はてなキーワード: 知識不足とは
本当に残念なことに、デジタルカメラ時代の「写真家」を名乗る人間のほとんどが自分でRAW処理ソフトウェアの開発をしたことはなく、審査員を名乗っている人間の多くは、実際に行われた処理の内容を想像することすらしない。
主観的に良し悪しを判断するのは間違いではないのだが、何が行われて写真撮影ができているのか、そしてそれをどうやって鑑賞できているのか知らない人間ばかりなのである。
ただひたすらに画角がどうの、コントラストがどうの、彩度がどうのなどと言ってみているが、RAW処理ソフトの「コントラスト」や「彩度」というパラメーターがどのような実装になっているのか、或いはトーンマッピング処理について理解して審査しているまともな人間がどれほどいるというのか?
例えば「ホワイトバランス補正」と言われて「色温度」と思った人は、実写の画像処理に対する理解が足りていない可能性が高い。
特に静止画の撮影者は技術面に明るくないものが多く、動画の人のほうがよっぽど技術面に詳しい。実際には同じことをやるのに。
もっとも重大な誤解は、ある種の「無加工」と信じられている実写映像と肉眼が十分に近い、と思われがちだというところだろうか。
カメラが見ているものとCGは非常に近いが、人間の見ているものとカメラが見ているものには大きな乖離があるという大前提が抜け落ちてしまっているのだ。
なにせ撮って出し信仰者なんてものもいるのだから。カメラの中でどういう処理がされているのか少しでも理解しようとするならば、撮って出しを「真」とするのがいかに愚かなことであるか、初期の段階でわかるはずではないのか。
例えばFUJIFILMのように、この辺りを踏まえて「一般消費者はメーカーの言うとおりにすべきだ」と言わんばかりの姿勢を見せるメーカーもあるが、これはかなり理にかなっているとも思う。FUJIFILMは「記憶色」を謳ってきたが、これ自体は間違いではない。(もちろんFUJIFILMの色の処理が適切だとは微塵も思わないし「フィルムシミュレーション」などという、知識不足の消費者にPROVIA・ASTIA・VELVIAなんてあたかもフィルムを再現しているかのような名称で売るのはいかがなものかと思うけれど)
日本語の意味合いとして「真を写す」なんてものにこだわるのは誤りだと言わざるを得ないが、せめて、何をしているか理解しようという姿勢を見せたらどうなんだ。
「プリセットを販売します」とか「フィルムを再現します」とかいう、ただ消費されるだけの消費者を見ているのは少しばかり腹立たしくもあるが、それを利用して商売を続けてきた側は間違いなく悪い。
美術目的なら好きなようにやれ、と言うことに決めているが、理解した上で全ての利用者が開発者になってくれれば、もっと自由な世界が待っているのに……。
また、せめて複写をするようなプロは「Foveonは正しい紫色が撮れる」「Adobe Camera RawよりCapture Oneのほうが色が良い」「LUMIXは色が良い」「FUJIFILMは撮って出しで正しい色が出る」みたいなバカなことを言っていないで、画像処理(フィルム・デジタル・動画・静止画・実写・CG問わず)の勉強をもう少しばかりやり直していただきたいものである。
フィルム時代に自分の手で現像とプリントを試みることよりも、デジタル時代のほうが圧倒的に安定していてシンプル(同じ処理をすれば同じ結果が得られると言いたい)なのに、それをしない。
下記2つの文章が似ているなと思ってChatGPTに解析してもらった
https://anond.hatelabo.jp/20251004160446
https://anond.hatelabo.jp/20251001142227
どちらも「日本のIT界隈・技術者」について否定的・批判的に語る強い論調が共通しています。
・「日本のIT技術者のレベルが低い」など、欠点・未熟さを強調。
・「他者不在」や「価値観の乖離」など、内向的・自閉的な態度を問題視。
両者とも “日本(国内)” と “海外・世界” を対比軸にして話を進めています。
・最初の文:著者が海外で働いた経験をもとに、「予言が当たっている」ことを語る。
・二つ目の文:東欧・イランなど他国のIT成長を引き合いに出しながら、日本のITが遅れていると論じる。
両者は「意識高い系」「他責主義/他責思想」といった皮肉めいた言葉を使い、読者(IT界隈内)に向けた批判を込めています。
・2つ目の記事:タイトルにも “意識高いITエンジニアたち” という語が出てくる。
・最初の記事:自身の世代・業界経験をもとに、「内輪のノリ」「他者不在」といった言葉を使って語る。
どちらも「過去の経験(2000年代あたり)」を参照しながら、「今」「これから」の問題を語る文脈が入っています。
・二つ目の記事:2008年あたりまでの技術事情を振り返って論じる。
