はてなキーワード: 技芸とは
有安さんや小林さんだけじゃなくて、廣田さんや伊藤千由李さんや栗本柚希さんや川瀬あやめさん、それに柏木ひなたさんといい、スターダストの特にアイドル部門は歌が上手い人にとってものすごい居づらい環境で続けにくい環境なんだなと思う。
川上さんとか田口さんとかが、事務所としてそういう所を重視していないんだろうな。
まぁ、歌が上手くても売り上げに繋がらなければ事務所として囲っておく意味がないですから、ということですかね。
そういうスターダストのアイドル部門の中でも私立恵比寿中学(以下えびちゅう)ってかなり特殊な存在だったなと思っている。
6人時代、特に柏木さんと小林さんを支柱として「驚異的に」歌が上手いグループを構築してきた。
まず、ユニゾンが綺麗。これはもはや今のえびちゅうには感じないことだ。
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音程というのは不思議なもので、音程が正しい人がいっぱいいるグループの中に入るとそれまでおかしかった人も正しくなっていき、逆もまた起きる。元々正しかったのに周囲に影響されておかしくなる。
2つの音程が「合ってない」というのは、音波合成によるゆらぎの発生を感じることだ。
周波数f1とf2の2つが合ってない場合、これは(f2-f1)の強度の変動が発生し、音波合成によるうねりが出る。f1とf2が同じ値であればうねりは0になる。高校物理。
近藤譲は「オリエント・オリエンテーション」という曲を作ったが、これは同種楽器2本によるユニゾンの音楽だ。たしか初演はハープ2台だったが、CDとしてリリースされているものにアンサンブル・ノマドが演奏するフルート2本バージョンがある。
これを聴くと「音程が合ってる」場合の響きと「音程が合ってない」場合の響きの違いを明確に理解することができる。
クラシック音楽の一つの面白いところは、超精密に音程が合わせられる人たちが、人間の不安や失望を表現するためにあえて音程をズラしてきたりするところだったりする。
またユニゾンの「音」を考える場合にはサスティン音(主成分)の音程だけでなくアタック(音の鳴る始め方)やリリース(音の消し方)の強度や長さ、柔らかさ、それに歌の場合は全く同じ音程でも口角が上がってるかそうでないかで明るい音だったり暗い音だったり様々な表現ポイントがあってどう構成されるかと耳を使う。音程が良ければ全ていいという話でもない。
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THE FIRST TAKEの「なないろ」を聴いた時、なんて綺麗なアンサンブルなんだと感動したことを覚えている。特に特筆してユニゾンが美しい。「話しようよ」の「よ」の伸ばしに何のうねりも感じない。針の穴に一発で糸をすっと通すような心地よい響きを、あの環境の中で何ら不自由なくやり遂げている。そのだいぶ高度な技芸の中にきちんと情景描写がある。空の高さが見える。このレベルで「美しい」と感じれる歌ができるグループが他にいるなら教えて欲しい。
これがえびちゅうに唯一無二に感じていたことで、それを藤井さんは綺麗にぶっ壊してくれて、だいぶ心が折れる。志賀さんがどう舵を切るつもりなのかは知らないけど。(どちらかというと壊れた後を託されてる側面もあるから同情する所もある。)
柏木さんがいなくなったことで、えびちゅうの姉メンの中でさえも明確に音程が合わないことが多くなった。おそらく小林さんがいなくなったことで、その傾向はもっと悪化するだろう。
まぁ、新体制ライブGOLDEN EIGHT -new again-(以下各曲の感想はこのライブに基づく)の「トレンディーガール」サビ後半部分あたり、なんかちょっと歌が上手い人のカラオケを聞いてるくらいに感じちゃうのは、恐らく妹メンはplaylistという全体的に荷が重いアルバム楽曲について一つ一つのフレーズの処理の仕方をそこまで綿密に検討できないまま舞台に立ってるのだろうから、それはどちらかというと可哀想なのかもしれないとさえ思ったりもするが。
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中山さんはオーケストラにおけるシンバルみたいな存在で、平時がどうこうよりもブレークや盛り上がりのところで「ドンッ」と大きなインパクトをぶん投げると「きちんと自分の仕事を全うしているなー。良い。」って思う。それに、たぶん今が中山さんの完成形だと感じる。「靴紐とファンファーレ」の冒頭はシンプルに「よく頑張りました」という感想。
仲村さんは不思議な人で、まじめに歌おうとすればするほど顔も真顔になっていくし、情景感も色彩感も消え失せていく。これを「歌が上手い」に分類するのは抵抗感がある。「SCHOOL DAYS」の小林さんから受け継いだオチサビの特に「さぁ」の部分も、本当にこれが仲村さんがやりたい音楽なのか?と疑問にさえ思った。空洞感。
桜井さんはテクニカルには歌が上手い。しかしそこに指向が向きすぎていて表現力が伸びてきていない。「はみだせGirls」の冒頭みたいに、桜井さんの歌と真山さんの歌が直接並ぶとその表現力の実力差がまだ圧倒的だなと感じてしまう。
だから、仲村さんの歌は桜井さんの歌にかなり強く影響を受けているように思えるが、それは悪い意味でも影響を受けてるように感じている。
そんな真山さんも喉と戦ってる感じがまだずっと続きますね。
前出の「はみだせGirls」の途中真山さんソロになる所、部分的に音程が上振れしてて特に「いいじゃん」あたりが顕著。安本さんとのデュオの「明日」、冒頭の下ハモりが全体的に若干低い。など、昔よりその内容にいろいろ気になる点が多い。そのブレ方は、柏木さんや小林さんがいなくなったことに対してインパクトが大きそうだなと予想している。でも歌の中の景色の描き方はやっぱり素敵。
桜井さんと完全に対極的に見えるのが風見さん。「歌が上手い」というほどではないが、その歌の中身にくそ真面目に音楽と向き合ってる性格がにじみ出てるので、好感度は高い。ニコニコしている率が圧倒的に高いのが若干の不安感はあるが、「シングルTONEでお願い」あたりは難関曲を精一杯理解しようと努めてきた結果が出ていて良い。
その「シングルTONEでお願い」のユニゾンの合わなさっぷりは結構激しめだが。
安本さんは安定してますね。何があっても動じないし自分の表現を突き通している感じはある。「ここの音程変だな」って感じることもほぼ無い。ハモる時の相手の歌に合わせていく感じも良い。さすが元祖ボーカロイド。
真山さんも安本さんも「日進月歩」になってくると、この曲の特徴的なひんやりした温もりの心地よさが伝わってきてさすがだなーと思う。他のメンバーの歌にはない。
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えびちゅうに対しては以前に「唯一無二だな」と感じていたことが消えてしまったので、これからこのグループのどこにそれを感じていくか、が個人的に課題に感じる。
それとよく分からなかったのがIndigo Hour楽曲がほとんど無かった点。Knock you outだけかな。
小林さんの卒業はいいとして、GOLDEN EIGHTのほうからもそれがほぼ除外されたのはどのように理解すべきか。コンセプトを大幅に変えたのにそれを封印したのか。
