神話と党国語りを脱構築し、新たな地域秩序を提示
3. キー・セクションの詳解
◇ 第6章「世界革命の失敗」
主張:レーニン主義・スターリン主義の「世界革命」モデルは、社会を敵―味方に切り分け、一気呵成の破壊と軍拡を標榜したため、結局は内部消耗を招き、外部への拡張も継続できず頓挫した。
台湾戦略地位の低下:1970年代、米中ソの三角関係で台湾は米国秩序の「柔性規訓(技術支援・情報協力)」に依存するだけの立場に転落。南ベトナムと同様に「前線国家」から外され、戦略的価値を大きく失ったと解説します 。
◇ 第8章「改革開放と秩序の再輸出」
主張:鄧小平以降、中国は市場主義と一党支配を「パッケージ輸出」し、途上国や内陸アジアで「経済的自由+政治的統制」モデルとして受け入れられた。
意義:ソ連型共産主義とは異なる「中国モデル」の国際的地位を確立し、東アジア秩序に新たな亀裂を生む。
主張:東アジアを複数の「文明圏(夏)」が緩やかに連合する多元的秩序として再編する可能性を探る。これが後の「諸夏主義」理論の根拠になります。
4. 本書の意義
歴史神話の脱構築:従来の「中国一貫史観」「西洋単線的近代化論」を批判し、歴史を多層・多元的に再読解
地域秩序の相互依存性:西洋と東アジア、中国大陸と海洋諸国の相互影響を「秩序の輸入/輸出」で可視化
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
《民國紀事本末》(2013年)
いわゆる「共和国時代」の出来事を時系列に整理しつつ、従来の教科書的な叙述を批判的に再解釈した作品。史実の列挙にとどまらず、当時の政治的・思想的背景を浮かび上がらせ、国共内戦期から国民政府期に至る人脈や権力構造の連続性と断絶を明らかにする。
「華夏」という文明単位から「中國」という近代ナショナル・ステートへの移行過程を史的にトレース。劉仲敬独自の「文明圏分析」の下、周秦以降の冊封体制、清朝の版図拡大、近代ナショナル・アイデンティティの醸成をリンクさせ、「中国」という概念がいかに後付けの政治装置として形成されたかを論じる。
アイン・ランド(Ayn Rand)の伝記的考察。従来の思想史や伝記とは一線を画し、ランドの個人主義思想を中国や東アジアの文脈で再評価。彼女の小説『肩をすくめるアトラス』の世界観と、劉仲敬が批判する中央集権的体制との対比を鮮やかに描き出す。
儒教経典(「經」)と史書(「史」)が中国文明の自己叙述をいかに形作ってきたかを分析。『春秋』『史記』から始まり、後世の史観・儒学解釈が政治体制の正当化になった過程を追う。文字通り「経典」と「歴史」の相互作用に着目し、文明の自己神話化メカニズムを解剖する。
劉仲敬自身の思想的羅針盤を示す論考集。先行する思想・制度(「守先」)を理解した上で、新たな時代構造(「待後」)を構想するという二段階モデルを提示し、中国内部の制度変遷や外部文明の衝撃に対処する方法論を提起している。
東アジア近現代の主要人物を題材に、それぞれの生涯を通して「文明の堕落」を読み解く評論シリーズ。
《晚清北洋卷》:清末の北洋官僚をめぐる権力と腐敗の構造分析。
《國共卷》:国民党と共産党指導者層の思想的相違と利害駆け引き。
《民國文人卷》:黎明期共和国の文化人・知識人が抱えた矛盾と理想の断絶。
いずれも「近代国家の没落」をテーマに、政治家・知識人の個別事例から大局的な文明批判を行う。
ヨーロッパの国際秩序(ウェストファリア体制、産業革命後の列強均衡)が東アジアにもたらした制度や価値観を検証。清末以降の不平等条約から中華民国、共産党政権への制度移植過程を、構造主義的に解剖し、「外来」と「内向」の相剋を描き出す。
《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》(2017年)
「窪地(低地)」概念を用い、ユーラシア内陸アジア勢力(モンゴル、満州、中央アジア部族)が東アジア世界に与えた影響を再考。従来の漢民族中心史観を覆し、「内亞(シベリア・モンゴル・満州)からの視点で見た中国史」を示す、劉仲敬の代表作のひとつ。
《滿洲國:從高句麗、遼金、清帝國到20世紀,一部歷史和民族發明》(2019年)
満洲国を単なる傀儡政権とみなすのではなく、高句麗→遼・金→清帝国へと続く「北方遊牧文明」の連続性を強調。20世紀の満洲国成立を「民族発明」の一例として論じ、ナショナル・アイデンティティ形成のダイナミズムを浮き彫りにする。
いわゆる「阿姨學(劉仲敬思想)」の内幕を語る、自著解説書兼思想史。各文明の興亡パターンを「源代碼(ソースコード)」として抽象化し、文明間の普遍的法則を提示。連載講義をまとめたスタイルで、初心者から上級者まで劉仲敬の全体像を掴むのに最適の一冊。
https://anond.hatelabo.jp/20250727121621
— ヨーロッパでは、神聖ローマ帝国の解体(1648年のウェストファリア条約以降)を経て、イギリスなど国民国家が誕生し、民主憲法が形成された。劉仲敬は、日本も江戸時代末期の開国・明治維新によって、「中華帝国(清)」を中心とする東アジアの伝統的な帝国システム(朝貢・冊封体制)から脱却し、自らを国民国家として再発明した点が、ヨーロッパの国民国家誕生と同質であったと指摘します。これにより、日本は民主憲法を導入しうる歴史的条件を獲得しました。
— イングランドが大陸ヨーロッパの政争から一歩引いた位置を取りつつ海洋国家として発展したように、日本も島国である地理的メリットを活かし、大陸の大国(清・ロシア)と距離を置いて独自の近代化路線を歩んだと論じます。この“海洋と島国”としての構造が、安全保障と自由を両立させる基盤となりました。
