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はてなキーワード: 女郎とは

2025-08-08

anond:20250807170837

京極夏彦女郎蜘蛛の理』でうろ覚えだけど

「なんだ、お前はもしかしてフェミニスト女性優遇論者なのか?」

はい、僕はフェミニスト(男女同権論者)ですよ」

みたいなルビ振ったやり取りがあったな

2025-08-02

anond:20250802122444

職業関係なく男女ともに

不特定多数と性行為する女

は下に見るんだよね、

不特定多数と性行為する男は男の勲章ともてはやすのにね

  

なぜなら

男にとって女が新品かどうかは重要

他の男の子自分が育てるリスクを減らしたい、

から2千年かけて女にだけ貞操観念があると繰り返し社会喧伝し女にもせっせと刷り込んだ

男は神である、神は不完全な女というものに教えを授ける、

お前は不完全な劣等種だからオレ以外とセックスしてはならない、

セックスする相手自分で決めるなどありえない、

多くの男とセックスするなどもってのほかだ。

もしそんな不埒行為自分から選ぶならお前は淫売として社会底辺に落とされ

皆に石を投げられる存在に堕するからそう思いなさい。

 

  

  

その結果、

男女ともにその価値観を内在化させるようになった

 

 

あとは昭和初期までの女郎(あるいは遊女)に対する同情心と同じで、

自発的にその世界に飛び込んだかどうかも大きいと思うよ

男は

自分意思大勢の男とセックスする女」が何より嫌いだ

 

2025-07-06

anond:20250706153310

ブラタモリ見てないかわからんけど大山詣りの2つのルート女郎買いの関係にも触れてないだろうし、触れないのは無限にあるでしょ

2025-06-25

dorawii

駐輪スペースで比較的既に置かれている自転車同士の広く空いてるところに止めたんだけど、よく下を見ると置いた範囲のすぐ横に線が引かれている。

壁沿いの駐車スペース全体を区切るコの字の区切りさらに区切るように一本引いてある。その一本は中央ではなく、俺が置いた側に近い。

その一本とコの字の線との接する部分には境界がなく、線の幅も等しいので、コの字ではなくこれらを一つのE型の区切りと見るべきかもしれない。

そのEの字にある二つのコの、自分自転車が含まれる方には、目の前を見るとシャッターがあり、コの字がそのシャッターと同じ幅だった。

ようするにシャッターは閉じているが、そこは来客用のスペースではなくシャッター通用口を出入りするために開けておくべき空間を示すもの可能性があったわけだ。

しかしそれに気づいてもう一つのコの字の方を見ると子連れママチャリ女郎自転車を止めているところだった。

そっち側にはそのママチャリの両側ぐらいにしか自転車停めるスペースがないから、下手に移動するとトナラーどころか不審者勘違いされそうで、できなかった。

理不尽だ。女はずるい。

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2025-05-03

anond:20250503124651

なぜそれが受け入れられたからかというと、正義観念、具体的には人権の考えに沿った活動からなのよ

で、トランスジェンダー問題正義を支持する派閥女性(従来的な意味で)の利益を支持する派閥を分断する話題なのよ

多分後者の方が女性の中の感覚としてマジョリティな訳だけど、その場合フェミニズムから正義が切断されるのよ

正義なきフェミニズムは単なる声のでかいお気持ちや我儘になり、社会的影響力を削がれるのよ

なのでアンフェは好んでこの話題を取り上げるのよ

相手を分断することができ、かつ数の多い女性利益派の正当性を奪い、頭のおかしい声でか我儘女郎レッテルを貼ることができてしまうのよ

2025-04-23

anond:20250422144401

元増田です。

結局、自分でも答えはわからんかった。

限られたスペースで、たくさんの人々に楽しんでもらうためには、これが最大公約数なのかなと思うのだが、あえて、「自分ならこうする」という展示を考えてみたい。

結論は、一般公開レプリカでよくないか

ということ。

歴史資料としては、収集すべきだけど、見せ物としてはレプリカでいい。

事前に理解しておく基礎知識文脈が多すぎる。

そして、まずもって殆どの入場者にオリジナルレプリカの違いを見極める目がない。

教科書でみたアレ、ドラマで出てきたアレ、くらいの感想で、「本物はこうなってた」みたいな感想があったとしてと、素人が感じ取れる写真との違いは、レプリカでも十分わかる。