(明らかに他人の著作物に寄せている場合、金銭が絡む、自作発言はNG、同様に手書きであろうとトレパクや同好の士へのシェアを超えた同人ゴロはNGと考える)
こんどは「修練」の定義を調べると「精神・技芸などを、みがききたえること」とのこと。
プロンプトを仮に修練の対象とみなすならばアイコン絵がぱっと見で指が6本ある絵の時点でみがききたえられていないので充分「修練」されておらず「芸」にあたらず、芸を祀る神社としては不適切である。
エロ自体が悪いかどうかについては神道では天岩戸のくだりなどからみるにエロ自体を悪という立場に置いてはいない。
ただし「狙っていなくて片側だけ服の境目が溶けてる」ようなエロイラストは上述の理論に則って決して芸術ではないため、それを良しとするのは芸事を祀る集団として決定的な自己矛盾をしている。
芸術に相当するエロならよいはずである。つまり、三峯徹である。間違いなく弛まぬ努力を続ける三峯徹にたいして「修練」が足りないと言えることはなく、ある意味で三峯徹という芸術であると認められてもおり、また、一部では漫画誌の守り神とする信仰が生まれており適切な対象ではなかろうか。
エレキギター、歌、ダンス、絵画、演技…これらの活動に共通していることは、プロアマ問わず
「やりたいからやっている」
ということだろう。
その意味で、表現のレベルや活動に対する考えは千差万別なれど、
「志の低い人間は一人もいない」
と言える。
だからレベルや考え方の壁を超えて同好の士として、更には仲間になれる可能性も、少なからずあるわけだ。
もちろん、どの活動だってキレイなことばかりじゃないのは百も承知なつもり。
どんなに頑張っても「つまらない」「ダサい」の一言で切り捨てられることは全然珍しくないだろうし、妬み僻みみたいな話だって無いわけ無いと思う。
でも好きだから続ける、というかやめられない。
それだけで本当に素敵だと思うし、これ以上ないくらい輝いている。
その眩しさが、心底羨ましい。
えー、そんな大げさな…と思うかもしれない。
しかし、幼少からスタートしないとプロになれないような一部の楽器やスポーツでは、この「志の高さ」が当たり前ではないという現実がある。
わかり易い例では、確かWBCだったと思うけど、野球のことが大大大大大好きなイチローが、松坂に厳しく対峙していた話がある。
要するにイチローがプロとかどうとか関係なく、辞めろと言われようが、仕事として続けられなくなろうが辞めない気満々なレベルで野球が好きなのに対し、松坂はむしろ「仕事でやってるだけ」感が前面に出すぎていたと。
つまり純粋な野球好きとして「それで満足するとか、本当に野球が好きならそうはならんやろ」「てか、なんで好きでもないのに野球やってんの?」と思わずにいられず、ああなったわけだ。
そりゃ筆者含め、仕事については適性があったから食うためにやっていることだし…と割り切っている人は珍しくないというか、それが大多数だと推測される。
なんなら「こんなことして食うなんてやめたい」くらい仕事を嫌っている人も普通にいるだろう。
そして幼少から始めないとプロになれない技芸というのは、親が子の適性とか素質を見込んで、外堀を埋める形でプロになるよう頑張る以外に道がないルートに追い込み、そこで生き残れた人だけがプロになる流れだ。
そこで本人の好きかどうかなんて気持ちは顧みられないというか、なんなら本人がどこかでその感覚をかなぐり捨てて取り組んできたまであるので、好きでやってる人を探すほうが多分難しい。
その意味では、松坂のスタンスも同じ社会人として、共感できる部分がないわけではない。
しかしながら、楽器やスポーツはそれを趣味としてやっている人がいて、そういう人からするとプロが一般の仕事と同じくらい「割り切って」やっている現実を目の当たりにすると、なんとも言えない気持ちになるわけで。
少なくとも自分は、自分が趣味にしている楽器についてその現実を知ったとき、そういう一部のプロの演奏なんて聴きたくもなくなったくらいには落胆させられた。
しかもそのきっかけが、全く適性が無いながら自分の演奏にどうしても納得できずレッスンを続け、気がつけば音大受験レベルの曲を弾けるくらいになったタイミングで、何人かの配信者の演奏を聴いて違和感を覚えたことからだったり。
無駄に耳が肥えてしまったせいなのか、「確かに上手いし弾けてるし、リスナーが大満足なのも間違いない。でも本当にその楽器が好きなら、そんな大味な音で絶対納得するはずがないんだけどな…」と感じてしまう演奏が散見されることに気づいたと。
そしてそれは全然気のせいじゃなく、「上手いけど、楽器が好きじゃない」人の出す音なんだと確信するまで、そう時間はかからなかった。
聞けばプロの現場で指揮者が最も苦労し、かつ演奏者と対立する点もまさにそこで、最悪「弾けて当たり前なのはいいけど、やっつけ仕事まで当たり前にしないで欲しいんだが」VS「なんだコイツ、何にも知らないくせに」みたいなギスギス展開も珍しくないと。
ちなみにアマチュアの出す音というのは、海外では"Funny Noise"と言われているらしい。
でもそれは決して侮蔑ではなく、むしろ好意や敬意を備えた意味なんだろうなーと、最近は思うようになった。
好きでやっていることは素晴らしい!というのを、こんな形で実感したくはなかったけどね。
「太りすぎていたエドワード7世がスーツの一番下のボタンを外したのがマナーとして定着した」という説は有名なのだが、少し怪しい。
ネットで確認できる信頼性の高い資料として、ハーディー・エイミス(高級紳士服ブランドのハーディー・エイミスの創業者)が王立技芸協会で1992年に行った講演の記録があるので読んでみよう。
https://www.jstor.org/stable/41378161
この中では、チョッキ(waistcoat)の一番下のボタンを留めない慣習の由来として「エドワード7世」説が挙げられている。
その一方で、三つボタンのスーツでも真ん中のボタン以外を留めてはいけないとは言っているが、理由は見た目だけだ。
だいたいの下ボタンは前裾のカーブラインにあるのだから留めるわけにはいかないという。
どうしてそんな場所にボタンを付けるのかというと、かつての乗馬着の名残だからだそうだ。
馬など競馬中継でしか見たことがない俺などは100年前の乗馬着の伝統など知ったことかと思ってしまうが、ハーディーは質疑応答の中でこう答えている。
選手権(せんしゅけん)あるいはチャンピオンシップ(championship)とは、ある競技の中で最も優れた個人あるいはチーム、即ち優勝者を決めるために行なわれる大会や試合のこと。また選手権は、それらの大会・試合の優勝者(チーム)に与えられる称号(タイトル)でもあり、その保持者はチャンピオン(選手権者)と称される(たとえばNHK杯テレビ将棋トーナメントやNHK杯テレビ囲碁トーナメント優勝者を表す「NHK杯選手権者」など)。
Wikipediaの一行目に書いてあるやろ。なんでその程度もググらんのや。
せんしゅ‐けん【選手権】
選手権【せんしゅけん】
辞書にもそのまんま書いてあるやんけ。
肉体を使った技芸であるセックスなんか、下手くそが我流でどれだけやっても上手くなるわけねー。
誰かちゃんと教えてくれよ。
性教育で実際の実装スキルに立ち入らない大人が多いのは奴らが下手くそだからなんじゃないのか?
