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2025-06-20

神の妻と僕

理不尽な人を愛するすべての人へ

これは、“神のような存在”と暮らす男の祈り解釈の記録である

【1】

神は、朝に機嫌が悪い。

僕が目を覚まし、台所へ行くと、神はすでに湯気の立つマグカップを手にしていた。

おはよう」と声をかける。返事はない。僕は、今日もまた“神の沈黙”に祈るように頭を下げる。

神は、理由説明しない。

神は、善悪基準に行動しない。

神は、時に、ただ“そうである”だけなのだ

僕はコーヒーを入れる。その背中に神の視線は感じない。神はもう僕など見ていないかのようだ。

でも僕は思う

この神を選んだのは、僕自身だ。僕はこの神を愛している。

【2】

結婚して15年。

最初奇跡”は、笑顔だった。

ある朝、僕が震える声で言ったのだ。

「いってらっしゃいの時だけ、笑ってくれたら嬉しいな」

神は一瞬こちらを見て、口元をわずかに緩めた。

それは、天啓だった。

僕はあの一瞬の微笑みを、今でも何百回も思い出すことができる。

けれどそれは再現されなかった。

神は「笑顔押し付けられるのが苦痛」と言った。

僕はうなずき、悔しさと悲しさを胸にしまった。

だって、それが神という存在だ。期待は、信仰を壊す。

はいつも通りに言った

「行ってきます

【3】

「なぜ僕に冷たいのか」と問えば、神は黙る。

理由を教えてほしい」と言えば、「もうこの話はしたくない」と言う。

それでも僕は、神の言葉を待つ。

沈黙の背後に、言葉にならない痛みがあると信じている。

信仰とは、理屈でなく、信じることを選ぶ自由だ。

僕は、理不尽に打ちのめされた時、自分に言い聞かせる。

「神に説明責任を求めてはいけない」

「神のご機嫌こそが世界の均衡だ」

【4】

この家には、祭壇はない。

聖書経典もない。

でも、僕の心にはいつも「妻聖典」ある。

沈黙を読み、視線を読み、呼吸のリズムでご機嫌を占う。

それは愛という名の神事だ。

妻が微笑んだ日、世界は静かに祝福される。

その日がまた訪れるように、僕は生きる。

僕は神の妻と暮らす凡夫

それでも、たまに神が手を差し出すことを、僕は知っている。


【終わりに】

僕は、すべてを差し出す。

神が喜ぶなら、僕は空気でいい。

でも願わくば

いつか神が微笑むその時、

その光が、少しだけ僕にも当たりますように。

2024-08-04

東浩紀伝3

東は2018年12月18日ツイッターゲンロン解散を発表するが、上田洋子らに説得されて、解散は思いとどまる。東は21日付で代表辞任し、上田代表就任する。「ゲンロンに搾取されているという不満」(「ゲンロン戦記」、212頁)を抱いたそうであるゲンロンの代表として会社のために苦労しているにもかかわらず、社員は楽しくやっているように見えるのが不満だったそうだ。理解しにくいところであるが、こういう理由から自分と同じくらいの貢献を社員に求めることになるようである。「ゲンロン戦記」のこの個所は異彩を放っていて、他は笑えるエピソードなのであろうが、ここは笑えないところであろう。代表辞任という重大な局面なので書かざるを得なかったのだろうか。

上田洋子の人生ゲンロンで好転したことは疑いない。博士号取得後燻ぶっていたが、チェルノブイリツアー通訳を引き受けたところ、東に気に入られ、ゲンロンの副代表就任し、それだけでも出世であろうが、東の代表辞任に伴い、代表の座に就くに至った。代表女性ということでフェミ批判をかわせる部分もあるようである2023年日本ロシア文学会大賞を受賞している。東を諫めるべき立場ではあるが、そういうものとしては機能せず、東の発言をひたすら支持している。

2020年新型コロナウイルス(COVID-19)が世界蔓延する。東は断固としてコロナはただの風邪という立場に立った(小林よしのり×三浦瑠麗×東浩紀コロナはしょぼいウイルス世界中で騒いでるのが一番の問題。」【ゲンロン200328】)。田中康夫が切り抜き動画を作っていたのであるが、消されてしまっているようであるアガンベンも生権力批判観点からコロナ対応批判的であったが、コロナは致死率こそそれほど高くないものの、後遺症がひどいので「しょぼいウイルス」とは言えないであろう。

2020年7月黒瀬陽平セクハラが発覚する。東は黒瀬との関係を断つが、これはこの時世であるから仕方ないところであろう。黒瀬は「思想地図vol.1」(2008年)でデビューしており、ゲンロンではカオス*ラウンジ芸術校などもやっていた。

2020年10月19日シラスオープンする。ユーチューブとどう違うのかとも思われるが、その理念は「ゲンロン戦記」第6章第2節で語られている。

2021年キャンセルカルチャーが吹き荒れた年であったが、東京オリンピックでの小山田圭吾炎上が最も目立つ事例であろう。音楽家不祥事新聞の一面トップを飾ったのは小室哲哉逮捕以来ではないだろうか。この件で宮台真司小山田に対して批判的であったが、これに東は反発して、関係を断つ。九〇年代に宮台も露悪系でやっていたのだから小山田の側に立つべきだったというのであるが(「東浩紀無料突発 またどうせ消す」)、これはまっとうな批判であろう。一晩で数百万もの売り上げのあるイベント相手をこのくらいの理由で切れるのだから、東の行動原理は損得にはないということは認めていいのであろう。

2021年4月4日、オープンレター女性差別的な文化を脱するために 研究教育言論メディアにかかわるすべての人へ」が公開されたが、これはキャンセルカルチャーの烽火といっていいものであろう。日文研助教(当時)呉座勇一が武蔵大学准教授(当時)北村紗衣を鍵垢で揶揄していたことを非難するものである東北学院大学准教授小宮友根が書いたらしい。呉座は日文研から准教授への内定を取り消される。同じ年に、立憲民主党衆議院議員本多平直が辞任に追い込まれたりもしており、リベラル連携して動いていることは明らかであろう。キャンセルカルチャーの年表としては、「桐野夏生日没』と2020年代の「大衆検閲」」がある。

2021年9月29日、呉座は日文研提訴したが、これに加えて、2022年2月27日オープンレターの差出人に対して、オープンレターの削除と損害賠償を求める書面を送付し、同年2月25日オープンレターの差出人らが呉座に債務不存在確認訴訟提訴している。2021年12月に、草津町町長女性町議から強制わいせつ容疑で告訴されたのに対して、名誉棄損と虚偽告訴の容疑で女性町議を逆に告訴したりもしていたが、キャンセルカルチャーに対して反撃が始まったという印象であるツイッターでアンフェが気焔を上げていたのであるが、オープンレターは、署名していない人が署名したことになっていたり、差出人に加わることに合意していないのに差出人にされていたり、差出人が五十音順で並べられていなかったりして、杜撰なところが多く、そこを突かれていた。いわゆる法クラの弁護士が加勢したのも大きいのであろう。キャンセルカルチャーの本邦第一号としてモデルケースにするはずだったものと思われるが、躓いてしまった。