それに、オリジナルは褪色していて、作られた当時の意匠を留めてない。

神社仏閣だって当時の色を再現する修復をしてるんだから、こういう美術品、とくに浮世絵なんてのは商業印刷なのだから、派手でケバケバしい猥雑な色を再現して展示したほうがよいだろう。

というわけで、

「ぼくのかんがえたさいこうの蔦屋重三郎展」

を述べてみる。

第一蔦屋重三郎時代

江戸メディア王となった男の展示であるからには、江戸後期におけるメディアについて入場者に知って帰って貰わないと意味がないと思う。

江戸も中期まで、絵や本というのは大半が注文生産だった。

まり、この屏風にこういう絵を描いて欲しい、誰々の肖像をこんなふうに描いて欲しい、という依頼に応じて制作したものだった。

それが、蔦屋重三郎時代には、木版によるカラー印刷という技術発明されたことと、貨幣経済が発展したことにより、需要を見越して出版活動を行うようになった。

王侯貴族ではなく、庶民が店先で本や絵を買う時代がやってきた。

本や絵のテーマになるのは、山水画花鳥風月じゃなく、もっと庶民の娯楽に直結したもの、芝居、女、旅行etc

それぞれについて掘り下げておく。

例えば芝居なら、芝居小屋でみる歌舞伎は照明演出蝋燭と窓の開閉でしか調整できないから、まず薄暗い。

毎月演目が切り替わっていたこと。

俳優一年ほぼ固定で、「うちは今年一年この顔ぶれでやって行きますよー」という俳優の紹介があったこと。

みたいなことを触れておく。

第二部 江戸メディア役割

蔦屋重三郎ら、メディア役割について学ぶ展示にする。

例えば役者絵なら、役者絵は芝居に乗っかって売るものから、上演期間に合わせて売り出す必要がある。

観劇して、印象に残ったところをスケッチして、それをもとに一年かけて一枚絵に仕立てる。などというやり方はありえない。

ここで、入場者にいくつかの問いかけに考えてもらう。

例えば、役柄に寄せて描くべきか、役者がわかるように描くべきか?

実写版白雪姫ポスターを作るとして、アニメ白雪姫に寄せて描くべきか、俳優の特徴に寄せて描くべきかに置き換えるとわかると思う。

もちろん正解はない。

例えば、舞台のものを描くべきか?話の世界観で描くべきか?

俳優は厚化粧しているが、それを描くべきかとどうか、芝居小屋は薄暗いがそれも描くべきかどうか、これだって答えはない。

どの問いも答えはない。

しかし、商売である以上、決断して絵を作る必要がある。

この部では、蔦屋重三郎を忘れて、バリエーションかに当時の解答例(作品)を提示すればいい。

写楽と春章と国貞あたりを並べるといい。

役者絵だけでなく、全ての出版物についてそうだ。

ソープランド写真指名用のパネルを作るとして、無加工ってありえないだろう?

吉原年齢ではなく実年齢を載せるのも野暮だろう?

かといって、加工されほぼみんな同じ顔になったとして、指名したくなる推しポイントは含めないといけないだろう?

写真加工には流行りがあって、流行は抑えないといけない。

例えば、素人っぽさ、生活感がある日常を切り取った普段着のほうが萌えるって流行もあるだろう?