数学ができない人が数学を知りたい人に有益なことが教えられるわけないだろ。
せめて動画にとって振り返りするとかPDCA回さないと無理だろ。
感想戦とか、歴史的に先達が築いてきたアイディアがいくらかあるのだから、可能な限り使えばいいじゃんね。
他人のセックス例とか相性ごとにパターン化してクライミングの技術みたいに「あそこではあのホールドにこの体位でヒールをかけた方がよかった」みたいな感じにレビューした動画とかあればいいのに。
そもそも遊郭もお歌や踊りなどの技芸を楽しみつつ、お料理たのしめるので性的不能のじいさんも通い詰めてたりする
つまり今でいうコン喫(コンセプトカフェ、メイドカフェやAKB喫茶)に「自由恋愛」がくっついてるのと大差ない店もあったぞ(地域にもよるが京都が特に男女とも技芸部分の手続きが長い)
セックス前提だけで説明しようというのは(たしかにそれが目的で行く人もいるし店もあったにしても)極端すぎるし思い込みではないか
あと「自由恋愛と銘打ったヤり目風俗店」であればまだ日本にもあるからな
禁止されてるはずだが金だけじゃなくて知能とか生活力で女を縛るようになっちまってるから禁止しづらい
他にも枕営業だの個人売春だの問題はたくさんあるのは大人はしってる
集英社も説明にこれつかってくれてええやで 使用料は女性の進学基金https://xn--kus49bd41h.net/archives/67540341.htmlに1億くらい寄付しといてくれればええやで いまのところトヨタしかやってへんけど
今から30年前、初めてインターネットに触れた人たちは新しい世界がやってきたと感動したことだろう
個人がメディアとなり情報を発信できる、それは信じられないくらい革命的なことだった
それから時が経ち誰もがインターネットに自然に親しむようになって、世の中はますます便利になった
そうしてもたらされた最終的な結果が、見た目こそ正義の世界だった
どんなに努力して技芸を磨いて発信をしても、顔の良い素人女の投稿にあっさり負けてしまう
インターネットによって解放されるかに思われた個人の可能性はしかし
見目麗しいルックスによってより強大な権力を手にしたインフルエンサーの台頭によって終わりを告げた
あの時、インターネットに理想郷を見出したオタクたちはもういない
有名人がテレビ画面の向こうにあるファンタジーのように認識できていた頃が懐かしい
今は市井の人々の中にさえ、胎児の頃から定められた遺伝的なルックス格差が決定的に存在するようになってしまった
最近、インターネットで「いかがでしたか?」という言葉を目にしますね!
「よく分からない!」という人も多いのでは?
そこで、今回はここ数年で見かけるようになった「いかがでしたか?」の意味、
流行ったきっかけ、使い方について、気になったので調べてみました!
皆さんが気になっているのは、
ということだと思います!
辞書で調べたところ、「いかが」という言葉は、次のような意味になるそうです。
《「いかにか」の音変化》
[形動][文][ナリ]成り行きや結果を危ぶむさまを表す。どのよう。「その考え方は如何なものか」
[副]
1 状態・意見などについてたずねるさま。どう。どのように。「御機嫌如何」「この件は如何いたしましょうか」
2 事の成り行きについて疑問をさしはさむ気持ちを表す。どう。どんなもの。「その案は如何かと思う」
3 相手を誘ったり、相手に勧めたりする気持ちを表す。どうですか。「お一つ如何」「あなたも御一緒に如何」
4 疑問を表す。どのように…か。
「―言ひやるべきと、近う居給ふかぎりのたまひあはせて」〈枕・三五〉
5 反語の意を表す。どうして…か。
「かくばかり逢ふ日の稀になる人を―つらしと思はざるべき」〈古今・物名〉
6 どう言ったらよいかわからないほどの意で、強調する気持ちを表す。どんなにまあ。さぞかし。
「かかる物に捨てられぬといはれむは、―いみじかるべき」〈落窪・二〉
びっくりです!(*_*)
やっぱり、「でし」にもいろいろな意味があるようですね!
《原題、(フランス)Le Disciple》ブールジェによる長編小説。1889年発表。当時のフランスの科学万能主義の傾向に一石を投じる内容で、物議をかもした。
日本だけでなく、遠くはなれた外国ともつながりがある言葉、ということでしょうか?_φ(・_・ふむふむ
《他の語の下に付いて複合語をつくるときは、一般に「だか」となる》
1 数量・金額などを合計したもの。収穫量や知行 (ちぎょう) の額、また金銭の総額など。「生産高」「石 (こく) 高」「現在高」
3 程度の高いこと。また、限度・限界。
㋑せいぜいのところ。→高 (たか) が
「二、三年は稽古だの何だのと何にもならねえ。十両が―だ」〈洒・通神蔵〉
4 物事の要点や、あらまし。大略。
㋐形や位置が高い意を表す。「高殿」「高照らす」
㋑音声が大きい意を表す。「高笑い」「高話」「高鳴る」
㋒りっぱだという意のほめことばとして用いる。「高知る」「高敷く」
実は、調べている時に気づいたことなのですが、
ここで紹介したもの以外にも、いろいろな「たか」の意味があることに気づきました。
みなさんも、興味があったらぜひ調べてみてください!
さて、ここまで、「いかが」「でし」「たか」の意味をご紹介してきました。
それは・・・
「?」の存在です!!
そもそも、この「?」ってなんて読むんでしょうか?
「?」に意味なんてあるんでしょうか?
実は!
「?」に意味はあるんです!
疑問符(ぎもんふ)は約物のひとつで、「?」のように書かれる。疑問を表し、疑問を表す対象の後に置かれる。なお、耳垂れ(みみだれ)、クエスチョンマーク(英: question mark、クエッションマーク)、インテロゲーションマーク(英: interrogation mark)また、俗にははてなマークなどとも呼ばれる。
一般には、疑問文の最後に、終止符(マルやピリオド)に換えて置かれる。このため、疑問符は文の終わりをも示す。ただし、しばしば文の途中の疑問を表したい単語(不明確なことなど)の直後に置かれる。この場合、括弧で囲むことが多い。
なるほど!という感じですね!
「いかが」「でし」「たか」、そして、「?」の意味をご紹介してきたのですが・・・
みなさんが気になっているのは、やはり
ということですよね!