この呉座が、シラスチャンネルを開設すると発表される。キャンセルカルチャー犠牲者に助け舟を出したかたちであるが、ここから問題であった。2022年6月、呉座が春木晶子を姫と言ったところ、辻田が咎めたが、呉座は姫の初出は東である反論する。後日、春木は呉座に指摘を感謝し、東にこそ問題があると批判する(5ちゃんねる、東浩紀671の12)。このような経緯で呉座のチャンネルは、契約は未了であったものの、開設されないことになってしまった。また春木チャンネル契約更新を拒まれる。こちらはアップルパイ番組で焼いていたことも問題視された。このことからアップルパイ事件とか五反田ベース事件などと呼ばれることもある。呉座と春木ユーチューブに「春木で呉座います。」というチャンネルを開設した。

悪いことは続くものであるが、今や東のトレードマークともなった「とんこれ」発言が飛び出す。衆議院投票日を二日後に控える2022年7月8日、元総理大臣安倍晋三統一教会に家庭を破壊された過去を持つ山上徹也によって射殺される。7月10日、ニコニコ生放送で「【参院選2022】開票特番三浦瑠麗東浩紀、石戸諭、夏野剛と見守ろう」が放送されるが、中継で社民党福島瑞穂が「それで現在はまだ詳細がわかっておりませんが、統一教会との関係などとも言われております。ですから詳細が明らかになると同時に、もし自民党統一教会応援していることが問題とされたのであれば、まさに自民党統一教会によって大きく影響を受けているということも日本の政治の中で問題になりうると思ってるんですね」などと発言した。中継終了後、東は「あの、これさ……自民党統一教会関係しているからこのようなテロを招いたということを言った?もしかしたら」と述べ、一連のやり取りの中で「これとんでもない話だなぁこれ」との印象深いフレーズが口にされる。福島安倍への銃撃を容認する意図はないと思われるが、そのように曲解したのであろう。しかし、この発言ネタになったのは、味わい深いものがあったからであろう。「五反田式人文パフォーマンスは①唐突で②滑稽で③絶妙にピントが外れていないといけない。極めるのは大変ですよ」(5ちゃんねる、東浩紀スレ817の622)。狙ってやれるものではないように思われる。

2022年10月頃、暇空茜が一般社団法人Colaboの杜撰会計を追求しはじめる。これは2021年後半から始まったキャンセルカルチャーへの反撃のうちで最大のものであった。暇空の活動は、表現を燃やすものを燃やすことでキャンセルカルチャーを終わらせることを目的にしているが、そのために情報公開請求住民監査請求などの合法的手段を用いている(一部デマもあるようだが)。青識亜論のような従来の「表現の自由戦士」は原理を唱えるだけであったが、行動に移したかたちである。東は暇空についてほとんど言及していないが、暇空を支持している宇佐美展也と「都知事選は本当にこれでよかったのか!?」(2024年7月7日)で共演している。

「とんこれ」発言で東の評判はずいぶん落ちたため、それから安全運転を心がけているようであるしかし、安倍が死んだこともあり、検察が息を吹き返した。東京五輪汚職株式会社KADOKAWA会長角川歴彦逮捕起訴され、「とんこれ」発言に同席していた夏野剛が棚ぼたで取締役代表執行役社長CEO就任した。同じく「とんこれ」発言に同席していた三浦瑠璃にはそういうラッキーはなかった。夫(当時)の三浦清志は、建設の見込みがないのに太陽光発電出資を受けたとして、詐欺容疑で告発されていたが、2023年3月7日業務上横領罪で逮捕されたのである(同月27日に起訴)。三浦瑠璃はしばらく活動を休止していたが、2024年4月26日、夫との離婚を発表し、活動を再開した。

辻田真佐憲は、「訂正可能性の哲学」の副読本「訂正する力」(2023年10月)の聞き手構成担当するなど、東の最側近になっていたが、2024年5月31日の「東浩紀突発#136 ただなんとなく雑談」で批判される。「みんな格好つけたいんだろ?俺、自分が格好つけるとか考えない。ゲンロンとシラスのためにめっちゃやってるから!俺シラスを盛り上げようと思ったんだよ。シラサーと一緒に。やってくんないよ!みんな自分チャンネルのことばっか考えてるじゃん!」などの発言があったそうである(5ちゃんねる、東浩紀スレ酒849の290)。「石戸諭×桂大介×東浩紀 ネットで(ついに)社会が変わるのか?」(同年7月18日)でも辻田は批判される。辻田が論壇フェスというイベントに出るのが気に食わないようである。辻田は「【雑談配信東京都知事選後日談中間重要性、論壇フェスほか」(同年7月19日)で反論した。しかし、辻田は売り上げトップであるだけに東も軟化し、辻田がシラスを止めることは今のところないようである

現在に追いついた。これまでのあらすじをまとめると、東は郵便本で確立した視座でずっとやってきたといえるのであろうが、ゼロ年代ネット草創期のコミュニケーションの変容をアーキテクチャから考えていて、この頃がいちばんよかった。個々人は社会から下りていても、社会は回っていくというような夢が語られた。このような夢まで否定されるいわれはないだろう。テン年代になると、SNSによってネット政治的もので満たされるようになり、東はそこから距離を置こうとしてゲンロンに立てこもるようになった。ゼロ年代ネットの勢いに乗っており、その可能性を引き出すべく理論化に励んでいたが、テン年代ネットの動向に批判的になり、アーキテクチャ論も捨ててしまい、時代を作るような存在ではなくなっていった。

時代を作っているのは、左派ウォーキズムであろう。東に近かった人でも、津田藤田こちらに付いていったのであるが、ゼロ年代の東は、環境を変化させることで行動を変える環境管理型権力がこれから権力であり、内面に介入する規律訓練型権力過去のものになりつつあるとしていた。しかし、左派ウォーキズムは明らかに内心に介入しており、先祖返りしている印象である外山恒一キャンセルカルチャーについて「云ってることは新左翼だが、やってることがイジメ」(情況 2022年春号)と言っているが、これにならえば、左派ウォーキズムは、云ってることはフーコーだが、やってることがキリスト教といったところであろうか。しかし、左派ウォーキズムは収まりそうになく、これに対する抗議運動も続くであろう。

展望も記しておくべきなのであろうか。宮台真司は東に健康診断を受けるように勧めていたが、宮台はステージ0のすい臓がん発見しており、しっかりと健康診断を受けているのだろう。東はアル中ではないということらしいが、酒の飲みすぎであることは疑いない。しかし、健康さえ保てれば、今の地位は揺らぎそうもない。思想的な伸びしろは乏しいのかもしれないが、依然としてアイデアマンではあり、あと十数年は売れる本を出せるであろうし、ゲンロンも続けようと思えば続くであろう。

これでこの伝記は終わりであるが、記憶に頼って書いたところも少なくなく、誤りもあるかもしれない。東の埋蔵量は油田のようであり、書き終えられるか不安になったこともあるが、何とか書き終えることができた。これを読んだ人にネット草創期の興奮が少しでも伝われば幸いである。

東浩紀伝2

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年教育雑誌 (57) 31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。

東のゼロ年代ゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムゼロになる」という意味らしい(「現代日本批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか

3 ゲンロン

ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。

ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズ2010年4月6日創業された。2009年の秋の飲み会アイデアが出たそうである宇野常寛濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズ代表就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかたかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。