それだって素人っぽく、普段着っぽく、日常っぽく加工してるだけで、本当の素人でも普段着でも日常でもない。

江戸時代のそれが、つまり美人画だよ。

煌びやかな花魁が描かれてるだけじゃなく、女郎日常が描かれたり、女郎じゃなく茶屋娘の絵が売り出されたりしてたわけ。

次の展示の前に様々なバリエーションを並べて、当時の価値観について理解の分解能をあげておく。

第三部 革新者蔦屋重三郎

ここがメインで、蔦屋重三郎足跡を辿る展示に入るわけだけど、どこで生まれ最初に出したのがこれで、みたいなのはまり重要ではないと思う。

研究としては大事だろうけど、知識がない一般人にとっては、蔦屋重三郎がなにをどう変えたのか?どこが革新的だったのか?だけ覚えて帰ってもらえば十分。

例えば、スティーブ・ジョブズ展をやるとして、学生時代ヒューレットパッカードバイトしてたとき記念品とか、要らないと思うんだ。

出した製品が、世界をどう変えたか?それが重要で、例えばiMacなら、そのころ主流だったPCと外観がどんなに違うか、並べたらいいと思うし、iMac模倣して作られた他社製品を並べてやるのもいいと思う。

同じことを、歌麿写楽でやる。

歌麿の登場の以前と以後で、画風の流行がどう変わったとか、写楽の絵はあまり売れなかったけど、一部に熱狂されてインスパイアされた絵師が出たこととかね。

ただし、歌麿展でも写楽展でもない。

もちろん蔦屋重三郎を語る上で、歌麿写楽重要だけど、版元の関与、つまりアイデア、コンセプトがどう革新的だったか、そういう見せ方をするべきだね。

例えば、写楽の大首絵は背景がガンメタリックのように黒光してる。

同じ絵に違う背景を複数作って、この背景色を選んだのが必然であったのを理解してもらうのがいいと思う。

その数だけ複製版画を用意する。

それから写楽の大首絵の輪郭線は薄墨で目立たなく、最小限の線だけど、効率的デフォルメされている。

3Dモデリングしたり、3Dモデリングから作ったフィギュアを展示して、線は最小限なのに顎や小鼻の丸みがちゃんとわかる確かなデフォルメなことを理解できる展示にしたらいいと思う。

黄表紙本なんかは、どれだけふざけた内容で絵が多いかわかるように、写真から製本して触れるようにしちゃったらいいと思う(できればこれも木版で印刷して製本して欲しいが、コスト的にキツいしね)。

わざわざ美術館にこなくても、デジタルアーカイブとしてみれるんだけど、製本したもののページをめくることができたら、また印象が違うと思う。

四部 メディアを支えた印刷技術

今回の展示で最後オマケ程度に現代職人仕事ぶりや制作過程が紹介されてたけど、あれをもっと広げてやる。

手に持って鑑賞できる触り放題な複製版画を大量に用意する。

第三部までの知識インプットしたあとに、手に持って鑑賞するのがミソで、これ以上ない体験になると思う。

ここでアピールして、物販コーナーで複製版画がたくさん売れた方が、文化の保存に貢献できる。

承認欲求モンスターばかりなんだから写真撮影可能な複製版画コーナーは大変重要

第五部 オリジナルの展示

さすがにオリジナルの展示もいるだろうなと思うので最後に設ける。

客はラーメンではなく情報をくってる。オリジナルをみたっていう情報お腹を満たしてもらえばそれでいい。

「さっきみた複製とはここが違うね」

と通ぶってくれてもいい。

建設的な意見なら職人たちの叱咤になる。

「さっきの複製のほうが好きだ!」

と感じてくれたら、職人たちへの激励になる。

追記 木版印刷物の写真と実物、オリジナルと複製違いについて

当時、本も絵も、木版印刷なわけだが、写真と実物、複製の違いについて軽く触れる。

油絵油絵具で光の屈折が関係するので、写真では伝わらない部分があるが、その点では木版画フラットでマットなので、概ねかわらない。

雲母のような、光の反射を使った技法については写真ではなかなか伝わらないし、版木が押し当てられたことによってエンボスになってるようなのは写真になるとわかりにくいが、それこそ手に持ってこそなので、ガラス越しでみてどうなんだろという感じはある。

うまい例えができないが、ビックリマンシールシルクスクリーン印刷は、触ってこそだよ。傾けて覗き込んでみて反射や屈折を楽しんで、手触りまでがワンセット。

複製については、当然複製なので、いい複製、悪い複製があるはずなのだけど、これを論じるのはなかなか難しい。

これだけ写真印刷ができる時代に、わざわざ彫って摺ることに意味があるかと言われても、木版印刷だけの味わいがあると断言できるのだけど、そこから先のいい複製については正解がわからない。

