はてなキーワード: 訴求力とは
う~ん、47点くらい?
最近さぁ、自分の中のコンプライアンス意識?ポリコレ意識の発達を感じるんだよね。
そしてこれはあんまいいことじゃな気がしている
マギー・Qと弟ヘムズワースがタイの島にバカンスに行ったらそこが因習島でひどい目にあう話。
因習村もの(今回は島だけど)にありがちな、なんかずっとよくわからん恐怖が続く部分はホラー映画として及第点はあげられると思うんだけど、よくわからん状態が続きすぎるのはやっぱ集中力?訴求力を削ぐよなと感じる。大事なのは予測をさせてそれを裏切ることなんじゃねぇかな。モンティ・パイソンも言ってたけど。
ざっくり展開を書くと、マギーとヘムが酩酊して目が覚めて何かあったっけと思ってスマホを見たらヘムがマギーを絞め殺して埋めている映像が収録されててビックリ仰天。その後、マギーが泥吐いたりヘムがダイナミック切腹したりなんやかんやあって、その島では妊婦を生贄に捧げることで不幸を回避している島だったことがわかり、マギーはそれに選ばれていたんだけど逃げ出した結果、島は滅びてマギーは溺死したと思ったら復活しました、終わり。
いくつか問題はあるんだけど、自分の中での一番の引っかかりは「これ差別的すぎないか?」ってこと。「アメリカ人夫婦が他国の田舎に行ったら生贄にされる話」なんていうのはホラー映画界のテンプレではあるんだけど、タイの田舎のたぶんありもしない因習をでっち上げて不気味に描くことってタイ人にタイしてあんまよくないことじゃないか?という気がすごくした。国内の因習村映画では別に感じないんだけど、今作はかなりそれを感じた。
たぶん、この映画がそこそこ予算かけて真面目に作ってるからだと思うんだよね。儀式の内容はともかく、空気感とがリけっこうアリティがあったんよね。この実際にありそう感が逆によくなかったのかも。
で、儀式の内容なんだけど、妊婦を生贄捧げる=マギーしか妊婦がいなかったからしゃーなし、ではなく、マギーは不妊症だったんだけど呪術的なサムシングで強制妊娠させられるのね。ほなら別にマギーじゃなくても現地の女が儀式の生贄になったらよかったんちゃうか?いや、ファミリーは基本捧げない方向性にしても、なんかの時のためのバックアップとして強制呪術妊婦は用意しておくべきやろ。失敗したら島が滅びるレベルの儀式なんやから。実際にマギーが逃亡した結果、島が滅びてるわけで。やっぱタイの田舎の人間はリテラシーがなってないわ(ド直球の差別)。
冒頭にも書いたけど謎の展開がずっと続く割りにネタバラシは割とあっさりしてる上に、あんま明確な答えをくれない。
たぶんだけど、最初にヘムに絞殺されて埋められたのは事実でマギーはそこで死んでて謎の薬の効果で不死になってたってことだと解釈した。その後も薬の影響で幻覚と事実をないまぜに混同し続ける描写が続き事態がずっとフワフワし続ける。
その結果、う~ん、これ何の話?となってしまった。
マギーと弟ヘムが出てる時点である程度やる気のあるホラー映画だけあって映像も演技もよかった。謎手術シーンやエキゾチック切腹シーンも干潟に死体産卵じゃない散乱シーンもわりとちゃんとゴア表現してくれるしやる気はスゴイ感じた。たぶん因習島民も現地の人使ってるんだろう。総じて見ごたえはあった。
今の東京ディズニーリゾート(以下TDR)を楽しんでいる方に対して水を差す意図もない。
さて、7月中旬よりディズニーシーの新ショー『ドリームス・テイク・フライト』が上演開始したとのことで早速鑑賞した。
率直に良いショーであるとは全く言えず、今後のディズニーのエンタメについてこれまでで最も危機感を覚え、筆を執ることにした。
前提として、筆者は幼少期からディズニーアニメーションに触れ続けてきた筋金入りのいちファンであり、
TDRで新しいパレードやショーエンタメの上演が始まると聞きつければ自分の足で観に行くくらいには応援している。
しかし、コロナ禍を境に昨今の円安や物価上昇などの情勢の影響を受けて大きくエンタメ制作やパーク運営の方針が変わった。
大人の事情は鑑みたいところだが、運営会社オリエンタルランドの株価の下落が続いていることやファン離れに強く憂いを感じてはいるが、
大好きな場所には変わりないので贔屓目で楽しんでいる。
ストーリーはシンプルで、飛行機の格納庫の中で飛行機づくりをしているキャラクターたちが飛行機を完成させ、お祝いして、ミニー扮するパイロットが空へ飛び立つというもの。