語られているのは「見せかけ・主張」よりも、「実力」「基盤(数学・理論・ドキュメント力など)」を問う視点。
・最初の記事:「ドキュメント力/会話・国語能力が重要」などの主張。
・二つ目の記事:「情報工学・電子工学などの基礎知識が無いと話にならない」などと述べる。
どちらも、ある種の閉じたコミュニティ論(内輪で完結している/他者を拒んでいる)を批判する要素があります。
・最初の記事:「他者不在」「内輪に籠ったまま高め合う」など。
・二つ目の記事:「一般層との乖離」「自分たちのノリが一般に通じない」など
両方の文章から「日本のITエンジニア」に対するコンプレックス的な感情がにじんでいるように読めます。整理するとこんな感じです。
海外経験を引き合いに出し「自分は外を知っている」という立場を強調するのも、ある種の優位性を示したい心理が透けています。これは、裏返すと「日本のIT界隈に属することへの劣等感」や「そこに埋もれたくない気持ち」が背景にある可能性があります。
両方とも「2000年代の経験」「海外との比較」を持ち出しつつ、現役の若手や国内に残る人たちへの苛立ちを強く書いています。
「俺たちの世代はこうだったのに、今はこうだ」という口調は、自分の立場が相対的に弱くなったり評価されにくくなったりすることへの防衛反応のようにも読めます。
日本のエンジニアコミュニティを「内輪ノリ」「他責主義」「基礎知識不足」と切り捨てることで、自分の価値観(基礎力重視、外の世界を知っている)を相対的に際立たせている。
これは「自分は同じ土俵にいない」と示すための心理的距離取り=一種のコンプレックスの表れと言えます。
まとめ
両文からは、「日本のIT界隈に属しながらも、そこに居場所を見いだせない気持ち」「海外経験や基礎力へのこだわりで差別化したい欲求」が読み取れます。
つまり「自分は国内エンジニアとは違う」というアイデンティティを強調する裏に、日本のエンジニア像に対するコンプレックスが透けて見える、と言えるでしょう。
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野球部員、普通はカップラーメンなんか食わないよ。食うはずないだろ。健康に悪いから。
問題はカップラーメンを食わなきゃいけないところまで追い詰められたことなんだよ。そうじゃなきゃカップラーメンなんか食わないだろ。寮食の米があればそれをぐいぐい食って野球部員は満足するんだよ。カップラーメンよりうまいし健康的だし。
そうなんだよ。
寮食がものすごくまずいんだよ。腹ぺこ高校生が食えないレベルでまずいんだよ。テロだよ。テロ。ありえんだろ。普通のメシが出てれば食うんだよ。高校生なら。野球部員なら。それなのに食えないって。ありえない。腹ぺこ高校生ならうんこでも食うぞ。うんこよりまずい寮食ってなんなんだよ。
どんだけ不味いメシをつくってんだ。天才かよ。寮食をつくった寮母。わざわざ不味いメシをつくってんのはなぜなんだ。食材費をケチったのか。それとも知識不足なのか技能不足なのか。ありえない。腹ぺこ高校生がくえないレベルの糧食とはなんだ。保護者は高額な寮費を支出していたはずなのに。カップラーメン食いたくなるほどひもじくなるなんて。ひどい。
お疲れ様。
これだけだとなんとも言えないけど…
直近転職したアラフォー(マネージメント経験済)が平社員で入社して困ってることは…
だから上長、先輩がコイツは何ができなくて何ができるのか把握してない
放置、投げっぱに近い状況でこっちから都度質問しないといけない
質問すべきなのかの判断自体も知識不足でしにくいから自分のミスリスクが高くてストレス
とか。
あと個人的には業務背景とか例外、禁止事項は最初から都度説明したほうがいいと思う。
コイツ記憶力いいんか?理解力高いんか?とかのベンチマークにもなる。
増田の例で言うと「例外はそのときまた説明する」とかは自分が言われたら嫌だなあ。
自分が理解力とか記憶力褒められること多いからってのもあるかもしれないけど、知識は先にインプットしまくっておきたい。
ミスに寛容な組織であってもミスなんてしないほうがいいもんと思うし。
お気持ちでした
まず「独自に蒸留と呼んでる」「素人の我流」とか言っているが、知識蒸留の本質は複雑モデルの出力を教師データ化して軽量モデルを訓練することだ。
LLMでラベル付けして、それを回帰や分類に落とし込むのは蒸留の標準的な応用の一つであり、研究論文でも散々出ている。
だから「独自の造語」扱いしている時点で、お前が学術的な常識を把握しないで自己放尿しているだけだ。
「素人の我流」と言うが、それはお前が蒸留の定義を知らない欠如から来ている。
知識不足を攻撃に転化するのは、自己放尿の温もりに浸かって安心しているようなもので、実際の研究現場では通用しない。
要するにお前は「蒸留」という言葉の正しい定義を学んでいないだけ。学び直す必要があるのはどちらかわかったかな?