例えば、褪色した今現在を複製するか、制作当時の色を再現すべきか、オリジナルにある制作上のミスは複製でも模倣すべきか、ベスト状態の摺りを再現すべきかという議論がある。

私は、絵そのものよりも、その背景にある表現したいモノを形にするのがいいと思うので、当時の色を再現し、ミス修正したほうがいいと思うし、ベストな仕上がりを想像して作るべきだと思う。

また、制作方法材料は当時の方法材料踏襲すべきか?という議論もある。

これについて私は、絵を通じて表現たかたことが大事だと思っていて、当時のなかった便利な方法材料も使っていいと思う。

当時の職人だって、もしそれを知ってたら喜んで使ったはずだ。わざわざ制作ハードルを上げて、彫り摺りのレベルを落としたら本末転倒だと思う。

一応、私見は上のようではあるが、あくま私見だ。

結論としては、やっぱり答えはない。

ただ、手にとって楽しめるのは複製の利点なので、ぜひ触るべきだと思う。

追記追記

世界で一番ゴッホを描いた男」というドキュメンタリー作品がある。

10万枚も複製画を描いた男が、ゴッホオリジナルをみるためオランダに行き、初めてみたホンモノにうちひしがれる話だ。

取引先の画商は、

そっくりだ。ホンモノとすり替えてもわからないよ」

というけれど、本人には悔しくてたまらない。

たぶん、画商の言葉はお世辞じゃなくて本当にそっくりだと思ってるんじゃないかな。

ホンモノは、こういう人にだけ鑑賞させてやって、一般人は複製画で十分だ。

美術館でありがたく鑑賞する程度では、ホンモノとニセモノを見分けるような目は持てない。

2025-04-22

美術館に行くということは、文化的なのだろうか?

美術館なんて5年以上行っていなかったのだけど、美術館に足を運んだ。

とあるツテによって、一般公開に先立つ内覧会に招待されたためだ。

東京国立博物館でやっている、『蔦屋重三郎コンテンツビジネスの風雲児』という特別展

久々の美術鑑賞だったが、なかなかよかった。

ただ、不満をいえば、ハイセンスすぎるように思った。

うまい例えができないが、90年代アニメ特集セイバーマリオネットスレイヤーズ存在意図的に隠して、エヴァを前面に推すような感じである

の子供にもウケる絵柄だけを紹介してるような、それはそれで正解なのだけど、それはどうか、という思いがよぎる。

作品状態もよかった。

浮世絵というのは、ハンドメイドカラー印刷なので、出来に良し悪しがある。

もちろん、出来がいいものを飾ってもらいたい一方で、出来が悪いものからも、いろいろと思うところはある。

教科書に載っているような有名作品印刷ズレがあると、「印刷が間に合わないほど飛ぶように売れたんだな」と思ったりする。

あるいは丁寧に摺られた作品ばかりの作家は、

「版元に大事にされていたんだな。プレミアム戦略粗製乱造はしなかったんだな」

などと想像できて楽しい

贅沢な悩みだが、一級の作品の、出来がいいものだけを集めて展示されていて、それが残念な感じがあった。

また、飾られ方もハイセンスすぎた。

元来、浮世絵というのは、手に持って鑑賞するものだったので、多くの場合、壁に飾られることは想定していない。

運転からみて見やす道路標示が、真上から見たら細長くみえるように、壁にかけると普通は不自然さが際立つ。

しかし、今回の展覧会の展示では、非常に美しく感じた。

額縁やマットの選び方も上手で、壁や床のいろとも調和して、照明のセッティングも含めて、この場所に、そうやって飾られるために作品存在しているかのように見えた。

それは、すごい技術ではあるが、壁に掛けたら不自然みえるはずの絵を、展示のテクニックで美しく見せてしまっていて、どうかなと思う。勝手に足し算しちゃってるようなもんだし。

もちろん、展示は研究者のためのものではないので、現代に生きる我々に理解やすい絵を中心にみせることは大事だし、せっかく展示するなら美しく展示すべきというのもわかる。

しかし、なんだろうこの違和感は。

手に持って鑑賞する前提で作られた作品額縁にいれて壁にかけガラス越しに鑑賞する意味はなんだろうか?