タイトル、ストーリー、ビジュアル、テーマソング、出演キャラクター、いずれもメッセージ性があるショーであることを予感させる。
ミュージカル調で始まるので、こちらはストーリーを受け取る構えをとる。
終始軽快な雰囲気で、パフォーマンスは楽しい。特に整備場の道具を使ったパーカッションの演奏は派手で良かったしライブ感があった。
しかし、起承転結が存在せず、トラブルや登場人物の葛藤も描かれない。
舞台の切り替わりとともにミッキー達以外にも名作ディズニー映画の主人公4人が次々登場するが、まったく脈絡がない。
おそらく場面の説明としてキャラクターごとのイメージを重ねろ、ということだと思うし解釈はできなくもない。
ただ、映画を観ていない観客には確実に理解が難しい構成である。というか観ていても厳しい。
心情描写も特にないまま進行し、気持ちが盛り上がっていないのとは裏腹に飛行機が完成する。
ほら!!!!感動するとこだよ~~!!!と言わんばかりの雰囲気でミニーが飛び立って終わる。
(映像で空を飛んでいる風の演出あり、機体は少しだけ前に動く)
でも我々はミニーがなぜ飛ぶのか?どこに向かうのか?何を叶えたいのか?この結末のために誰のどんな苦労があったのか?を知らないし、わからない。
どこにも描かれていない。わかることができたら、きっと感動するはずの画が、音楽がそこにあるのに。
電波の届かない山奥で圏外じゃない場所を求めてさまよっている気分で心のバッテリーがゴリゴリ削れる。
終演してからやっとミュージカルではなくてレビュー(ストーリーや芝居がないパフォーマンス重視の舞台芸術ジャンル)であったと納得した。
ストーリーを描かないのなら、もっとレビューとして受け止められる設定を提示してほしかった。
TDLの常設ショー『クラブマウスビート』もストーリーのほぼないレビューの構成で、コロナ禍真っただ中にリリースされた低予算でコンパクトなショーではあるが、
あくまで観客はクラブでの出来事、ダンスを観るというスタンスなのでまだ振り切って楽しめる。
また、全編通してほぼセリフが無く、劇中の曲はすべて英語歌詞のため、英語を理解できる人以外が言葉で拾うことのできる情報が極端に少ない。
インバウンドへのアプローチというのは理解したいが、せめて歌詞が日本語と混合なら響くものもあったろう。
既にディズニーを好きな人がキャラクターを観て喜ぶのは当たり前だ。
一番重要視してほしいのはまだ作品に触れたことのない人たちだ。
あの場にいたどれだけの人がそのキャラクターを知っているのだろう?
『ポカホンタス』 『モアナと伝説の海』 『メリダとおそろしの森』 『リメンバー・ミー』
の4作品から主人公の登場があったが、すべてを観ている人は数少ないだろう。
どのキャラクターにも魅力的な個性、強さと弱さ、乗り越えてきたものが存在する。
整備士たちは飛行機を作る過程でトラブルや苦悩を乗り越え、パイロットは訓練で努力し恐怖を乗り越える。
脚本と歌でいくらでもクロスさせてキャラクターの魅力を伝えることができたはずだ。
ディズニーに初めて触れた家族連れにもショーきっかけで映画を観る動機を与えるものになっただろうと思うと、
友人に連れられて来園しショーには興味なかった大人が素敵なストーリーに明日の活力をもらってディズニーのことをちょっと好きになってくれた機会を逃したと思うと、惜しくてならない。
ハンガーステージ復活のため、上記4人のキャラクターを出すことが先行で企画を出し、時間も予算もなかったと思うしかない。そうすれば、あきらめられる。
期待に包まれ楽しむためにシアターに入ったはずが、考え込むストレスに晒され、キョトンとしたまま会場をあとにすることになったのは初めてだ。
情報発表の時から大好きなキャラクターたちが活躍してくれる姿や、作品が有名になることを期待していた筆者にとって、
そのキャラクター性が一切生かされないまま”出てきただけ”になり、初めて触れる人に興味を持ってもらえそうにもないことが残念だ。
最近の施策的にキャラを前面に出してどんどんIPを売りたいんじゃないんかい。売りたくないんかい。どっちなんだい。
新しいファン増やす気あるんかい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
何のための、誰のためのショーなのだろう。
一体誰がこのショーをきっかけに新たにそれぞれの主人公の映画を観てみようと思うんだろう?どうやって魅力を見出だせっていうんだろう?