一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿2010年代に書かれたのですが、出版震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代パラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもの民意をくみ上げようというものであるゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代ゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。

サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画2ちゃんねる動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。

一般意志2.0」の次の主著は「観光客哲学」(2017年であるが、サブカルチャー批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれからアニメゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客哲学 増補版」第2章によると、観光客二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタク原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客住民暮らしなどお構いなしに無責任観光地をつまみ食いしていく。このように観光客現実二次創作しているそうである

福島第一原発観光地化計画思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発事故があり、ダークツーリズム対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズム二次創作への抵抗である(「観光客哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地観光に出かけると、普通場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである二次創作への抵抗)。

社会学者開沼博福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞ウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故イメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年東京大学大学院情報学環准教授就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣脱原発哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラー佐藤博論(「権力抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤バトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラー著作邦訳を担っている)。「脱原発哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。

観光客哲学」はネグリハート帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学であるとして、郵便マルチチュードとしての観光客対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというものリベラルマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二こたつぬこ木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実革命的なあまり革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命成功していることになるのか」(「現代日本批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。

東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうであるブレイディみかこ松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田2023年から刊行されている「岩波講座 社会学」の編集委員代表を務めている。

観光客哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学であるこちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能なのだという(森脇「東浩紀批評アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。

こうして現在2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身気質自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体境界侵犯欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀桜坂洋キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。

宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利宇野要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である映画原作なのだろう)が、宇野ウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代批評をふり返った本の終章なのだから2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。

濱野智史は「アーキテクチャ生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised情報社会倫理設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドル流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史社会学者)が経験したアイドルプロデュース真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。

千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベント千葉ゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。

大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。

福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談現代日本批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。

津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督就任し、東は2017年10月企画アドバイザー就任する。しかし、企画展「表現不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルから顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。

東は2018年12月18日にツイッターゲンロン解散を発表するが、上田洋子らに説得されて、

東浩紀

東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀特別存在であった。これは今の若い人には分からいであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からいかである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別にインターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀堀江貴文ホリエモン)、西村博之ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのであるファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。

私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたもの網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信ほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレ古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。

1 批評空間

東浩紀は71年5月9日まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介時代区分だと、虚構時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。

東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親金沢出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼新左翼左翼よりバカ!」【真実幻想と】)。

東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。

筑駒筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブ高井麻巳子福井県実家訪問したことであろうか。秋元康結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代うる星やつらファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。

もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。

東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月であるソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫ノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。

東は、教養課程では、佐藤誠三郎ゼミ所属していた。佐藤村上泰亮公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文グロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤ゼミ所属していたこから学部時代に読んだのだろう。

東は94年3月東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科を卒業し、同4月東京大学大学総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文バフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである私たち世代は三読くらいしたものである博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。

郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッター清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。

東の若いころの友達阿部和重がいる。阿部ゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイ寄稿している。川上早稲田文学市川真人によって見出されたらしく、市川渡辺直己の直弟子である市川鼎談現代日本批評」にも参加している。

東は、翻訳家小鷹信光の娘で、作家ほしおさなえ1964年まれ)と結婚した。7歳年上である不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー東浩紀批評家が中小企業経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。

そして娘の汐音ちゃん生まれる。汐音ちゃん2005年6月6日まれであるウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれ時間まで書かれている。名前クラナドの「汐」と胎児聴診器心音ちゃんから取ったらしい。ツイッターアイコンに汐音ちゃん写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。

96年、コロンビア大学大学入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試残酷なのは、それが受験生合格不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生家族に対し「おまえの未来合格不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。

2 ゼロ年代

東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である

東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だからサブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。

「いま批評場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。

動ポモ10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモフェミニストには評判が悪いようである北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモ英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客哲学」が3つと動ポモが圧倒的である2024年8月3日閲覧)。動ポモ海外論文でもよく引用されているらしい。

次の主著であるゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。

この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラ告発されたこともあるが、不発に終わったようである結婚して子供もできて幸せらしい。

その頃は2ちゃんねるネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃん俎上に載せている。北田は「広告都市東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーション接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析古典ではある。

東は宮台真司大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本ジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。

宮台や大澤や北田はいずれもルーマンであるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者馬場靖雄2021年逝去)は批評空間に連載されていた頃から存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文正義門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマン社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。

佐々木敦ニッポン思想」(2009年)によると、ゼロ年代思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義日本現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダンとは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。

佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代思想土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。

北田によると、東の「情報技術公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。

佐々木ニッポン思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝ストリート思想」が出ている。文化左翼歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代佐々木命名から勢いが増していき、今や大学メディア大企業裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会包摂」(2021年教育Permalink | 記事への反応(13) | 17:44

2024-07-12

Thomas Lockley Author

2020年3月23日

荒廃した世界で苦しんでいるすべての人へ

アフリカサムライ人生から学んだ教訓。

これは私たち時代には前例のない状況です。私たち私たち愛する人たちの多くにとって、フラストレーション、痛み、苦しみ、そして最終的には死の時代です。先進国特にその富裕層は、最近世代を通じて比較スムーズ生活様式とより良い生活水準に慣れてきました。

これは歴史的な標準ではありません。

人類歴史を通して、私たち時代はほんの一瞬です。99%の人間は、自然災害医療の欠如、食糧不足、または紛争とそれに伴う病気飢餓奴隷制などの悲惨から、混乱した、短く、しばしば残酷人生を送ってきました。

ヤスケの人生はそのような人生でしたが、彼はそれをうまく生きました。

彼は少年時代家族から引き離され、両親が虐殺されるのを見たかもしれません。

彼は十代の頃、残酷な扱いを受け、少年兵プロ殺し屋として訓練された。

彼の人間性がこれを乗り越えたことは、彼の生涯に関する歴史的記録に明らかであり、私たちが彼を人間として尊敬する理由さらに与えてくれる。

彼は雇い主によって16世紀日本戦場に連れて行かれ、現代ほとんどの人が考えられないような危険を冒すことを求められていた。

1581年、日本中央地方を巡業していたとき、彼は暴徒に襲われ、暴力で死にそうになった。他の人々はそれほど幸運ではなく、黒い肌の神だと信じていた男を一目見ようと騒ぎ立てる群衆に押しつぶされて死んだ。

その後15か月間、彼は2回、あるいは3回も戦争に行き、戦闘忍者対峙した可能性があり、何千人もの虐殺された民間人や焼け落ちた集落、致命的な病気死体をむさぼり食うカラスに遭遇したことは間違いない。

知られている最後の戦いは、13,000対30の戦いで、彼は主君切腹に立ち会い、切り落とされた首を主君の息子に与えた。主君の息子は、父の首が差し出された1時間後に非業の死を遂げた。弥助は屈辱を受け、敗北し、歴史から消えた。彼の日本一族はほぼ消滅した。彼の財産地位永遠に失われた。

それは混乱と危険苦痛人生だった。おそらく、ここ数週間、数か月の間に私たちの多くが突きつけられた人生と似ているだろう。

しかし、私たちは、弥助がユーモアがあり、礼儀正しく、行儀の良い人物として同輩から見なされていたことを知っている。他の人から尊敬される人物であり、450年経った今でも尊敬されている。彼は悲劇的な若さにもかかわらず、自分運命自分で切り開いた人物だった。彼は、地球の反対側で自分の居場所を見つけ、運命が与えてくれたわずかな可能性を掴み、誰も想像できなかった輝かしい人生を切り開いた男だった。少なくとも、彼自身は。