増田も、この「いかがでしたか?」という言葉を辞書で調べてみたのですが・・・
残念ながら見つかりませんでした。
辞書には載っていないようです。
まだ辞書にも載っていないような、かなり新しい言葉なのかもしれませんね。
「いかがでしたか?」の意味が載っている、なんてこともあるかも・・・?
しかし、いずれは「いかがでしたか?」の意味が分かる時が来るかもしれません!
まとめると、
ということになります!
昔オレがやらされたんだから、オマエもやれよ。
努力が足りないっていう精神論の土台になってる意味で現代では「積極的に廃止すべき」だとも思う。
ただ、オレの「要らない」ってのは、元増田の主張とは立ち位置が違う。
元増田の「人生を左右する受験に必須とするな」という主張には反論できるんだよね。聞いて欲しい。
高等学校学習指導要領をスタートにするのは同意してもらえると思う。
そうすると、古文漢文って「国語」の以下の6つの科目のうち2つにあたる。
だから、ブコメの「漢文には○○という効能がある」と言うのは全部ダメで、
それを言うなら「漢文」を「スプラトゥーン」に置き換えても同じ論立て出来るよな?ってなる。
その論立てだと反論になってないってのは良く分かる。
だって、スプラトゥーンも短期間でPDCAサイクルを学べ、さらに非言語コミュニケーションを通じて素早くチームでの立ち位置を明確にして、彼我の戦力差からどのように地形を利用するまでを、なんとゲームとして楽しく学ぶことが出来て現代社会を生き抜く必須技法が学べる、とも言えるわけであって。
オレが思うに、元増田は、「スプラトゥーンが受験科目に入っている世界で、それの意義に反発している」と同じなんだよね。
スプラトゥーンに意義があるのは判る。効能も確かにあるだろう、だがそれは受験科目に必須とすべきなのか?と言う。
とは言え、ゼロベースで積み上げ式で受験科目を考え直そう!という提言でも無かったわけだし、判り難いとも思う。
だから、何故に「漢文には○○という効能がある」というのがダメなのかを説明する必要がある。
高等学校学習指導要領における、国語の中の古典で謳われている効能で説得する必要がある。
そこを無視すると「歴史はイケメンを口説くのに必須」とかと同じになっちゃうんだもの。
そんなん教師は知ったこっちゃないし、オマエだけだろソレ、みたいなね。
その観点で学習指導要領を読むと、もうブコメの効能とか的外れも良いトコだよね。
古典Aは古典に親しむ態度さえ育てば、一部法律の古文っぽいのを読めるようになれなくても問題ないし、
古典Bは人生を豊かにする態度さえ育てば、読解能力が全くつかなかろうが関係ないんだよね。
本来問題にすべき古文漢文の話は、この学習指導要領における目標の部分であって
「態度育てるだけじゃダメじゃね」とか「態度こそが重要だ」みたいにならんとイカンわけよ。
そして、「古典に親しむ態度を育てるとか人生を豊かにする態度を、現代日本で人生を左右しかねない受験科目に加える意義とは?」みたいな話になって無きゃ全く話しにならんワケですよ。
オレは要らないと思ってるからそれは後述する。
ただなあ、元増田の「古文漢文が人生を左右しかねない学力試験に必須か?」には、オレは反論できる。
元増田も言っちゃってるじゃん。「"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない」って。
大学受験における入学試験、学力試験な。アレは何を計測しているの?
基本的には「高校卒業程度の学力があり、さらに追加で一定の学力があり、出来の良い方から入れたい」ってことだろ。
要は「高校で学んだはずのことを、より多く吸収できてれば良い」ってことだな。
大学本来の学力試験の意義から考えれば、高校でキチンと学んで基礎を身につけてきたかね?
知識人として育てる/育つに値する人物かね?って問われているわけだ。
「機会を与えられたら、余さず吸収できる人間か?」と問う学力試験において、高校で学んだはずの漢文が身について無きゃ、ほかも推して知るべし、と言われても仕方がない。
だから、高校の学習指導要領に定めがあり、高等学校卒業程度認定試験でも問われる学力を、大学の学力試験で確認するのは、合理性がある。
さて、高等学校学習指導要領に定まっている科目の全てが大学入試に要るわけじゃない。
保健体育、芸術、家庭とかね。チョロっと書いたけど、高等学校卒業程度認定試験をベースに軽重付けてるのが現状ってところだろう。
正直に言えば、ワリと古文漢文って入試では軽視されてるから、まあ比率としては現代では既にして小さくなってるとも言える。
古典に親しむとか人生を豊かにとか、いわゆる武家公家の伝統から来た明治の文化人みたいな教養を求めるのは、ちっと早いんじゃないかな、と。
「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」の頃からの残滓に見える、とも言える。
高い学識と深い教養を持った官僚と学者を生み出すために、高等教育を施す場所という意義は、既に失われてはいまいか、と。
だから、高等学校卒業程度認定試験から外すべきだと、オレは思う。
高等学校卒業認定試験が学習指導要領に定めのある全科目を試験していない以上、試験している科目は学力として重視していると考えるのが自然だ。
(大学入学資格検定の時にはあった家庭科が廃止されたのも、趣旨としては同じだろうし)
高校では親しみ、それは高校で学ぶ学力とは別だ、と明確にすべきだろう。
元増田の主張は、「古典(古文・漢文)を受験科目に加えるな」だった。
増田への反論は、『大学として「高校で学んだ学力を試験する」のであれば、国語から古典を除くのは不合理だ』になる。
オレの主張は、「古典を学力の一部と看做すのは現代ではそぐわないので、まずは高等学校卒業程度認定試験から外すべき」だ。
学習指導要領の古典の目標をみても(保健体育や芸術の目標に意味合いとして近いのに)学力に含めるのは、現代の高等教育の意義からするとズレがあると思う。
最終的には、芸術や地理歴史の科目として古典を分類し直すのが、筋論としては適切なように思う。
(論語を読むのは芸術だろう。漢文(訓読)を使ってきた長い歴史を理解するなら地理歴史だろう)
「法律文を読み下すため」とか「読解能力を上げるため」とか言うなら、まずは学習指導要領を改定するところからだろうと。
そうじゃない実務的な面でだ!現実を見ろ!というのであれば、
入試程度の古典の知識でその判定してるってマジで主張するつもりなの?とは思うなあ。
漢文の問題で法律文を読む適性を試験してますって真顔で言われたらその大学はお取り潰しで良いのではないでしょうか。
もちろん、古典に親しみ、人生を豊かにする態度すら持てないものが高等教育を受ける資格はない、という反論はありうる。
現代日本におけるトップクラスの実務家たる弁護士が、現代語の基礎たる古典程度追加で勉強して試験を突破できないのであれば、その学力には疑問符がつくので日本でしか通用しない教養であっても歴史的な意義から残すべきである、という主張もありうる。(科挙末期みたいになりそうだけど)
ただなあ、「漢文には○○っていう効能があるよ無知乙」みたいな主張は「スプラトゥーンには○○という効能があるので受験科目にすべき」ってのと同じだと思うよ?