どんなに音楽そのものが良くても、舞台にする以上伴った文脈や説得力のある画で表現しなければ人の心は動かない。
以前のショーエンタメにはその魔法が存在していたはずで、老若男女を虜にし、
たくさんの人々へディズニーの枠なんか飛び越えて創造や芸術への新しい興味を持つきっかけを与えたんじゃないだろうか。
悲しいけれど、普段ディズニーのコンテンツに触れていない友人を案内するなら、このショーを観せたいとは思わない。
ストーリーが理解できなくても未知の画、迫力のある画があるならばすごいものを観たと圧倒され数字を呼ぶことは、
現在大阪万博で上演中のメディアア-ティスト落合陽一氏の手がける「null2(ヌルヌル)」が好評であることからわかるだろう。
ハイコンテクストなメディアアート特有のハードルの高さを解消できていてすごい。
逆に、舞台美術や演出の規模が小さく洗練されていなくとも、ストーリーやメッセージ性が伴っていれば心に残る感動を得られる。
サンリオピューロランドで上演しているショーは、規模の大きなレギュラーショーに力を入れている分質素なショーも多いが、
サンリオのスピリット『みんななかよく』を伝えることをぶれずに一貫しており、歌やセリフ、ストーリーで強いメッセージ性を受け取ることができる。
実際、筆者はサンリオに詳しくないうえに、規模の大きいショーやリッチな演出が好みだが、
そんなことを考える隙がないほどいたく感動してしまう内容のものばかりでコンテンツを作る姿勢とブランドについてのイメージがとても上がったという体験をしている。
そもそもウォルト・ディズニーの構想したディズニーパークとは、本物志向であることに本質がある。
様々な活動の中、彼は一貫して、”積極的に未知の世界をたずね、自発的に学ぶことの楽しさを若い世代に伝える”ことを大切にしていた。(TDR公式HPより引用)
いきなり世界中一周旅行に行くことが難しくても、パークがその第一歩を叶えてくれる。
氏はとにかく本物を再現することにこだわった。
コスト度外視で変態的なまでに作り込まれた空間には本物にしかないはずの”重み”が生まれる。
足を踏み入れさえすれば時代や場所を飛び込えて我々を没入させ、その美しさを五感をフルに使って味わわずにはいられない。
(ちなみに東京ディズニーランドのビッグサンダーマウンテン前にあるスチームトラクターは世界に数台しかない1898年製の本物で、ウォルト本人が持ち主と長年交渉し日本に持ち込まれた経緯があるくらいには本物志向である。)
自らも親であったウォルトは、遊具で遊ぶ子供をみながらベンチでピーナッツを食べるだけである自分に気づき、子どもと大人が一緒に垣根無く楽しめる場所を作りたいという動機がパーク計画の原動力になったという。
大人も驚く本物への狂気的なこだわりが生む圧倒的な没入感と説得力は、子どもの心にはどこかにある本当の”未知の世界をたずね”る冒険心や探求心がの種を蒔き、
酸いも甘いも経験してきている大人ですら子供と同じ目線で目を輝かせ、忘れていた新鮮な感動や挑戦への活力を取り戻すことができるのだ。
2000~2010年代前半くらいまでのショーエンタメは、IPを大事にしながら演出面も、美術も、ウォルト・ディズニーの築き上げてきた本物志向の拘りを受け継いだものと言えた。
例えばディズニーシーで過去に上演されていた生歌・生演奏バージョン時代のビッグバンドビートがいい例だ。
アンテナの高い人でなければたどり着けないような本場ブロードウェイの舞台芸術でさえも、本格的であるのにもかかわらずディズニーキャラクターによって噛み砕かれることでハードルが下がり、誰にも触れやすいものとなっていた。
あの舞台で初めてジャズやビッグバンドに触れ、その大音量の生音の迫力に心震わせ、ディズニーという枠を超えて舞台芸術に興味を持った方も多いだろう。
コンパクトに本物のすばらしさを伝えるという教育的側面があった。
コロナ禍の影響で生歌と生演奏は無くなり、復活しないまま秋には終演ということらしい。