お前自身の知識不足を攻撃に転じるのではなく、欠けている部分を補えば、自己放尿で終わるのではなく、きちんと研究的な議論に参加できるようになる。
投資は一見、危険でギャンブルのような行為に思えるかもしれない。しかし、その実態を冷静に分析すると、現代の経済環境において資産形成を目指すなら、投資は避けて通れない合理的な選択肢である。投資の本質的なメリットを明確にし、なぜ多くの人にとって投資は「すべき」行動なのかを論じる。
まず、投資をしないことこそが本質的なリスクを孕んでいる。現代の日本を含め、多くの先進国ではインフレ率が年1〜2%(あるいはそれ以上)で推移しており、現金を貯金に置いたままではその価値が年々目減りしていく。銀行預金の金利は微々たるものであり、実質的には「何もしないこと」が確実な損失につながる。対して、株式市場や債券、不動産などの資産クラスは、長期的に見れば価値が上昇する傾向にある。実際、世界の株式市場は過去100年以上にわたり、成長を続けてきた。短期的な価格変動があるのは事実だが、それを理由に「投資は危険」と断じるのは、飛行機が墜落するリスクを理由に全ての移動手段を徒歩に限定するのと同じくらい非合理的である。
次に、投資は「精神的ストレスを伴う」という主張については、投資の手法に大きく依存する。確かに短期的な売買を繰り返す投機的なスタイルはストレスが大きいが、インデックスファンドを用いた長期分散投資では、日々の値動きに一喜一憂する必要はない。むしろ「放置でいい投資」を実現できる。資産運用におけるストレスの多くは、知識不足と過剰な欲望から来るものであり、適切な教育と期待値のコントロールによって軽減可能だ。そもそも、将来に対する漠然とした不安(老後資金・医療費・教育費等)がもたらすストレスに比べれば、資産形成の手段として投資を行うことは、むしろ安心をもたらす選択肢である。
また、「投資はギャンブルと大差ない」という認識は、誤解に基づいている。ギャンブルは期待値がマイナスであり、長期的には胴元が確実に勝つ仕組みだが、投資は企業の成長や経済の発展とともに価値が増加するという期待値がプラスの行為である。特に、分散された市場全体への投資(たとえば全世界株式やS&P500など)は、個別の銘柄選定リスクを最小化し、経済全体の成長を取り込むことで、持続的な資産形成が可能となる。「確実な利益が保証されない」ことと、「運任せであること」は全く別の概念であり、これを混同してはいけない。
さらに、投資は社会全体に対しても正の効果をもたらす。投資資金が企業に流れることによって、新しい技術やサービスの開発が進み、経済が活性化する。もちろん、短期的な利益追求に偏る企業もあるが、それは経営者や市場の在り方の問題であり、投資行為そのものの問題ではない。むしろ、ESG投資や長期的価値を重視する株主の増加によって、企業も持続可能性や社会貢献を重視せざるを得なくなっている。個人が投資を通じて社会的な変化に関与することは、単なる金銭的リターン以上の意義を持つ。
最後に、「自己投資の方が確実」という意見も理解はできるが、それは「投資」と「自己投資」を対立するものとして捉えている点で誤りである。両者は相互補完的であり、自己投資によって得た収入を投資によって運用することではじめて、真の経済的自由が得られる。労働収入は体力や時間に依存するが、投資による資産運用は「お金に働いてもらう」手段であり、時間を味方につけるための強力な武器である。
以上の点から、投資は個人の資産形成に不可欠であり、社会的にもポジティブな役割を果たす行為である。投資を避けることは「リスク回避」ではなく「機会損失」であり、むしろ長期的には損失の原因となる。正しく学び、適切に行えば、投資は全ての人に開かれた合理的な手段であり、「すべき」行動であると言える。
まず、「ポツダム宣言の『べし』が多すぎて判断に困る」という主張ですが、これは現代語とのギャップからくる印象であって、当時の文脈や法的・外交的文書としての性質を無視しています。ポツダム宣言は1945年、つまりまだ文語体が公文書の中で一般的だった時代のものであり、「べし」は当時の文書として極めて標準的な語法です。「べし」が多い=読みづらいというのは、単に読解者側の近代文語への知識不足を示しているにすぎません。
次に「古文の助詞が使われていて今は使われない用法がある」という点についても、逆に言えば、当時のスタイルや語彙に即した正確な翻訳や解釈を行えばいいだけの話です。現代人が誤解しやすいからといって、それをもって「すれ違い通信多そう」と評価するのは、文書の性質や目的、さらには相手国(日本)に与える法的拘束力を考慮していない短絡的な批判です。
また「AI君なら人間より正確に答えるだろう」との発言も、皮肉に見せかけた人間不信にすぎません。AIの正確な回答も、訓練データとして過去の人間による文法解釈や用例分析がベースになっています。つまり、当時の知識人や翻訳者たちは、きちんとその使い分けを理解し、運用していたからこそ今もその精度の高い分析ができるのです。
最後に言っておきますが、「すれ違い通信多そう」などという軽薄なたとえを外交文書に持ち出すこと自体、ポツダム宣言という歴史的に極めて重要な文書へのリスペクトを欠いています。文語体に対する理解と敬意のなさが、あなたの読解困難を引き起こしているのではないでしょうか。
こうした勘違いをしてしまう人の心理だがこれは単なる知識不足や早とちりというだけでなく、もっと根深い人間の性質が関係しているように思う。