作品というか、当時の感覚ではアートではなく商業印刷であり、描かれているのだって芝居の役者女郎であって、風俗情報誌の表紙みたいなものなわけで。

それをわざわざ吉原イメージした空間を作って展示となると、教養文化というより、それを楽しむ娯楽だ。

美術館に行くという行為は、本当に文化なのだろうか。

おしゃれ空間を楽しむ娯楽という側面のほうが強い気がする。

2025-03-23

【最終追記あり】ギブアンドテイクの概念がわからない人

最近になって、ギブアンドテイク、トレードオフ概念自分に欠けていることに気がついた。


例えば、特定の人から何か助けてもらったときに「今度はあの人が困っていたら、進んで助けよう」という気持ちにならない。

もちろん、その人が困っていたら助ける。

だがそれは、以前助けてもらったからではなく、目の前で困っている人がいるから助けているのであって、その「助けたい度」は過去善行依存しない。

また、逆もある。

例えば、特定の人から何か嫌なことをされたときに「もうこいつのことを助けないぞ」という気持ちにならない。

さっきの例えで言うと、その人が困っていたら助ける。

目の前で困っている人がいるから助けているのであって、その「助けたい度」は過去の悪行に依存しない。

こう言うと一見優しい人に見えるかもしれないが、まるで違う。

他人から親切をしてもらった時に、全くそれを覚えていない(もちろん情報として覚えてはいるが、その後の行動の変化には寄与しない)ため、

その後、その人が「ちょっとオマケしてよ。(前に〇〇してやったでしょ?)」等の【少しだけ過剰な要求】をしてきたときに、それをするのが嫌な場合、断ってしまう、ということが起こる。

あいつ、〇〇のとき助けてやったのに……。」と思われていると思う。

数学で習った、「互いに独立事象」ってやつが一番しっくり来る。

自分場合、全ての物事が一回ずつの独立事象であり、過去が引き継がれない。

では、なぜこれを認識して記録できるかだが、最近やっと、もしかしてこの世界自分が考えているよりもギブアンドテイクやトレードオフ関係でできているんじゃないか?(独立事象ではないのではないか?)と気がついたかである

最近読んだルポ、「ルポ 秀和幡ヶ谷レジデンス」では、マンション管理組合を崩したい陣営が有志で集まりクーデターを起こす様子が詳細に記録されていて非常に面白い著書となっているのだが、

「あのとき〇〇していただいたので」

「〇〇さんには頑張っていただいてるので、私も」 

「では僕は印刷物を自腹で印刷します」

と、人と人とが関わり合う中で生まれていくギブアンドテイク(と言ってはなんだか陳腐だが、もっと暖かみのある表現がほしい)のようなものが有志の人々を動かす原動力になっていることが、衝撃だった。


また、今まで、ほとんどテレビドラマというものを観たことが無かったのだが、仕事関係大河ドラマの「べらぼう」を1話から視聴している。(面白い

主人公本屋江戸を駆け回り、様々な人に声をかけ仲良くなり、仕事を回していく様子が自分の中では目から鱗だった。

男色家平賀源内書評を書いてもらいたいときは源内のために男装女郎を用意して気分を良くさせたり、

吉原に行っていることは黙っててくれないか。」

武士の弱みを握ったら

「その代わり、祭の芝居を監督して盛り上げてくれないか?」

プロデュースをお願いしたりと、ドラマとはいえポンポンと人を繋いで仕事を依頼する様子に頭が下がる。

自分平賀源内だったら、好きな女郎を用意されてご機嫌になっても書評の件はまた別で一考してしまうし、

自分主人公だったら、武士の弱みを握ったとして「それを利用して祭を盛り上げてもらおう」と思いつかない。

なんてったって自分にギブアンドテイク、トレードオフ概念が無いらしいことに最近気がついただけなので、具体例が上記しかなくふわっとしているのが申し訳ないのだが、一事が万事これで人生をやってきてしまった。