音源をバックにダンサーが踊るだけで生歌も生演奏もないのでは、
ディズニーではあってもブロードウェイの本物のエンタメが何たるかを伝えることはできないというのが個人的な感想である。
(ダンサーやキャラクターの迫力は素晴らしいと思うので誤解なきように)
現在TDLでレギュラーショーとなっている『ミッキーのマジカルミュージックワールド』と『クラブマウスビート』は、コロナ禍の真っただ中に延期の末なんとか上演開始され、
パークの収入が激減する中、おそらくコロナ禍でも上演維持できるように根本的に変更をしたことと思うので、よく頑張られたと思う。
しかし、昨今の情勢を鑑みたとしても、日本以外のディズニーパーク事業ではずいぶん前からコロナ禍前と同じようなクオリティラインのものが復活している。
当時はエンタメが存在するだけでありがたいという姿勢でいられたが、
予算やスケジュールが足りなかったのだろうと製作サイドの都合を鑑賞者に想起させるようなものがいつまでも続くのは体験として不十分であり、
感動しきれないストレスが続いている状況にはそろそろ目をつぶれなくなってくる。
”この場所が、皆さんの創造性や人間性へとつながることを願って、きめ細かなおもてなしをこころがけています。”(TDR公式HPより引用)
ならば、まだディズニーの作品について興味を持っていない子どもたちに、大人たちに、どういうエンタメを見せたらディズニーの伝えたかったスピリットが伝わるだろうか。
高価格帯のレストランでさえ、コンセプトと時代設定に合った凝ったデザインがあしらわれたメニューで注文する体験が無くなり、公式HPのシンプルなメニューに直接繋がるだけのQRコードから注文する方式に変わってしまった。
エリアならではの商品が置かれていたはずのショップが、売れているキャラクターで埋め尽くされるようになってしまった。
ウォルトが残したかったはずの”本物”の体験がどんどんディズニーパークから失われている。
もちろん、商業的成功なくしてはいいものを作るベースさえ整わないわけだから、今の方針にせざるを得なかった背景に理解は示したいとは思っているし、収益が過去最高になったこと自体は喜ばしいことだと思っている。
しかし、過去に感銘を受け、パークに行く度に新しいイマジネーションを与えてくれたはずのものが、私の人生に”好き”を増やしてくれたはずのものたちが、確実に変容してしまっているように感じてならない。
これからディズニーを愛してくれるかもしれなかった人たちを手放すかもしれないような中途半端なショーを公演し続けることはあまりにも損失だ。
昨今インターネットの普及にコロナ禍がブーストをかけ、映像作品やゲーム、キャラクタービジネスなどのインドアコンテンツの絶対数も品質も上がり、競合は多い。
だって、鬼滅の刃、めっちゃ面白いよ。よく練られた脚本に、大切なメッセージが込められている。大人も子供も虜にしているのがよくわかる。
映像コンテンツ制作とパーク運営を比べるのも酷かもしれないが、目先の売り上げよりも、子供がさらに自分の子供にも見せたいと思えるようなコンテンツや空間を作ることを重視し、ファンを増やし、世代を超えて愛されていかなければ、しりすぼみになってしまう。
頼むから、子供だましのキャラクタービジネス(言いたくない)に成り下がらないでほしい。
築いたものを自ら汚すようなことはしないでほしい。このままでは少しずつ静かに、でも確実に終焉に向かっていくだろう。
クリエイティブの一つの集大成として存在している素晴らしいパークにはこれからも燦燦と輝いていて頂きたい。
来年は東京ディズニーシー25周年を祝う新しいショーが予定されている。
丁寧に作られた素晴らしいショーエンタメやサービスを少しづつ取り戻してくれる未来を切に願う。
日本においてウォルト・ディズニーの精神を伝え続けることのできる最大の拠点として、創造性あふれる世界にしていくために…頑張ってください!応援しています!!!