彼の苦しみの果てには、輝く不滅の光があった。彼は日本で愛する家族と安らかに余生を過ごしたとさえ考えられている。

今日、彼の人生記憶に残り、世界中の多くの人々にとっての道しるべ、いや英雄と見なされている。私たちの中に、このような偉業を夢見ることができる人がどれだけいるだろうか。

これから数週間、数ヶ月、私たちはみんなヤスケだ。私たち危険で死に至る世界を切り抜け、全力を尽くしてそこから抜け出さなければならない。

ヤスケがしたことをやろう。

家族愛する人安全のために、必要リスク以外は、愚かなリスクを冒さないように。

医療専門家や熱心な公務員アドバイスに従ってください。

自分の再選だけを気にする利己的な政治家アドバイス無視してください。

ヤスケになりましょう。生き残りましょう。 向こう側までたどり着いた人になりましょう。

アフリカサムライ

https://www.facebook.com/AfricanSamuraiYasuke/posts/pfbid02VjiXjiowvtvPLBxTbLhD6rmp3E8uzgUMDnjyfbrW7K76xy3PsaoX589hUuEPdvmrl

2023-09-08

ジャニーズ事務所所属タレントたちが11日、同事務所ジャニー喜多川社長が9日に87歳で亡くなったことについてファクスコメントを寄せた。

 KinKi Kids堂本剛

ジャニーさんへ この世の中にある すべての言葉と想いで綴っても 僕の胸の中は伝えることが出来ないよ あなたが命尽きるまでの 最後最後までの時間を使って 

出逢ったすべての人へと宛てた 無垢な愛に胸が熱くなったよ これからは 住む世界が変わってしまうけれど あなたが想えば… 僕が想えば… いつだって繋がれるよ 

あなたが その命の色彩を惜しみなく 捧げてくれたことを いつまでも抱き締めて生きていくよ 涙は流さずにこの体と心へと彩って あなたを愛しているという 

変わらない毎日を大切に生きていくよ 愛しているよ ありがとう 宇宙一 大好きだよ」

スポーツ報知

2023-07-27

すべての人へ積極的接種呼びかけは不要”釜萢常任理事

ワクチン接種後に体調を崩した人への対応が非常に重要だ。審査が遅れているのではないかという指摘もあり、医師会としても力を尽くしたい

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230726/k10014143221000.html

反ワクの完全勝利ですね

2022-02-19

スラングから無罪フィクションから無罪

若者言葉スラングなので、本気で言っていないからセーフ。

…受け取る側が傷ついたか問題なのであって、そんな理屈は成り立たない、というのなら、

同様に、フィクションからセーフも成り立たない。

架空物語に作者の悪意を読み取って読者が傷ついたなら、作者のスポンサーたる出版社は顧客保護すべく作者をパージして、謝罪することになる。

「当社はいかなる差別的表現も決して容認すべきでないと考えており、すべての人へ多様性を大切にします」

から特定属性人権がない世界観は、もう描けない。

例えば、巨乳が虐げられる世界とか。

戦士だけビキニアーマーを着なくちゃならない世界とか。

2021-10-20

anond:20211020174751

上位ブコメ

moo13 これはすごい。ほんとにすべての人へメッセージがある。私のためのメッセージがあった。誰かが私のために政策を考えてくれている。それだけで将来への不安が少し解消されたような気がする。

2021/10/14 blueredgreengreengreenyellow225yellow

inet_malic あなたはとても頑張っている、自己責任なんかじゃない、これは政治の責任です。って言われて嬉しかった。 政治

2021/10/14 redgreengreenyellow209yellow

hapworth 自分はこの中に該当しないだろうと思っていたら、3つ該当していた。聞いてみたら、納得のいく内容でした。当たり前のことだけど、ありがたいと思う。

2021/10/14 greenyellow138yellow

anti_happiness 様々な考え方の人々がこの国に暮らしている前提から出発して、そのあらゆる人々に対して向けられたメッセージ。少なくとも私は忘れられてないんだなと思った。

