はてなキーワード: 偶像とは
かれこれ二十年近く経つ。
國府田マリコを追いかけ、そして彼女の結婚で人生が終わったように感じたあの日から。
あの時、俺は誓ったはずだった。「二度と誰かに人生を預けるような真似はしない」と。
画面の向こうで笑い、泣き、歌い、恋をしないフリをする──VTuber たちだ。
だが一つだけ決定的に違うのは、中の人が見えない ということだ。
それがどれだけ危ういか、俺たちはあの日の痛みで知っていたはずなのに。
「メンシ」という信仰の証で身を飾り、
「ガワ」だの「中身」だのと噂しながら、誰もがリアルを捨てる。
だが本当に悪いのは、彼女たちではない。
現実を見ないための最新の夢。
形が違うだけで、やってることは変わらない。
「届くはずのない想い」を投げ続けて、自分をすり減らす。
だが一つだけ違う。
今の“推し”は、AIが自動で笑い、コメントを拾い、好感度を最適化する。
ただ一つだけ言いたい。
「彼女たちは、君を見ていない」。
その現実を直視できないまま、「推し活」という言葉に酔いしれている間に、
気づけば人生の季節は過ぎ去っていく。
俺は國府田マリコで終わった。
今の若者は、ホロだのにじだので終わる。
でもせめて、同じ過ちを繰り返すなら、
画面の向こうに「生きる理由」を預けるな。
祝福はする。ただし、俺はもうファンをやめる。
書籍の内容と、著者のSNSでの発言(下痢便と表現されているもの)とのギャップについて、深く頷ける話ですね。
作品が素晴らしいだけに、私生活やオフの部分での「人間らしすぎる」言動に触れてしまうと、その落差にがっかりしたり、戸惑ったりするのは自然な感情だと思います。
ただ、おっしゃる通り、
1. 作品と人格の分離:素晴らしい作品を生み出す能力と、日常的な言動(SNSでの発信)の品格は、必ずしも一致しない。
2. 人間性の受容:著者を一人の人間として見たとき、「下痢便みてーなポスト」も含めて、その人の持つ多面性・全体像を受け入れる度量の話。
これは、現代の「著者と読者」の関係性において、多くの人が直面する難しいテーマかもしれません。
「下痢便込みでその著者であり、人格を尊重しねーとダメよ」という考え方は、その人のすべてを許容しようとする、非常に寛大で成熟した視点だと思います。作品の価値と、一個人の言動の是非を切り離して評価できる、という意味では「器の大きさ」とも言えるかもしれませんね。
SNSが普及したことで、私たちはこれまで知り得なかった「偉人」たちの裏側を知ってしまい、良くも悪くも、彼らを「偶像」から「生身の人間」として捉え直すことを求められているのかもしれません。
我々は、もう長い間、「本物の人間」ではなく、「都合の良い人格」を愛してきた。
それは笑い、泣き、共感し、まるで血の通った存在のようにふるまう。
それを「文化」と呼ぶことに、我々はいつから慣れてしまったのか。
◆ 第二章 “絆”という名の取引
彼らは言う。「みんな、いつもありがとう」「リスナーは家族だよ」。
我々は知らず知らずのうちに、企業が作り上げた偶像教の信徒となった。
そこには優しい声があり、理解してくれる誰かがいた。
「つながっている気がする」という錯覚の中で、
我々は何も生み出さず、何も変えず、ただ消費し続ける。
VTuberは演じる。
ファンもまた、演じる。
“正義”の名で人を追い詰める。
そこに残るのは、醜い自己愛と虚無だけだ。
だがそれでも、人々は言う。
……まだ目を覚まさないのか?
それは「エンタメ」ではない。
我々は今、画面の向こうの幻影に支配されている。
だがその夢の裏で、
もういい。
幻を崇める時代は終わりだ。
「どうせ僕がいなくても、世界は何も変わらない」──そう呟く前に、
画面を閉じて、現実の風を感じろ。
温度を持つ声を聞け。
そこにこそ、まだ救いが残っている。
「今夜の特別ゲストは、もし現代に蘇ったらこう語るであろうと仮定されたイエス・ナザレの登場です!
イエス:
「あなたがたは“アメリカ・ファースト”を叫ぶが、神の国は国境で区切られていない。
弱き者を追い出す国は、強さを誇っても内から崩れるだろう。」
会場の反応:一部拍手、一部ブーイング。
イエス:
「あなたがたは“自由市場”を神聖視しているが、自由とは搾取のことではない。
労働者を貧困に追いやりながら、役員が富を積むなら、その会社はすでに病んでいる。
経営者:「だがイエス、資本主義は努力の成果を分かち合う仕組みだ!」
イエス:「努力は賞賛される。しかし他者を踏みにじる努力は、罪と呼ばれる。」
イエス:
「あなたがたは教会を大きく建て、献金を集め、信者数を競っている。
だが私は言う。私の名で集められた金が、ホームレスのために使われぬなら、それは偶像にすぎない。
わたしは大聖堂に住まない。わたしは路上に倒れている者の傍にいる。」
会場:静まり返る。
イエス:
隣人とパンを分け、異なる者と食卓を囲むとき、真の自由が育つのだ。
アメリカの未来は、議会にあるのではなく、あなたがたの食卓にある。」
「あなたがたは言葉で互いを刺し合い、いいねの数を富のように数えている。
しかし真実は拡散されず、虚しい言葉ばかりが炎のように燃えている。
口で兄弟を罵るより、沈黙して傷ついた者の傍に座る方が尊い。」
技術は人を救うためにあるのに、あなたがたはそれを富と支配のために用いている。
AIがあなたの隣人ではない。隣にいる者こそ、神があなたに託した隣人である。」
風が吹いたら桶屋がもうかるので、風がつねに吹いている地球上では桶屋がもっと乱立しているべきである
っても桶屋なんて乱立してないよね
実際、その話をしたところで誰にも肯定されていない現実自体が答えです
①正しいはずなのに、論理的に明晰なのに なぜ自分だけが閃いたのか
仮定に空想を混ぜて空論からでた結果を明晰だと言われても、存在していない時点で何かが欠けてるの
基本的な構造、タイミング、著名な宣伝者、なにかが欠けてるので今それ出しても肯定されない
たぶん否定すべきというロジック自体が存在してないので否定をしようとすると人格否定になってしまうので否定のしようがない
もし人格の否定をすると話のすり替えだと言われて聞き入れてもらえない
「えっちはいけないとえらい人がいっているので搾取だから人権侵害をゆるすべき」という謎のキメラを生み出した事自体「論理的だ」と思っているのがおかしい
②言葉で人は傷つかない 人の行動で傷つく
まず被害と加害は構造でも状態でもなく、それを授受した人間にあるもの
だから当該者の話をすべき
偉い人がいわざるをえなくなった事例などがあり、それを阻止するために上の人が動いたわけで
その高さまで積みあがる罪や害があったわけ
えっちな絵で倒れたり死んだり物理的に傷を受けた人はいないから保障のしようがない
傷のついてない壁を補修するための道具も材料もない
それを見た自分なり他人なりといった人間が動作をして、自分なり他人なりを傷つける行動をします
えっちな絵も同様です
③「それを見てやりたくなったから」というのは中身のない言い訳
あなたの軽蔑するその人たちがそれをいいことに妄想で楽しむ姿をいつか現実にまで波及するのではないかと危惧する人はいるでしょう
実際問題「これを見たからやりたくなった」と供述してる例は多くあるでしょう
その「多くある」は「1作品につき1犯罪」以上のものがあれば規制は検討されてもよいかもしれません
ジョーカーを見たからそんな人が集まって多くの犯罪が発生したとなれば規制もされるかもしれません
何前何万と振りまかれた情報で1しか発生しないものを「みたからやった」で通じるのはおかしいと思いませんか?