人間は本質的に「認知的倹約家(Cognitive Miser)」であると言われる。つまり、できるだけ頭を使わずに、省エネで物事を判断しようとする傾向があるのだ。複雑で多様な現実をありのままに受け止めるのは、非常にエネルギーがいる。だから私たちは、物事を「AかBか」「敵か味方か」「陽か陰か」といった単純な二元論の箱に押し込めて理解しようとする。
「理系/文系」という分類も、本来は学問の性質を分けるためのものなのに、
いつの間にか「論理的な人間/感情的な人間」「クールな人間/ウェットな人間」といった、人格の二元論にすり替わってしまう。
そして、そこに「体育会系(陽キャ)/文化系(陰キャ)」という、もう一つの分かりやすい二元論が重ねられる。
こうして、「理系=陽キャ」「文系=陰キャ」あるいはその逆、といった極めてシンプルな(そして誤った)世界地図が完成する。複雑な現実を前にした思考停止であり、一種の知的怠慢とも言えるが、そうすることで心の平穏を保っているのかもしれない。
特に、「自分は理系だ」というアイデンティティを強く持っている人の中にこの傾向が見られることがあるように思う。
「理系的思考こそが優れており、文系的な思考は非論理的で劣っている」といった、やや偏った価値観を持つ人が
自分たちとは異なる「文系」という存在を理解するために都合の良いラベルを貼ることがある。
そのラベルとして、「文化系(陰キャ)」は非常に使い勝手がいい。
「あいつらは、俺たちとは違う。なんかよく分からないことをゴチャゴチャ言ってる、内向的な連中だ」。
そうやって相手を単純なカテゴリーに押し込めて見下すことで、相対的に自分の優位性を確認し、安心感を得ようとする。
これは、相手を個人として理解しようとする努力の放棄に他ならない。
法学部で国際弁護士を目指してディベートに明け暮れる学生も、商学部で体育会の主将を務めながら起業の準備を進める学生も、すべて「文系」という箱に放り込み、「文化系だよね」の一言で片付けてしまう。これほど失礼な話もないだろう。
まず、先ほども触れたように、世間に流布するステレオタイプの引力はあまりにも強い。「理系はオタクっぽい」「文系はチャラい」といった、雑ではあるが大衆に浸透したイメージは、誰の心の中にも少なからず存在している。そして、「オタクっぽい」というイメージは、確かに「文化系」や「陰キャ」といった言葉と非常に近い距離にある。この強力なイメージに引きずられて、「理系の対極にある文系は……あれ、でも文系もおしゃれなカフェで本読んでるイメージだし、それってインドア活動だよな……じゃあ結局、文系も文化系ってこと?」というような、迷路のような思考に陥ってしまうのも、無理はないのかもしれない。
また、学問のスタイルと個人の気質に、全く相関がないわけではない、という点も無視できない。もちろん、これは鶏が先か卵が先かの問題ではある。内向的な性格だから文学部を選ぶのか、文学部で学ぶうちに内向的になるのかは分からない。しかし、何時間も一人で図書館にこもり、文献と向き合い、静かに思索を巡らせるという行為が求められる学問(例えば、哲学や古典文学)と、「文化系」的な気質との間に、一定の親和性があることは否定できないだろう。
逆に、大規模な実験装置をチームで動かしたり、多くの被験者とコミュニケーションを取りながらデータを集めたりするような研究分野では、ある種の外向性や協調性が求められるかもしれない。これは「体育会系」のカルチャーと通じる部分があるとも言える。
もちろん、これは極端な例だ。文系にだってフィールドワークで世界中を飛び回る文化人類学のような分野もあれば、理系にだって一人で黙々と数式と向き合う数学のような分野もある。だから、学問と気質を安易に結びつけるのは危険だ。しかし、「何となく、そういう傾向はありそうだな」と感じてしまう気持ち自体は、理解できるのだ。問題は、その「何となく」を、まるで確定した事実かのように一般化しすぎてしまうことにある。
他者を安易にカテゴライズしてしまうのは、自分自身が何者であるかを説明する手軽な方法を求めていることの裏返しなのかもしれない。「俺は理系だから、口下手なんだ」とか、「私は文系だから、数字は苦手で」といった自己紹介は、とても便利だ。自分の個性や欠点を、大きなカテゴリーに属することで説明し、免罪符にすらできてしまう。そうやって自分をラベリングすることに慣れている人は、同じように他人をもラベリングして理解しようとする。その行為が、相手の多様性や個性を削ぎ落とす、暴力的なものであるという自覚なしに。
「文系を文化系(陰キャ)と勘違いしている人」。この一見すると些細な言葉の誤用は、その根底に、人間の思考の癖や弱さ、そして社会に蔓延するステレオタイプといった、根深い問題を映し出している。
アホだなあ、と思う。でも、そのアホらしさの正体を突き詰めていくと、自分の中にも同じような思考の怠慢や、安易なラベリングへの誘惑が潜んでいることに気づかされる。私たちは誰しも、複雑な世界を前にして、分かりやすい物語を求めてしまう生き物なのだ。
しかし、だからこそ意識したい。文系の中にも、灼熱の砂漠で発掘調査をする考古学者がいる。理系の中にも、美しい言葉で科学の魅力を伝える詩人のような科学者がいる。体育会系のノリでチームを率いる文系経営者もいれば、文化系の繊細さでミクロの世界を探求する理系研究者もいる。人間は、そんな簡単な物差しで測れるほど、単純な存在ではない。