2021/10/14 greenyellow71yellow

2021-08-26

夜に出歩くすべての人へ

私は先ほど日課ウォーキングを済ませてきた。

夕飯を食べた後、少し休憩して時間は7時ごろ。

すっかり日は落ちて暗くなっている。

しかし私の日課時間で全て決めているので、暗かろうが明るかろうがウォーキングに出かけるのであった。

暗がりというものは、事件を起こすのだ。

私は暗い季節には必ず白いTシャツに反射たすき、懐中電灯を手にして行く。

これは自分のためであり、すれ違うすべての人のためだと思っているかである

まぁそれも、暗がりから現れた人には関係がないようだ。

?「なにすんだ!」

私「こっちのせりふじゃぼけぇ!」

人とぶつかった。

ぶつかった瞬間に何かが地面に当たる音がした。

わず大きな声が出てしまった。

そんな気はなかったのだが相手を委縮させてしまったようだ。

地面には落下したのは画面の付いたスマートフォン

もちろん私のものではない。

相手はそのままスマホを拾って走って逃げていった。

その後ろ姿を懐中電灯を当てながら観察する。

上下黒い服、反射材なんてどこにもついてない。

良く焦げた両腕もまた闇に溶けている。

懐中電灯ヘッドライトなんてものももちろんない。

スマホで明かりを取っていたわけでもない。

まりは、暗がりから足音立てずに出てきたのである

忍びか。

今日に限ってはこれだけではない。

これまた上下黒の男性が黒いわんちゃんを連れて散歩している。

その向こう側からランニングしている男女が来た。

すれ違う寸前にわんちゃんが吠えた。

女性が驚いてよろけて地面に倒れ込んでしまった。

わんちゃんの飼い主は何も言わずにその場を去った。

この人も、スマホを見ていた。

犬はなおも吠えている。

女性の方など一切見ない。

周りは一切見えていないのである

この場を借りてお願いしたい。

夜に歩くのであれば、明るい服を着てくれ。

着ることの出来ない事情があるなら反射たすきやベルトを付けてくれ。

自分のためにも懐中電灯を持ってくれ。

けっしてスマホを持つな。

自分身体のためにもつながると思うのだ。

そして前を向いて歩いて欲しい。

下ばかり見ていてもあるのは自分の脚だけだ。

自分以外の人間がこの世にいることを忘れないで欲しい。

以上

言いたいことまだくあるが、今はここまで。

皆、安全健康習慣を。

2021-04-04

中傷差別的発言」とは何か

研究教育言論メディアにかかわるすべての人へオープンレター女性差別的な文化を脱するために

https://sites.google.com/view/againstm/home

要旨としては、

「公正で冷静な学術議論・論争を実現するために、中傷差別的発言アカデミズムから撲滅しよう」

で、その通りだと思う。

ただし、だとすればなぜ、このような曖昧な書き方をするのか。

また私たちは、中傷差別的発言とそうでない発言との境界が時に明瞭ではないことも理解しています

しかし、事実として両者のあいだに明確な線が引けない場合があることは、その概念区別を求めることが無意味であることを意味しません。

明瞭な線引きが難しいにせよ、「何が中傷差別的発言に当たるか」が最大の論点であることは、論を待たない。

一方で「概念区別を求める」と言いながら、

「何が中傷差別的発言に当たるか」についての基準を明確にせぬまま「私たちの思う中傷差別的発言」を列挙するフェミニズムの不誠実なやり方を、今まで何度となく見てきた。

お気持ち揶揄するな」と言うが、そのように揶揄される原因は、毎度毎度、フェミニズム側の論理に内在している。

今回の件については、呉座氏の発言の中に、はっきりと中傷差別的発言が含まれていたから、多くの人が声を上げたのだという以外にはない。

何が中傷差別的発言に当たるかについて、定義することは不可能ではない。

例えば中傷については、

根拠なく、人格批判すること。

差別的発言については、

本人の選択不能属性などを理由に、批判を加えること。

のように、不完全であっても、文言に起こすことの意味は少なくない。

これらは、発言主体が誰であれ、許されざることなのだ

フェミニズムの側は、今までそうした振る舞いと無縁だっただろうか?

差別的表現でないもの、例えばただ性的表現について、根拠なく「差別的表現だ」と呼んで糾弾する行為は、誹謗中傷に相当する。

小宮先生風に言うならば「相当する可能性がある」でもいい。)

そうしたダブルスタンダードを自らに許している間は、運動として全面的に支持を集めることはないだろう。

2020-03-30

夫と、夫を飲み会に誘うすべての人へ

夫に飲み会に行ってほしくない。


今が堪え時だと、多くの人が言っている。

会いたい人と会うことを避け、行きたいところへ行くのをやめ、耐えている人たちがいる。

少しでも感染の勢いをおさえようとする人たちが、最前線で命をつなごうと、ギリギリの中で奮闘している人たちがいる。

から飲み会を、お願いだから、この時期だけでも、辞めてほしい。


私は知っている。

夫が仲間たちと酒を飲み議論を交わし、夜中まで何度も話し合い肩を組んで逆境を乗り越え、ここまできたことを知っている。その時間があったおかげで夫にとって大切な仲間ができたことを知っている。

そして今、なんとか動かないと自分所属している会社が大変なことになるかもしれないと思っていることも、「こういうときこそチャンスだ」と前向きな努力をしようとしていることも、知っている。

子どもたちを養うために一生懸命働いているのも知っている。

あなたのおかげで私たち生活ができているし、楽しい生活を送ることができている。美味しいごはんが食べられる。本当にありがとう


けれど、今は飲み会をやめてほしい。

夫を飲み会に誘う人がいる。本当に、今はやめてほしい。週に1回でも、やめてほしい。少人数で、個室だとしても、やめてほしい。

仕事なのはわかってる。ただのお楽しみの親睦会とかではなく、未来につながるチャンスだったり、今繋がなければいけない物事があることをわかってる。この先会社が打撃を受ける。今何か考えて、みんなで話して、手を打たなければいけない。わかる。

けれどそれは、飲み会である必要はありますか?

会議室マスクをして話すのではできませんか?

飲み会仕事のうち」だとしても、この流れが落ち着いてからはいけませんか?

本当に、お酒の力がないと、腹を割って話せませんか?

飲んで絆を深めるのはこの騒ぎが落ち着いてからでは、だめだろうか。

お酒の席は楽しかろうけれど、マスクを外し、酔って自制がきかなくなり、気は大きくなり、唾は飛び、いろいろな人や物との接触は増えるだろう。

仮に今腹を割って話さなければいけないことがあったとしても、

「じゃあ今から飲みに行って話そうか」

という流れのほうが、怖くないだろうか。こんな時に飲み会に行く文化がある会社、辞めたほうがよくない?ってならないだろうか。

ならないのか。だとしたらなんて恐ろしいんだろう。


私も、全てにおいて最前を尽くせているのかと聞かれたら、分からない。

から迷惑をかけているのはお互い様かもしれない。私だって突っ込まれたら言い返せないところがあると思う。私だけが一方的にせめる権利はないのかもしれない。


けれどこれは、私の夫ひとりの問題ではない。

私は夫を説得しつづけるけれど、それだけでは解決しない。

現に夫に会食の連絡を入れる人がいるのだ。

大事な話だ、飲みに行こう」という人がいるのだ。

彼らの家族はどうしているんだろう。そこを知っても仕方ないのだけど。

彼らの家族が皆「しょうがいね仕事もの」と言ったのだとしても、私は夫に「なるべく行かないでほしい」と言い続ける。

いつまでこんな状況なのか分からない。飲み会の席でいろいろ積み上げてきた人たちは辛かろう。いつになったら大手を振って飲みにいけるかわからない。

でも、「この数週間が勝負」と言われていて、飲みに行く、出かける人が増えてしまったら、「この数週間」が「この数ヶ月」「この一年」と一気に増えしまってもおかしくない。

そういう状況に、私たちは置かれている。

夫は「自分みたいな考え方のほうがおかしいのはわかってる」という。自分イレギュラーなのだと言う。でも、だからなんだというんだろう。夫がイレギュラーかどうかは、我が家には関係ない。夫は一人しかいないんだから。どうしても、ここだけは夫婦の考え方が相入れない。


夫がいくら飲み会に行かなくなっても、在宅ワークにできたとしても、どこからともなく感染する可能性はある。買い出しに出た私が感染することだってある。どうしようもなく誰かが感染してしまうこともあるかもしれない。

夫は飲み会ものすごく減らしているようだけれど、できればリスクもっとおさえたい。もっともっと

飲み会だけ目くじらたてすぎでは」と自分でも思う。けれど、どこの誰ともしらない人たちが集まるところで(仮に会社にいるより少人数規模だとしても)、ちょっと離れた席で知らない人たちが同じように酔っぱらい、注意が散漫になる環境にいてほしくない。怖すぎる。どうしたら伝わるだろう。

私たちの子どもが感染したら、どうなるだろう。

彼らはまだ子どもなのに、一緒にいてもあげられず、知らない大人たちに囲まれて、苦しみの中独り闘うのだろうか。そう文字にするだけでもう泣けてくる。どうか彼らが健やかでい続けられますように。笑顔で、家族みんなで一緒にこれからも過ごせますように。


夫を飲み会に誘うすべての人へ

届かないかもしれないけれど、私は本当に飲み会を今はやめてほしいです。仕事に行かなきゃいけない人たちがいることはわかります。出勤もできればやめてほしいけれど、それじゃ仕事にならないだろうから祈りながら毎日見送っています。いつも本当におつかれさまです。

大切な話が今こそ出てしまうこともわかります会社が潰れれば多くの人が大変なことになります。それこそ、病に命を奪われてしまう前に、生活ができなくて命が危なくなることもあるでしょう。

それは避けなければいけない。本当にみんなにとって難しい局面なのだと思います。私には、想像することしかできません。その想像陳腐で、まったく理解が及んでいないとは思いますすみません