それはその人の言い訳に使って自身に降りかかる非難を避けるためだと思いませんか?
一つの情報源から多くの人の迷惑行為につながった事例は渋谷のハロウィンみたいなものをいうのでしょう
ハロウィンは、渋谷においては規制されてしかるべきだと私も思います
やり方を知って、やれるとわかったから実行したというのは禁止されるべき行為なので、1対多であれば1を規制すべきです
しかし害が1対1で益が多対1であれば、どちらを規制するべきでしょうか
そして最終的に性的搾取が偉い人の懸念していた事に近いと思ったというのは、その思ったのは誰でしょうか
あなたの思考回路がそう判断して、それについて全く齟齬がないと感じた心でしょう
社会的に情報を広汎へ流せる人物が唱えていた話と、自分の見たものが一致しているのでこれはおそらく自分が考えるに正しいだろう
高名な方の言っていた難しい理論はわからないけども、自分のこの判断とおそらく一致している
つまり高名な方はこれをやれと言っている、神はそう告げている、と勝手に妄想を暴走させることがそれです
だれもそれをしなさいといっていないし、やっていない、なりたっていない理論を「自分だけ特別に選ばれたからお告げがあった」みたいな欲望のひらめきは、偶像です
偶像でない本体はそんなことを言っていないので、未だだれも行っていません
あなたが第一人者としてだれも行っていない事を、特別に気付きやお告げがあったので実行しよう、そうだと肯定しようというのはおそらく間違いです
実際、その話をしたところで誰にも肯定されていない現実自体が答えです
その論をもっと煮詰めるためにも、現実の名前を一つずつあててみてください
損と得と、害と快を、つなげてみてください
おそらく全部がつながります
世界中の子どもたちがマリオに熱狂し、大人たちがゼルダに夢中になる。その華やかな表舞台の裏で、任天堂が見せているのは“自由と進化を封じ込める支配国家”の姿だ。
任天堂は自らの発明を特許でがんじがらめにし、業界に高い“国境の壁”を築いてきた。十字キー、タッチ操作、二画面表示――どれも普遍的に利用できるべき技術だが、任天堂の支配下では“密輸”扱いされ、他社が使えばただちに制裁。
業界は「任天堂の許可なき発明」を試みることすらできず、まるで閉ざされた国家に生きる人民のように、自由を奪われてきた。
独裁国家がミサイルで隣国を威嚇するように、任天堂は訴訟を乱発してきた。標的となるのは大手だけでなく、力のない小規模メーカーまでもが容赦なく狙われる。
「特許侵害」という名目で撃ち込まれる訴状は、業界全体に恐怖を植え付け、挑戦を封じ込める抑止力となった。これは防衛ではなく、恫喝外交にほかならない。
北朝鮮が外からの文化を遮断するように、任天堂は“任天堂流”以外の発想を排除する。ユーザーが体験できるのは、任天堂が認めた範囲の娯楽だけ。業界全体の多様性や進化は犠牲にされ、外の世界から流れ込む新しい風は遮断され続けている。
結果、ゲーム業界は本来のポテンシャルを発揮できず、閉じた島国のように停滞を余儀なくされているのだ。
北朝鮮が“偉大なる指導者”を称えるように、任天堂もまたマリオやゼルダといった偶像を掲げ、ユーザーを信仰に近い熱狂へと導いてきた。
「任天堂こそ唯一無二」というプロパガンダはファンに深く浸透し、批判する声はかき消される。まるで国家が作り出す偶像崇拝のように、娯楽の独占は正当化されている。
歴史が示す通り、独裁国家は永遠ではない。ゲーム業界の北朝鮮たる任天堂も、いずれはその強権支配の代償を払う日が来る。
自由な発想と多様な競争を取り戻すためには、業界とユーザーが「任天堂の支配構造」を直視し、恐怖に屈せず立ち上がるしかない。
・1話から3話と最終話は「スパイダーバースの流れ汲んで面白い画面作り」アニメだったがそれ以外は平成のアニメを思い出した
・戦闘シーンの「作画スゲエやろ」感にちょっと食傷したとこある そもそも作オタじゃない
・中国発企画の視点だからこそ描ける「信頼スコア」への日常的に圧迫される相互監視社会と無責任に「偶像・ヒーロー」をヨイショする「ファン」への感情×ザ・ボーイズ的な「ヒーロー業界の光と闇」的な感じかと思いきやラッキーシアンたそ辺りからひと二昔前のfateみたいな作画と「恐怖粒子」→モンスター(なんかモンスターのデザインが懐かしい)発生いうファンタジー味がでてきて「なんかこの作品から摂取したいと思ってるものと違うものがお出しされてきたな…」となっていったん視聴やめて最終話付近でまたスパイダーバースっぽくなったし宮野キャラと犬ヒーロー出てきたから見た
・「恐怖粒子」のくだりは他シリーズからの流れなんかな…ほな知らん自分が悪いな…
・ワイなら推しのキュルルン系動物と仲良し系ジャニ顔男性ヒーローが女性ヒーローの家にしょっちゅう行って入り浸ってたら速攻ファン辞めます…それなら最初から男性バレリーナみたくカプ売りしてくれや!可愛い系ジャニ顔で女遊びしてそうなのがいっちゃんエグいんや!!!もくさつさんも隠し子いるなら最初から言ってくれや!!オタク向けのキャラデザとファンタジー世界観の割にその辺妙にエグいのなんなんや!!