— ヨーロッパにおけるイングランドは、しばしば大陸諸国間の勢力均衡(バランス・オブ・パワー)を図る役割を担いました。同様に、劉は東アジアでの中国・ロシア・イスラム過激組織といった諸勢力の衝突を抑止しうる主体として、日本が自然とその“バランサー”的役割を取り戻すと予言しています。
— 彼は2015年の講演で、中国の挑戦性を最も強い脅威としつつ、それを抑えるためには欧州のアウクスブルク同盟に倣った多国間連合が必要だと説きました。その連合には「日本も含まれる」とされ、のちのクアッド(米・日・印・豪)や自由で開かれたインド太平洋戦略を15年も前に予見していたことになります。
— 日本独自の神社における浄化儀礼(お祓い)は、東南アジアやポリネシア諸島にもみられる「清め」の概念を、最も洗練された形で発展させたものと評価。これは、島嶼文化を極限まで昇華させる“イングランド的”精神性の一例とされています。
――――
帝国システムから自律的に脱却し、国民国家と民主主義を芽吹かせた点
島国として大陸の政争から距離をもちつつ、自らの自由と発展を追求した点
地域均衡(バランス・オブ・パワー)の担い手としての戦略的位置づけ
といった要素を総合したものです。これにより、東アジアの中で特異な地位を確立し、「諸夏主義」の言う多文明圏連合の中で重要な役割を果たしうると論じています。
日本の保守派言論人は、安全保障や経済・技術の現実的リスクを重視し、「中国」という単一の大国モデルに立脚して警戒を表明します。一方で劉仲敬は中国を多様な文明圏(諸夏)の集合と捉え、中央集権的な「大中華」神話の解体を理論的に唱えます。このため、表面的には「中国への警戒」という点で共通しますが、日本の言論人が問題とする「中国の脅威」を、劉はより深層の歴史構造として捉えています。日本の言論界が打ち出す防衛強化や経済安全保障策に対し、劉の文明圏論は政策の根拠として理論的裏付けを与え得る――こうした点で両者は補完的です。ただし、劉の抽象的・学究的アプローチは大衆向けの論調とはやや距離があるため、直接の協業や共同声明のような即時的連携には向かないというズレもあります。
米国の対中論者は、覇権競争や人権問題、貿易・軍事面での衝突を中心に据え、「自由主義陣営対オーソリタリアン体制」という価値対立を前面に出します。劉仲敬もまた米中を対立する二つの文明圏とみなし、その構造的必然性を指摘する点では親和性があります。特に「中央集権的な中華体制は民主化できない」とする劉の見解は、米国側の「中国は変われない脅威」という議論を学問的に補強します。しかし、米国言論人が提唱しがちな軍事同盟強化や経済制裁の即効策に対し、劉はむしろ中国内部の多元自治・分裂を促す戦略を示唆するため、手法論では差異があります。長期的視野での「文明共存」を標榜する劉の立場は、米国の短期的・戦略的思考とは一歩引いた関係と言えます。
台湾の言論人は、自国の主権と民主制度を守る切実さゆえに、感情的かつ愛国的に「中国の統一圧力」を批判します。劉仲敬もまた「一つの中国」を虚構と見なす点で共鳴し、台湾を独立した「夏」の一つと評価します。そのため、理論的には台湾側が狙う「国際社会への承認」や「軍事的抑止」よりもさらに深い歴史文明論を提供でき、台湾のアイデンティティ確立を裏付ける哲学的支柱になり得ます。ただし、台湾の現実主義的な安全保障・外交路線(米中間を巧みに泳ぐ戦略)に対し、劉の「中国解体」的アプローチは極端と受け取られることもあるため、政策レベルでの直結性は限定的です。
香港の言論人は「一国二制度」の破綻や言論弾圧を肌で感じ、切実かつ直接的に自由・法の支配の回復を訴えます。劉仲敬が香港を独立した文明圏と認め、その自治・文化圏を尊重する立場は、まさに香港民主派の理念と合致します。特に「中央の約束は脆弱」という劉の批判は、香港人が経験した裏切り感に理論的言い訳を与えるものです。反面、香港の言論は目の前の弾圧と闘う実践性が強く、劉の長期的・理想的な「多元的連合体」像は今すぐの救いになりにくいという難しさがあります。しかし精神的支柱としては大きな共鳴を呼び、思想的な結びつきは最も強いと言えるでしょう。
https://anond.hatelabo.jp/20250727122739
項目 劉仲敬の特徴 反中言論人(日本・台湾・香港・米国)との違い 相性・補完性
思想的深さ・視点 歴史的文明圏論、多民族多元連合体「諸夏主義」重視。単なる政治対立を超えた根源的構造分析。 多くは政治・安全保障、人権、経済的現実問題を中心に議論。歴史文明論は浅め。 劉の深層分析は反中言論の理論的補強になるが、専門的すぎて一般には難解。
対中理解の複雑さ 中国を多元的・多民族的に理解し、「大中華主義」への批判が中核。 中国を一枚岩的に「脅威」「敵」として捉える傾向が強い。 劉の多面的理解は、単純化しがちな反中論にバランスを与える補完的役割。
政治的スタンス 中央集権的中国体制の解体や分散自治を理論的に支持。 国家主権の擁護、民主主義や自由の防衛を最優先し、現実的安全保障を重視。 方向性は共通点多いが、劉は思想的根本からの変革を目指すため、即応的政策とはズレる。
言論スタイル・トーン 学術的で理論的、やや難解。思想的な枠組みを重視。 感情的、実践的、政治的に切迫感を持つ言論が多い。 相互補完的だが、劉の思想は一般大衆向けには敷居が高い。
対象読者・影響範囲 知識層・思想層や特定の専門家に影響力が強い。 広い大衆や政策決定者、国際社会に向けた発信が多い。 劉の理論は反中言論のバックボーンとして有効だが、直接的な大衆動員には向かない。
