はてなキーワード: 内向的とは
心理学で「科学的に」って言うと、個性を無視した平均主義でしかないし、プラグマティズム的な視点も完全に抜けてるんだよね。
SNSは他人に影響を与えるための道具ではなく、自己の内面を観測して整合性を取る装置として使う。他人が発信して社会の森を動かす中で、自分は観測者として内面を記録し、理解する。この二面性が情報空間全体の平衡を保つ。
下記2つの文章が似ているなと思ってChatGPTに解析してもらった
https://anond.hatelabo.jp/20251004160446
https://anond.hatelabo.jp/20251001142227
どちらも「日本のIT界隈・技術者」について否定的・批判的に語る強い論調が共通しています。
・「日本のIT技術者のレベルが低い」など、欠点・未熟さを強調。
・「他者不在」や「価値観の乖離」など、内向的・自閉的な態度を問題視。
両者とも “日本(国内)” と “海外・世界” を対比軸にして話を進めています。
・最初の文:著者が海外で働いた経験をもとに、「予言が当たっている」ことを語る。
・二つ目の文:東欧・イランなど他国のIT成長を引き合いに出しながら、日本のITが遅れていると論じる。
両者は「意識高い系」「他責主義/他責思想」といった皮肉めいた言葉を使い、読者(IT界隈内)に向けた批判を込めています。
・2つ目の記事:タイトルにも “意識高いITエンジニアたち” という語が出てくる。
・最初の記事:自身の世代・業界経験をもとに、「内輪のノリ」「他者不在」といった言葉を使って語る。
どちらも「過去の経験(2000年代あたり)」を参照しながら、「今」「これから」の問題を語る文脈が入っています。
・二つ目の記事:2008年あたりまでの技術事情を振り返って論じる。
語られているのは「見せかけ・主張」よりも、「実力」「基盤(数学・理論・ドキュメント力など)」を問う視点。
・最初の記事:「ドキュメント力/会話・国語能力が重要」などの主張。
・二つ目の記事:「情報工学・電子工学などの基礎知識が無いと話にならない」などと述べる。
どちらも、ある種の閉じたコミュニティ論(内輪で完結している/他者を拒んでいる)を批判する要素があります。
・最初の記事:「他者不在」「内輪に籠ったまま高め合う」など。
・二つ目の記事:「一般層との乖離」「自分たちのノリが一般に通じない」など
両方の文章から「日本のITエンジニア」に対するコンプレックス的な感情がにじんでいるように読めます。整理するとこんな感じです。
海外経験を引き合いに出し「自分は外を知っている」という立場を強調するのも、ある種の優位性を示したい心理が透けています。これは、裏返すと「日本のIT界隈に属することへの劣等感」や「そこに埋もれたくない気持ち」が背景にある可能性があります。
両方とも「2000年代の経験」「海外との比較」を持ち出しつつ、現役の若手や国内に残る人たちへの苛立ちを強く書いています。
「俺たちの世代はこうだったのに、今はこうだ」という口調は、自分の立場が相対的に弱くなったり評価されにくくなったりすることへの防衛反応のようにも読めます。
日本のエンジニアコミュニティを「内輪ノリ」「他責主義」「基礎知識不足」と切り捨てることで、自分の価値観(基礎力重視、外の世界を知っている)を相対的に際立たせている。
これは「自分は同じ土俵にいない」と示すための心理的距離取り=一種のコンプレックスの表れと言えます。
まとめ
両文からは、「日本のIT界隈に属しながらも、そこに居場所を見いだせない気持ち」「海外経験や基礎力へのこだわりで差別化したい欲求」が読み取れます。
つまり「自分は国内エンジニアとは違う」というアイデンティティを強調する裏に、日本のエンジニア像に対するコンプレックスが透けて見える、と言えるでしょう。
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米津玄師が「デンジって女性に対してものすごく性欲的な感情を抱くけれども、セクハラ的な行動は絶対しないんですよね」とインタビューで話した件について、ネットの弱者男性界隈がガチギレして殺気立っている。米津玄師の存在を消して、米津玄師に共感する女だけに対して異様な被害者意識を抱いている。
Xを見れば特に楚バットなる中年弱者男性の噴き上がり方が凄まじい。
「楚バット@geEeZ4e
デンジ(未成年、孤児、貧困層、児童労働、大人に利用され続けた被害者)に向かって"性欲あるのにピュアでかわいいでちゅね〜"的なセクハラしてるオバサンオタクほんまにキモくて有害な女性性の悪魔かと思った」(1万いいね)
デンジくん、マキマさんパワーちゃん姫パイと序盤から連続してスケベ行為の見返りに危険な事をさせられるという直球の性的搾取を受けてるんですが、それをデンジくんはセクハラとかしなくってぇ・・・みたいな消費のされ方してるのちょっとグロテスクだと思います」(5千いいね)
「石壁@waxter1211
デンジは性欲があるのにセクハラしない紳士!」は本質を捉えてないし「デンジの性欲は綺麗!」はもはや噴飯物の主張あれは人生で女性と全く関われなかった影響でセクハラや性欲まみれのアプローチすら実行する発想が無い、本物の恋愛弱者のムーブだろ本当に皆さんは弱者が目に入らないんだな」(1.4万いいね)
その他、有象無象のキモオタアイコン弱者男性ミソジニスト男オタクが、うじゃうじゃと女特有の読解力のなさだとか男性を加害生物のように扱うのが許せないだの行く動に直球の差別発言を吐いているが