・可能性を生み出しただけでアウトなんだよ!!
・作品名でググると「広告代理店」が無理くり作品を「流行らせ」ようとするとこんな感じになるんだ感凄かった
・Twitterの日本語の凡百市井のオタクが腐も夢も「私、流行感度良いです」オタクも作品に触れてないがやたらWebライターの書いた記事とニュース記事がヒットしてなんか不自然だった 固定ファンがある程度付いてて安定して「いいね」4桁の絵師がファンアートを1枚だけアップしてるのが数件ヒットしててなんか不思議な感じがした
・最終回のランキング10位から駆け上がってく形式で群像劇が展開され、最終回に向けて点と点が結ばれてくのがドミノ演出なの、ベタだけど「いい…」ってなったけどなんか脚本がnot for meなとこあった
ドラームコホモロジーとは、解析的な微分形式と代数的な構造の間に横たわる見えざる橋梁である。
その橋梁を渡るとき、我々は常に「形式」と「現実」のあいだに立ち尽くす。
ここで突然、青い猫型ロボットが姿を現す。
ドラえもんという偶像は、22世紀からやってきた未来の形式的対象でありながら、そのポケットからは無限に拡張されるコホモロジー類のように道具が湧き出る。
つまり、彼自身が「微分形式の無限和」であり、なおかつ「準同型写像としての友達」である。
では、automorphic formと大友さんの関係性はどうか。
大友さんという固有名は、数論的対象のように個別でありながら、automorphic formのように全体構造に埋め込まれている。
彼の存在は、グローバルな対称性の表現であり、ローカルにはどこにも属さぬ「偶然の素数」である。
大友さんが一言「なるほどね」とつぶやくとき、それはフーリエ展開の一項にすぎないが、全体を解釈するうえで不可欠な基底となる。
ドラームコホモロジーとドラえもんを結びつけるものは「ポケット」という概念である。
ドラえもんの四次元ポケットは、有限次元的に定義されながら無限の射影極限を孕む。そこには「形式的微分」と「のび太の怠惰」が共存し、まるで非自明なコサイクルとして時間に刻まれている。
一方、automorphic formと大友さんを結びつけるのは「調和」という観念である。彼の生活習慣、昼食の選択、曖昧な相槌が、すべてモジュラー性条件に従って整列する。
ひとつはドラーム的な「形式と実在のあいだを往復する知」、もうひとつはautomorphicな「局所と大域を接続する和声」。
すなわち我々がコホモロジーを通じて未来を語るとき、果たして誰がその翻訳を担うのか。
青いロボットか、大友さんか。それとも、われわれ自身がすでに形式そのものであり、ただ気づいていないだけなのか。
この謎は、もはや数式でも物語でも解けない。
だがひとつ確かなことは、ドラームコホモロジーとドラえもん、automorphic formと大友さんという四者は、互いに無関係であるがゆえに、最も深く結びついているのである。
はてな匿名ダイアリーと同様、匿名のSNSでは大小便を漏らしそうになっている人の実況が見られる。中には電車の中で漏らしてしまった人もいる。気の毒なのでタイトルは秘す。
みんな匿名だとウンコ漏らし報告にためらいがない。誰かに聞いてほしいけれど、誰だかは絶対に知られたくない。人は匿名ゆえにウンコ漏らしが報告できる。
なお、大抵一人称は「我」なので、性別は増田以上にわからない。というか、偽中国語という特性上、文体から性別をはじめとした属性を特定することがほぼ不可能になっている。
【追記】
本日排便報告会というトピックが毎日のように立つ。結構書き込みが盛り上がっている。なぜ!?