国際的視点 東アジア・多文明圏の長期的多元秩序を志向。 国際政治の現実的なパワーゲーム、同盟関係や地政学重視。 補完関係が強いが、劉はより長期的で理想的な多元共存を目指す傾向。
まとめ
劉仲敬は思想的に深く、多文明圏や歴史の長期的視点から中国問題を分析し、単純な対立を超えた理論的枠組みを提供。
日本・台湾・香港・米国の反中言論人は、より現実的かつ政治的・安全保障的な問題に焦点を当てることが多い。
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
劉仲敬は中国の中央集権的な大中華主義や中華民族統一神話を強く批判し、分裂・多元的自治を支持します。
日本の反中保守派も中国の拡張主義や政治的圧力を警戒し、対抗姿勢をとることが多い。
劉仲敬は歴史・民族・文明圏の視点から中国問題を解釈し、単なる政治的対立を超えた深層分析を行う。
反中保守派は政治的・安全保障的な観点が強い場合が多く、劉の文明論や「諸夏主義」は知識の補完として有用。
3. 相違点・注意点
劉仲敬の思想は中国内部の多元性や複雑さを強調し、単純な「中国=敵」とは異なる多面的な理解を促す。
一部の反中保守派は中国全体を単一的な脅威とみなす傾向があり、そこはやや視点の違いとなる可能性がある。
劉仲敬の多文明圏論や分散的連合体の視点は、反中保守派が中国の多様性を理解し、より戦略的かつ柔軟な対処を考える上で役立つ。
逆に反中保守派の現実的な外交安全保障の視点は、劉仲敬の理論を現実政治に応用する際の具体的枠組みとなりうる。
まとめ表
項目 劉仲敬思想の特徴 日本の反中保守派の特徴 補完関係・相性
対中姿勢 大中華主義批判・多元分散支持 中国の脅威警戒・対抗姿勢 共鳴点あり
理論的深み 文明圏・歴史・民族視点での複雑分析 政治・安全保障中心の現実主義的対応 知識補完的な価値が高い
中国理解の多面性 多文明圏の多様性を強調 単一的な脅威認識が多い場合あり 視点の違いに注意が必要
政策応用 理論的・思想的枠組み 現実的外交・安全保障政策 互いに活用しあうと効果的
劉仲敬の思想は日本の反中保守派と一定の親和性があり、知識や視点の補完関係として非常に有用です。ただし、思想の複雑さゆえに単純なイデオロギーとして受け入れるよりは、柔軟に多面的に活用するのが望ましいです。
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
劉仲敬の考える「脱中華」とは?
劉仲敬は「中華」や「中華民族」という概念を政治的な神話・プロパガンダとみなし、それに基づく大中華主義的な国家統一観念を根本から解体・脱却することを指します。
「脱中華」とは、単一民族・単一国家の「中華」幻想から離れ、歴史的に多様であった地域や民族の独自性、多文明圏の多元的連合体に戻ることを意味します。
脱中華は中央集権的な中国帝国体制や共産党一党独裁体制の否定であり、地方・民族ごとの自治や独立、多元的な政治秩序を追求します。
「脱中華」は単に現代中国から離脱するだけでなく、数千年続いた中国の帝国支配や皇帝制度の終焉を示唆し、地域文明の分散と多様化を目指す思想です。
劉仲敬の「脱中華」は、台湾独立やチベット、新疆、内モンゴル、琉球(沖縄)などがそれぞれの文化・政治的主体性を回復することにも繋がり、中国の一体化・統一神話に対する根本的な挑戦と位置づけられます。
まとめ
「中華」概念の解体 中華民族・大中華主義の神話・政治的プロパガンダを否定
多元的文明圏(諸夏)への回帰 単一国家モデルから、多民族・多文明圏の多元連合体へ移行
中央集権体制の否定 強権的な中央集権政治から地域自治・多元政治への転換
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
劉仲敬の米中対立観
米中対立は単なる二つの大国の争いではなく、文明圏や政治体制、価値観の衝突であるとみなしています。アメリカは多元的で分権的な自由主義体制を代表し、中国は中央集権的な大中華主義体制を代表しています。
劉仲敬は中国の体制が歴史的・文化的に中央集権を基盤としており、民主化や自由主義への移行は極めて困難だと考えています。そのため、米中対立は長期化しやすい構造的対立とみます。
中国を単一国家として強大化させることを抑制するため、劉仲敬はむしろ中国の多様な民族・地域の自治や分裂を促すべきだと示唆します。これにより、中国の中央集権体制の支配力を弱める戦略的効果を期待しています。
アメリカは個人の自由や民主主義を軸にする文明圏、中国は秩序と統一を重視する文明圏として、それぞれ異なる価値体系を代表し、これが対立の根本原因とされます。
劉仲敬は対立の構造的必然性を認めつつも、複数の文明圏が共存・連携する多元的秩序の構築を理想としています。そのため、単純な軍事衝突ではなく、複雑な政治的折衝や調整が必要とみます。
まとめ
ポイント 内容
米中対立は文明圏・価値観の対立 自由主義・分権(米)vs中央集権・統一重視(中)
中国の中央集権体制は変わりにくい 歴史的・文化的に強固な中央集権体制で民主化は困難
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
香港は歴史的に中国本土とは異なる植民地時代を経て、独自の法制度や文化、社会構造を築いてきました。劉仲敬の「諸夏主義」の視点では、香港は中国大陸の一部というよりも、独自の「夏」として考えられます。