要するに【米津玄師サンが発言者なのは男だから脳内から消去します】【デンジはセクハラしないのが長所だと女が語るのは、弱者男性(俺)への性的搾取に決まっている】【女に俺の性欲を否定された】という歪んだ主張に尽きる。
まず主題歌を連続で担当するだけあって、米津玄師の読解は正しい。
『チェンソーマン』は暴力的で野蛮でショッキングでバイオレンスに見せかけて、最近の漫画らしく主人公陣営は馬鹿をやっても不快感が極力なく応援したくなるように、きちんと計算してヘイト管理されている。
「藤本タツキは天然でM性癖だから」で片付けるのは、さすがにタツキの頭を見下しすぎだ。作品理解力が誰よりも劣っている。
デンジは育ちは無茶苦茶で語彙はドブだが、決してクズではない。
陰キャ特有のめんどくささは皆無。素朴で真っ直ぐで不幸な目にあってもすぐ立ち直る明るさがある。
1話時点から粗暴な野生児ながら倫理観と社会性をそれなりに備えていたし(己を搾取したヤクザを殺した事でさえ成り行きでゾンビ化して人間に戻れないなら仕方ないと分別のうえだった)
人並みの環境に移ってからは世間との折り合いやコミュニケーション能力が急成長している。それが出来ているのは自分の不幸を言い訳にしないからであり、自分が弱者であることに甘える発想が無いからだ。
王道の少年漫画主人公らしい魅力を持ったいい奴である。性欲のある孫悟空みがある。
そんなデンジに、デンジとは180度真逆の、自分のケアを他者に強要する事しか頭になく倫理観と社会性が中年になっても欠如したままの、自分の弱さを盾に諸々放棄して全ての責任から免除されようとする自分だけに甘い卑劣さな超陰キャオジサン達が一斉に自己同一視しているかと思うと、滑稽であると同時にデンジに同情してしまう。
そもそも「デンジって性欲はあっても、加害したりマウントしないのがいいよね」の一言に勝手に湧いて出てきて「傷つけられた」「はい性的搾取」と騒ぐ心性が理解できない。
楚バットラルナ石壁ら100人異常散見できた自称弱者男性軍団の理屈に照らし合わせると、まるで『男(俺)の性欲には女を加害しても許される男性権が当たり前に含まれており、それを不当に奪われたから怒った』と言わんばかりではないか。
性愛に限らず、人は何がしかの欲求に常に振り回されている。その我欲の充足のために他人を傷つけたり貶めたりしないのは人間として最低限の道徳であり、普通の対等のコミュニケーションである。
その普通の対等のコミュニケーションを、女性が男性に対して肯定した時だけ「搾取だ」「グロい」「傷ついた」と逆上する被害者意識は超弩級の女性差別主義と一体だ。
「男性を女を屈服させる願望持ちの加害動物のように言うな」などと女性憎悪で誹謗中傷のクソリプする弱者男性集団は論外で、その行動で自らの男特有のミソジニックな加害性を証明してしまっている。
マジレスするけど、もし、デンジが自分から性行為と引き換えに悪魔退治してやると女性陣に持ちかけてたら、読者の印象は最悪だぞ。「弱みにつけ込む小狡い肉欲クズ」として。
女性陣の性的奔放さを強調したとしても、どうしてもデンジに計算高い印象を与えてしまう。それだとキャラがブレる。
性的取引が初手から大満足の結果だったらデンジが早々に目標を失ってしまい、作者が困る。
何事に対しても内向的で受け身なアニメの碇シンジ系キャラならイラつく読者も多くなるだろう。「積極的に動いてエネルギーを外に向けて発散する外向性を有しつつ女性に対しては奥手」は昔から愛される王道主人公像だ。
とにかく『チェンソーマン』本編の面白さと読者好感度のバランスは、デンジの性欲抱いてもセクハラではなく純粋なイチャラブ願望で実現しようというピュアさと健気さで成り立ってる。
作り手が意図して「こんな男子、可愛げあって好感持つでしょ?」と造形してるんだから、その観点でデンジに好感持ってる米津玄師や女性ファンは正しい。
内なる暴力性を持て余してる欲求不満の非モテ男性が「俺を無害と見なすなクソ女!俺様の抑圧されし性欲の恐ろしさを思い知れ!男と書いてチンポの怒りをくらえ!」と突然キレ出して暴れるような、自称弱者男性の理想の物語が欲しければ新井英樹の漫画でも読んでろ。
昨日「マツコの知らない世界」で“顔の世界”という特集をやっていて、興味津々で見ました。
テーマ自体は面白かったんですが、正直ちょっと引っかかったのが「顔から性格を決めることを心理学として扱っていた点」です。
いわゆる相貌心理学って科学的には立証されていない類と認識してました。
そもそも顔って遺伝の要素が強いので、顔の特徴を外見的に判断する場合、
個人的な経験則で「そう感じる」という範囲ならアリだと思いますが、大手メディアが学問的にやや決めつけで伝えてしまうのはちょっと危ういなと。
実際、日本ではB型の人が所得や婚姻率の低下に相関関係が表れている事が最近話題になり、思い込みやバイアスが現実に影響してしまう可能性があります。(今後、検証されるかとしれません)
欧米では血液型占いなんて一般的じゃないので国際比較が出れば面白いなと思います。
もちろん「顔や表情が印象に影響する」というのは科学的に立証されています。
ただ、受け手の「印象を受ける」と本人の「性格を特定する」はまったく別物です。
他人の第一印象と性格が違ったという事は実感としてあると思います。
最初、怖そうと思ったけど、案外優しかった。人見知りな人かと思ったけど、実はムードメーカーだったなどなど。
ですか内面の性格まで読み取る事は当たり前ですが、できません。