けれど、できれば、会議室マスクをして、落ち着いて話をしてほしいです。

「今はこんな時期だから、乗り越えてまた美味い酒を飲もう」

と言い合ってほしいです。会社外の人とも、会社内の人とも。

「妻なのだから自分でしっかり夫を説得しなさい」

わかります努力不足で、本当にすみません。これからも私は夫に気持ちを伝え、できる限り信頼性の高い情報を選び取り、それを見せつつ説得していきます。人様にお願いする立場にないことを少しは理解しているつもりです。本当にごめんなさい。

それでも、お願いです。

夫を飲み会に誘わないでください。誰も飲み会に連れて行かないでください。みんな、行かないで。

鬼嫁いるかダメだな」と言ってもいいです。鬼嫁です。夫の苦労や家族のための努力をそっちのけに、我儘を言っているところもとてもあります

ヒステリックかもしれません。それでもいい。飲み会をやめてください。お願いです、もう少し、もう少しだけ、「飲みの席でないと」という気持ちを堪えてください。

今はただ、必要以上の外出をしないでほしい。

移動すればするほど、リスク高まるのではないでしょうか。会社必要取引先と、家の移動だけにできないでしょうか。

それぞれに大切な人たちがいるはずです。大切な人を守るために、「移らないように」ではなく「移さないように」、できる限りの行動を皆でしていきたいです。

そうして落ち着いて、

「ああ、本当にたいへんだったね」

と笑ってみんなで言い合える日を、気持ちよく夫を外へ送り出せる日がくることを願っています

妻として本当に情けないです。説得を続けます。1日も早く夫が協力してくれるよう全力を尽くします。

似たような境遇の人が、家族いるかもしれません。

みんなで説得しましょう。おおげさだと笑われてもいいから、なんとか説得をしつづけましょう。諦めずに。

家族家族を説得し、協力し、引き止めていくことで少しでも抑えられると思います。私も頑張ります

2019-12-11

いじめ経験があるすべての人へ

思い出してみてください。いじめていたときのこと。いじめていた対象の顔。

思い出せましたか? そして、思い出して、今どんな気分ですか?

「そんなこともあったっけなあ」くらいじゃないでしょうか。

断言しますが、いじめられていた側はあなたがたの顔を、行為を一生忘れません。

いじめられたことを引きずって、人生に苦しみしか見いだせない人はもちろんのこと、

いじめをなんとか乗り越えて、今、一見順風満帆な人でも。

物理的に暴行傷害を加えると、仮にその傷が癒えるものだとしても主体刑法犯として処罰されるのに、

いじめによって一生消えない傷を負わせる行為処罰されないなんて、なんとも不公平です。

なので、いじめ経験があるすべての人で、この記事に偶然たどり着いた幸運な人にお伝えしておきます

おまえのこと、絶対忘れないから。

そして、絶対不幸にしてやるから

毎秒あいつにそう思われてる、と意識して

どうぞお気楽毎日をお過ごしください。

2019-10-29

ポスターのやつ、いろいろな記事を読みつつ、自分の考えを整理するために書き出していたら、結構な量になってしまった。論点が多くてあまりまとまっていないが、せっかくなのでここに置いておく。少しずつメモ帳に書いてたら気がついたらめちゃくちゃ長文になっていてビビったというか、途中で切らられちゃうので分割するはめになった・・・・。

ポジショニングを先に述べておくと、私は男で、オタク、宇崎ちゃんポスターはギリセーフかな?ぐらいの認識だ。

ポスター擁護派の反発の強さ

いきなりだが、ポスター擁護側の反応が過剰である、という意見がある。これは、ポスター擁護側の危機感の強さに由来するものと考えている。「彼らが最初共産主義者攻撃したとき」という有名な言葉があるが、ポスター擁護派にとって、オタク表現に対する段階的な譲歩は、最終的にはすべてのオタク表現が認めらない未来につながる、という危機意識があるのではないだろうか。この危機意識を補強する要素として、これまでの事例(NHKにおけるキズナアイ人工知能学会の表紙など)も存在する。一方で、ポスター批判派にとっては、あくまでも自分の信じる妥当な指摘をしているし、これまでの個別の事例は必ずしも自らによるものでないので、ここまで反発を受ける理由が分かりづらいのかもしれない。

ここで問題となるのが、ポスター批判派と擁護派の間に信頼関係が無いことであるポスター擁護派にとって、ポスター批判派とは、個々人の「常識」に基づいて、それぞれ微妙に異なる理由ポスター問題点を指摘する存在に見えている。特に共有されたガイドラインがない状況でこうなってしまうと、ポスター擁護派は最終的にどこまで譲歩すればいいのかわからない以上、一歩たりとも引くことができなくなってしまう。ポスター擁護派が「お気持ち案件」と言うのはこういう理由からであろう。両陣営の間に紳士協定存在しない以上、お互いに譲歩は難しい。

個々人の嗜好や常識が異なる以上、必要となるのは各陣営同意が得られたガイドラインになるであろう。現時点で即効性があるガイドラインは恐らく法律のみであり、法律に基づくのであれば、法的な「わいせつ物」でなければ問題ない、ということになる。もちろん、「TPOマナーをわきまえろ」という意見もあるだろうが、TPOマナーへの遵守はベストエフォートであり、必ずしも守る必要がない。法律のみを基準として考えた場合、件のポスターが「わいせつ物」とは言えない以上、それ以上の規制を求めることは「過剰な要求」と映ることもあるだろう。ポスター擁護派には、恐らく規制派の意見法律を超えた「過剰な要求」に映っている。

では、みんなが納得するようなガイドラインを、批判派と擁護派が一緒になって作ることは可能だろうか。残念だが、私の印象としては、そのようなことは難しいように感じられる。各人それぞれ譲れない線があるらしく、すり合わせは容易ではない。しかし、後述するが、私はそのようなガイドラインは「表現する側」が作れば良いと考えている。

ポスター取り下げの圧力はやりすぎなのではないか

安易ポスターの取り下げ要求は、表現への萎縮につながるという説もある。これは一理あると同時に、必要行為でもある。私自身は、自由はなるべく保証されているべきだと考えているので、ポスターへの批判Twitter上で放言することは、それがどのような理由に基づくとしても、認められるべきだと考えている。たとえそれが、個人的な心情に基づいたものだとしてもだ。また、赤十字に対して直接的に取り下げを求める行為についても、特に問題はないと考えている。なぜなら、圧力、あるいはロビイングは、自分の信じる世界を作るための戦術の一つであると考えているからだ。批判派も擁護派も、お互いにやればいい。

さて、赤十字にも、表現自由がある。赤十字公的団体私的団体かに関わらず、赤十字にはどのような表現を行うかを自発的に決める権利がある。もし、赤十字が、批判に対して「なるほどそういう考え方もあるのか」と考えてポスターを取り下げるのであれば、それは赤十字自由だ。一方で、批判を受けた上でポスターを取り下げないのも、赤十字自由だ。赤十字インターネット上でどちらの意見が多いかを見定めで、それに基づいて判断を下したとしても(統計的な正確性の問題を別として)、問題ないだろう。決めるのは赤十字である