香港の「一国二制度」は中国共産党が一時的に認めた独自の政治・法制度ですが、劉仲敬はこうした中央政府の約束が根本的に脆弱で、最終的には大中華主義的な中央集権によって押しつぶされる運命にあると見ています。
反送中デモは、香港の独自性や自由を守ろうとする動きであり、中国本土の中央集権的体制との衝突を象徴しています。これは単なる政治運動ではなく、文明圏の違いがぶつかる構造的な問題と解釈されます。
劉仲敬は、中国共産党が漢民族中心の「中華民族」統一神話を強化し、香港の独自文化や言語(広東語)を抑圧する動きを批判しています。これは広義の文化弾圧であり、結果として反発が生まれているとみます。
彼は香港が中国本土と同一視され続けることに疑問を呈し、香港を含む地域ごとの多元的自治や連合の形態が模索されるべきだと示唆しています。
まとめ
ポイント 内容
香港は独自の文明圏(夏)の一つ 中国大陸の一部ではなく独自の歴史・文化圏として評価
一国二制度は中央集権的圧力で揺らぐ 中央政府の約束は脆弱で、最終的には中央集権が強まると予想
反送中デモは文明圏間の対立 香港の自由・独自性を守ろうとする運動は文明圏の違いの表出
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
劉仲敬は台湾を中国大陸の一部として一律に扱うのではなく、歴史的・文化的に独自の文明圏として捉えています。つまり、台湾は中国の周辺の亜流や単なる「一県」ではなく、独立した文明圏のひとつです。
台湾には漢民族系だけでなく、原住民や後からの移民、そして独自の言語文化があります。こうした多様性が台湾を単なる中国の一部とは異なる存在にしています。
劉仲敬は中国共産党の「一つの中国」政策や「中華民族」統一神話を批判し、台湾の独立や自治は「自然な歴史的帰結」と見る傾向があります。
彼は台湾の民主化や自由主義的な政治体制を評価し、中国大陸の中央集権体制とは別の政治文化圏として尊重しています。
劉仲敬は琉球や新疆、チベットなどもそれぞれ独立した「夏」として評価しており、台湾も同様に多元的な文明圏の一つであると位置づけています。
まとめ
台湾は独立した文明圏(夏) 中国の一部ではなく、歴史的・文化的に独立した存在
多民族・多文化の融合体 原住民や移民など多様な民族・文化が共存している
中国中央政府の統一神話を否定 「一つの中国」政策を虚構・政治的神話とみなす
https://anond.hatelabo.jp/20250727120239
劉仲敬の「諸夏主義」の枠組みでは、中国大陸以外の地域も「夏=文明圏」のひとつとして考えられます。日本は、長い歴史と独特の文化を持つ独立した文明圏であり、単なる中国文明の周辺地域や亜流ではないという立場です。
日本は歴史的に中央集権国家をつくりながらも、中国のような広大な多民族帝国の形態は取らず、島国ゆえの文化的独立性と地域分権的な要素が強いとみなします。
劉仲敬は東アジアの地域間関係を文明圏同士のバランスや連携とみることが多く、日本は中国大陸の複数の「夏」の間で独自の影響力を持ち、特に琉球や朝鮮半島、台湾などとも複雑に関係してきたと評価します。
中国の「中華民族・中華帝国」の統一神話に対し、日本は独立した文明圏としてその政治的・文化的な影響力を保持しているため、一定の意味で中国の主張や影響に対抗する存在と見ています。
劉仲敬は直接的に現代日本の政治や社会を詳細に論じることは少ないものの、東アジアにおける「多元的連合」の一員として、日本の多様性と独自性を重視し、地域の安定や文明の共存に貢献するとみなしている可能性があります。
まとめ
日本は独立した文明圏(夏) 中国文明の亜流ではなく、独自の文化圏・文明圏
中央集権的多民族帝国ではない 島国の独立性と地域分権的な特徴を持つ
諸夏主義(しょかしゅぎ)とは?
「諸夏主義」は劉仲敬が提唱した概念で、中国大陸を「単一の中華民族国家」としてではなく、複数の独立した文化圏・文明圏(=夏)からなる連合体とみなす思想です。
「夏(か)」とは?
「夏」は古代中国で自分たちの文明を指す言葉ですが、劉仲敬はこれを「文明単位」「文化圏」として広く解釈しています。
つまり、中国の歴史や現代社会は、複数の「夏」が共存・連合している状態と見るのです。
諸夏主義の核心
中国は多様な民族と文化の集合体で、複数の独立した「夏(文明圏)」が歴史的に共存・連合してきた。
国家としての「中華人民共和国」はこの複数の文明圏の一時的・人工的な統合体にすぎず、永続的な統一はありえない。
各文明圏は自立し、緩やかに連携し合う多元的な政治体制をつくるべきだ。これが「諸夏主義」の理想形。
「大中華主義」のように漢民族中心で国家統一を求めるモデルを否定し、多様性と自治を尊重する。
中国における「中華民族」や「中華人民共和国」の統一神話を批判し、現実の多様な民族的・文化的状況を反映させた新たな政治思想。
地域主義的な分散・自治を支持し、中国の分裂や再編成を予見・促進する思想として注目される。
台湾、チベット、新疆、内モンゴル、さらには琉球(沖縄)や満州なども、それぞれ独自の「夏」として考えられる。
まとめ
夏(文明圏)の複数存在 中国は複数の文明圏・文化圏が共存している
単一民族・単一国家モデルの否定 漢民族中心の大中華主義は作られた神話でしかない
多元的連合体の形成 各文明圏が独立自治しつつ、緩やかに連合する形が理想
劉仲敬は中国出身の歴史学者、思想家、作家であり、東アジアの歴史・民族問題、政治思想に関する独自の視点で知られています。特に「中国史の再解釈」や「民族・国家のあり方」に関する論考で注目されており、中国の体制批判や分裂論、地域主義的な思想を持つことで話題を集めています。