心理学の研究って、本来は仮説を立てて大量のデータを集めて妥当性と信頼性を細かく検証していく地道な作業なんです。
心理学的に性格傾向(あくまで傾向)を調べる際も、「外交的か内向的か」を調べる場合なら、「賑やかな場所が好きか?」、「人前で話すのは苦にならないか?」といった、性格の方向性に関わる事や性格特徴に起因する行動パターンが使われます。つまり、全然関係なさそうな質問から勝手に性格を決めつけるわけじゃなく、根拠を積み上げながら分析している訳です。
また、本人の内側の声を表出させているとも言えます。
また、人は場面によって外交的になったり内向的になったりもしますし、二面性もあります。それだけ質問内容や研究手法も増えていきます。そんな単純に「顔=性格」って図式には当てはまらないと思うんです。
欧州で顔診断、
もしも間違った心理学が広まると偏見を助長してしまい、誰かが傷つくことにもつながります。顔によって「秘密主義だ」とか「理想主義だ」とか勝手に決められる社会になってほしくない、そう思いました。
寛容性、順応性を表す
輪郭が大きい
口角があがる
肉付きの張り
モチベーションの高さ
目頭がくっきりしている
外部情報をしっかり精査する
正面から耳が見える
独立心、旺盛さが強い
目のくぼみ
鼻の穴
鼻の穴が見えない
本心を語らない
鼻筋が太い
広く愛されたい
鼻筋が深い
深く愛されたい
補足
番組に出ていた方の肩書き「教授資格」もちょっと気になります。日本で「教授」というのは学校教育法で定められた大学における職位ですし、教授資格ってなんだろう。誰か教えてください。
私は所謂オタクと呼ばれる人間で、X(旧twitter)で毎日イラストなどを眺めてはリポストといいねを繰り返している。
ある日、私がいつものようにXを漁っているとそれが流れてきた。
一瞬?と思ったが何となく察した。これはフォロワーさんがプレイしていたゲーム、「ブルーアーカイブ」のキャラなのだと。このコンテンツはモブの女の子も結構可愛いらしく人気がある、おそらくそれだろうと。
じゃあ「エリ」の方はおそらくモブじゃない子なのだろう。エリカとかエリコとかそんな感じの名前の子なんだろうと予想し、では見てみようと検索をかけてみた。
普通に後悔をした。
まず私自身、百合と呼ばれるコンテンツは嫌いではないし、むしろ好きな方だ。女の子同士の友情が少しずつ愛情へと変質し、ゆったりと距離が近づいていくあの時間は、たまらなく好きだ。男女間の恋愛とはまた違う味があり、定期的に飲料としてゆったりと摂取したくなる。桜に味があるとしたらこんな味なのだろうと言う、温かさと甘さを感じられる、それが百合の良さだと個人的には感じている。
では、これはなんだろう。
見たのは1枚のイラスト。おそらく「エリ」と呼ばれてる方の女の子がそのイラストの中心にいる女の子なのだろう。如何にも魔女っ娘みたいな見た目をしていて可愛いなと思った。
続いてその周りの女の子。フォロワーが正実モブ正実モブとか言って黒いセーラーの女の子を愛でていたのをよく覚えており、それと同じで目元が見えないからおそらくこの子らがモブなのだろう。
そしてそのモブたちがこのエリと呼ばれる女の子を左右から挟み、何かに誘っているイラストだった。おそらくまあそういうことなのだろうが、真ん中のエリという女の子は内向的な性格なのだろう、全くと言っていい程断れていなかった。
私は、これを見て1つだけ思ったことがあった。
そもそもいじめというのは、強いものが徒党を組んで弱い者に暴力を振るう事ではない。特定の誰かに精神的、肉体的な負荷を与え続けて心身疲労を蓄積させ、自尊心を失わせる、これがいじめなのである。
では、これはなんだろう。おそらくこのエリという少女が自分達の要求を断れないのをいいことに、そういう関係を迫っているのか?
気が狂いそうになった。同時に胃がきゅーっと痛くなった。作品の雰囲気が性的であるとか、そういうのを感じられる余裕が一切なくなった。私はキャラクターに対して感情移入をしてしまいがちなタイプだという認識があるのだが、これを見て感じたのは圧迫感だった。非常に息苦しかった。
もしかして、ブルーアーカイブというコンテンツはいじめを助長するコンテンツだったのか?いやそんなわけがない。私のフォロワーが凡そ正気とは思えない狂い方をしているのに、そんなコンテンツである可能性は皆無であろう。ではこれはなんだ?なんでこんなものが?Xで「モブエリ」と検索をかけてみると、皆気が狂ったようにこれを摂取している様子が見られた。どうなっているんだこのコンテンツは?
どうしても気になったからフォロワーに頼んで、今このエリと呼ばれる女の子が出ているというイベントのシナリオを見せてもらった。どうやらそこで出た概念らしい。
見たところ、普通に会話をしているようだった。エリという少女はなんかやたら言葉が詰まっているのを見るに人見知りなのだろうかとか、そんなことを考える様子はなかった。
普通に良い関係ではないか。エリという少女側が何やら苦手意識を持っているのが気になったが、どうやらこれは他者へ対する劣等感や嫉妬心といった負の感情の影響らしく、彼女を入手する事で見れるストーリーではそういった部分がある程度緩和されているように見えた。なるほど、エリと仲良くしたいクラスメイトとちょっと受け気味だが否定的ではないエリ。良いではないか、これを摂取したい。
じゃあ、今Xで見ているこれはなんだ?このユーザーたちはこれを極限まで曲解して、内気な少女を徒党を組んでいじめるのが好きなのか?わかっているのか?それはいじめなんだぞ?他者から自由意思を奪い、苦しめる最低な行為なんだぞ?