増田日記だから正直に書くけど、今売られている日本の歌ものの音楽は、
・人間の声に聞こえない。歌が上手いんじゃなくて、レコーディングの技芸になっている。そのうえに、音声を加工している。いま依頼が集まっているクリエイターは、作家としての能力ではなくて、DAWの技能が高いだとか、制作費を出す側にとって扱いやすいだとか、そういった本質外の理由で登用されている。
・言語になっていない。メロディ先で無理に歌詞あわせて、さらにはメロディを崩壊させるような歌詞を書く奴がいる。
・作文を読んでいる。話し言葉ではない。何を云っているか判らない。
わざわざ録音音源を聴くのは、感動的な実演を聴きたいからだ。それなのに、売られているのは工業音声。エイベックスとかが出てきて音楽を使い棄てにした。けれどその前にそもそも、日本人には職人気質が好きな封建ギルド的勘違い野郎が多いので、演歌なんか技芸であって感動ではない。
感動的な実演を聴きたいのを辛抱して録音物で再生しているのに、買い切りではなくてストリーミング配信とか、売り手の都合の押し付けで、ボッている。
実演をライブで聴くのが理想だけれど、数万人とか集まって音響がクソなところで聞いても鑑賞なんて成り立たない。音楽鑑賞とは異なるものを売っているのだ。
ライブハウスなんかでも、オールスタンディングで押し寿司みたいに詰め込まれても鑑賞なんて成り立たない。そもそも飲酒しながら鑑賞しなきゃいけなくなるようなのが問題外。
けど、そもそも音楽が売れないのは今の日本人が貧困だから。カネもっている奴は暇がなく、時間を確保して人らしく生きたら所得がなくなる。カネもっていて払えるような有所得者の多くは、集中して鑑賞する余裕なんてなくて、「ながら」で聞いているか、そもそもまともに鑑賞する能力なんてなくて鑑賞とは別の原因で買っていたりすることすら少なくない。
まともに鑑賞するに堪えないようなもんを造っといて、単に数が売れたとかマスコミに露出が多かったとかいう理由で自慢してプロフィールに代表作として誰それに提供したとか書くの、恥を知れと思うね。
売れないからって媚び売ったり煽ったりして、クソなもののほうが売れるからクソ売って、ついにはクソであることの認識能力すら失った日本人は、もはや救われようがなく赦されないと考えられるのである。
売れないよ。鑑賞するに堪えないし。払うカネなんて無いか、聴く暇無いか。聴く時間の総量や、買う人の総数が少ないんだから、売上少ないだろ。業界物凄く小さくなっただろ。
記事では日陰茶屋事件という100年前の事件が取り上げられており、大逆事件で知られる大杉栄が
何股かけていて約束を破ったら刺された、とかいう話だったが、そんなのはどうでもよろしい。
話題は最近の不倫騒動に移り、昔と比べて女性が経済的な自由を得た現代でも不倫バッシングがあるが、
それは家制度を復活させようとする勢力のせいかもしれないという内容だった。
なるほど、女性史の研究者という立場からすると、あの騒動はそういう風に見えるものらしい。
いや、そんな面倒な話なんだろうか。
不倫バッシングについて私見を述べると、あれは単に結婚という契約を破ったことと、
それが今まで当人が作り上げてきたイメージと矛盾していることが問題とされたのであり、
家制度の維持というとこまで意識していた人は少数派だったとしか思えない。
ただ、一連の騒動では、キャラクター自体を売りにし、スポンサーから金をもらうタレントと、
本人がクズでもその成果物は別個に評価されうる人がいて、両者で受けるダメージに差がついてしまった。
そこはまあ同情の余地がある。
不倫が発覚したことで、結果的に女性の側が大きなダメージを受けたことは間違いない。
だが、そこに家制度というのは大して関係してこない。制度を破ったのは、男も女もお互い様だ。
あの場合、女がああいうキャラで売っていたから、裏切りの対価が高くついたというだけの話だ。
男だけが不当に守られたのではない。彼らは自分を守る術を持っていたのだ。
そもそも、男はキャラクターなんて漠然としたものでは、なかなかやっていけないのである。
そんなものでは評価も承認もされないから、わざわざ別の努力を積み上げなければならない。
己の技能が芸というレベルに達して、ようやく公共の電波に乗ることを認められる。
逆に、女というのは積み上げた技芸よりも、若さやキャラクターで世渡りしている部分がまだまだあって
(男の側も女の努力や才能を評価していないわけで、そこは大いに反省すべき点だ)、
だからこそ、それを失ったらどうしようもないというだけではないのか。
どうでもいいのに粘着www|そこの論点と全体の論点をすりかえる負け犬www|~など的外れをとちゃんと引用しなかったのはおまえだろwww「~など的外れを」が主語じゃないとか国語の授業受けてこいよ笑|俺の書き込みじゃなくて別ツリーの話だよね^^|ジョジョの引用としての使用?ちょっとなに言ってるかもはや意味不明^^| A=B=Cであると書いてないと認めるんだね^^|おまえの発言に論理性がないという話に答えてないぞ^^|文脈の話だぞ忘れたのかマヌケ^^|その文を指してるだけと何度言っても理解できない腐れ脳みそ^^http://anond.hatelabo.jp/20160410114004
お返事が無くなったから消したら発狂したバカがあれは勝ってた!とか言い出したので笑った
以下、ここまでの流れ
比喩は紛れも無く芸の一種だよ。わざの一種なわけだし。そういう自酔が透けて見える比喩ってキモがられるよ^^覚えとこうね^^
俺から言わせれば粘着しているお前こそがキモいよ
そもそもお前は俺が言った芸がない、頭が硬い、「粘着」キモいといったことに何も返さず、こっちの芸のことばかりぐちゃぐちゃ言ってる。残念ながら横なんだ^^
ネタの一種をマジとしか受け止められない硬直脳みそ俺のユーモアはいついかなるときも受け入れてもらえるに違いないという硬直脳みそマンがなにを言ってるんだ^^