活動拠点:主に海外(日本やアメリカなど)、インターネット上でも発言多数
主な思想・特徴
劉仲敬は、中国共産党や中華思想が唱える「中華民族=一体的な統一民族」という見方を強く批判しています。彼は、現代中国の「中華民族」という概念は後付けの政治的な神話であり、実際には多民族国家である中国は複数の異なる民族・文化圏の集合体だと考えています。
中国の広大な領域を複数の地域に分け、それぞれが独立や自治を持つべきだという考え方を支持しています。歴史的には、元・明・清などの王朝も「多民族連合体」であり、単一民族国家ではなかったと強調します。
3. 「諸夏(しょか)」論
彼が提唱する「諸夏主義」とは、中国全体を「複数の夏(文明圏や文化単位)」の集合体とみなし、これらが連合してきたという概念です。これにより、漢民族中心の大中華主義を相対化しています。
国家や民族は歴史的・文化的に流動的なものであり、固定的・普遍的なものではないと考えます。そのため、現在の国境や民族単位も時代と共に変わっていくものだという視点を持っています。
日本人にとって注目される点
日本の歴史教育では、中国は連綿と続く一つの大国というイメージが一般的ですが、劉仲敬はそれを「作られた神話」とみなします。これは、日本の歴史認識や中国理解を見直すきっかけになるかもしれません。
劉仲敬は、中国の中でも特に少数民族や独自文化を持つ地域の独立・自治問題に関心が深いです。たとえば琉球(沖縄)を「独自の民族圏」としてとらえ、中華民族の範囲に含める中国の主張を批判しています。これにより、日本の安全保障や地域情勢への示唆を与えています。
彼の思想は中国共産党の一党支配体制に対する批判も含み、中国の未来や分裂可能性についての議論を促しています。中国理解の深化に役立つ視点です。
発信方法と影響力
劉仲敬は動画やブログ、SNSを通じて思想を発信し、特に中国語圏や日本、台湾、香港の知識層に影響を与えています。
学問的には異端ともされますが、彼の自由な発想と大胆な主張は、若い世代やネットユーザーの間で支持を集めています。
簡単なまとめ
ポイント 内容
続きまして二つ目の基調演説はアジアを代表してあるお一方の特別な形の基調演説を準備させていただきました。韓国に直接来られようとされましたけれども様々な事情により直接来られることはできず書面で尊い演説を送ってくださいました。
二つ目の基調演説は第90,96,97,98代日本国内閣総理大臣を歴任された安倍晋三総理が担当してくださいます。皆様ご存知の通り安倍総理は現職9選の衆議院議員であられ90から98代まで内閣総理大臣を歴任され日本憲政史上最長の政権を率いられた現代日本を代表される政治指導者であられます。
韓半島平和統一太平洋文明圏平和文明を作り出そうとされる韓鶴子総裁 UPF の支持を首相 積極的に支持しておられ昨年第7回のTHINK TANK 希望前進大会でも尊い演説をございました。本日困難な状況下にも関わらず尊い演説を書面で送ってくださいました。私が代読させていただきます。
朝鮮半島の平和に向けて。元日本内閣総理大臣安倍晋三。世界平和サミット2022に御参席の皆様、日本国元内閣総理大臣安倍晋三でございます。このサミットの共同議長であるカンボジア王国のフンセン首相とパンギムン前国連事務総長に感謝いたします。そして UPF の創設者であらゆる韓鶴子総裁に感謝と敬意を表したいと思います。
世界同時的なコロナ禍の中での苦難が未だに続いております。その結果あらゆる次元の対立 分裂 紛争が顕在化し危険な状況を迎えていると言わなければなりません。この困難が結果として新たな次元の軍事力による威嚇と力による現状変更の危機を生み出していると言えるでしょう。
とりわけ朝鮮半島は周辺諸国の影響を嫌が応でも受けざるを得ない地政学的位置にございます。分断されている状況が影響の大きさを増幅いたします。私たちは今それぞれの国と地域の伝統と文化を重んじつつ自由と民主主義の価値を再考すべき時でありその価値がもたらす希望を信じなければならない時であると思います。
そして「Never despair」、「決してあきらめるな」と語ったウィンストン・チャーチルの言葉を共に胸に刻みたいと思います。特に私は希望という言葉に強い思いがございます。2015年4月29日米国連邦議会上下院病両院合同会議において「希望の同盟へ」と題する演説を行いました。苛烈な歴史を踏まえた両国の現在と未来を思い、そして未来の世界の未来のために最も必要な言葉として希望を訴えたかったのであります。
私は2002年9月17日平壌で行われた日朝首脳会談 日朝平壌宣言の調印の場におりました。その宣言には日朝間に横たわる諸問題の解決を踏まえて日朝国交成長実現し、日本は北朝鮮に経済協力支援を行う旨明記されております。諸問題とは核ミサイルそして拉致問題などでございます。
朝鮮半島の平和のために世界の指導者達が率直に話し合うことが必要であると信じます。率直でなければ信頼関係を作り出すことができません。このサミットが率直な議論の場となり朝鮮半島の平和への新たな道が開かれる契機となることを祈り私のメッセージといたします。ありがとうございました 。
[拍手]
皆様、韓国におきましては近くも遠い国日本と表現しますが今日の安倍総理の尊いスピーチを通して誰よりも韓半島平和統一を願っておられ支持してくださっておられるという事を知ることができました。尊い演説をくださった安倍首相に大きな感謝の拍手をお送りください。
[拍手]
(終)
お前が二度と東京に戻れませんように!!
お前が二度と東京に戻れませんように!!
お前が二度と東京に戻れませんように!!