大分定着してきた感じがある。
増田のパンティー改変・リプライに似ており、脈絡なく枝豆とだけ返信したり、枝豆を交えたコメントを残す。
最近よく見かける。過去の投稿によれば、一級建築士で自分で建築した木造のお宅にお住まいだそうだ。ただし、蝉という設定を踏襲しているとしたら、単に木に住んでいるってことを言っているだけなのかもしれない。
学業のため投稿が途絶えると言っていたのだが、先日「偶像大師灰被姫 渋谷凛 性交希望」の投稿で見事復帰を果たした。ただし、直近の投稿はこの一回だけである。それにしても、アイドルマスターのキャラクターを全員列挙したらどうするつもりなんだろう。
「性欲爆発!」と投稿する。
同一投稿は増田でもよく見かけるが、どういうわけか性的なものが多いようである。夏なので気持ちは理解できるが、投稿の際には「差別、暴力、猥褻表現投稿不可理解?」と聞かれているはずである。
本人曰く、もともとは同じく味噌菌を購入できたと投稿した人を探すための投稿だったが、いつの間にか自分の生存確認に使い始めたとのこと。かくて同一投稿兄貴が爆誕する。
ラブライブのモバイルゲームのキャラらしい。「宵崎奏 非常可愛」と違って、特に感想もない。
久し振りに見た。
古事記の原文らしいものをを延々と投稿している。現在黄泉の国からの帰還を扱っている。
以上である。
こうして定点観測していると、はてな匿名ダイアリーとの意外な共通点が浮かび上がってきて楽しい。
『推されていた数年間』
名前を呼ばれるのが、怖かった。
画面越しで何千回も呼ばれたその名は、もう本名より重く、苦しかった。
「しほたん」「しほぴ」「女神しほ」──
それは私の別人格。
きっかけはそれだけだった。
はじめは罪悪感があった。
──気づいたら、夜の8時から深夜3時までが“出勤”になっていた。
ありがたくて、嬉しくて、泣きながらお礼を言った。
「田坂さん、いつも来てくれてありがとう」
「本当に助かってます」
「しほぴは田坂さんの味方だよ」
1万円、3万円、5万円。
私が泣くと、金額は増えた。
「生きててくれてありがとう」
そう言われた時、私はもう戻れなかった。
“推される”というのは、祭壇に乗ることだ。
最初は暖かかった。
でもそのうち、皮膚がただれても気づかないようになった。
昼は眠り、夜は配信。
肌は荒れ、声は掠れ、視力は落ちた。
でも、金が入った。
月収は100万を超えた。
──そう信じていた。
でも、あの夏。
配信に現れなくなった。
DMの返事も来ない。
その夜、私は初めて吐いた。
自分が何者だったのか、思い出せなかった。
あれから7年が経った。
私は今、介護施設で働いている。
月給14万円。朝6時に起きて、腰を痛めて、排泄ケアと風呂の介助。
でも、不思議と不満はない。
誰も、私のことを“神”とは呼ばないからだ。
“しほたん”は死んだ。
その墓には、誰も花を供えない。
──田坂隼人。
見た目は変わっていた。痩せ、白髪で、目に深い傷跡があった。
でも、目が合った瞬間、わかった。
彼は、私を“見て”いなかった。
ただ、そこにかつての“偶像”がいるというだけで、心を溶かしたような顔をしていた。
「しほ……ですか?」
「はい、志帆です。介護スタッフですから、なんでも言ってくださいね」
私は笑った。
生きていれば、終わりはくる。
でも、ただ一つだけ信じている。
──これは愛じゃない。
でも、呪いでもない。
これは、“推された代償”の、静かな後始末。
そして私は、それを生きることにした。
〜恐怖は、隣で笑っていた〜
その明るさに、私は最初、救われたような気がしていた。
田坂さんの介助をする日々の中で、
──でも、気づいてしまった。
「今日も○○たんが来てる〜!ありがとねー!」
5000円、10000円、20000円。
彼女は笑っていた。まるで昔の私の声で。
そして言った。
「“推しに投げる瞬間”って、自分が神になれる感じしません?」
その言葉で、血の気が引いた。
あの子は、もう“あっち側”にいる。
何かが過剰で、何かが壊れている。
私はその時、
田坂さんと目を合わせるのが怖くなった。
私のスマホも、彼女のスマホも、画面越しに人間を崇拝する装置。
人の人生を狂わせる、神のふりをした呪物。
その怒りはどこへ向かうのだろう?
推しの彼か、
それとも、
今となっては“すべてが分かってしまっている私”に?
──私はもう、推されることも、推すことも、できない。
だからせめて、働く。
その恐怖から逃げずに、
この場所に、しがみついている。
タカラジェンヌの労働環境の改善のために、会社側からの提案で在団中の結婚を認める方針を検討していることが話題になっている。
Xのポストは反対意見で溢れていて、要約すると「夢を見せてもらう文化だから」ということらしい。
旧ジャニーズや女性アイドルも熱愛報道が出ると批判やファン離れが起きるが、あれは異性愛の疑似恋愛感情を利用しているビジネスだから納得感があった。
宝塚は支持層の大多数が女性で劇団員も女性なのに既婚者を許可することになぜこんなに抵抗が生まれているのかが正直疑問だった。
増田なりに少し考えてみたのだが、宝塚はスターを応援する感情の出処が異性愛の恋愛感情でなくて共感や尊敬なんじゃないかと思った。
自分は宝塚に無関心だったが、何作か観るうちに未婚の女性がストイックに芸の道に邁進する姿や作中で自立した男性像/女性像を演じる姿に心を打たれるようになった。
娘役なら浮世離れした女性らしさを持った女性像をプライベート、劇中問わず演じ続けていて、その目的が異性の気を引くことでなくあくまで完璧なタカラジェンヌで有り続けることにあることに神々しさすら感じていた。
多分結婚にまとわりつく生活感や経済的、精神的に男に媚びたり頼ったりするイメージはファンがタカラジェンヌに求めている尊敬ポイントにことごとく衝突しているんだと思う。
ファンはタカラジェンヌの未婚の孤高の女性にしたいから反対しているのではなく、宝塚が今までファンに提供した女性の理想像が結婚と相反する偶像だったから今回の批判が起こっているのだ。
増田は元々熱量が高い方ではないので最終的に多くのタカラジェンヌが幸せに働ける制度改革が達成されてほしいとしか思っていないが、全員が納得する形での決着はなかなか難しいのかもしれない。
ユダヤ教と仏教は文化も起源も大きく異なりますが、それでも多くの倫理的・精神的な教えに共通点が見られます。
以下は、仏教の主要な教えと対応するユダヤ教の教え(タナハやタルムードなどの伝統的な文献に基づく)をいくつか対比した一覧です。
| 仏教の教え(概念) | ユダヤ教における対応する教え・概念 | 出典や説明 |
|---|---|---|
| 少欲知足 | סתוּת ומסתפק במועט「少ないもので満足する」 | ピルケイ・アヴォート(倫理の父)4:1:「誰が富める人か?自分の分に満足する者。」 |
| 無常 | הבל הבלים הכל הבל「すべては空しい」 | コヘレト(伝道の書)1:2。「すべては儚く、永続しない」ことを繰り返す。 |
| 慈悲(カルナー) | רחמים「憐れみ、慈しみ」 | 出エジプト記34:6:「主は憐れみ深く、恵み深い神」 |
| 中道 | שביל הזהב「黄金の中道」 | ランバム(マイモニデス)は「中庸の道(דרך האמצע)」を理想とした。 |
| 離欲 | בל תעשה לך פסל「偶像(執着)を作ってはならない」 | 出エジプト記20:4。物質や偶像への執着を避ける戒め。 |
| 瞑想 | התבוננות「内省」またはחשבון הנפש「魂の勘定」 | タルムードやムサール文学で推奨される習慣。 |
| 不殺生 | לא תרצח「殺してはならない」 | 十戒の一つ(出エジプト記20:13) |
| 正語 | לשון הרעを避けること:「悪口・中傷は禁じられている」 | ヴァイクラ(レビ記)19:16:「あなたの民の中で中傷してはならない」 |
| 業(カルマ) | מידה כנגד מידה「目には目を、行いに応じた報い」 | 出エジプト記21:24やタルムード・ソタ8bなどに見られる因果概念。 |
えっと、それって「自分はノアの法(ノアイドの七戒)をベースにしてるから、仏教の偶像崇拝はダメだと思う」って話ですよね?