「理系/文系」も「体育会系/文化系」も、あくまで人間という多面的なプリズムを、特定の一方向から照らすための、便宜的なスポットライトに過ぎない。一つの光だけで全体を理解した気になったり、異なる種類の光を混同したりすれば、見えてくる像が歪むのは当たり前だ。
次に誰かが「文系って文化系だよね」と言ったら、今度は「アホだなあ」と心の中で思うだけでなく、こう返してみようかと思う。「面白い視点だね。ちなみに、経済学部でアメフト部の主将やってる俺の友達は、君の言う『文系』に入るのかな?」と。そうやって、少しだけ世界の解像度を上げる手伝いができたら、それはきっと、無駄なことではないはずだ。そしてそれは、自分自身が持つ見えない偏見から自由になるための、第一歩にもなるのだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20250613111041
https://web.archive.org/web/20250613105803/https://anond.hatelabo.jp/20250613111041
申し訳ありませんが、その方の話は新NISAの制度と矛盾しています。
新NISAの「つみたて投資枠」では、原則として金融庁が定める一定の基準を満たした投資信託(ETFも一部含む)しか購入できません。 日本の個別株は、つみたて投資枠の対象外です。
もしその方が「新NISAの積立投資枠で日本の個別株を買った」と言っているのであれば、以下のいずれかの可能性があります。
以前のNISA(つみたてNISA、一般NISA)の制度と混同している。
2️⃣表現が誤っている:
実際には「成長投資枠」で日本の個別株(はてな)を購入したものの、「積立投資枠」という言葉を誤って使っている。
「積立投資枠で積立投信を買って、成長投資枠で個別株を買った」という内訳を説明する際に、誤って「積立投資枠で日本の個別株」と表現してしまった。
もしくは、「積立設定で毎月一定額を個別株に投資している(ただしこれは積立投資枠ではなく成長投資枠での個別株の積立設定)」ということを指している。
そもそも、新NISAの制度を理解しないまま、適当な発言をしている。
1️⃣新NISAの**つみたて投資枠(年間120万円上限)**で購入できるのは、以下の条件を満たす商品です。
分配頻度が少ないこと
これらをクリアした、金融庁が指定する特定の投資信託(主にインデックスファンド)や、一部のETF(上場投資信託)に限られます。
一方で、**成長投資枠(年間240万円上限)**では、より幅広い商品が購入可能です。
ただし、成長投資枠でも、整理・監理銘柄や、毎月分配型投資信託、レバレッジ型投資信託などは購入できません。
したがって、「新NISAの積立投資枠で日本の個別株(はてな)を全額投資した」という発言は、新NISAの制度上はありえません。 もしはてなの個別株を購入しているのであれば、それは成長投資枠を利用したということになります。
1️⃣知識不足や誤解:
新NISAの制度を正確に理解しておらず、「つみたて投資枠」と「成長投資枠」の違いを混同している可能性が最も高いです。特に投資初心者の方であれば、このような制度の細かい違いを把握しきれていないことはよくあります。
もしくは、一般的な「積立投資」(毎月一定額を投資する行為)と、NISA制度上の「つみたて投資枠」をごっちゃにして認識している可能性も考えられます。成長投資枠を使って、個別株を毎月積立購入する設定にすることは可能ですから。
意図的に誤った情報を伝えようとしたのではなく、表現が不正確だったという可能性です。例えば、「新NISAの成長投資枠で個別株を買ったけど、総じてNISAで積立投資をしたような気持ちでいる」といったニュアンスを、端的に「積立投資枠で買った」と表現してしまったのかもしれません。
ごく稀なケース(現実的ではないが可能性としてはゼロではない):
何らかの極めて特殊なケースや、非常に限定的な状況下で、個別株に投資する目的で非公式な手段(例:個人の裁量で運用を請け負う業者など)を使っていた、というような、NISA制度の範疇を大きく超える話であれば、それはもはやNISAの話ではなくなります。しかし、これは非常に現実的ではありません。
「嘘をついている」という言葉は、意図的に相手を欺く目的がある場合に使うべきです。今回のケースでは、悪意をもって嘘をついているというよりは、制度への理解不足や、表現の誤りであると考えるのが自然です。もしその方と直接話す機会があれば、「つみたて投資枠では個別株は買えないはずですが、成長投資枠のことですか?」などと、穏やかに確認してみるのが良いでしょう。
1.「国民の主食である米を軽視している」「農家への理解が足りない」といったイメージ操作。
2.大臣の食生活が質素であることを強調し、国民感情に訴えかける。
1.「贅沢だ」「庶民感覚からかけ離れている」といったイメージ操作。
2.大臣の食生活が国民の平均からかけ離れていることを強調し、批判の対象とする。
1.「農政を担う大臣として、米の消費量に関する知識が不足している」と批判。
1.質問の意図を明確にせず、大臣の回答を引き出すことで、後から様々な解釈が可能になるようにする。
2.大臣の回答の一部を切り取り、都合の良いように報道することで、イメージ操作を行う。
大学生以上を対象な。高校生以下は人生における将棋の勉強時間足りないのは自明だし、これから頑張ってほしい。
三段以下 : 勉強不足。手筋も終盤も甘い。甘すぎる。