高市早苗議員の強みと弱み、そして政治生命をかけているものについて、これまでのキャリアに沿って解説します。
### 高市早苗氏の強み
高市氏の強みは、その**政策立案能力と、一貫した保守的かつ明確な政策主張**にあります。
### 高市早苗氏の弱み
一方で、弱みとしては、**政策の実現性に対する懸念**や、**一部の保守的な主張に対する批判**が挙げられます。
高市早苗氏が政治生命をかけているのは、一言で言えば**「日本の国益と国民の安全・安心を守り抜くこと」**、そして**「強い日本を再建すること」**です。
具体的には、以下の点が挙げられます。
高市氏は、常に「国の究極の使命」という言葉を使い、国家としての根本的な役割を重視する姿勢を貫いています。その信念こそが、彼女の政治生命の根幹にあると言えるでしょう。
理系が池澤夏樹の世界文学全集をほぼ全部読んだから五段階評価する①
前者は「理系で池澤夏樹の全集を全部読んだ」と、かなりの文学好きであることがハッキリしている。
「年収1000万だけれど~」「32歳素人童貞だけれど~」「7億の宝くじが当たったけれど~」などがバズったのは、すべてこのパターンに該当する。
①のどんな人がどうなかったかの結末が欲しい。前者が5段階評価をしたという行動を含むが、後者は読んだということか言っていない。つまりただの感想文であり、得られる情報は薄い。たとえ前者が感想文であっても、★による評価はフックになる。
できれば意外な結果であることが望ましい。親が6000万円を相続したけれどもすべて使い果たしてしまった人のエントリがあったが、まさにそういうタイトルである。
前項とかぶるが、読むメリットがないと読まない。前者はどの本が面白かったかの情報が手に入る。言い換えると読むメリットがある。
後者は別に五段階評価をしているわけではない。ただの感想文なので、訴求力がない。
前者もよく読めば感想文でしかないのだが、★の数で評価していることで、感想に同意できなくても思わず一言いいたくなる。
前者には「全て網羅していること」や「五段階評価」という数字や量に関する情報がある。①で言及したもの全てには数値が入っている。
一般的に人間は番付やランキングが好きなので、世界文学というどちらかと言えば技術寄りのイメージのあるブクマカもブックマークしてくれた可能性がある。
後者は「読んだから」と全部読んだわけではないので、情報の希少性が少ない。
★の数は定量化されているので、評価の高低が眼に見える。そうすると思わず、賛同したり反対したりしたくなる。
年収がいくらだけれどこんな生活だというのは、我が身と比較して何か一言いいたくなる。
いわゆる釣り増田、つまり極端な主張や煽るような言い方でブクマカを稼ぐのもこのやり方の延長である。
前者は専門家でこそないが、「全部読んだ」という情報の希少性がある。
後者はただ読んだだけというタイトルになっている。著者は同じだが、タイトルだけでこうも違う。
○○が大好き! 逆に大嫌い! などという感情に人間は引っ張られる。というか、人間は感情に弱い。不適切だと思うし、私は使いたくないテクニックだが、「くたばれ!!!」と叫んでいる人にはどうしても目が行ってしまうだろう。
これらすべての条件を満たしていてもバズらないことは多い。
増田に対してはマジになりすぎず、気持ちを整理するための道具とした方がいいのかもしれない。
以上。覚え書き。
推しはグループで活動して曲を出したりしているけどとにかくパートがない。あまり上手くないからだろう。
たまにある貴重なワンフレーズも、MVを観るとなぜか引きで撮影されている。アップのショットがない。センターに来ない。
他のメンバーは個人仕事をもらっているけれど推しにはそれがない。
カメラに抜かれてもカメラ目線ができない。照れているのか? どうにも決めきれない。訴求力がない。
やる気がないわけではない。推しは真面目だし、裏では努力している。応援している人はそれを知っている。
でも結果が出ない。
推しとは一回りほど年齢が離れている(自分が年上)。そこに恋愛感情はない。ただ頑張る姿を見て、元気を貰っていた。
ほぼ黒歴史とされているZZ。改めて見直してみたが、むしろ今の時代にマッチしたカオス感。
ジェネレーションギャップ(ニュータイプVSオールド)もより明確になっているので若年層にも訴求できると思う。
深めるべき物語要素
2.ジュドーとミネバとの関係:シャングリラ前線の当初からミネバを登場させ、ミネバにジュドーの可能性を語らせることでそのポテンシャルを当初から視聴者にも示す
3.ブルーコープ、民族闘争と、ネオジオンの思惑→現在中国がアフリカに実行中の経済政策と重ねて政治劇をもう少し追加すると面白くなる。
4.ジュドーをはじめとしたニュータイプ独立部隊>ギャグ要素をキャラクターの成長的意味なない部分は省略