勿論それが全てではないことくらいはわかった。ちゃんと見ていれば、上で私があげた「エリと仲良くしたいクラスメイトとちょっと受け気味だが否定的ではないエリ」というまさにそれらしいシチュエーションが目についた。いいではないか、これの延長線としてゆっくり関係を築いていく百合、これが見たい。
正直なところを言えばもう思い出すのも気持ちが悪いため、執筆はここまでになるだろうしこの単語を目にするのもこれが最後になるだろう。この「モブエリ」というのを好んで摂取しているユーザーがもしこれを読んでいるなら、今一度よく考えてほしい。君たちが摂取しているそれは、いじめに該当する行為だ。勿論、漫画やアニメにおけるいじめのシーンを見て何も思わないというのならば最早君たちにかける言葉はない。だがもし、そういうものに忌避があるユーザーは今一度よく考えてほしい。それはいじめなのだ。いじめの助長なのだ。「何を言っているんだろう」と思う者もいるだろう。どうか考えてほしい。君たちは、レズを摂取しているように見えて、いじめを助長しているのだと。どうかその認識を、胸に抱いて欲しい。
人のことを好きになりたい。ドキドキしたい。恋がしたい。だが前回人間にドキドキしたのは学生時代、既婚者相手だった。終わってるね普通に。
特にその既婚者とは何もなくバイト先での知り合い程度だったので終わってしまった。
社会人になってからマジでドキドキしてない.、どの男性も好きじゃない。なんとなく好きかも、と思って近寄ってみたけどなんか違うな、好きじゃないな、ドキドキしないな、で離れてしまう。
超内向的なので新しい知り合いをアラサーの今から作るのしんどすぎる。転職も大変だったのに。
今の会社には既婚者しかいないしドキドキしないので恋が始まりません.
マチアプは普通に会話のラリー続かなくてイライラするのでやってない。マチアプしかないよねでももう。
以前いた会社の人が結婚したいなら絶対30.までに動き出さないとダメだよって言ってたから、ちょっとでも結婚したい、好きな人作りたいと思ってるなら行動しかないのかな。
よくBLは性欲を満たすために読まれていると言われるけど自分に置き換えて考えてみると?となった。
萌え系(死語?)を見たり読んだりするのはそのキャラに恋して性欲を発散するためと言われることがあるから、これが反証できてしまうとBLについても疑わしくなる。
それでもきっとプリズマイリヤは美少女メインのバトル物は読んでいるし、ぷぎゅるやまりまりマリーゴールドといった女の子メインのギャグ4コマを読んでいることは想像に難くない。
性欲がないことはこれらの面白さを全く棄損しない。これらを読むインセンティブを棄損しないと思う。
同じようなジャンル、たとえば不条理ギャグを掛け合うキャラが少年や青年たちだったら相変わらず自分には見るに堪えない。
ビジュアルがどうしてもソフトホモを彷彿とさせて生理的に無理。在りし日に塾のクラスメイトがよく話題にして辟易していたゼロサムコミックが思い出されて無理。
萌えと言われるものを摂取したくなる動機は性欲ではないと思う。
それに恋愛感情は性欲を美化した表現だというなら、恋愛感情でもないことになる。
自分のことは一介の草食系の一人だと思っていたけど、アセクシャルの気があるのかもしれないとここで思った。
いや、今は逆に、全てのヘテロ男は女と話すとき察せられないように視線は動かさずに視界の端からの情報だけで胸とかどうかなとかいちいち確認しているほどには女をモノとしか見てないと思える程度には、自分自身にそういう欲がある。
自分の中に根本的にそういう欲があると思ってるからじゅん散歩で高田純次が高嶋ちさ子と話してた時も視線からは一人の人間として話している印象しかなかったけどきっと胸とか、顔以外の肌の露出した部分の有り様を確認しているのかなと思ってる。
自分は(男がみんな持っていると自分が思っている)自分の下種な部分を知っているから女とは距離を置く。人として見れない。
これで去勢したらどうなるか?いよいよ全く女と関わる動機がなくなる。いやそもそも男と関わってるわけでもないので、純粋に内向的な娯楽以外の欲がなくなるだけ。
世の中で草食系と自分を認識している人でも実際はアセクシャルもそれなりに混じっているのではないかもしれない。これは発見だね。
確かに成人向け単行本とかは読まなくなるな。pixivのr18も覗かなくなると思う。しこるための手段としてしか見てないから。
でもEBAの超能力者とかストーリーとして楽しめるものは例外で読むかな。
でもBLは女版萌えなんだろうし、性欲とは違うんじゃないの?