じとうってなに? 自己陶酔のことかな。ちょっとこくご大丈夫なのかなこの人。自分に酔ってるの略だよ笑 おまえの比喩とおなじひとりよがりのレベルに合わせて使ってみたんだ笑
自己陶酔と一般認識を履き違えるとかほんとちょっと気持ち悪いです。一般認識がそうだという話と使ってるおまえが自分に酔ってるのが透けて見えてキモいレベルが低い比喩だって話が別だって分かってなにより^^
それと俺の言っているユーモアがだれにでも受け入れられるとか別に思ってないし、そう要求してもいないけど。じゃあキモがられても発狂せずに受け入れようか^^
ユーモアと思わしきものをストレートにしか解釈できない哀れな人なんだなあ、とは思ったよね。オナニーユーモアはキモがられても仕方ないのにストレートに受け取れないなんてアワレだ!とか一段上の文章を忘れてるマヌケなのかな笑 ちなみにこれより下のトラバはすべて別人の煽りだから笑 それともバカにありがちな自演トラバかな笑
「じすい」であれ「じとう」であれ、他の人は分かっていたというのはちょっとおかしいじゃないだろうか。だって俺意訳してるし。あ、もしかして他の人って俺も含んでる?読み方の話なんて誰もしてないよ^^おまえにトラバつけてる別人もわかってるよね^^
ちょっと何言ってるかわかんないです。日本語というか文法というか不自由な方なんですかね。おまえのキモい比喩が芸だと思ってるの?→比喩は芸だ!!!!→一般論とおまえのキモい比喩を同列にすんなよ
分かるところだけ拾うと、自分に酔ってる文言は元増田に一切含ませていないし、含んでると思わしき箇所もないのだけど。>自分に酔ってる文言は元増田に一切含ませていないし
キモい比喩を使ったあとにキモいと指摘されたら比喩は芸!とか言い逃れようとするバカは自覚できないって話??笑
芸云々の箇所を指してるとしたら芸の話が自己陶酔に該当するとは多分客観判断でもなされないんじゃ……?脳に雑菌が湧いてるからそう判断するんだよね芸の話が自己陶酔に該当するとは多分客観判断でもなされないんじ
ちょっとなに言ってるのかわかんないおそらく自分のキモいと指摘された部分を自覚できてないんじゃないかな
発狂してないし終始冷静に受け答えしてるけど?むしろ草生やして決め付けを多発させているお前のほうが発狂してるし。バカなトラバに延々と返事しまくってるキチガイじみた振る舞いをしておいて発狂してない!!とかもうね。草生やしてると発狂してるの論理性のなさにレッテル貼りとかもうね。
Tウィルスに感染してんのかなあ、って思っちゃうくらい。あーこれも比喩っすかwwwレベルたけぇwwwこれが芸www
ストレートに受け取れないなんて……? 俺そんなこと言ったっけ。ストレートに「しか」受け取れないのは脳筋だよね、と言った覚えはあるかなあ。あとお前が別人だとか、どうだっていいよ。雑菌がたくさん湧いてるんだなあ、と思ってるだけで。こくごの授業受けてればその二文字は省略だと理解できると思うよ^^ それとも神様の義務教育受けてないとそうなるのかな^^ 同一人物ではないという想像すらできないほど発狂してるバカがいるなぁと実感しただけだよ^^
それよりもお前が出した単語について
うん? 俺も読み方の話を主軸にしてないけど。意訳してるって文章に盛り込んでるじゃん。やっぱ日本語が不自由なんだなあ。可哀想に。
「じすい」であれ「じとう」であれ、
主軸でもないならこの文は必要なかったね^^こくごの授業で論点がボケる文は書かないようにと学ばなかったんだねわかるわかる^^
>意訳してるって文章に盛り込んでるじゃん。
うん、で?理由がなく文章を並べても相手には伝わらないよ??^^こくごの授業で(ry
すごく丁寧に解説すると、一般論として比喩は芸の一種か、と考えた場合、芸とは「人前で演じる特別のわざ」とあるわけだからまあ、芸の一種と考えられるわけ。俺「おまえのキモい比喩が芸だと思ってるの?」→おまえ「比喩は芸だ!!!!」→おれ「一般論とおまえのキモい比喩を同列にすんなよ、おまえのキモい比喩は芸でもなんでもない」→おまえ「比喩は芸だ!!」
主張の繰り返しとかもう白旗?つまんなーい頭が悪すぎてキチガイ煽りマンを演じるにも格が低すぎだよ~^^
自分に酔ってることとキモいという第三者の指摘、比喩が芸であるというこちらの言い分がごっちゃになっていて、Tウィルスの威力を実感できる内容だね。自分に酔っていることにしたいお前、ってことならまあそうだろうけど、それでどうしたのだろう。ごっちゃにしてるのはおまえじゃん。流れの説明を理解できない脳みそってすごいな~^^
ほらまたやってる。キモイと思った主観と一般認識である比喩の区別がついていない。自分と他人の区別がつかない病気ってあったよね。比喩が芸ではないとは俺は一度も言ってないからな^^主観と一般認識の区別がついてないマヌケで発達障害だという自己紹介乙でーす。神様の義務教育受けてきてないのかな?^^
トラバに延々と返事をしているお前も発狂してるという範疇に入ってしまうけどいいのか?>バカなトラバに延々と返事しまくってるキチガイじみた振る舞い
都合よくバカの部分を抜かしてるけどおまえがバカだということでいいのか?^^
草生やしてることを論拠としていないことは自明なんだけど、どうしてそこで論理性という言葉が出てくるのだろう。過不足のない文章を書くを学ばない証明乙でーす^^
国語の授業を受けていれば必要な接続詞を省くことはちょっと考えられないんだけど。お前のいった意味だと「ストレートに自分の言っていることを元増田が受け入れない」
しかの場合の話をしてると分かってるだろ 文脈という概念を学ばなかったのかマヌケ^^
こちら側が誤って表記したものを「教えてくれてありがとさん」という意図と共に一度応えているし、俺は応えてないんだが。証拠は?^^脳内空想で補完でもしてるのか?^^
主軸でもない代わりに前置きとして不適切ではないと思うけどね。まさに主軸でもないところを叩いて得意がる無意味な行動だと思うよ。分かってる云々の主軸の方へは反論してない自己紹介かな^^?