前述のとおり、私は、批判派と擁護派が意見をすり合わせて統一ガイドラインに至ることは難しいと考えている。となれば、最終的には、どのような表現が認められるかどうかは、その表現の発信者が決めるしかない(この場合赤十字だ)。この前提に立つ場合、両陣営は、発信者を説得するために最善を尽くすのがミッションとなる。つまりロビイング合戦だ。実際のところ、自治体はもちろん出版業界放送業界などを始めとして、様々な企業業界には、表現者として独自ガイドラインがある。これらは過去ロビイングによって少しずつ構築されてきたものであり、それぞれの価値観をすり合わせた結果とも言える。そして、このような自主規制ルールを作る上では、表現自由関係が無い。

強引なロビイングの是非

ところで、何人たりともリソース限界というものがある。特に赤十字にとっては両陣営から意見を受け付けて適切に判断を下す、という非常にリソースを消費する作業が求められる。結果的に、赤十字は、問題が起こりにくい表現のみを使うようになる、つまり表現の萎縮が起こるという懸念が残る。しかし、究極的に言えば、私はこれは問題が無いと考えている。ポスターなどの表現は結局はコストパフォーマンス問題であり、クレーム対応へのコストと得られる利益(この場合血液量だろうか)のバランスを鑑みて、最終的には収束するであろう。コスト削減のために無難表現を選ぶ、というのも戦略の一つであるし、多少苦情が来るのを受け入れつつ、血液を大量に集められる方向に舵を切るのも赤十字判断だ。赤十字には自由がある。

しかし、ここで注意しなければいけないのは、必要リソース量には非対称性があるということだ。たとえば、赤十字に対して長時間苦情の電話をかけ続けるといった手法は、ロビイング方法としては好ましくないと、私は考えている。表現者のリソースを飽和させることによって、半ば強引に要求を飲ませる手法は、私の目には品が良く映らない。人によっては、この手法自体を、不当な手段による「表現抑制」と見なすこともあるであろう。意見の伝達は、なるべく相手リソースを消費しないように心がけたい。もちろん、あなたがどうしても相手に飲ませたい要求であれば、多少強引な手法を取ることは(法律禁止されていない範囲で)可能でもある。しかしその場合、まさにその行為自体非難対象となり、結果的に周囲から理解も得られない結果になることもあるだろう。私自身は、Twitter上で意見つぶやくぐらいが、相手にとって負担の少ない範囲だと考えている。

ロビイングが下手な方が負けるのはいいのか

ロビイング合戦となると、「声が大きいほうが勝つのかよ」という非難もあるかもしれない。そうなのだ、声が大きいほうが勝つのだ。こればっかりは民主主義必要コストなのか、いわゆる自由のための「不断努力」というものなのか、各人が自分の信じる事を唱え続け、みんなを説得するしか無い。しんどいが、そういうものみたいだ。もちろん、弊害もある。「米国NRAロビイングを続けているせいで、いつまで経っても銃乱射事件が無くならない」という人もいるだろう。しかし、ではNRA発言権強制的に奪うことができるかというと、そうはならない。あなたにできるのは、あなた意見で周りを説得して、支持者を増やすことだけだ。でも、しんどい。できれば相手に静かにしておいて欲しい。きっとお互いに「またかよ」と思うこともあるだろう。不毛に見えることもあるかもしれないが、自由とはそういうものなのだろう。

表現の萎縮と緩和の難しさ

さて、表現の萎縮を懸念する材料として、一度決まったルール安易に緩和されないという指摘も考慮する必要がある。

たとえば、知っている人にとっては「定番の話」であり、それ以外の人には「なんでそんなことに」と思われがちな自主規制として、「4本指のイラスト禁止」という決まりがある。これは、自主規制ルールとしてそれなりに広く運用されているはずのルールだ。このルール部落開放同盟から意見が由来らしいのだが、私自身(関東出身)は最初に聞いたときは「なんじゃそりゃ」と感じた。今現在も、「そろそろ無くしてもいいんじゃないの」と思っている。

一般に、規制というものは強くなる方向に圧力がかかる。形骸化したルールが、それを理由に削除されることは、傾向としては少ない。そのため、理由はどうであれ、細かいルールを積み重ねていくと、最終的には非常に厳しい規制が完成する。この傾向は、表現自由度を求める陣営にとっては脅威である。一度決まりができてしまうと、それを覆すのは難しい。もちろん、ロビイング社会の変化によって緩和が行われることもあるだろうが、できるならば規制が生まれる事自体を避けたい。この非対称性考慮した場合ポスター擁護派が過敏に反応することは、ある程度理解できる。譲歩の積み重ねが厳しい規制につながることを懸念するのであれば、今がまさに踏ん張りどころだと言える。

定義エリア問題公的機関責任

日本赤十字は半ば公的機関であるので、より安全ルール運用するべきではないのか、という指摘は、私自身は一理あると考えている。赤十字公的機関と見なすかどうかについてはここでは議論しないが、公的機関がなるべく安全表現を使う、というのは、すべての人へサービス提供する以上必要なことである。たとえば、政府セクハラを是とした表現を行うことは望ましくない。なぜならば、セクハラは良くない行為であるという、社会通念上の合意が得られているし、法律という形で明文化もされている。あるいは、政府が過度に性的表現を行うのもまた、望ましくないであろう。これは、公の場では性的ものを隠すという社会通念上の認識が共有されているからだ。

では、どのような表現が「望ましくない」ものとして社会で共有されているか、となると、全くもって難しい問題である。法的に認められていない行為は当然「望ましくない」し、差別助長するような表現も、おそらくは「望ましくない」。しかし、社会の大部分は実際のところ未定義エリアとなっており、個別案件ごとに勘案することになる。すでに広く指摘されている通り、たとえどのような表現でも人を傷つけることは往々にしてある。その前提に立つ場合、単純に「私(や私の周りの人々が)が傷ついたから」という理由だけで「望ましい」かどうかを定義することはできない。たとえば、単に子供掲載されているポスターがあるとして、どうしても子供を授かることができない夫婦が傷つくからといって、そのポスターを取り下げるべきだろうか。この例に対する答えはない。もし、そのような人が日本で大多数を占める状況であれば、きっと日本政府はそのポスターを取り下げるべきであろうし、あるいは、その傷つき方が非常に強いものであれば、少数のために取り下げることもありえるだろう。(なお、この例示自体が、そのような人を傷つけているだろうという指摘も当然ある)

今回のポスターは、擁護派にとっては、このような未定義エリア問題であり、どちらかといえば問題がないものとして想定されている。一方で、批判派は「望ましくない」ことが確定したもの、具体的には性差別問題として認識している。この前提が異なる以上、公的機関が今回のポスター掲示することの是非について議論するのは、あまり意味がないように考えられる。極端な話、件のポスターポルノであれば、赤十字掲示するのは不適切であろう。しかし、そもそもポルノかどうかという点が両陣営の間で確定していない状態では、それ以上の話はしようがないのである

ところで、公的機関にとっての表現コストパフォーマンスとは何だろうか。恐らくは、どれだけ全体を幸福を最大化できるか、という観点になるだろう。そして、なるべく多くの人が傷つかない、ある意味では無難表現を用いるという戦略は、単純にコストパフォーマンスに優れるであろう。そういう意味では、公的機関特別視するというよりも、彼らは単にコスパがいいか無難表現を好む、と考えるのが妥当なのかもしれない。