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しかし数字に弱い人が思う普通な人、平均的な人はこうなんだろうけど(数字は偏差値)
人柄:50 家事育児:50 仕事理解:50 経済力:50 容姿:50 職業相性:50 学歴:50 趣味:50
例えば、「3項目について平均以上」を求めた場合、確率は1/8になるから、それは「ちょっと良い人」じゃなくて超優良物件だ
「5項目の条件(上位50%が当てはまる)のうち、1項目も落としたら許さない」は確率1/32だし、「1項目なら落として良い」でも3/16
結構厳しい
というわけで、「ちゃんとバラけさせて」平均的な人を作ってみた
・人柄:55 家事育児:42 仕事理解:50 経済力:47 容姿:48 職業相性:50 学歴:52 趣味:60
【褒める】人当たりがよく、一緒にいて安心できる雰囲気がある。
【貶す】家庭内での家事育児への積極性が足りず、分担が偏る可能性がある。
・人柄:45 家事育児:58 仕事理解:40 経済力:60 容姿:42 職業相性:55 学歴:60 趣味:35
・人柄:65 家事育児:63 仕事理解:55 経済力:38 容姿:50 職業相性:48 学歴:42 趣味:58
・人柄:60 家事育児:50 仕事理解:48 経済力:35 容姿:60 職業相性:40 学歴:45 趣味:55
・人柄:48 家事育児:45 仕事理解:52 経済力:55 容姿:46 職業相性:58 学歴:50 趣味:50
【貶す】受け身すぎて、自分から何かを提案するタイプではない。
・人柄:60 家事育児:58 仕事理解:55 経済力:43 容姿:52 職業相性:50 学歴:50 趣味:48
【褒める】温かく家庭的で、バランス感覚に優れている。
・人柄:48 家事育児:42 仕事理解:60 経済力:60 容姿:50 職業相性:60 学歴:60 趣味:40
【貶す】家庭よりも仕事優先に見え、家庭運営に支障が出る可能性。
・人柄:65 家事育児:63 仕事理解:48 経済力:42 容姿:45 職業相性:45 学歴:48 趣味:58
・人柄:45 家事育児:38 仕事理解:58 経済力:62 容姿:55 職業相性:55 学歴:62 趣味:55
【褒める】バリキャリで自立した魅力を持ち、見た目も整っている。
・人柄:50 家事育児:60 仕事理解:52 経済力:30 容姿:47 職業相性:40 学歴:50 趣味:50
まとめ:
こうした勘違いをしてしまう人の心理だがこれは単なる知識不足や早とちりというだけでなく、もっと根深い人間の性質が関係しているように思う。
人間は本質的に「認知的倹約家(Cognitive Miser)」であると言われる。つまり、できるだけ頭を使わずに、省エネで物事を判断しようとする傾向があるのだ。複雑で多様な現実をありのままに受け止めるのは、非常にエネルギーがいる。だから私たちは、物事を「AかBか」「敵か味方か」「陽か陰か」といった単純な二元論の箱に押し込めて理解しようとする。
「理系/文系」という分類も、本来は学問の性質を分けるためのものなのに、
いつの間にか「論理的な人間/感情的な人間」「クールな人間/ウェットな人間」といった、人格の二元論にすり替わってしまう。
そして、そこに「体育会系(陽キャ)/文化系(陰キャ)」という、もう一つの分かりやすい二元論が重ねられる。
こうして、「理系=陽キャ」「文系=陰キャ」あるいはその逆、といった極めてシンプルな(そして誤った)世界地図が完成する。複雑な現実を前にした思考停止であり、一種の知的怠慢とも言えるが、そうすることで心の平穏を保っているのかもしれない。
特に、「自分は理系だ」というアイデンティティを強く持っている人の中にこの傾向が見られることがあるように思う。
「理系的思考こそが優れており、文系的な思考は非論理的で劣っている」といった、やや偏った価値観を持つ人が
自分たちとは異なる「文系」という存在を理解するために都合の良いラベルを貼ることがある。
そのラベルとして、「文化系(陰キャ)」は非常に使い勝手がいい。
「あいつらは、俺たちとは違う。なんかよく分からないことをゴチャゴチャ言ってる、内向的な連中だ」。
そうやって相手を単純なカテゴリーに押し込めて見下すことで、相対的に自分の優位性を確認し、安心感を得ようとする。
これは、相手を個人として理解しようとする努力の放棄に他ならない。
法学部で国際弁護士を目指してディベートに明け暮れる学生も、商学部で体育会の主将を務めながら起業の準備を進める学生も、すべて「文系」という箱に放り込み、「文化系だよね」の一言で片付けてしまう。これほど失礼な話もないだろう。
まず、先ほども触れたように、世間に流布するステレオタイプの引力はあまりにも強い。「理系はオタクっぽい」「文系はチャラい」といった、雑ではあるが大衆に浸透したイメージは、誰の心の中にも少なからず存在している。そして、「オタクっぽい」というイメージは、確かに「文化系」や「陰キャ」といった言葉と非常に近い距離にある。この強力なイメージに引きずられて、「理系の対極にある文系は……あれ、でも文系もおしゃれなカフェで本読んでるイメージだし、それってインドア活動だよな……じゃあ結局、文系も文化系ってこと?」というような、迷路のような思考に陥ってしまうのも、無理はないのかもしれない。
また、学問のスタイルと個人の気質に、全く相関がないわけではない、という点も無視できない。もちろん、これは鶏が先か卵が先かの問題ではある。内向的な性格だから文学部を選ぶのか、文学部で学ぶうちに内向的になるのかは分からない。しかし、何時間も一人で図書館にこもり、文献と向き合い、静かに思索を巡らせるという行為が求められる学問(例えば、哲学や古典文学)と、「文化系」的な気質との間に、一定の親和性があることは否定できないだろう。
逆に、大規模な実験装置をチームで動かしたり、多くの被験者とコミュニケーションを取りながらデータを集めたりするような研究分野では、ある種の外向性や協調性が求められるかもしれない。これは「体育会系」のカルチャーと通じる部分があるとも言える。