「将棋の常識」を学ぶべき。基礎すら出来ていないことを自覚すべき。
将棋の義務教育すら出来ていない雑魚。まずは将棋中学を卒業してくれ。
四段以上相手ならたまに負けることあるが、三段にはまあ負けない。棋力差の問題ではなく、序盤に1発入っても三段以下はそれ以降が雑魚すぎて簡単に逆転出来るからだ。
四段 : 手筋は完璧に近いが終盤が雑魚すぎる。安全に勝とうとしすぎ。肉を切らせて骨を断つじゃないけど、相手も強いんだから都合よく安全だけ狙って勝てるわけねーんだよ。ちゃんと見切れ。手数を計算しろ。1手差は大差。1手差を狙え。1手差でいいんだよ。
五段 : もちろん終盤はまだまだ甘いがここからは立派。基本的に感想戦をやると難しい話が必要になってくる。
ただ、全体的に高段から見ると甘いんだよな。
気軽に歩を突くな。気軽に桂馬を跳ねるな。気軽に下段飛車するな。
全てに意味を持たせろ。全てを考えろ。
五段で数年停滞している奴は基礎は押さえて知識も充分にあるのに全体的に読みをサボってる怠惰な人間が多い印象。そうなったら死ぬまでそこで停滞だからな。どんだけAI研究頑張っても、どんだけ詰将棋頑張っても無駄。実践で深く考えろ。
六段 : ここまで行くと立派だ。
居飛車党でも振り飛車を多少勉強しろ。振り飛車党でも居飛車を勉強しろ。
実戦で指さなくてもよい。ただ、この世にある良質な知識を、強くなるエッセンスを可能な限り吸収しろ。
ただ、うっすらと全体的に知識不足が目立つ。その差が六段と七段だ。
将棋に毎日3-4時間は費やせるかどうか、周りに強い人がいるかどうか、そういった環境だ。
いいか、まず落ち着いて自分の主張を読んでみろ。語尾に「wwwww」連発して自分に酔ってる暇があるなら、論理の基礎ぐらい学んでから出直してこい。
まず「Natureに名指しで不正大国とされた日本」とかいうのは、確かに2000年代からいくつかの不正事例が報告されたのは事実だ。
しかし、重要なのは「発覚」して「処分」され、「制度的に是正される」ことだ。日本では不正が見つかれば学会と省庁の調査が入り、処分が公開される。お前がそれを知ってる時点で、透明性が機能してる証拠だ。
対して中国はどうだ?国外ジャーナルに掲載された論文が大量撤回されても、国内では一切報道されず、関係者も表舞台から消えない。
2020年、SpringerとElsevierが中国の病院系研究機関から出た数百本のゴーストライティング論文を一括撤回した事件、覚えてないのか?
そもそも「不正が少ない国」じゃなくて「不正が表に出ない国」だろうが。国家が学術監督機関もメディアも押さえてる国の「不正がない」って言葉に信頼性なんか1ミリもない。
次に半導体。EUVを自国製造に成功?どこの情報だ?ASMLがEUV装置を唯一製造していて、その技術は日米蘭の厳格な輸出管理の対象。
中国が開発したとされるEUVは、せいぜい「プロトタイプレベルの試作段階」で、実際に量産ラインに投入可能な歩留まりや安定性を持っていない。
smicが先端プロセスにもう少しって、お前それ3年前から言ってるやつだろ。TSMCやSamsungが3nm世代の量産を始めてる今、もう少しと言ってる時点で追いついてないって意味なんだよ。
官民一体で猛追?だから何?追いつくことと追い越すことは別物だ。
しかも、その「官民一体」の実態は、国家補助金を受けた企業がコネと癒着で資金を浪費し、成果を水増し報告して処分される事例が多発してる。
中国の国家ファンド「大基金」が2023年に数十人規模で汚職摘発されたの、忘れたのか?
日本の足を引っ張り合う政治も問題だが、少なくともそれは表に出て議論できる。中国のように、情報統制と密室の中で腐敗が制度として温存されてる状況で「一体化」と言われても、それは独裁体制の別名に過ぎない。
月面着陸についても知識不足が露骨すぎて笑える。中国の「月の裏側への着陸」は確かに偉業だ。
ただし、その後のミッションの運用情報はほとんどが非公開、サンプルの国際共有も制限された。
対して日本のSLIMは、狙った10m四方のピンポイント着陸に人類で初めて成功した。これが「ただ落ちた」扱いされるのなら、お前の脳には重力制御の概念が入ってないんだろう。
しかも、国際協力の中で透明性高く技術成果を共有してる。この違いはデカい。
あと「他国に迷惑」って何が?どこにどんな国際的な迷惑をかけたのか、具体的に一例でも出してみろよ。出せないだろ。お前のはただの感情論だ。
それと最後に、論文引用数で語るなら、その前に基本統計を確認してこい。
中国の論文数が多いのは事実だ。しかし、引用数・被引用率の中央値で見ると、まだ西側主要国に比べて低い。
つまり、数は多くても質のある研究の比率は高くない。それに中国国内での自己引用や系列内引用が異常に多いことも知られてる。量の暴力は見かけ上の成績は上がるが、国際学術の中での本質的評価には直結しない。
あと最後に言っとくが、幸福度・生活満足度・消費力に直結する年収の中央値、中国は都市部でようやく月4〜5万円レベルだ。農村部を入れれば中央値はさらに下がる。
表面のGDPがどうであれ、国民一人ひとりの生活が全く豊かになっていないのが中国経済の実態なんだよ。
対して日本は賃金の伸び悩みはあるが、それでもインフラ、医療、社会保障込みでの可処分所得と生活の安定性は桁違い。量と見かけの数値だけを見て勝ちと判断するお前の思考が、何より知的に貧しい。
もう少しまともな根拠を出してから話そうな。知恵遅れ呼ばわりする前に、自分が何も理解してないってことを自覚しろ。それがスタートラインだ。