崇高な目的のためであれば、小さな犠牲は許されるべきか

献血を推進するためであれば、ポスターが引き起こす問題無視されても構わない、という考え方が観測される。これは是でもあり非でもあるだろう。

ここで重要となるのが、ポスターが引き起こす問題とは何なのか、である。仮に、その問題差別問題である判断される場合、たとえ献血目的であろうとも、その表現は認められないと考えられる。例えば、「白人は慈愛に満ちているので、どんどん献血に行こう」と書かれたポスターは、現在社会通念上認められないだろう。一方で、「差別とまではいかないけれど、傷つく人もいる」表現場合献血重要性を理由に、多少の問題無視されることもあるだろう。先程の例を再び使うのであれば、献血ポスター子供掲載することは、おそらく現在日本では問題となることはない。

さて、ここまで来るとまた同じ話になるのであるが、今回の文脈において、ポスター擁護派は今回の問題差別問題である認識していない。一方で、批判派は、これは性差別問題である認識している。そのため、両者の話は噛み合わなくなる。結局の所、この論点もあまり意味がない。件のポスターポルノであれば、それを公の場に掲示するのは、女性差別になるであろうから献血のためとはいえ認められないであろう。一方で、ポスターポルノでない場合献血のためであれば、多少のことは無視される可能性はある。

続くよ

https://anond.hatelabo.jp/20191029132732

2019-08-07

anond:20190807125137

いや、すべての人への慈愛に満ちているというわけでもない

慈愛を示さな対象が何かというところから推測すれば、おそらく日本人という属性を持つ人から抑圧された経験があると考えられる

ブクマカの民は人と接したことがないのかな

LGBTは異常」の‘“増田さんを見てすごい共感したんだよね。

僕も小中のころは結構韓国の人が多いエリアに住んでたこともあって、韓国ルーツの人に虐められてたわけよ。

そういう経験ちゃうと、いくらサンプル数が一桁だからと言って、韓国人に出くわすと虐げられるっていう打率スーパーハイアベレージなんだ。

そうなると、韓国人というアイコンに対して憎しみを抱かざるを得ないよね。

だって自分危害を加えられてるんだもの

韓国人と仲良くしようと言われたって、PTSDみたいなもので僕にはとても無理。

で、翻ってブクマカの民は、すべての人への慈愛に満ちた立派なコメントを各記事に残して承認欲求を得ているけど、みんな誰かに抑圧された経験って無いのかな?

普通に人と接してたらどうしたってそういう経験をしていて、それが元で特定属性への嫌悪を抱かざるを得ないと思うんだけど。

やっぱり象牙の塔の住人なのか、AIの戯れなのかなブクマカの民は。

2018-06-19

乗り物に乗るすべての人へ

自転車から自動車まで車と名前のつく乗り物を運転する人は、

自分行為で人が怪我だけでなく、死亡する可能性があると認識してほしい。

スマホ見て音楽聞きながらの自転車

やたらと騒音撒き散らしてスピードを上げるバイク

右折左折中にスマホに夢中になる自動車

あなたたちの不注意で怪我をしてしまう人がいます

俺は大丈夫、私は大丈夫という人、その慢心が自分どん底に落とします。

乗り物を運転するのなら、その乗り物は人の命を奪う可能性もあると認識し、節度ある運転を心がけてほしい。

私は車の事故に遭遇して寝たきりになりました。

リハビリをして、今は回復しましたがそれでも半身にしびれが残っていて、時々動かしづらくなります

細かな作業をすると手が震えてうまく行きません。

事故の原因は余所見運転による不注意でした。

事故を起こした方は、最初のうちは反省していませんでしたが10:0という結果で罰則が入った後、後悔をしていました。

これが不注意で事故を起こした挙げ句の自らで自らを陥れた結果です。

近所の方は、スマホを見ながら音楽を聞いていて後ろから衝突され、今は杖をついています

スマホを見ながら音楽を聞いていたのは社会人でした。いい歳しているのに、この有様です。

はいえ、老若男女関係ありませんが、それでも社会人になってもこのような不始末を起こすというのは

やはり子供と比べれば、当然強い批判を受けます

それはともかくとして、乗り物を運転する人は気をつけてください。

相手を傷つけるだけでなく、自分立ち位置すら危うくなります

普段から注意しておけば、他人を守るだけでなく自分も守れてしまうのでお得です。

もちろん事故を受けてしまった側も普段から気をつけるようにしないといけません。

お互いで注意していって事故を少なくできる世の中になればいいですね。

2018-04-26

差別と戦うすべての人へ

ここでは差別区別を論じ、そして問いたい。

まずは、差別区別の違いは合理性の有無、もしくは合理性包含量にあるという仮の出発点から話を始めたい。

アメリカ黒人公然差別されていた頃、差別をしていた白人はそれを差別だと思っていたのだろうか。

否、全く合理的区別だと思っていたのである

あるいは江戸時代、えた・ひにんへの迫害や、癩病患者への扱いは、支配層にとってば全く合理的区別だと捉えられていたのである

現代では上記の例のいずれも、謂れなき差別と捉えられている。

ここで鑑みるべきは、人の合理性認識時代場所によって劇的に変化しうるということであり、先述の例はその証左に他ならない。

さて、問おう。

あなたは全くどんな人をも「区別」しないのか?

区別はするとしたら、それはなぜ「実は差別」ではないと言い切れるのだろうか?

あるいは、自分合理性を感じられるもの区別で、そうでないもの差別なのだろうか?

それならば、あなたのその主観正当性はどのように担保されるのだろうか?

それとも差別区別の違いは合理性ではないのだろうか?

それならば、その2つの違いはどんなもので、その違いによってなぜ差別は批難され区別は許容されるのだろうか?

もしかして差別区別には違いはないのだろうか?

もしそうなら、そしてあなたが何らかの人的区別をしているのなら、それはどのように正当化されているのだろうか?

からない。私にはまったく分からない。

山月記に出てくる李徴氏のように、理由も分からないまま、ただ「差別ダメ。でも区別はあり」という世界に生きている。

諸兄の忌憚なき意見を聞きたい。

2015-03-15

すべての人へ配慮があることをすべての作品に求めるよりもゾーニングで見たくない人には見えないようにするほうがいいとおもう

そういう誰にでも安心して見せられる作品を作ることは素晴らしいことだし、問題提起必要だとはおもうけれども

2010-09-20

http://anond.hatelabo.jp/20100920132305

本気で言ってる?

その島国根性日本人の悪いところ。

汝の隣人を愛せよと言うように、すべての人への博愛精神が必要だし、人権国籍で変わりはしない。

人権格差をつける思考でぞっとする。あなたのような人が南京大虐殺を平気で起こすんでしょうね。

2009-04-19

http://anond.hatelabo.jp/20090419004239

君の発想は、生存競争という形で闘争を前提にしているわけだが。

それはひとつの思想なんであって、当然視されるべき自然感覚ではないよ。

たとえばキリスト教は汝の隣人を愛せと説くのだが、この隣人愛は同じ家族民族の人、という意味ではなく、広く自分と接するすべての人への愛を持てということだ。

あらかじめ個人間家族間、民族間の対立を当然視して、その競争のために団結を説くのとは根本的に違う。

別にキリスト教が正しいといってるわけじゃないけど、考え方はいろいろあるからね。君が身体化しているものをあまり一般的にそうだと思わないほうがいい。

 
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