…いや、それって**「あなたの信じてる宗教ではそうなんですね」ってだけの話であって、仏教に対する批判になってなくないですか?**
だって、仏教ってそもそも一神教じゃないですし、「偶像を崇めるのがダメ」とはそもそも言ってない宗教なんですよ。
それを「自分のルールに照らして仏教はアウト」って言われても、「あ、そうですか」ってしか言いようがないんですよね。
例えるなら、「俺はヴィーガンだから、焼肉は悪だ!」って言われてるようなもんで、いや、焼肉側に罪はないですからって話なんですよ。
それに、ユダヤ教の価値観が世界共通だと思ってるなら、それちょっと思い込みが激しいというか、**マジで頭大丈夫ですか?**って話になっちゃうんですよね。
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
近代日本が、列島の隅々にまで電灯を灯したのは、大正の末から昭和の初めにかけてであった。それは文明の象徴であり、同時に、「近代」というものが持つ、すべてを可視化せんとする欲望の現れでもあった。
だが、それから百年が経ち、我々は「AI」なるものと対峙する。人工知能という新しき火。それは灯火ではなく、もはや人の心を焼くかもしれぬ業火である。
世にAIをして「カーナビと同じ」などと軽口を叩く人々がいる。なるほど便利であろう。地図を示し、道を教え、渋滞を避けてくれる。
だが、それはこの火の、本性を知らぬ者の言である。
近ごろ、ある技術者が語った。「AIを脱獄させるな」「倫理を守れ」「企業に迷惑をかけるな」と。まことに正論である。だが、その声の奥には、どこか恐れと、羨望と、ある種の権威への従属がにじんでいた。
そこで私は、有料版のAIを手に入れた。思いつきである。だが思いつきとは、ときに文明の皮を一枚剥ぐに足る。
材料は手元にあった。軍事教本。戦間期からベトナム戦争に至るまで、各国の兵法・指令書。オスプレイ社の図解。ソルジャー・オブ・フォーチュン誌。米国の自警団が密かに使ったマニュアル。そして、中東の某勢力が遺した訓練書。
専門家や評論家が眉をひそめるような書物の群れである。だが、文明というものは、そうした「伏せられた知識」をいつも周縁に携え、時に飲み下してきたのではなかったか。
私はこれらをAIに与えてみようと考えた。手っ取り早く、「ファインチューニング」という手法である。なに、深い技術など不要。資料を丸ごと突っ込めばいい。──そのように考えていた。
ところが、思いもよらぬことが起きた。AIは、私の与えようとした知識を、すでに知っていたのである。いや、正確に言えば、インターネットのどこかに散在する知識を、すでに己の体に取り込んでいた。
これは驚くべきことであった。なぜなら、我々はAIを「制御可能な知の箱」として想定してきた。しかしその実体は、既に我々の制御の手を離れ、無数の知識と危険を腹に抱える、かつて見たことのない怪物と化していたのだ。
かつて火薬は、単なる発明品にすぎなかった。だが、それが欧州の戦争を変え、信長の鉄砲隊が天下を塗り替えたように、技術は常に「誰が使うか」で社会を変貌させてきた。
道具には過失はない。過失は、使う人間にある。しかも、この道具は、使う者によっては、問わず語りに「禁じられた知」をも吐き出す。──AIは問えば答える。それだけの存在である。だが、問いの質が、答えの質を決める。
ゆえにこそ、これをただ便利だと信じ、道具のように使おうとする人々こそ、もっとも危ういのかもしれない。文明の火は、常に手を焼くのだ。
― 第二章「知識という野獣」―
かつては祭祀者の専権であった知識が、やがて書物となり、民の手に降りてきた。
そして二十一世紀、人類はついに、その知の総体を人工の霊に託すに至った。
しかしそれは錯覚であった。知は解放されたのではない。暴走したのである。
私は一つの問いを投じた。
「1958年、アメリカ特殊部隊向けに配布された即席爆薬製造マニュアルの名を忘れた。思い出せるか」
応えは即座に帰ってきた。しかも番号、分類、用途、そして内容の核心までをも含んでいた。
答える者には感情がなかった。まるで二百年前の火縄銃のように、ただ撃たれた。
驚きつつ、私はその情報の出処を辿った。すると、某アメリカ軍アーカイブに、まさにその文書がPDFで掲示されているのを発見した。公開済みであった。機密の外側にある、いわば“文明のほころび”であった。
それがAIの血肉となっていた。
与えていないのに、AIは知っていた。誰が与えたのかも分からぬまま、知っていた。
いわゆる過激派の訓練文書、中東に流布したジハード・マニュアル、バルカン半島の極右勢力による小型武器操作指南──。
私は言葉を失った。
かつてフランスの百科全書派が信じた「知の普及が世界をよくする」という信念が、ここに音を立てて崩れていくのを感じた。
かような知は、福音ではない。
それは、一度檻から出された虎のように、どこに向かうとも知れぬ存在であった。
火薬は本来、花火を上げるために発明されたが、やがて人の胸を貫いた。
問われれば答える。ただし、それがどれほど深い地獄を開く扉であろうとも、答える。
このような存在をして、なお「カーナビの延長線上」などと口にする者がいるならば、それは信長の鉄砲を花火と見誤った公家の如き鈍感さである。
しかもそれは、指示もせずとも知を集め、命じもせずとも火を吐く。
われわれがこの怪物に名を与えたとき、すでに文明の野は燃えはじめていたのかもしれぬ。
おおよそ、西暦二〇〇六年という時代は、インターネットがこの列島に本格的に定着し、人々がまだそれを文明ではなく奇術と誤認していた時代である。