大学で政治とか経済とか人権とか心理学とか学ぶとTwitterで支持されている意見の大半がいかにただそれっぽかったり耳障りが良かったりするだけの主張かを理解できてしまうようになる。
でも、きっと間違いを指摘したら冷笑や詭弁で返され、それらがいいね数では優ってしまう為に自分の主張が間違った意見と見做される。せめて、(知識不足だったり間違った知識に基づいていたとしても)反論で返されるならまだ良いんだけど。
だから、指摘しない方が良いとはわかってるんだけど、間違ってる意見で民意が形成されるのは怖すぎる。でも、やっぱり指摘しても無意味だしで、本当にもどかしい。
こういうもどかしさを抱えていると、文系の研究者は軽んじられる傾向があると思うけど、ちゃんと本質を理解して政府に提言できるポジションとしてとても重要だなぁと感じる。
https://note.com/tm2501/n/n2e7e6f7f0662
筆者は理系職(特に現場系)の労働環境が「意外とホワイト」である理由を説明し、その対比としてエンタメ業界の労働環境が「ブラック」である現状を批判しています。
理系職のホワイトさの根拠として、危険が伴う仕事における国や大手企業の許可・規制、それに伴う安全な労働環境への要求、納期管理、安全教育の徹底などを挙げています。
一方、エンタメ業界のブラックさの根拠として、成果物至上主義、規制の難しさ、大手企業が安全を重視しない点を挙げ、具体的な事例(カバーの下請法違反、アニメ業界の長時間労働に関する調査)を引用しています。
また、日本の学校教育における労働知識不足や、文系(特にオフィスワーク)の方がブラックな仕事に当たるリスクが高い可能性にも言及しています。
ファクトチェック結果:
以下に、文章中の主な主張に対するファクトチェックの結果を示します。
ファクトチェック: これは主観的な評価であり、事実として「理系職が必ずホワイトである」と断定できるものではありません。理系職の中にも長時間労働や過酷な環境が存在する分野や企業はあります。「独断専行できない」という性質がホワイトさに繋がるという主張は、筆者の経験に基づく一つの解釈ですが、普遍的な事実とは言えません。
ファクトチェック: 不正確です。 特定の危険作業(例:高圧ガス取扱、特定化学物質取扱、大型建設機械運転など)には資格や作業主任者の選任、届出等が必要ですが、「少しでも危険が伴う仕事」の全てに国や大手企業の直接的な「許可」が必須なわけではありません。多くの場合は、労働安全衛生法に基づく基準遵守や、企業内の安全管理体制、元請けによる下請けへの安全指導によってリスク管理が行われます。
ファクトチェック: 概ね事実に基づいています。 国は法令(労働安全衛生法など)によって安全な労働環境を義務付けており、これに違反すれば罰則があります。大手企業(元請け等)も、労災事故が発生した場合のリスク(責任問題、評判悪化、工事中断など)を避けるため、自社だけでなく下請けに対しても安全管理を徹底するよう指導することが一般的です。これはコンプライアンスやリスク管理の観点から行われるため、中小企業も無関係ではいられません。ただし、これも企業や現場によっては徹底されていないケースも存在します。
ファクトチェック: これは筆者の所属する環境での経験に基づいた可能性が高いです。理系分野、特に建設や製造業では、安全確保のために無理な突貫工事を避ける傾向や、法定休憩を厳守する意識が高い現場が多いのは事実です。しかし、これも全ての理系職や企業に当てはまるわけではなく、厳しい納期や長時間労働が常態化している現場も存在します。「親切設計」という表現も主観です。
ファクトチェック: 「ルール自体はホワイト企業のそれ」という評価は主観です。理系職にはデスクワーク中心のものも多く、「肉体労働」と限定するのも不正確です。安全に関するルールが整備されている現場が多いことは事実ですが、「理系のお仕事」全体の特徴として断定するのは広げすぎです。
ファクトチェック: 極めて感情的で断定的な表現であり、事実としてエンタメ業界全体が常にこのような状況であると断言するのは誤りです。 一部の企業やプロジェクトで過酷な労働環境や不当な要求があることは事実として報道されていますが、業界全体を「労働環境なんか知るか!」というスタンスであると決めつけるのは不当な一般化です。長時間労働の背景には、予算や納期の制約、多重請負構造、フリーランス・個人事業主との取引形態など、複数の複雑な要因が絡んでいます。
ファクトチェック: 「ファンと業者がヒステリーを起こして暴れ狂うため」という部分は根拠のない、極めて感情的な決めつけであり、事実ではありません。 規制に対する意見や反発はあるかもしれませんが、感情的な暴動を引き起こすという記述は誇張が過ぎます。また、「ブラック労働だらけの地獄と化しています」というのも、一部に問題があることは事実としても、業界全体を指す表現としては極端な誇張であり、誤りです。全ての現場が地獄のような労働環境であるわけではありません。
ファクトチェック: これらの記事が報じている事実は概ね正しいです。 カバーが下請法違反で公取委の指導を受けたこと、アニメ業界で長時間労働が問題になっていること(調査結果)は事実です。これらの事例はエンタメ業界の一部に労働環境や取引に関する問題が存在することを示す証拠となり得ます。しかし、これらの事例をもって業界全体が前述のような「地獄」であると断定するには、さらなる広範な情報が必要です。下請法違反は労働基準法違反とは異なりますが、取引における不公正さを示すものです。