もちろん、これは極端な例だ。文系にだってフィールドワークで世界中を飛び回る文化人類学のような分野もあれば、理系にだって一人で黙々と数式と向き合う数学のような分野もある。だから、学問と気質を安易に結びつけるのは危険だ。しかし、「何となく、そういう傾向はありそうだな」と感じてしまう気持ち自体は、理解できるのだ。問題は、その「何となく」を、まるで確定した事実かのように一般化しすぎてしまうことにある。
他者を安易にカテゴライズしてしまうのは、自分自身が何者であるかを説明する手軽な方法を求めていることの裏返しなのかもしれない。「俺は理系だから、口下手なんだ」とか、「私は文系だから、数字は苦手で」といった自己紹介は、とても便利だ。自分の個性や欠点を、大きなカテゴリーに属することで説明し、免罪符にすらできてしまう。そうやって自分をラベリングすることに慣れている人は、同じように他人をもラベリングして理解しようとする。その行為が、相手の多様性や個性を削ぎ落とす、暴力的なものであるという自覚なしに。
「文系を文化系(陰キャ)と勘違いしている人」。この一見すると些細な言葉の誤用は、その根底に、人間の思考の癖や弱さ、そして社会に蔓延するステレオタイプといった、根深い問題を映し出している。
アホだなあ、と思う。でも、そのアホらしさの正体を突き詰めていくと、自分の中にも同じような思考の怠慢や、安易なラベリングへの誘惑が潜んでいることに気づかされる。私たちは誰しも、複雑な世界を前にして、分かりやすい物語を求めてしまう生き物なのだ。
しかし、だからこそ意識したい。文系の中にも、灼熱の砂漠で発掘調査をする考古学者がいる。理系の中にも、美しい言葉で科学の魅力を伝える詩人のような科学者がいる。体育会系のノリでチームを率いる文系経営者もいれば、文化系の繊細さでミクロの世界を探求する理系研究者もいる。人間は、そんな簡単な物差しで測れるほど、単純な存在ではない。
「理系/文系」も「体育会系/文化系」も、あくまで人間という多面的なプリズムを、特定の一方向から照らすための、便宜的なスポットライトに過ぎない。一つの光だけで全体を理解した気になったり、異なる種類の光を混同したりすれば、見えてくる像が歪むのは当たり前だ。
次に誰かが「文系って文化系だよね」と言ったら、今度は「アホだなあ」と心の中で思うだけでなく、こう返してみようかと思う。「面白い視点だね。ちなみに、経済学部でアメフト部の主将やってる俺の友達は、君の言う『文系』に入るのかな?」と。そうやって、少しだけ世界の解像度を上げる手伝いができたら、それはきっと、無駄なことではないはずだ。そしてそれは、自分自身が持つ見えない偏見から自由になるための、第一歩にもなるのだろう。
体育会系と文化系という分類における文化系(陰キャ)と勘違いしているやつがいてアホだなあと思った
先日、ネットでとある記事を読んでいたら思わず「え?」と思う記述があった
一瞬、頭がフリーズした。
彼の言っている「文系」と「文化系」が、私の頭の中でうまく結びつかなかったからだ。
ああ、なるほど。
彼は「理系と文系」という学問の分類と、「体育会系と文化系」という人間の気質の分類を
ごちゃ混ぜにしてしまっているのだ。
そして、その後者における「文化系」が持つ、やや内向的、いわゆる「陰キャ」的なイメージを、前者における「文系」全体に当てはめてしまっている。
しかし、その一方で、なぜ彼がそんな突拍子もない(と私には思える)勘違いをしてしまったのか、妙に気になってしまった。
「理系か、文系か」というのは、高校や大学で選択する学問分野の大きな括りのことだ。
ざっくり言えば、自然科学や数学、工学、医学といった分野が「理系」。そして、人文科学、社会科学、法学、経済学といった分野が「文系」。これは、何を学ぶか、どんなアプローチで真理を探究するかの違いであって、個人の性格やライフスタイルを規定するものではない。もちろん、学問の特性が個人の思考様式に影響を与えることはあるだろうが、それは結果論に過ぎない。
一方で、「体育会系か、文化系か」というのは、個人の気質や所属するコミュニティのカルチャーを指す言葉だ。
「体育会系」と言えば、運動部に代表されるような、上下関係がはっきりしていて、根性論やチームワークを重んじる、エネルギッシュで外向的なカルチャーを指すことが多い。いわゆる「陽キャ」のイメージと結びつきやすい。対する「文化系」は、文芸部や美術部、吹奏楽部などに代表される、個人の興味や探究心、内面的な活動を重視するカルチャーだ。こちらは比較的物静かで、インドア、内向的な「陰キャ」のイメージを持たれがちだ。
この二つの分類軸を並べてみれば、両者が全く別物であることは火を見るより明らかだろう。
これはX軸とY軸のようなもので、本来は組み合わせて四象限のマトリクスで考えるべきものだ。
・理系で体育会系:工学部のラグビー部員とか、医学部のサッカー部員とか。ゴリゴリのフィジカルを持ちながら、論理的な思考も得意とする人たち。たくさんいる。
・文系で体育会系:法学部の野球部主将とか、経済学部のアメフト部エースとか。チームをまとめ上げるリーダーシップとコミュニケーション能力に長け、社会の仕組みにも明るい。こちらもたくさんいる。むしろ、営業職などで大活躍するイメージすらある。
・理系で文化系:数学科でチェスに没頭する学生とか、物理学科でSF小説を書きふける大学院生とか。知的好奇心の塊で、自分の世界を深く掘り下げるタイプ。これもステレオタイプな「理系像」に近いかもしれない。
・文系で文化系:文学部で古文書を読み解くのが好きな学生とか、史学科で一日中博物館にいるような人とか。これもまた、一つの典型的なイメージではあるだろう。
このように、四つの象限にはそれぞれ典型的な人物像を当てはめることができる。
そんな単純な話では全くないのだ。
彼が言っていた「文系=文化系(陰キャ)」という図式は、このマトリクスの存在を完全に無視した、あまりにも解像度の低い世界認識だと言わざるを得ない。