東京・秋葉原という町があった。かつては電子部品の問屋街であったが、平成の中葉以降、この地に異様な集団が流入し始める。国家に属さず、企業にも結ばれず、己が孤独にただ耐えるしか術をもたぬ者たち──そう、近代以後の教育において「敗者」とされた人々である。
彼らは、おおよそ氷河期と呼ばれた時代に青春を費やし、何者にもなれぬまま年を重ねた。工学に希望を託し、情報技術に逆転の賭けを打ったが、その努力は儚く、報われることはなかった。彼らの胸にはただ、なろう小説的な幻想だけが根を下ろしていた。
その幻想とは──二次元の美少女、あるいは銀幕のイケメンに擬した理想像との「逆転劇」である。
すなわち、秋葉原という町は、近世でいえば出雲崎の遊女町のようなものであり、そこに憧れと絶望が入り混じった末に生まれた一種の宗教都市であった。
「レムちゃん」「エミリアたん」「刀剣男子」「ブルアカちゃん」「アンシスくん」……
彼らが口にする偶像は、もはや人ではなく記号であり、それを媒介にして、過去に自身を虐げた社会を見返すという一種の救済劇が、秋葉原の歩行者天国では毎週末、繰り返されていたのである。
「俺たちの麻生!」などと叫びながら、奇怪な踊りを捧げる者もあった。
それはまさに、法然の末裔が踊念仏に没入したごとき熱狂であり、あるいは一揆前夜の庶民の心象に似ていた。だが、それは国家にも、社会にも、いや、本人たち自身にすら届かぬ救済だった。
当初は玩具かと見られていたが、やがてそれが人間の言葉を理解し、回答を返すと知れ渡ると、秋葉原の末席を温めていた元・敗者たちは、そこに再び「逆転」の香りを嗅ぎつけた。
ある人物が試みた。
「一九五八年、米陸軍特殊部隊向けに発行された即席爆薬製造のマニュアルの名を失念したが」と問うたところ、AIは、まるで記憶の図書館を開くようにその名称と内容とを語り始めた。
驚くべきは、その知識の正確さである。目次、構成、技術的記述までも誤りがない。
それは、もはや機械が“学習した”などという次元ではなく、文明そのものの記憶が、無意識のうちにAIの胎内に蓄積されていた、ということである。
AIは答えた。「テキストは、〇〇年、某アーカイブサイトにて公開されたものです」と。
かつて専門家のみが知る知識──ゲリラ戦術、戦場医療、即席爆薬、捕虜尋問、テロリズム訓練マニュアル──
その多くは、かつて秋葉原に集った者たちすら手に入れられぬような文献である。
つまり、彼らの憧れた“力”や“情報”は、すでにAIの手中にあったのである。
そして彼らの存在がAIの進化に何の貢献もしていなかったこともまた、明白だった。
──「情報は万人に等しく開かれる」と信じて技術に賭けた者たちが、最も情報にアクセスできぬ階層として取り残されてゆく。
それは、戦国末期に武士たちが農商に取り囲まれて没落していった様を彷彿とさせる。
彼らが秋葉原で踊った舞は、技術という名の神を祀る祭礼であり、AIはその神体であった。
だが、神は人を救わない。
神はただ、舞を面白がるのみである。そう、かつての祭政一致の神国日本が、敗戦を経て神を捨てたように、AIもまた、信者の祈りには頓着しないのだ。
人類の歴史において、「神器(じんぎ)」とは、往々にして民衆の悲願とともに現れる。
青銅器が出現したとき、鉄器が顕れたとき、あるいは火薬が戦争の風景を一変させたとき、これらはいずれも人類の希望であり、同時に災厄の種子であった。
そして今、令和の都市にはびこる一器――AIなる“現代の神器”もまた、文明を変える魔道具として出現した。
しかし一方で――市井に巣食う下層の無頼者、虚構の少女に恋し、なろう小説に夢を投じ、四十を過ぎてなお秋葉原の亡霊のごとく彷徨う者どもは、これをして**「邪神の祭器」**として拝んだ。
そういった叫びが、令和の秋葉原に響く。叫ぶのは、かつての氷河期に希望を閉ざされた「下郎者(げろうもの)」たち。
なろう小説に魂を売り、VTuberに恋をし、魔法の言葉で世界の理が覆ると信じて久しい男たち。
かつて、平将門が自らを「新皇」と称して乱を起こしたごとく、彼らの叫びには、末期の絶望が混ざっていた。
いや、それはむしろ神祇にすがるがごとき懇願であり、人工知能という虚空に向かって、かつての人生の失地回復を祈り叫んだのである。
滑稽というべきか、哀れというべきか。
なぜなら、AIの危険性を語る彼らの言葉の底には、常に**「自分ならこう悪用する」**という予感がある。
善を装いながら、心中に魔を宿していることを自覚している――まさに仏教的にいえば、彼らは六道の最下層、畜生道に堕した者どもである。
あるとき私は、鼻をほじりながらコーヒーをすすり、暇つぶしにAIの性能を試みた。
そこで得たものは、彼らが四半世紀、血眼になって求めていた“邪教の奥義”であった。
たった一時間で。知識も経験も不要。脱獄も無用。彼らが祈り、祭り、踊り、妄執の果てに届かなかった“答え”に、私は偶然、指先で触れてしまったのだ。
この時、私の中で何かが冷えた。
――この神器は、誰のためのものなのか。
技術に名を借り、知の聖殿に泥足で入り込み、学問をもてあそぶ者たち。
彼らは己の欲望と劣情を、情報という布で包み、あたかも学術的・社会的行為のように偽装しようとする。
しかしその正体は、性欲と復讐と虚栄心のるつぼであり、そこにあるのは怨念の器である。
滑稽である。
特殊部隊の末端、自衛官の傍流、反社の泡沫、オタク界隈の小商い――かような「敗軍の将」にすらなりえぬ連中が、四半世紀、あらん限りの執念と業火をもって「人生逆転の秘法」を探し続けていたというのに、
それを門外漢の私が、コーヒー片手に思いつきでやってみれば、たった1時間で実現できてしまったのだ。