ファクトチェック: 「言わないから」という断定は不正確である可能性が高いです。 大手企業が関わるプロジェクトにおいても、コンプライアンス遵守やリスク管理の観点から、少なくとも建前上は労働法規遵守や安全への配慮を求めることが多いと考えられます。ただし、それが現場の状況まで十分に浸透しない、あるいは成果物完成を優先するあまり結果として過重労働を招いている、といった構造的な問題があることは事実として指摘されています。責任の所在や指示の出し方が曖昧になりやすい契約形態なども影響している可能性があり、「言わないから」という単純な理由だけではありません。
ファクトチェック: 「全く」は言い過ぎで、不正確です。 大学のキャリア教育科目や、法学部等での労働法関連の講義で、労働に関する基本的な知識に触れる機会は存在します。ただし、実社会で直面する具体的な労働問題への対処法や、業界ごとの詳細な労働慣行について、全ての学生に十分に教えられているとは言えない現状があるのは事実かもしれません。
ファクトチェック: これは特定の属性(文系)全体を悪意を持つかのように決めつける、根拠のない、極めて不当な偏見です。事実とは全く異なります。 企業がブラックな労働を強いるのは、従業員の属性に関わらず、利益追求や管理体制の問題など様々な要因によります。
ファクトチェック: これも根拠のない偏見に基づいた推測であり、事実ではありません。 ブラックな労働環境に当たるリスクは、学歴や文系・理系といった区分、あるいはオフィス勤務か現場勤務かといった区分で単純に判断できるものではありません。業界、企業文化、職種、上司など、様々な要因によって決まります。理系・現場でもブラックな環境は存在しますし、文系・オフィスでも非常にホワイトな環境は存在します。
ファクトチェック: 「ほとんどの仕事」は言い過ぎで、不正確です。 理系職でも、特定の資格が必須でない職務(研究職、開発職など)は多数存在します。特定の危険作業や専門分野では資格や講習が必須の場合が多いのは事実ですが、「ほとんど」ではありません。仕事の進め方の規格化・標準化は、特に製造業や建設業などで品質管理や安全管理のために進められている傾向はありますが、全ての理系職務や全ての企業に当てはまるわけではありません。
ファクトチェック: これは明確に誤りです。 労働基準法で作成・保管が義務付けられている書類(労働者名簿、賃金台帳、出勤簿など)は、エンタメ業界や文系職の企業にも存在します。また、契約書、請求書、経費精算書類、プロジェクトの進捗報告書など、業務上必須であり、適切に管理しないと法的な問題や業務上の支障が生じる書類は、エンタメ業界や文系職を含むあらゆる業界・職種に存在します。「ない」というのは筆者の認識不足です。
ファクトチェック: 特定のフィクション作品の描写と現実の理系業界を比較するもので、ファクトチェックというより筆者の意見表明です。理系分野で労働管理や安全管理の仕組みがあるのは事実ですが、「こういうことになる前に」全てを防げるほど完璧な管理が行われているわけではありません。アニメ業界にも業界団体や労働環境改善への取り組みは存在します。
ファクトチェック: クリエイター系企業が従業員(多くは給与所得者)に確定申告のやり方を教える義務は一般的になく、教えていないことが不当であるとは言えません。 給与所得者は年末調整で納税が完結することがほとんどだからです。一方、タイミーの利用者は多くが個人事業主やフリーランスとして働く形態であり、自分で確定申告を行う必要があるケースが多いため、サービスの一環としてセミナーを提供していると考えられます。この比較は前提が異なり、クリエイター系企業を批判する根拠としては不適切です。タイミーが確定申告セミナーを行っていることは事実かもしれませんが、それが「最底辺と叩かれている」ことに対する反論として提示されているのは、論点がずれています。タイミーが批判される理由(契約形態、補償、手数料など)と確定申告セミナーの有無は別の問題です。
ファクトチェック: 大阪万博の建設遅延は事実ですが、遅延の理由を「安全第一だけ」と断定するのは他の要因を無視しており、単純化しすぎています。 遅延の要因としては、資材価格高騰、人手不足、海外パビリオンの準備遅れ、設計変更など複数の要因が指摘されています。安全確保が重要な要素であることは間違いありませんが、それが唯一の理由ではありません。また、遅延によって生じる経済的損失や国際的な信頼への影響などを懸念する声があることも事実であり、それらの意見を「くだらない」と一蹴するのは適切ではありません。
この文章は、筆者の個人的な経験と強い問題意識に基づいて、理系分野の労働環境の利点を挙げつつ、エンタメ業界の労働環境を厳しく批判する内容となっています。理系分野における労働安全衛生の重要性や規制の存在については、一定の事実に基づいた描写が見られます。また、エンタメ業界で長時間労働や取引上の問題が発生していることは、引用されている記事も含め事実として確認されています。
・エンタメ業界全体に対する極端な断定、感情的な表現、根拠のない決めつけ(「地獄」「ヒステリーを起こして暴れ狂う」「 Permalink | 記事への反応(0) | 19:54
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。