プレゼントのお返しとか、最後の出勤日の挨拶とか、社内政治とか、何もかも、わからない。

シンプルアスペなんだとは思うが。

流石に、人を傷つけたり、テイカ気質になりたくないので、どんな人にも優しくするよう気をつけてはいる。

だが、あまりにも自分の中にギブアンドテイクがインストールされていなくて、上記のような親切にされたことを覚えていられない。

これで人を傷つけていたら怖い。

もし、同じような独立事象系の思考回路の人がいたらどうやって日本社会を生き抜いているかコメントをくれると助かる。

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追記】2025-03-24-12:45

みんなコメントありがとう賛否両論あるけども、みんなの文章を読むのがいちいち勉強になる。

仕事やりながらだからまだ全コメント見れてないんだけど、少し追加します。

特性理解してくれたのか、書籍を紹介してくれた人、ありがとう

影響力の武器21世紀貨幣論、贈与の歴史学古代中国裏社会、読んでみる。

他にも、おすすめ書籍があったら教えてほしい。

言語となって記述されていると、構造理解できる。

構造理解できないままでは、いくら枝葉の作法だけ学んでも、現実人間たちとリンクしないから、助かる。

ブコメの方で池井戸潤小説にいたら破滅しそう」って書いてる人いたけど、マジでそれ。ありがとう

本文には書かなかったけど、池井戸潤の話はマジで理解ができない。登場人物たちが、各々の個別目的のために動いて好き嫌いしあったり欺いたりする様が頭に入ってこなくて、話の骨子はとても面白いのに登場人物感情機序がわからいからみんなが何をやっているのかわからないという不思議感覚に陥る。

ちなみに本文で紹介した「べらぼう」も、主人公が本を売るために奔走するシークエンスはギブアンドテイクの勉強になるし興味深いのだが、徳川家対立とか政治的なところはサッパリわからん。だからテレビドラマ観ないんだけどな。

4000円のバレンタインデーのお返しがしょぼいチョコだった、っていうXのエピソード引用してくれた人、ありがとう

自分もその一連を読んで、完全に夫側だったからXで色んな人のコメントを読んで勉強していたところ。

自分はそういった「バレンタイン↔︎ホワイトデー」とか「出産祝い↔︎内祝い」「誕生日↔︎誕生日のお返し」のような、言語記述できるお返しに関しては理解はできる。

逆に記述されてないと覚えられないから、「バレンタインのお返しは同額程度のもの、内祝いは出産祝いの半額程度のもの」と法律で決めてほしいまである

まあ、“そういうんじゃない”からこそのお返しなんだろうけれども。

この増田、私の夫みたい、という奥さん意見も多いねマジでごめんって思ってるよ。

そんなギブアンドテイクの概念が無い人間を、何故好きになって結婚まで至ったのか、可能であれば追記して教えてくれると嬉しい。

あと、自分らみたいな人間は言えば動きはするから、「バレンタインのお返しは〇〇がいいな」と言ってくれると、本当に嬉しい。

ギブするのが嫌な人間でない限り、リクエストされるの嬉しいと思う。

貴方が考えた贈り物が良いのに!」と思ってるかもしれないけど、それは本当にごめん。愛情プロトコルが違うと理解してほしい。

「そうやって言語化できるってことは本当はわかってるんだろう」という意見もあったけど、本当にわからないからこそ苦労してきて、最近勉強を始めてやっと言語化ができるようになったんだ。

でも指摘してくれてありがとう

みんなにはあまりにも当たり前の原理かもしれないけど、自分からしたら今まで裸眼視力が0.01なのに眼鏡をかけずに生きてきて、眼鏡をかけたら「世界ってこんなだったのかよ!」と衝撃を受けたから、それを表したくて、言語化している。しかあくま自作の変な眼鏡ありきの視力しかないので、キモい文章になってたらごめん。