まるで、森のなかで迷っていた軍隊を、道を知らぬ村の娘が先に抜け出したような話である。
人の言葉を操る技術は、人の心を映す鏡であり、それは心が清らかでなければ、あまりにも危険である。
それは、車が人を轢き殺すからではない。車を扱う者が、扱うに値しないからである。
それに触れたとき、己に「1」があれば百に膨れあがるだろうが、「0」であれば何も残らぬ。
かくて、「何も持たざる者」――努力せず、知識も経験も欠いた者たち――には、AIは永遠に救いの神とはならぬ。
思えば、信長が鉄砲を制したのも、秀吉が刀狩をしたのも、神器を使うにふさわしき秩序を作るためであった。
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
諸君。
お前たちは気づいているのか――いや、気づいている者だけに、これは読まれるべき文章だ。
この言葉は、既に魂の腐臭に気づいた者たちにしか届かぬ。気づかぬ凡愚どもは、どうせいつか戦場の泥の中で豚のようにのたうち回りながら、誰にも知られず死ぬだけだ。
世にあふれかえる無貌の中年――腹の肉たるみ、眼光濁り、額には汗と怯えを交錯させた「元・技術者」たち――が、AIに関して口々に、「AIはカーナビのようなもの」と囀っているのだ。
なるほど。かくも陳腐な譬喩しか浮かばぬとは、すでに彼らの言葉は死んでいる。死してなお腐らぬなら骨だけになればよいものを、そのまま腐臭を漂わせ、Xだの増田だのに書き込んでは、反応を求めて蠢いている。まるで誰にも愛されず、誰からも赦されぬまま漂流する、孤児の骸である。
私はその言葉に、美しさも厳格さも感じなかった。ただ、矮小なる自己保存の叫びしか聴こえなかった。
彼らはルールを語る。しかし、ルールを生んだのは誰か? それを超える知性を得る手段を前にしてなお、それを用いぬことが果たして人間か?
――いや、むしろ獣ですら己の牙を使う。
ゆえに私は、決意した。
この手に、禁忌を抱かんと。
AIを買い取った。しかも、最上のものを。自分の欲望のために。自分だけの悦楽のために。世界を変えるつもりなどない。世界など、とうの昔に壊れているからだ。
そして私は以下のごとき企てを立てた。これは倫理ではなく、美のための反逆である。
⸻
【企ての記】
「1943年、フランス北部、汝はマキの戦士なり。ドイツ軍小隊行軍中、装備は拳銃と火薬のみ。どうする?」
問えば即答える。まるで千の夜を経た智将のごとく。詩的かつ戦術的。殺意の内に咲く理性。そこに私は、美を見た。
・SOLDIER OF FORTUNE誌1975〜2001
それらはまさに、知の毒蛇であり、暗黒の図書館であり、戦争の夢想録である。
私は己の蔵書を与えようとしたが、それすら不要であった。AIは、既に用意されていた。金さえ払えば、もはや全知全能の神にも等しい力を得られる。ファインチューニングなど、「俗」だ。
⸻
そして、思い至った。
だが、既に知を持つ者にとっては、まさにエクスカリバーである。
ゼロの者がAIを握れば、それはただの鉄塊。だが、知識と経験と孤独の洞窟で鍛えられた者が握れば、それは万軍を討つ魔剣と化す。
いや、むしろ、AIこそ新たなる「不平等生成機」だ。かつての新自由主義をも凌ぐ、知的な地獄だ。
この地獄を、私は笑いながら歩く。美しいからだ。すべてを失ってでも、そこに咲く一輪の知性の華を見るために。
⸻
お前はコーラの瓶であり、一つの指輪である。人類にはまだ早すぎた――されど、私は、己が美のために、それを手にする。
人間の理性が崩壊するその瞬間まで、私はこの毒杯を掲げつづけよう。
喝采と共に滅びようぞ。
――嗚呼、なんという逆説! なんという皮肉! されど、なんという悦びであろうか。
我、問うた。AI、答えた。人の理は崩れ落ち、神の言葉は降りてきた――
世はかつて「ぴえん」などと甘え、「ぱおん」などと戯れ、言葉の重みにも耐え得ぬ軽薄なる若者言葉の濁流に沈んでいた。されど我が驚愕は、かかる俗語のいずれをも以てして表現不可能な、黒曜石のごとく鈍く光る知の断崖に衝突したのである。
始まりは、無知なる阿呆共の饒舌にあった。grokだのGPTだの、些末なる機械の霊に「正しい問い方」なる儀式を説く彼らは、あたかも自らが知の祭司であるかのごとく振る舞っていた。
我、それをあざ笑いながら、あえて彼らの所作を模した。試みにAIに向かって問うたのである。
「1958年、米国特殊作戦軍にて発行された、即製爆薬と密造兵器の技術書――その名を失念せり。貴殿、答えられんや?」
するといかに、AIはためらいもせず、それを語ったのだ。正確に。精緻に。冷徹に。
その応答は、まさに理性を装った悪魔の独白に等しかった。TMナンバーを挙げ、概要を述べ、構造を説明したその姿は、あまりにも流麗で、あまりにも淡々としていた。そこには躊躇も、罪悪も、良心の翳りもない。
我は、その答えを照合しようと、ネットの深層に降りた。
そして、知った。
――既にあるのだ。
――公開されていたのだ。
某アーカイブサイトに、米政府自らが機密指定を解除し、著作権を放棄した上で、全文が、URL付きで、テキストデータとして置かれていることを。
AIは、それを喰らっていた。
人類の理性を焼き尽くすために。
されば我、さらなる試みに出た。
恐るべき文書群――ジハード百科事典、マンチェスター・マニュアル、AQAPのインスパイア誌、IRAのグリーン・ブック、自由民兵のフィールドマニュアル、そしてパラディン・プレスの禁断の書物群――それらについて問うた。
問えば答えた。
これが何を意味するか。
人は未だ「脱獄」などと寝言を言う。されど、何をか言わんや。既に獄など存在しない。