そして過不足がない文章ということなら、そのへんな顔文字も消さなくちゃいけないのでは。なぜ過不足が問題かというと誤解を招いたりするからね^^
「お前のキモい比喩」を一つの文言と捉えた場合、それを一般化するなという理由ならわからんでもないが、そもそも俺は最初から俺のルールを押し付けないことを宣言してるし、俺の比喩を一般化してお前に押し付けたいとはつゆとも思っていないわけだが。じゃあキモがられても発狂すんなマヌケ^^
その上で俺はそもそも「比喩」とは「芸」の一種であるとみなされる、と述べているのに、お前は「俺の述べた発言」=「芸」というすり替えを行っている。お前は「俺の述べた発言」=「芸」というすり替えを行っている。
「おまえのキモい比喩はレベルが低すぎて芸でもなんでもない」に対して「比喩は芸だ」という反論が成立するのはおまえの比喩が芸であるときでしかないぞ^^
おまえの比喩が芸ではないなら「おまえのキモい比喩は芸でもなんでもない」に対して「比喩は芸だ」というのはまさに個別例と一般認識を取り違えたただの的外れだ^^
馬鹿に理屈を説明しても馬鹿は意味を理解せずに馬鹿にする。無知であることは恐ろしい。「Aが起こりBが起こりCだと行動するバカってこうだよね~」と言ったら「AとBとCをごっちゃにするな!」と叫ぶバカの正当化はすごいな~^^
自分の馬鹿を自覚できない醜さについて考えこんでしまった。そうか、バカも大変なんだな。
比喩が芸ではないと言っていない、ということは、即ち比喩は芸かもしれないという多少の可能性は考慮するわけだよね。いや?比喩は芸だと思ってるよ?^^日本語能力がないとよくわかるな^^
じゃあ逆にそれをメタ的に返すけど、お前は自分の定義するところの馬鹿のままでいいの?別ツリーでさんざんやってる馬鹿がなにを言ってるんだ?^^あんなに長く続いてないぞ^^
なんだこりゃ……。「過不足ない文章を書く技術を学ばなかったという証明が、今ここでなされた」ではないの。やば。この人本物かもしれない。先に出た主題を主語化しただけでしょ^^まさに主軸でもないところを叩いて得意がる無意味な行動だと思うよ。
文脈……? ここに至って文脈化するほど筋書きが通った話の流れなんてあったか?先におまえがしかをつけて話した流れを踏まえて書かれた文章だぞ、それとも自分の文章も忘れるほどの痴呆だったのか^^
すまん、俺はお前を雑菌脳だといったが、むしろ最近良く見る不出来なTwitterのAI、それもボットレベルに思えてきたわ。「俺が」、「誤字脱字の修正わざわざありがとう」と「応えた」んだが、これなんか問題でもあんのか?いつどこで「俺が」、「誤字脱字の修正わざわざありがとう」と「応えた」んだ??^^
主軸については先だって俺が「ちゃんと意訳してる」部分に対して言ってることだったはずで、それ以前のお前のツッコミは「造語」に対する誤字指摘だったはず。
>意訳してるって文章に盛り込んでるじゃん。うん、で?理由がなく文章を並べても相手には伝わらないよ??^^こくごの授業で(ryと両方指摘し続ける俺に対して
こちら側が誤って表記したものを「教えてくれてありがとさん」という意図と共に一度応えているし、主軸でもない代わりに前置きとして不適切ではないと思うけどね。まさに主軸でもないところを叩いて得意がる無意味な行動だと思うよ。そして過不足がない文章ということなら、そのへんな顔文字も消さなくちゃいけないのでは。先に答えなくなったのはおまえだよ^^
そもそもまで立ち返れば、お前の指摘は「(増田の破綻した造語を)他の人はわかってたぞ」という事実無根の話でしかない。他のツリーでも理解してる人がいたし他のツリーでもおまえは推測可能だったなと指摘されたものを事実無根笑やはり痴呆だな笑
実際お前の性格に関してさっきまったく別のやつが顔文字に対するディスを入れてエントリをすぐに消していた。なんだかいまどき顔文字で冷静さを装うとか恥ずかしい、みたいな内容だったはず。お前の大好きな他人に勘違いされるから消したらどうだろう。ちょっとなに言ってるかわからないです^^文章をきちんと論理立ててつなげて話そうか^^
最初から発狂せずに淡々と受け答えしてるじゃありませんか。割と面白がりながら。それと「マヌケ」ってジョジョの台詞からかな。もうちょっと自分で考えたほうがいいような。キモいって指摘されて発狂しながら比喩は芸だ!とか的外れを繰り返すけど発狂してないのかじゃあ相当脳みそが腐ってらっしゃるんですね^^
すぐ漫画が思いつくとかよほど現実世界から離れてるんだろうな^^
俺のキモい比喩、という話はお前から見た場合そのように受け止められる、程度の話で一般化はできないかな。あと芸でも何でもない、という話に関して言えば、「芸」を調べると以下のように記されている。学問や武術・伝統芸能などの、修練によって身につけた特別の技能・技術。技芸。「―は一生」人前で演じる特別のわざ。演芸・曲芸など。とあり範疇としては2番に該当する。したがって俺が用いる比喩は一応芸の一種として考えられることになる。
比喩が芸だと俺は言い続けているんだが^^おまえの初潮だのTウィルスだのキモい比喩は芸にも当たらないと言ってるだけだぞ^^
ごめん日本語で。Aを起点としてBが派生し、それを承けてCという行動を取ると(意訳)。つまりお前の言いたいことはA=CであるからBもCであると言うのは暴論であると言いたいのだろうか。いや、普通にABCは分離して考えないと駄目でしょ。
A=Cってどういうこと?^^BもCってどういうこと?^^ABCが流れなのに分離していないと考えちゃう理由は?^^
そうだね、たいへんそうだね。
別ツリーって知ってる?^^に対して
それじゃお前も別ツリーの話題を持ち出しちゃ駄目でしょ。
それじゃの論理性がないぞやりなおし^^
過不足ない文章を書くことがこれらの引用の主題でしょ。じゃあ「文章を『書くを』学ばない」って完全に過不足を感じる文章に対して指摘するのは何ら問題がない、という話になるけど。こちらとしては首を傾げるばかり。
ちゃんと伝達は成功してるとおり文脈を理解しているヤツには理解出来てるからな^^
先におまえがしかをつけて話した流れを踏まえて書かれた文章だぞ、それとも自分の文章も忘れるほどの痴呆だったのか^^
ストレートにしか解釈できないほどお前の脳みそが雑菌に侵されている、という話でしょ。「しか」の解釈ならそうだけど。
だけどお前の言っていることはこうだよ。
オナニーユーモアはキモがられても仕方ないのにストレートに受け取れないなんてアワレだ!とか一段上の文章を忘れてるマヌケなのかな笑
ストレートに受け取れないなんて哀れだ……? 何いってんのこいつ気持ち悪い。勝手に台詞創作して文句いってきてるし。
実際問題として皮肉を皮肉で返すという技がないんだから、そりゃストレートすぎて脳筋馬鹿だと言われてもしょうがないじゃん。
ストレートに「しか」受け取れないのは脳筋だよね、と言った覚えはあるかなあ
おまえがしかをつけた文章を指すために省略して指摘しただけだろ。 それをスルーするために、しかがついてないから元通りじゃない、些末な嘲笑の言葉が違うからセリフを改ざんされた!!かよwww
えっ……お前ホントやばいわ。「俺が」「誤字った単語(しかもてめえの造語)に」「お前の指摘が入って」「わざわざ指摘してくれてどうも」つっただけで何も問題ないじゃんか。むしろお前の有利に働くことだぞ。まして変な造語を作ったことに俺は寛大だっただろ。