俺は・お前が・嫌いだ
よくもまあそんなに腹の立つことが言えるもんだな
ああそうだよ、田舎に人はいねえよ ホントにいねえよな わかるよ
何もねえよな ホントに何もない ゴミだゴミ 文化、文明ってものがないよな
夜とかもさ、外をうろついてるのは動物か近所で有名なキチガイのおじさんくらいだ なぜか?まともな人間には出歩く動機がないからだ 店もねえ、コンビニもねえ、街灯すらまばらなところもある 暗くて何も見えねえ、人外魔境が夜になるたび顕現するんだよな そら外にもでんわ
ほんでまあそうするとひと気も感じられないよな
そうか、寂しいって感想になるんだなあ
俺は知らなかったよその感覚 夜に人間はいないもんだと思ってたからな むしろ都会が落ち着かない
なるほどなあ、俺は地獄生まれの人生メチャクチャ太郎ってことか! あながち間違ってねえなあ
田舎に住んでさ、結婚して子供作って、総児童数50人を切る小学校に入れてくれよ
すげえ良い人生をプレゼントできるぜ 何もない、文明圏を外れた場所で育った、空虚で、価値のない人間を生み出せる 最高だよ お前にピッタリ
ああ〜ムカつく ムカつくムカつくムカつく
どうしたらいいんだ?この気持ち
内面世界を十分に発達させた大人が飛び込んだって地獄なんだよ あれだ 夜にカーテンを開け放つと部屋が暗く感じられるやつだ
部屋の中は実際けっこう明るいはずなんだが、夜の暗さに呑まれちゃうんだよな そういうことなんすよ お前が東京で育んだ豊かな生活をよ、田舎の虚無が侵食するわけでしょう
正直ちょっと小気味がいい いや、ちょっとどころではない クソざまあみやがれ!
いやそれは別にいいんだけど、俺はガキの頃の話がしたいのだ 大人ですら敵わない田舎の絶望的な空虚に、子供の頃から浸って育った人間の抱えるどうしようもない憎悪に少しでも思いを馳せてくれ
わかるか?
お前にとっての地獄が俺にとっての産土、故郷、そのようなものなわけですよ
俺だって嫌いだよクソ田舎 でもまあそこで育ってしまい、脱出にも失敗した以上、心情としては肩入れしたい
お前はいいよなあ素直に自分の故郷を肯定できてさあ!俺にはできねえよそれ 東京のなにを否定できる?くせえ街だとか人心が荒廃してるだとか虚勢張るしかねえんだわ 田舎だって臭えし人間はカスなのにな
お前が憎い
なんとかならないか?なんとかなってくれよ
なんとかなってくれ!
「ワンダーウーマン」を見たので感想。と言うか考えたこととかのメモ。ネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので、見た人向けだと思います。フェミの話とかも出てくるんでそういうの苦手な人も回避でよろしくっす。
まず最初に、「ワンダーウーマン」、個人的にはそんなに評価高くない。少なくとも世間で(特に欧米で)いうほど大絶賛、大感動をすることはできなかった。これは映画を見終わったあとのファーストインプレッション。
「1800円という価格&2時間という投資に見合った体験できるのか?」という視点で自問したところ、その答えは「100点」なのだ。十分高評価だろう。いい加減な脳みそだなあ、オレ。とも思った。
なんでこんな評価のすれ違いが発生してしまったかというと、今年見たアメコミ系映画の先行2本、すなわち「レゴバットマン ザ・ムービー」と「スパイダーマン:ホームカミング」の評価が高すぎた、というのが原因であるらしい。前出の基準で言うと、「レゴバットマン」も「スパイダーマン ホームカミング」も200点くらいの評価なので、「ワンダーウーマン」はタイミング的に損をしてしまったのかもしれない。これが「ドクター・ストレンジ」のあとだったら感激できてたのに。
PC的なディレクション――批判に対して自覚的で先手を打って内容を適正に作っていこう――は最近のハリウッド映画では多かれ少なかれあるのだと思うけれど、そういう制約(どういってもある種の制約ではあるだろう)を逆手に取って笑いやネタにしたり(デッドプールにおける「女性も男同様にブン殴ったほうが公平じゃない?」)、むしろそこに正面から踏み込んでえぐり出す(スパーダーマン:ホームカミングの敵役ヴァルチャーはいま注目されている「見捨てられた白人労働者」)のにくらべ、ワンダーウーマンのそれは踏み込みが浅くどうしても「そういうルールなので設置しました」感が出てしまっている。
おそらく「ワンダーウーマン」という作品――つまり女性が戦場に出て戦うという作品を作るにあたって、制作側は、(フェミニズムを中心に)炎上の可能性を覚悟して作ったのだと思う。だから、予め潰せる問題点は潰しておいた。
それは主人公ダイアナの人物設定にも反映されていて、彼女は美女で、アマゾン族の王女で、めっちゃ強い。すごい跳躍力や筋力を持ってるし、噛み殺しの特殊能力を持つスーパーゴリラだ。だが多分そのままだと脳筋批判も巻き起こすだろうから、島で英才教育を受けてた設定になっている。作中でも数百の言語を操り、古典に詳しく、第一次世界大戦当時の最先端の化学式を読み取るなど知能面でも卓越している。(第一次世界大戦当時の)女性だからといって馬鹿ではないのだ!