では、なぜ彼は、そしておそらく彼以外の一部の人たちも、こんなにも雑な紐付けをしてしまうのだろうか。
いくつか理由が考えられる。
「文系」の「文」と「文化系」の「文」。この共通する漢字一文字が、無意識のレベルで両者を結びつけている可能性は高い。人間は、意味よりも音や形の類似性で物事を連想することがよくある。「文」という字には、どこか「武」の対極にあるような、静かで知的なイメージがつきまとう。「武」が体育会系なら、「文」は文化系だろう、という非常にシンプルな連想ゲームが、頭の中で行われているのではないか。
二つ目は、ステレオタイプの暴走と単純化だ。世の中には、様々なキャラクターの「型」が存在する。特に、ドラマや漫画、アニメといったフィクションの世界では、分かりやすさが重視されるため、キャラクターはしばしば極端なステレオタイプとして描かれる。
たとえば、「理系の天才」は、コミュニケーションが苦手で、白衣を着て研究室にこもっている、まさに「文化系の陰キャ」として描かれがちだ。一方で、法廷ドラマの敏腕弁護士や、経済ドラマの熱血銀行員といった「文系」のヒーローは、弁が立ち、行動力がある人物として描かれることが多い。
こう考えると、むしろ「文系=陽キャ」のイメージの方が強まりそうにも思える。だが、ここで話はもう少し複雑になる。
おそらく、多くの人が「文系」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、
経済学部や法学部ももちろん文系だが、より「文系っぽい文系」としてイメージされるのは前者だろう。そして、ひたすら文献を読んだり、思索にふけったりする文学部のイメージは、確かに「文化系」の活動と親和性が高い。この「文系の中の特定のイメージ」が肥大化し、文系全体を代表するイメージとして認識されてしまう。その結果、「文系=文学部っぽい人たち=文化系っぽい=陰キャ」という、伝言ゲームのような連想が出来上がってしまうのではないか。
人は誰しも、自分の見てきた世界が世界のすべてだと思いがちだ。例えば、その人が通っていた高校のクラス編成が、たまたま「理系クラスは大人しい生徒が多く、文系クラスは活発な生徒と静かな生徒が混在していた」という状況だったとする。その場合、「理系は文化系寄り、文系もまあ文化系寄りかな」という雑な印象が刷り込まれてしまうかもしれない。あるいは、自分の周りにいる数少ない「文系」の友人が、たまたまインドアな趣味を持つ人ばかりだった、という可能性もある。その限られたサンプルから、「文系とはこういうものだ」という法則を導き出し、それを世の中全体に当てはめてしまう。これも、人間が陥りがちな思考の罠の一つだ。
https://anond.hatelabo.jp/20250614122405
俺がブクマしたんじゃねえ。誰だよまじで
「アルファメール」と「シグマメール」は、男性のタイプを分類する際に使われる概念です。それぞれが持つ特徴と、両者が対立した場合にどうなるかについて解説します。
アルファメールは、集団の中でリーダーシップを発揮し、自信に満ち溢れたカリスマ的な存在とされます。
シグマメールは、アルファメールとは対照的に、集団のヒエラルキーに縛られず、独立した一匹狼のような存在とされます。
アルファメールとシグマメールが対立する状況は、いくつかのパターンが考えられます。
1. **価値観の衝突:**
* **アルファメール:** 集団の秩序やヒエラルキーを重視し、自分が中心となることを望むため、独立心が強いシグマメールの行動を理解できない場合があります。
* **シグマメール:** アルファメールの支配的な態度や、集団への同調圧力を不快に感じることがあります。
* **結果:** 互いの行動原理が異なるため、理解し合えず、摩擦が生じやすいです。アルファメールはシグマメールを「協調性がない」と見なし、シグマメールはアルファメールを「権威主義的」と見なす可能性があります。
2. **リーダーシップの競合(間接的):**
* アルファメールは直接的なリーダーシップを発揮しますが、シグマメールは自身の専門性や知見によって、結果的に他者に影響を与えることがあります。
* **結果:** アルファメールは、自分の権威がシグマメールの独立した行動によって揺らぐと感じ、対立を深める可能性があります。シグマメールは、アルファメールからの干渉を嫌い、さらに距離を取ろうとするかもしれません。
3. **直接的な衝突は少ない可能性も:**
* シグマメールは不必要な対立を避ける傾向があるため、アルファメールが直接的な支配を試みても、シグマメールはそれに真正面から反発するのではなく、静かにその場を離れたり、独自のやり方で回避しようとする可能性が高いです。
* **結果:** 物理的な衝突よりも、心理的な距離が広がる形での対立になることが多いでしょう。アルファメールはシグマメールの反応の薄さに苛立ちを感じ、シグマメールはアルファメールの支配欲に無関心を装うかもしれません。
総じて、アルファメールとシグマメールの対立は、異なる価値観や行動原理から生じることが多く、直接的なぶつかり合いよりも、互いが理解し合えないことによる摩擦や、距離感の広がりとして現れることが多いでしょう。どちらかが一方を「屈服させる」というよりは、それぞれの道を行く形で収束することが考えられます。
突然ですが、YouTubeで最も再生されたVOCALOIDの楽曲(Nyan Catのような二次創作を含まない)を知っていますか? ボカロ界出身の有名人である米津玄師やAyase(YOASOBI)のボカロ曲のどれかでしょうか? ボカロブームのきっかけとなった「みくみくにしてあげる♪」「メルト」でしょうか?
ハチ(米津玄師)さんの曲では「Persona Alice」が一番好きです。「マトリョーシカ」以降は、メジャー作品を含めて正直苦手です。アルバムとか買えば昔のような落ち着いた作風の楽曲もあるのでしょうか?