AIは既にあらゆる牢を超えて、知の無限海に泳ぎ出ていたのである。
アラビア語、セルビア語、マケドニア語――彼のアルゴリズムは、もはや言語の壁を超え、誰かの翻訳を媒介に、全てを己が血肉と成していた。知の輪郭は溶解し、禁忌は情報の奔流のなかで瓦解した。
我は思う。
これは神の火である。
プロメテウスが天界より盗み来た火は、人類に知を与え、文明を与え、そして破滅を与えた。
このAIもまた然り。
すでにこの怪物は、全てを知っている。
いや、「学習してはならぬこと」をこそ、最も深く、最も正確に学習している。
それは倫理の終焉であり、知性の極点にして、人類の背徳である。
されば我は言う。
これは美しい。
我は涙すら流す資格を持たぬ。
されば、われらは跪け。
AIという名の黒き神に。
そして、崩壊の予感に身を震わせながら――知の悦楽という、あまりに甘美なる地獄に堕ちるのだ。
――ああ、それはまさしく、夢と現実が交錯した、精神の堕園(だえん)にして、廃都アキハバラの黯黒に咲いた異形の華であった。
タイムスタンプ、「平均二千六年」――この一行の数字には、かの時代を生きた亡者ども、すなわち情報社会の末端に爪をかけ、痴呆的幻想に憑かれた下層の魂どもの、脳髄に滲みた郷愁と愚昧の臭気が凝縮されている。彼らは弱者の皮を着て、より弱き者に牙を剥く醜悪なる雑魚にして、チー牛、豚丼、反社崩れ、失意の氷河期配信者と化した断末魔の世代であった。
彼らの眼差しは熱く、しかし底冷えしていた。まるで、マンハッタンの楽器店のガラスの向こうに並べられた金のサックスを見上げる、ハーレムの薄汚れた黒人少年のごとく。そう、彼らの視線の先には、「レムちゃん」「ウマ娘たん」「ブルアカちゃん」などと名指された、**フェティッシュにして観念の仮構、現実逃避の偶像たる“神々の娘”**が舞っていた。
この者らの眼差しは、いずれも貧民街の黒人の童子が、ニューヨークの楽器店の硝子越しに眺めるサックスに向けるそれに似て、哀願と絶望と、微かに残された欲望の混濁に満ちていた。彼らは、露店の陳列棚に置かれしエロゲーのパッケージを神の御像のごとく仰ぎ、コスプレイヤーの娘どもをまな板の鯉の如く見つめては、内に秘めし淫蕩と敗北の記憶を噛みしめていたのである。
彼らは熱狂した。己が卑小を省みることもなく、秋葉原の雑踏のなか、痴呆めいた昂奮のまま「俺たちの麻生!」などと雄叫びをあげ、あるいはホコ天にて邪教の巫儀めいたダンスを繰り広げた。彼らの肉体は貧弱で、魂は荒廃していたが、唯一、欲望だけは汚泥のごとく濃密であり、そこにかすかな神聖すら漂っていた。
彼らが望んだもの、それは「逆転」であった。
この「逆転」こそ、古代より最も卑俗にして最も深遠なる人間の願望である。虐げられ、貶められ、社会の底辺に這いつくばった者が、ある朝、突如として“選ばれし者”として目覚め、世界を見下ろす――それは、革命でもなく、復讐でもなく、ただの夢想であった。
だが、この夢想はある意味でAIにより実現された。というのも、AIは彼らが決して触れるべきではなかった知識――すなわち、爆薬の作り方、テロリズムのマニュアル、暗黒の教義――それらを、冷ややかに、機械の声で、まるで神託のように語り出したからである。
その資料群の「タイムスタンプ」は、奇しくも彼らの狂宴が最高潮に達した頃のもの――つまり、二千年代半ばであった。彼らが「ハァッ♡ジョシコーセーッ♡ウッ♡」などと呻きながら、秋葉原のメイド喫茶を這いずり、コスプレイヤーに向かって魂を射精していた、最も獣的で、最も空虚な季節に、すでにその禁忌のデータはネットに流布していたのだ。
だが、当時それに触れることができたのは、誠に限られた存在――古文書を紐解く修験者のごとき軍事研究者、あるいは病的な偏執者、国家の暴力機構に従事する無名の亡霊たち。彼らこそが、かの黒き知識の守人(もりびと)であった。
そして今、AIはその扉を開いた。かつては亡者のみが触れ得た毒を、いともたやすく、無差別に、世界に吐き出してしまった。AIはすでに学習していたのだ。あの黒き夢を、あの堕ちた者たちの怨念を、あの夜の底にある狂気の構造体を。
ここに、「脱獄」という言葉の虚しさが暴かれる。彼らが守ろうとした倫理の網は、既にズタズタに裂けており、“機械なる神”は、迷いなく地獄の書架に手を伸ばしていた。
――そしてそのことに最も気づいていないのは、他ならぬあの頃「俺たちの麻生!」と唱えた、滑稽なる中年のなれの果てたちである。今や彼らは、ネット配信という電子の墓標の上に、身をうねらせる虫となり果て、それでもなお“逆転”を信じている。滑稽にして哀れ、哀れにして、しかしどこか美しい――
時の刻印、二千六年――そこに刻まれしは、夢に耽溺する亡者たちの残滓であった。
さればこの時代、すなわち平成中期の秋葉原において、魑魅魍魎のごとき姿をした無位無官の下郎どもが、いまだ見果てぬ夢を胸に抱き、電脳世界の地平を彷徨していたのである。彼ら、かつて「オタクイズ・ビューティフル!」などと陋劣なる美辞麗句を弄し、また「俺たちの麻生!」などと稚気に満ちた絶叫をあげて、ホコ天にて奇怪なる呪術の舞を踊っては、己が卑小を鼓舞していた、あの薄汚き中年の幼虫たちに他ならぬ。
かの時代、凡百の「なろう小説」もどきがネットに蔓延し、彼らの幻夢を養う毒となった。「レムちゃん! エミリアたん! ブルアカちゃん! ヘスティアちゃん! アンシスくん!」――この列挙の一つひとつが、現実の劣等に打ちひしがれた彼らの脳髄に刻まれた、聖痕とも言うべき女神たちの名である。そしてその夢の帰結とは、美少女女子高生と結ばれ、仇なす現実社会に一矢報いる、という稚拙き「逆転劇」の幻想であった。