しかし、だからこそというか、逆説的にというか、なんだかすごく残念な人物描写になってしまっている。
彼女は世間から隔絶された島で育ったので無垢だ……という設定なので、物語終盤になるまで「人間は悪神アレスに洗脳されているせいで地獄のような戦争をしているのだ。悪神アレスさえ倒せば人間は正義と慈悲に立ち返り戦争は即座に終わる」と信じ込んでいる。ここは物語のテーマなので、外せない重要な要素だ。
それはそうで、重要に間違いはないのだが、それってどうなのだろう。
言語というのは必ずその文化を含んでいる。外語を学んだことがある人ならわかると思うけれど、外語を学ぶというのはその言語を操る民族や地域の文化を学ぶということをニアリーイコールだ。文化も歴史も言語には含まれているからで、そこに理解無くしては言語の意味を理解するなんてできない。ましてや古典まで学んだダイアナが、人間の持つ二面性や、善悪といった内面を「全く理解してない」なんてのはありうるんだろうか? いやまあそこが物語のキーなわけだから、理解していないということにしないといけないのはわかるのだが、そういう描写にしてしまったせいで作品は別のメッセージを持ってしまった。
すなわち「知識も教育も倫理や人間についての理解の助けには全くならない。世界を良くするという意味では、教育は全く無意味である」というメッセージだ。多分これは随分うがった見方だろうし、制作側はそんなメッセージを発信するつもりはないだろう。けれど、物語上ここでねじれが生じているために、そう取られかねない「隙き」が生じてしまっている。批判される要素をなくそうと頑張っていた制作陣が、塞げなかった穴に見えてしまうのだ。こういうねじれが、どうも彼女をそこの浅い子供に見せてしまっている。
「ワンダーウーマン」は「(邦画では珍しくもないが)戦う女性主人公」「女性が監督した初めての大手スタジオによるスーパーヒーロー映画」という点で、フェミニズム界隈から賞賛を受けた。
けれど、個人的にはダイアナは女性ではないのだと思う。すくなくとも、フェミニズムが想定するような「解放されるべき女性」ではまだなくて、子供なのだ。まだ思春期すら迎えていないような子供で、世界に対して良く言えば無垢だし、シニカルに言えば無知で無責任だ。
ダイアナに強い好感を覚えられなかったのがこの映画の評価に加点が少ない理由だと、整理した今なら自覚できる。
多分、自分にとって不幸だったのはこの部分で、それは「ワンダーウーマン」を観るまえに「ウーマンリブ的な文脈でフェミニスト絶賛」みたいな評価を知ってしまった点だ。「そういうつもり」で見てしまったせいで捻じれが目についてしまった。
しかし、見終わったあとに思い返してみると、魅力的な部分がいくつもある映画だ。その最大のものがアメリカ外征軍大尉のスティーブ・トレバーである。
彼はドイツ軍をスパイした結果恐るべき毒ガス計画を知り、逃亡の最中に絶海の孤島アマゾン島に漂着し、主人公ダイアナを「外の世界」に連れ出す役目をする。無垢な美女ダイアナのエスコート役であり物語最終局面まで彼女を支えて導き続ける。
ヌードシーンがあったりもするので、女性向けの眼福要素も担当させられたイケメン俳優だと思っていたのだ。二回もイケメンって言ってしまったよ。
彼は優秀な軍人でありパイロットなのだが当然人間なので、スーパーヒーローで神の子であるダイアナに比べたら喧嘩においてはまったく弱い(軍人として適正に強くはあると思う)。おまけに非文明圏であるアマゾン島では虜囚に近い扱いも受けていたし、さらにいえば彼はアメリカ軍大尉であり、物語中盤の舞台イギリス(&イギリス議会&イギリス軍)では大きな権力を持っているわけでもない。上司に対しては愛想笑いを浮かべたり、自分の意見をひっこめたりもする。
物語中盤、未知の世界である外界に出たダイアナは完全にお上りさん状態であり、大都会ロンドンにおいて常識を知らないことから、スティーヴに迷惑をかける。それにたいしてスティーブはなだめたり、すかしたりしてダイアナに行動を抑制しようとする(そして失敗する)。スティーブはダイアナに「外の世界の常識や考え」を事細かに説明して理解を得ようとはせず、断念する。命の恩人ではあるし天下無双の戦闘能力を持ってはいるけれど、「面倒くさい子供」でしかないダイアナに呆れているように見えることもある。
こうやって説明すると際立つけれど、スティーブはイケメンが売りなだけのダイアナの介添に見えていた。
しかし、上映後に振り返ってみるとこの映画の中心はスティーブだと思う。
ド派手なCGバトルアクションとか、世間のフェミ的な評価を全部取っ払って、個人的に「ワンダーウーマン」の感想を述べるならば、「ワンダーウーマンはスティーブの映画」なのだ。
全般的に人物の内面描写が浅いきらいのあるこの映画だが、スティーブに関しては脚本も俳優も素晴らしい仕事をしている。
彼は心の中にロールを持っている男だ。それは「善き男」であり「善き大人」であり、おそらくだけど「善きアメリカ人」であり「善き隣人」だ。彼はそういうふうに生きたいのだ。正しさや信念というよりも、自分の中に理想像、ロールモデルがあると表現したほうがしっくりくるのがスティーブである。
彼が軍に身を投じたのは、混迷続く世界情勢の中で、善きアメリカ人として社会に奉仕しようとした時、そのモデルが軍人だったからである。今の価値観で言えばもちろん異論はたくさんあるだろうけれど、その当時の常識で言えばそれは愛国心であったし、善き市民の善き行動だった。
ドイツ軍に密偵した結果、彼は恐るべきマスタードガスの開発と、それが講和間近のイギリス軍へ向けられていることを知ってしまう。彼はこの情報を持ち帰るために命を捨てるような危険を犯す。それもまた、彼の中にある「それが善き男の行動」だからだ。
その過程でダイアナに命を救われ、彼女の「外の世界の戦争を止めたい」という希望を叶えるためにも、一緒にイギリスまで情報を持ち帰ることにする。
しかし、イギリスにそれを報告したが、結果ははかばかしくない。講和が間近に迫ったイギリス軍は、ドイツ軍(の一部)に災厄的な行動があったとしても全面攻勢には移りたくない。スティーブの情報は事実上握りつぶされる。