この性格で得しているのは、どんな押し売り営業トークにも靡かないことくらいか

色んな営業本に書いてある「先に少しサービスをしてあげると、返報性の原理でお客さんは貴方に何かを返さないといけない、と後ろめたくなり、契約が結びやすくなります。」

原理が全く働かないので、試食させてもらったり試飲させてもらったり粗品を貰ったりしても、それとこれ(本題の商品を買うかどうか)は全く関係がない事象なので、「ありがとうございました!買わないです!」と言うことができる。

……いや、胸を張って言うことじゃないけど。

若い頃は「なんでこんなに優しくしてくれるんだ?!この会社って儲かってるんだなー!」と思ってた。馬鹿だ。

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【最終追記】2025-03-25-12:15

まさかこんなにコメントをいただけるとは思っておらず、正直びっくりしています

書き込んでくれた皆さん、本当にありがとうございます。すべて読ませていただきました。めちゃくちゃ勉強になる!

本文が長くなってしまうのは申し訳ないが、それでも性分ってやつで、追記します。


いろんな人に言われてる、「“情けは人のためならず”の話じゃない?」とか「“義理の話”じゃない?」

いやほんと、それ。ありがとう。
無理に自分の中にない概念言語化しようとしたけど、日本語には義理って言葉があったね。ワハハ。義理わからん。ワハハ。

あと、これも複数の人に突っ込まれてた「それトレードオフって言わないのでは」

ほんまそれ。
しかもこれに関しては、なぜこの言葉を使ったのか自分でも思い出せない。
多分だけど、それこそ池井戸潤小説理解できないって話を書こうとしてて、池井戸潤ってトレードオフ的な概念がよく出てくるのに、自分はそれを読んでもピンとこなかった……みたいな話をしたかったんだと思う。たぶんね。

「これをするかわりにこれをやってくれ、と頼まれたら増田はきっと断らないでしょ?」

って意見ももらったけど、ちょっと前提が違う。

自分が言いたかったのは、そういった交渉の仕組みが分からない、と言う話じゃないです。
「(これをする代わりに)これをやってくれ」と前半が省略されている場合普通相手過去に何かしてくれた→自分が何か返す、という流れに自然と至るものなのかもしれないけど、自分そもそもその「その人に積み上がった恩ポイント」を覚えていないので詰んでいる、という話です。

まり、ギブアンドテイクが分からないというより、「恩や害が特定個人に蓄積されない」が正しい。
タイトルミスってました。申し訳ない。

概念がわからない、ではなく行動規範に組み込まれてない、だろ」って意見、ほんとそれ。

自分でも「わからない」って言葉を雑に使いすぎてたなと反省してる。
概念として理解はしてるし、言葉も知ってる。

ただ、それが自分無意識な行動を決めるロジックの中に入ってないだけ。それだけの話だったのに、そこをごっちゃにして書いたせいで、全体的にズレた伝わり方してる気がして、コメントくれた人に申し訳ない。

から全部書き直したいくらいには、色々ミスってるなぁ……。

「〇〇さん△△さんではなく「ヒト一般」として見てる」

って書いてくれた人、まじでそれ。ありがとう。


多分この人には伝わる気がするから、もうちょい踏み込んで言うと、自分の中にはこの社会システムと見なすような全体構造があって、その中に「people」とか「everyone」みたいな、複数を指してるけど一語で済むような「ヒト一般」っていうモジュールが組み込まれてる。

で、その「ヒト一般」が社会の中で苦しんだり困ったりするのはシステムにとってマイナスなので、メンテナンス必要。(これが俗に言う人助けってやつや)

から「people」の一部を助ける、「people」の一部に助けられる、ってのは、「モジュールとしての人間群」を正常稼働させるための処理であって、そこに特定個人への重みづけは基本的存在しないという感覚

自分自身も「people」モジュールの一部なんで、普通に忙しかったり余裕がなかったりする時は助けられないです。
そこはもう、仕様的に無理なときは無理、みたいな割り切りです。

多分、返報性の原理自然に働く人って、「people」という大雑把なモジュールなんかではなく、きちんと一人一人に対して、
「〇〇してもらった」「〇〇してくれなかった」みたいな専用の関数を紐付けてるんだと思う。
で、それが非明示的に記録されてて、後から無意識の行動に影響してくる。