ジュドーを仲間の兄貴分としてのポジションから部隊を率いるエースパイロットとしての責任が付加されるところを強調すると、ジュドーのカリスマ性が引き立つ
5.アフリカ戦線の熟練VS直感(ニュータイプ)として戦いのテーマをさらに引き上げる (スマホネイティブVS昭和モーレツ社員のようなイメージ。結局昭和モーレツ社員
が電話、FAXでプロジェクトを遂行しようとしてもスマホネイティブがSlack、Discordクラウドを駆使してプロジェクトを成功させるのに到底かなわないというイメージ)
6.ダブリンへのコロニー落としとカミーユの登場(ファーも含めここでの旧作からの登場の仕方は非常にいい)
7.グレミーを冒頭から登場させ、最終的にミネバに反旗を翻すまでを全編を通して語る:これでドラマに深みがうまれる。
8.カミーユ、離脱の顛末(新訳だと説明がつかないとの話もあるが、ニュータイプ型PTSDにより離脱という形であれば説明がつく)
削除するべき物語要素
1.前半のシャングリラの路線>ジュドーとの出会いと舞台への導入までを若干工夫して(ギャグ要素をほぼ排除)省略する
ブライト自身がファースト時代、ニュータイプ部隊という位置づけであったことを踏まえつつ、ジュドー達を次世代ニュータイプ部隊であるという理屈づけで
編成するというシーンをいれてしろうとのジュドーたちをチームとして編成させることに説得力を持たせる
2.アーガマにおける軍隊としてのおちゃらけ→度が過ぎている部分は削除。
3.シャングリラから地球降下までに登場したネオジオンキャラ:これらはまさに80年代のパンクなのでいらない
※ジュドーの能力や軍隊への順応性を見ると、UC100以降も活躍する戦士であることは自明なので、この歴史はしっかりと新訳したほうがいいのは間違いない。
まず、引用された投稿は非常に感情的で攻撃的な言葉遣いを使っており、特定のグループ(「テクウヨ」「AIアノン」「ロリコンキモオス」など)や個人(仁藤さん、蓮舫さん、赤松や山田議員など)を一括りにして非難しています。このような過激なレッテル貼りや憎悪を煽る表現は、議論を建設的な方向に進めるどころか、対立を深めるだけです。以下に、投稿の主張に対する反論を、論理的かつ冷静に展開します。
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### 1. 「テクウヨ」や「AIアノン」のレッテル貼りの問題
投稿は「テクウヨ(テック右翼)」や「AIアノン(AI信者)」という言葉を使って、AI技術やその支持者を一括りに右翼的でミソジニスト(女性嫌悪者)だと決めつけています。しかし、AI技術の利用者や支持者は多様であり、特定の政治的イデオロギーや性差別主義に還元するのは無理があります。
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### 2. 「ミソジニーポルノ」や「憎悪煽動」の具体性の欠如
投稿は「ミソジニーポルノ量産」や「憎悪煽動画像」がAIで作られていると主張し、具体例としてニコニコ静画のリンクを挙げています。しかし、リンク先の画像(例: 「公金チューチューおばさん」「蓮舫の かえんほうしゃ!」など)が、実際にAI生成かどうかは不明であり、どの程度が「憎悪煽動」や「ミソジニー」に該当するのかも曖昧です。
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投稿はニコニコ静画の運営が問題コンテンツを放置し、「表現の自由」を理由に対応しないと批判しています。しかし、表現の自由は民主社会の基盤であり、プラットフォームがすべての不快なコンテンツを削除することは現実的ではありません。
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投稿はAI推進を自民党や「表自議員」(赤松健や山田太郎を指していると推測)が女性やリベラル派への嫌がらせ目的で行っていると主張します。また、AI業界やXのユーザーを「ウヨ」「アンチポリコレ」と一括りにしています。
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投稿は「クソオス」「キモオス」「頭おかC」などの侮辱的な言葉を多用し、相手を人間として尊重する姿勢が欠けています。このような言葉遣いは、問題提起の正当性を損ない、対話を妨げます。
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### 結論
引用された投稿は、AI技術やその利用者を「ミソジニスト」「右翼」と一括りに非難し、ニコニコ静画の運営や特定の政治家を攻撃する内容ですが、以下の点で問題があります:
3. 表現の自由やプラットフォーム運営の複雑さを無視した一方的な批判。
ニコニコ静画のリンク先の画像は、確かに政治風刺として攻撃的なものもありますが、すべてが「憎悪煽動」や「ミソジニー」に該当するわけではなく、個別に評価が必要です。AI技術やプラットフォームの課題を議論するなら、感情的な非難ではなく、具体的な事実と建設的な提案に基づくアプローチが求められます。(https://seiga.nicovideo.jp/index.php)(https://sur.ly/i/seiga.nicovideo.jp/)
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地上波放映というのは広告で稼ぐ仕組みがあって、広告を見てもらうためのエサとして番組が作られている。
深夜アニメの隆盛があったのはアニメがエサとしてではなくそれ自体が充分に価値の高い売り物に出来るという気づきがあったからだ。
きっかけになったのは新世紀エヴァンゲリオンの再放送 (1997年) だと考えられている。
広告は広い範囲に見てもらうことが重要だが、作品を買ってもらうなら作品を買いたくなるような内容にしなければならないわけで、ターゲットを狭くしてでも訴求力の強い作品作りが求められるようになった。
当時の深夜アニメはいわゆるオタク向けだったのはある程度は事実だ。
ところが要求というのはどんどん上がり続けるもので、訴求力が強く、かつ、ターゲットの広い (またはそのバランスが妥当な) 作品が求められるのが現代。
深夜枠だろうが夕方枠だろうが高品質で、過激で、それでいてその過激さが広く受け入れられ、子供にもわかりやすいがオタクにも納得のいく作りこみの作品ばかりだよ。
もう質の低いアニメはそんなにない。 あとは好みかどうかだけ。
ほぼ黒歴史とされているZZ。改めて見直してみたが、むしろ今の時代にマッチしたカオス感。
ジェネレーションギャップ(ニュータイプVSオールド)もより明確になっているので若年層にも訴求できると思う。
深めるべき物語要素
2.ジュドーとミネバとの関係:シャングリラ前線の当初からミネバを登場させ、ミネバにジュドーの可能性を語らせることでそのポテンシャルを当初から視聴者にも示す
3.ブルーコープ、民族闘争と、ネオジオンの思惑→現在中国がアフリカに実行中の経済政策と重ねて政治劇をもう少し追加すると面白くなる。
4.ジュドーをはじめとしたニュータイプ独立部隊>ギャグ要素をキャラクターの成長的意味なない部分は省略
ジュドーを仲間の兄貴分としてのポジションから部隊を率いるエースパイロットとしての責任が付加されるところを強調すると、ジュドーのカリスマ性が引き立つ
5.アフリカ戦線の熟練VS直感(ニュータイプ)として戦いのテーマをさらに引き上げる (スマホネイティブVS昭和モーレツ社員のようなイメージ。結局昭和モーレツ社員
が電話、FAXでプロジェクトを遂行しようとしてもスマホネイティブがSlack、Discordクラウドを駆使してプロジェクトを成功させるのに到底かなわないというイメージ)
6.ダブリンへのコロニー落としとカミーユの登場(ファーも含めここでの旧作からの登場の仕方は非常にいい)
7.グレミーを冒頭から登場させ、最終的にミネバに反旗を翻すまでを全編を通して語る:これでドラマに深みがうまれる。
8.カミーユ、離脱の顛末(新訳だと説明がつかないとの話もあるが、ニュータイプ型PTSDにより離脱という形であれば説明がつく)
削除するべき物語要素
1.前半のシャングリラの路線>ジュドーとの出会いと舞台への導入までを若干工夫して(ギャグ要素をほぼ排除)省略する
ブライト自身がファースト時代、ニュータイプ部隊という位置づけであったことを踏まえつつ、ジュドー達を次世代ニュータイプ部隊であるという理屈づけで
編成するというシーンをいれてしろうとのジュドーたちをチームとして編成させることに説得力を持たせる
2.アーガマにおける軍隊としてのおちゃらけ→度が過ぎている部分は削除。
3.シャングリラから地球降下までに登場したネオジオンキャラ:これらはまさに80年代のパンクなのでいらない
※ジュドーの能力や軍隊への順応性を見ると、UC100以降も活躍する戦士であることは自明なので、この歴史はしっかりと新訳したほうがいいのは間違いない。
あんまりこっちではニュースになっていないが(現にブクマカも沈黙している)、露につかまっていた米人教師が解放された。
特別機で帰国し、ホワイトハウスでトランプに面会、解放努力に感謝している。
https://www.cnn.co.jp/usa/35229324.html
さて、気になったのはマーク・フォーゲル氏が謎の白い缶を持っているところだ。CNNの動画サムネでも頭だけが見えている。
なんだこれ?トランプだからダイエットコークでもおごったのか?