彼はここで彼自身の行動規範である「善き人」を曲げられる。軍の階級差という世俗の権力構造のせいで、彼がすべきだと信じる行為を行うことができない。
講和のためとは言え、前線舞台をマスタードガスの脅威の前に放り出してよいのか? 良いはずはないが、議会や政府の決定に従うのも「善き国民」の義務ではあるのだ。
でも隣には精神的に子供のダイアナがいて「ねえなんでなんで? なんで正義しないの? まさかここでやめるわけ? 処す? 処そうか?」という視線で見てくる。彼は、その結果、軍の命令を無視して、私費で(というかボランティアのつもりだった?)傭兵を雇い前線に向かう決意をする。彼は心の中にある「善き人」の指し示すところに従ったのだ。ダイアナがあんまりにも無垢なので引っ込みがつかなくなったという側面があったにせよ。
前線に向かい、血みどろの後背地を抜けて塹壕にたどり着き、取り残された村をダイアナの神話的な能力にも助けられて開放して、ダイアナとスティーブの関係は接近する。男女間の性愛的な意味での愛情もあったような描写だったけれど、個人的にはスティーブの父性も強く感じた。その父性というのは、子供でしかないダイアナに「善き大人」を見せるというものだ。戦争なんて醜悪なものなのだけれど、それだけではないということ、世界には「善き隣人」の「善き努力」もあるということを示したかったように見えた。孤島から世界に連れ出した人間として、世界に失望してほしくなかったのかもしれない。
終盤。マスタードガスの大量生産はすでに完了しており、その暴挙を止めるために一行は秘密基地に忍び込む。ダイアナはその中で、アレスの化身だと思われるドイツ軍ルーデンドルフ総監を倒すことに成功する。ダイアナは「これで悪神アレスの洗脳は溶けて戦争は終了する!」と歓喜するが、兵士たちは戦闘をやめない。殺戮の準備を辞めない兵士にダイアナはパニック状態になる。ダイアナにとっては今まで信じてきた世界観が崩れ去った瞬間なのだ。
そのダイアナに向かって、スティーブは今まで何度も説明しようとしてしきれなかったことを告げることになる。
それは「この戦争は人間が開始して人間が拡大させたものなんだ。神はいない。僕たちの責任だ」ということだ。その告白はとても辛い。「善き男」として生きたかったスティーブは、まったく「善き男」ではなかった。戦争をしちゃってるのだから極悪人なのだ。しかし、スティーブは「この戦争は僕達の罪なのだ」ということを認める。なぜなら、戦争の責任を誰かに転嫁するのは、戦争を始めるよりも更に恥ずべきことだからだ。「善き男」として彼は、世界の醜さの責任を取らなければいけないと決意する。
スティーブとダイアナの間にあったものは多分とても複雑で、男女でもあったし、父と娘でもあったと思う。でもその一部には神と人間というものもあった。
彼女の戦闘能力があまりにも隔絶してたからスティーブもその視点を持たざるを得なかったのだろう。
ダイアナの考えは「神が神の邪悪を振りまいたせいで人間が迷惑をしている」から「神の使命を持つ私が人間を救う」というものなわけだけれど、スティーブはこれに「善き人間」としてノーを叩きつける。ダイアナの考えはある種のパターナリズムだが、スティーブの答えはそこからの脱却だった。
神々の戦いは神々であるアレスとゼウスの娘ダイアナが決着をつけるだろうし、人間であるスティーブはそこには関与することができない。
しかし人間の始めた戦争であり、人間の悪意であるマスタードガスは人間であるスティーブが止めなければならない。筋としてそれが正しい。
ダイアナの戦闘能力やスティーブたちの状況を考え合わせると、彼らはここで戦闘を放棄すれば逃げて安全に暮らすことは十分に可能だったように見える。その場合はもちろんマスタードガスで前線の部隊は凄惨なことになるのだけれど、倫理的に考えてスティーブが彼らを救う(その結果命を落とす)絶対的な義務があったわけではない。戦争の悲惨すべてを、個人であるスティーブが背負う必要はないからだ。
スティーブが命をかけた動機として、父(先行者)として娘(後続)に「この醜悪な外の世界にも善はあるのだ」という事を示したかったのか、人間として神に「あなただけにすべてを背負わせない。人間は弱いけれどそれでも自分たちのしでかした行為の責任は取る」ということを示したかったのか、それとも男として女に「俺も戦う」といいたかったのか、それはわからない(そこが返ってスティーブという男のテーマとしてよかったと思う。彼の愛情には名前がつけられない)。
けれど、スティーブは「自分の戦い」として今まさに離陸していこうとする毒ガス満載の爆撃機を止めるために飛び出す。そして乗り込み、爆弾を抱えて、前線を救って、結果としてダイアナを残して死ぬ。
こうやって思い直してみると、中盤、ロンドンの街で常識知らずにうろつくダイアナに手を焼いていたのも、「善き大人」として子育てに苦労してたんだなあ、と思える。
スティーブは大尉だからおそらくエリートなんだろうけれど、まだ若いし、それ以前にすべての人間がそうであるように、不完全で未熟だ。しかしそうであるからこそ、彼には「こんな存在でありたい」という理想像があった。そして常にそうであろうと、努力していた。都会ではトラブルメーカーのダイアナを「善き保護者」として(オロオロしつつも新米の父親のように)導こうと思ってたし、最前線では「善き戦友」として肩を並べて戦った。戦火から救い出した村でチャーリーが歌ったときは「善き男」としてダイアナを熱っぽく見つめた。彼は最終的に、「惚れた美人との安全な生活」よりも自らの役割を優先した。自分自身の信じる正しさに殉じた。それは「善き人間」として神の前に立った時、他の誰でもなく自分が、人間すべての代表として神に「人間の誠実」を見せるべきだと思ったからだ。
それは上野千鶴子あたりの言葉を借りると「男性の安っぽいヒロイズム」であり「戦争に興ずる幼児性」なのかもしれないけれど、物語としてみるとスティーブの人物描写はこの映画の中で一番複雑で深みがあった。魅力的だった。
そんなことを考えると、「ワンダーウーマン」はウーマンリブ的な価値観の映画というよりも、男性的な価値観の、そして「神(あるいは超越的な力を持つスーパーヒーロー)の前に立った『善き人間』の覚悟と誠意」の映画だと思う。そして、そこがこの映画の美点だと思える。