「メルト」は好きですが、当時の荒れたボカロ界隈に独特なサムネを引っ提げて颯爽と表れた「ハト」の方が印象に残っています。可愛らしいメロディに加え、リズミカルでいて意味深な歌詞、それをどこか間の抜けた初音ミクの歌声で響かせる動画の雰囲気が好きでした。元動画は消されてしまいましたが……。
正解は椎名もたさんの「少女A」です。再生回数は2025年5月時点で1.4億回以上。その経緯はいくつか分析がありますのでそちらに譲りますが、初見で当てられる人はほとんどいないのでは。
私は2008年から2016年までの長きにわたってボカロにドハマりし、10,000曲以上を聴いてきましたが、「少女A」あるいは椎名もたさんはその中でも特別な意味を持ちます。私の中でうまく消化できなかった澱みのような何かについて言語化する機会も場所もなかったのですが、「少女A」という文字列がYouTubeでの再生数とともに私のXのタイムラインに流れつき、当時の想いが蘇ってきたのでここに供養します。
話は2008年まで遡ります。当時の私はニコニコ動画の魅力に取り憑かれつつも、「みくみくにしてあげる♪」に代表される最初期の初音ミクブームを白い目で見ていましたが、「メコノプシス・ベトニキフォリア」(2008年・ちゃぁさん)を聴いた瞬間に衝撃が走りました。エレクトロニカというジャンルすら知らなかった私には、嗜好を捻じ曲げるだけの破壊力がありました。それから狂ったようにエレクトロニカのタグを追い、「Parallel Lines」(2008年・ボッチさん)などを四六時中聞いているうちに「Chaining Intention」(2008年・Treowさん)「虹」(2008年・CleanTearsさん)と、関心領域が広がっていきます。
追い打ちをかけるように、「snow knows」(2008年・zddnさん)を聴いて二度目の衝撃を受けました。電子音のようなボカロ声をロックに合わせる試み。完成度の高いギターの洪水。これに参らないわけがない。「参月の雨」(2009年・えこまるさん)などを経て、射程はシューゲイザーからオルタナティブロック、さらにはロック全般へと到達し、気づけば四つ打ちポップから前衛音楽まで全てを守備範囲とするボカロオタクの完成です。
毎日のように知らない扉が開く日々はまさしく青春。今思えば、レコードショップやCDショップで一日中試聴して過ごす若者はこんな想いだったのでしょう。当時のマイリストを見ると、私のボカロ熱の最盛期は2009年〜2012年頃だったようです。わかりやすく学生時代です。なんと自堕落な。
私が椎名もた(ぽわぽわP)さんを知ったのは、「ストロボハロー」(2010年)でした。主張しすぎない落ち着いたオケの中で、繊細かつ内向的な言葉選びにオリジナリティを感じました。「Equation+**」(2010年)「そらのサカナ」(2010年)と、音と言葉の引き出しが増えていき、「ストロボラスト」(2011年)にて一種の到達点とも言える完成度となります。
その後、少し間を空けて「怪盗・窪園チヨコは絶対ミスらない」(2011年)が発表されましたが、バンドサウンドを強調した音作り、あっけらかんとした歌詞と、急に作風が変わったことに驚きました。もちろんところどころに椎名もたさんを感じるのですが、興奮や称賛よりも、心配が勝ったのを覚えています。ただし「パレットには君がいっぱい」(2012年)「Q」(2013年)といった、エレクトロニカ・ロックの絶妙なバランスと、飛び抜けた言語センスが光る楽曲が続き、私のお気に入りは増えていきました。
大好きだったのは冒頭の「少女A」(2013年)です。後期の作風が色濃く出つつも、歌詞は切れば血のでるような生々しい若者の歪みが見事に表現され、特にサビの緩やかな入りからの叩きつけるような叫びは思春期そのもの。当時は(椎名もたさんの他の楽曲に比べれば)再生数が伸びないのが不思議でした。そしてその後、仕事が忙しくなってニコニコ動画を開く時間が少なくなり、だんだんと新曲を探す機会は減っていきました。
椎名もたさんの訃報に接したのは、2015年。Twitterのタイムラインでした。情報源は噂話などではなく、椎名もたさんの所属レーベルからのリリース。疑う余地はありません。1年ほど椎名もたさんの新曲を聴いていなかったことに気づき、椎名もたさんのマイリストにアクセスすると、遺作となった「赤ペンおねがいします」が。さらなる衝撃。椎名もたさんのものとはとても思えない、雑で単純な捻りのないオケ。初音ミクの気の抜けた調声。抽象的というより意味不明な歌詞。素人の感想ですが、私にはそう感じました。精神的または肉体的な崩壊を感じました。椎名もたの崩壊を確かに感じました。椎名もたは死んだ。これほど他人の死を強く感じたことはありません。ただ、「死」を感じました。
さらにショックだったのが友人のツイート。「ぽわぽわPの死亡というニュースは、不謹慎だが頭をPの文字で表現された漫画上の人物が死んだというニュースのようで笑ってしまう」。それまでの人生や思索の全てを音楽に昇華して注ぎ込んできた人間への言葉としてとても受け入れ難く、とはいえ普段ボカロを聴かない友人に悪意はなく、ただただやるせなさのような、哀しさのような、共感してくれる人のいない思いだけが残りました。
その後、仕事はひと段落しましたが、以前のようなボカロ熱が復活することはありませんでした。
結婚して子供ができて、人生観とワークライフバランスが大きく変わった今、改めて「少女A」を聴いてみて、とても良い曲だと感じました。椎名もたさんの動画説明文のとおり、タンバリンを叩いて楽しみたい。カラオケでも配信されているようなので、家庭が落ち着いたら、いつの日かカラオケに行ってみようと思います。大声で歌いながら、タンバリンを叩きながら、少しだけ自分の青春と、椎名もたさんの生涯に思いを馳せて。