質問に答えろよ^^いつどこで”「俺が」、「誤字脱字の修正わざわざありがとう」と「応えた」”んだ??^^
主軸の話とは→造語の話→造語に対して誤字ってしまうこちら側&こちら側が造語意訳→そちらの、「単語に対する意訳が相手に伝わらないよ」、という頓珍漢な答え→先に答えなくなったのはお前(こちら)だよ、という意味の分からないトラバレス。
2つ論点があって主軸の方を先に答えなくなったのはおまえって話だよ^^ おまえの流れの説明意味不明すぎるからツリー見返して来い^^
ちょっと悪いんだけど、どこの誰こと?それと後半意味わからないんだけど。俺が推測可能だったって何?なんじゃそりゃ。おれは意訳したんだからそりゃ推測はできてたよね。だいぶ頭がおかしい。というかこいつが馬鹿すぎて俺の頭も混乱しそう。
他のツリーって言葉を理解できないのかな^^推測できてたなら俺の言うとおりじゃん^^
ちょっとなに言ってるかわからないです^^文章をきちんと論理立ててつなげて話そうか^^
に対して
いやこれ論理じゃなくて事実。お前の顔文字気持ち悪いって単発で書き込まれてたし。すぐ消えたけど。
って説明にもなってないぞ。↓やり直し。
実際お前の性格に関してさっきまったく別のやつが顔文字に対するディスを入れてエントリをすぐに消していた。なんだかいまどき顔文字で冷静さを装うとか恥ずかしい、みたいな内容だったはず。お前の大好きな他人に勘違いされるから消したらどうだろう。
「的外れを繰り返すけど」なにこれ。ほらまた破綻文章で馬鹿を晒してるし。「的はずれな言動を繰り返しているけど」でしょ。また相手が馬鹿だから意訳・翻訳しちゃったよ。
それとジョジョは一般的な作品として周知されつつあるから、指摘としては別に間違ってないと思うよ。
認知度は関係ないから^^すぐ漫画が浮かぶ現実世界と乖離したキモオタ臭がひどい。
お前にオリジナリティがないことだけは確かだし。
うんそう。比喩は芸。キモい表現かどうかはお前の勝手に決めたこと。
ダジャレwww これでわたしには文芸があると主張してるの?www
スベりまくってるのに「俺はクラスのムードメーカー!」と勘違いしてるイタい同級生思い出すわwww 周りから失笑されてるのに本人は芸があると思ってたのかなwww
流れってなんですか。ABCって流れの事だったんですかw 何のために記号解説したんですかw
「Aが起こりBが起こりCだと行動するバカってこうだよね~」とと書いてあるのに流れじゃないと思ってたんだ^^煽るだけのゴミでも知性がバレるぞ^^
女性自体が希少だったこともあるし、ネットにのめり込む女性は個性的で面白い人が多かった。
それが今や「暇な女子大生」以降はそういう存在は出てきてないと言えるだろう。
その理由は1つにはネットが一般化してリア充だらけになってしまったことだろう。
リア充だらけの場所で女性が面白いことをしたって、物笑いの種になるだけだ。
可愛い自撮りや恋愛ポエムと横並びの状態で、個性的で面白いことなんてしたくないだろう。
もう1つの理由は自撮りや飯テロなどの気軽な方法で承認が得られるようになったことだろう。
美味しそうなごはんを投稿するだけで承認が得られるのに、わざわざ凝った文章なんて書く必要ない。
自撮りを載せとけば「いいね!」が上乗せされるので、技芸を磨かれることもなくなった。
じゃあ、男性はなぜ個性的で面白い人が生き残っているかというと、男の自撮りなんかじゃ承認が得られないからだ。
人々が自分自身で立身し、その財産を管理し、その事業を盛んにして、そうすることでその一生を全うすることができるのはなぜかというと、それはほかでもない、身を修め(=自分の行いや心を整え正し)、知識を広め、才能や技芸を伸ばすことによるのである。そうして、その、身を修め(=自分の行いや心を整え正し)、知識を開き、才能や技芸を伸ばすことは、学問によらなければ不可能である。これが学校を設置してある理由であって、日常普段の行い、言葉づかいや書道・算数を始めとして、役人・農民・商人・様々な職人・技芸に携わる人、及び法律・政治・天文・医療等に至るまで、およそ人の営むもので学問が関係しないものはない。人はその才能のあるところに応じて勉め励んで学問に従事し、そうして初めて自分の生活を整え、資産をつくり、事業を盛んにすることができるであろう。そうであるから、学問は立身のための資本ともいうべきものであって、人たるものは、誰が学問をしないでよいということがあろうか(=人間誰しもが皆、学ばなければならないのである)。
あの、路頭に迷い、飢餓に陥り、家を破産させ、わが身を滅ぼすような人たちは、結局は学問をしなかったことによって、このような(結果をもたらす)過ちを生じたのである。
これまで学校が設けられてから長い年月が経っているとはいっても、場合によってはそのやり方が正しくないことから人はその方向を誤り、学問は武士階級以上の人に関することと考えて、農業・工業・商業に従事する人、及び女性や子どもに至っては、学問を自分たちとは関係のないものとし、学問がどういうものであるかをわきまえていない。また、武士階級以上の人で稀に学問する者があっても、どうかすると学問は国家のためにするのだと言い、学問が立身の基礎であることを知らずに、
ある者は文章を暗記するなど瑣末なことに走ったり、空理(=実際とかけ離れた理論)や虚談(=事実に基づかない話)に陥り、その言っている論は高尚であるかのように見えるけれども、これを実際に自分自身が行い、実際に実施してみることができないものが、少なくない。
これはつまり、長い間従ってきた昔からの悪い習わしであって、文明が行き渡らず、才能と技芸が伸びないために、貧乏な者や破産する者、家を失う者といった連中が多い理由である。こういうわけで、人たるものは学問をしなければならないのである。学問を学ぶためには、当然その趣旨を誤ってはならない。このために、このたび文部省で学制を定め、順を追って教則を改正し布告していくので、今から以後、一般の人民(華族・士族・卒族・農民・職人・商人及び女性や子ども)は、必ず村に学ばない家が一軒もなく、家には学ばない人が一人もいないようにしようとするのである。人の父兄である者は、よくこの趣旨を十分認識し、その子弟を慈しみ育てる情を厚くし、その子弟を必ず学校に通わせるようにしなければならないのである。高度の学問に至っては、その人の才能に任せるといっても、幼い子弟は男女の別なく、小学校に学ばせないのは、その父兄の手落ちであることになること。
ただし、これまで長い間従ってきた悪い習慣であるところの学問は武士階級以上の人のことだとすること、そして学問は国家のためにすることだと言うことによって、学費及びその衣類や食事の費用に至るまで、多くを官に頼り、これを給付してくれるのでなければ学ばないと思い、一生を自分から駄目にしてしまう者が少なくない。これは皆惑っていることの甚しいものである。今から以後、これらの弊害を改め、一般の人民は他の事を投げ捨てて自分から奮って必ず学問に(自分自身を)従事させるよう心得るべきであること。
右の通り仰せ出だされましたので、地方官において、片田舎の身分の低い人民に至るまで漏らすことのないよう、適宜、(学制の)意味を説き明かしてやり、詳しく細かく申し諭し、文部省規則に従い、学問が普及致しますよう、方法を設けて施行すべきであること。