ところが、ダイエットコークは現在銀のボディ(https://www.coca-cola.com/us/en/brands/diet-coke、デカフェは金色)でデザインが明らかに違う。
ソーダ以外でアメ公が缶で飲むのはビールだろう。そう思って探すと、ドンピシャにもこれは
Marc Fogel with President Trump at the White House and holding an Iron City beer can.
https://x.com/astockeyWTAE/status/1889523801831981522
であるという。
銘柄が分かれば素性は知れる、これはピッツバーグのビールだ。なるほどピッツバーグは鉄の都である(USスチール本社所在地。フットボールはスティーラーズだ)。https://en.wikipedia.org/wiki/Iron_City_Brewing_Company
https://en.wikipedia.org/wiki/Marc_Fogel
を見ると
Fogel is from Pennsylvania, United States. He attended the Indiana University of Pennsylvania.
大当たり。つまり露助につかまっていた男に懐かしき故郷の地酒をおごってやってる、という構図だ。
The beer is brewed just across the Allegheny River from Fogel’s home in Oakmont.
https://x.com/RyanDeto/status/1889525204352663977
さらにちょっと思い出してほしい。ペンシルバニアだ。そう、あそこは前回の大統領選で激戦州。トランプは薄氷50.5%で勝利した(ハリス48.6%)。
トランプは出ないにせよ、次も天下分け目の激戦州になり得るところだ。釣った魚にきちんとエサを与えるのは訴求力を持つ。
そこ出身の男に、ちゃんと地酒をおごってやる、というのは極めていいストーリーだろう。
背景
言いたいこと
まず外見
次に行動
雑感
主に世のお母さんたちへ
【追記】
こども二人とも寝たので追記です。
■ 感謝
この殴り書きにたくさんコメント下さって、どうもありがとうございます 。 私は長い事ブクマカをやっているので、一回くらいははてぶで喧々諤々になる一石を投げたいという思いで、論調をいじった投稿をしました。
初増田でこんなにコメントをもらえたのは、ひとえに自分がはてなブックマークに投下してきた時間の見返りと思わせてください。
あと、幸せホルモンに性差なしの件や、ポジティブフィードバックの誤用の指摘もありがとうございます。
とはいえそのへんの裏取りをして書いたらバズらないとも思ったのです。主語デカなのも許してください。
■ あとがき
この文章のスコープは「新生児」という限定的な期間に「かわいさ」という愛着の要素が少ないことに限定しています。
第一子の経験から、新生児微笑みが増えてくる時期(2ヶ月目くらい?)から「かわいさ」を感じやすくなって、楽しくなってくるはずという信念を持ってます。「分かりやすく、訴求力のあるかわいさ」があるとは思えないのも事実。
そして、「かわいくない」ことは育児を困難にすることを愚痴っていますが、それと愛が無いことは別です。その点は強調します。体力が無くても理性を保っていられることこそ愛のなせる業だとは思うのですが、最初からそれ書いたら面白くないのは前述の通りです。
■ 言い訳
最後の一文を入れたきっかけですが、「夫が家事も育児もしない」みたいな知人の話をよく聞くのが切っ掛けです。
そのへんのエピソードに共通するのが「なんでそんな男と結婚した??」でした。なので最後の段落にある通り、最善策は良き伴侶と出会い、夫に育児で自走してもらうこと。
そしてそれが叶わなかった場合、つまり「自発的に家事育児をしない男性と結婚してこどもを作った場合」に、妻が夫を動かすしかないのでは、という意図で書いてます。(親なり、夫婦以外のリソースが使えるならこの限りではない。)
その補強として、育児の最初期に愛着が湧きづらい要素をレポートしたのがこの増田です。あと、単純に他人がどう感じて育児してるかも知りたかったです。
出産のダメージが甚大なことは理解してます。しかし、家庭内で育児に投下できるリソースが限定されている場合、なんとかして夫が動くように妻がプロジェクトを仕切る、遊んでいるリソースを活用することが取りうる最善策だと思います。