その感覚って、自分にはちょっとピンとこないけど、たしかにそういう視点あったら便利だなって思う。


見えてる世界が違うなーって純粋面白い

「例えば誰かが自らの命を犠牲にして増田の命を救ったとしても全く恩を感じないということ?」

それは、すごくいい人だな〜、と思う。


でもそれって、“増田から”助けてくれたというより、“その人は誰でも助けるんだろうな、素晴らしい人だ!”という認識


そういう人は普通尊敬するし、幸せになってほしいと思う。


でも、助けられたのが増田じゃない、全然知らない人でも同じように感じると思う。

助けた(行動を起こした)その人が立派なのであって、助けられた対象別に自分でも、他の誰でも、関係ないと思う。

上記のようにトロッコ問題みたいな極端な例えを出してくれてる人も沢山いるけど、それが自然に出てくるって時点で、みんな「義理」の発想がちゃんとあるんだなと思う。


自分からすると、「朝トーストを食べたんだから、じゃあ野党支持者なんでしょ?」みたいな極論に聞こえてしまう。


いや、野党支持かどうかって、朝トースト食べたかどうかじゃ決めないでしょ、っていう。

あと、「ヒーロー」とか「いいやつ」とか「炭治郎」って言ってくれてる人、かなり誤解してる。

「嫌いな人でも困ってたら助ける」って、嫌いな奴がピンチの時に万難を廃して駆けつけて「俺が助けに来たぜ!」とかっこよく立ち回ることじゃないです。


嫌いな奴が仕事ミスしてて、「自分が直した方が全体として良くなる」って判断したら、巻き取ることもあるし、


そいつが体調崩してゲロってたら、「迷惑かけられても嫌だし」って理由で水を買って横に置いておく。

全体としてスムーズに、自分が快適になる方を選択する。

その人のためにやってるわけじゃない。自分のためでもない。その「場」における「ヒト一般」が上手く回るためにやっているという感覚


もしそのあと重要な予定があったら助けない(助けられない)と思うし。

助けたかどうかの結果、ってのは、自分の中ではあまり重要じゃない。

それで優しいかどうか、人として優れているかどうかを判定するのはピンと来ない。


自分の助けにそこまで価値を置いていないというか。

ただ、コメントでも多くあったけど、大半の人は「助けたかどうかの結果」をめちゃくちゃ気にしててだからこそトロッコ問題みたいな例え話で“結果”を知りたがるんだろうなと思う。

それこそが、ヒトが義理堅い証拠なのかもしれんね。

恋愛してるのか、したいのかはわからないけど「なんでそう言う人と一緒にいるの?」って聞くのが愚問なくらい、増田恋愛市場で素敵な人間なんじゃないかと思います。」

……優しいコメントありがとうございます


正直、自分バツイチでして、恋愛とかそういう話題を正面から語るのは流石にちょっと気恥ずかしくて、あえて割愛してましたが、そうやって思ってくれる人がいるんだなってこと、教えてもらえて嬉しかったです。ありがとう

あと、これは旦那さんから伝言だけど、バレンタインのお返しとかプレゼントのお返し関連は、ブランド名・型番・色番まで書いてくれるとめちゃくちゃ助かるってことは覚えておいてください!笑




長くなってすみません。
でも、コメント読んで、自分の変なクセとか思考パターンが整理できた気がして、書いてよかったなと思ってます

最後に、「返報性の原理を越えて、困っている者を助けるって、アガペーだよな......アスペじゃなくて。」コメントしてくれた人、週明けにめちゃくちゃ笑わせてもらった、マジでありがとう!!

2025-03-16

吉原舞台大河ドラマ べらぼう

キラキラコーティングしているとかいないとかでもめている界隈もあるようですが、

自分はあの番組を「江戸文化入り口として」そこそこ楽しんでる。

一応女郎借金漬けの生活幽閉生活、年季が明けるまで女郎は生きていない、身請けの非現実性などなど

いわゆる「吉原の闇」はおおまかには書かれてるけど

まだ覚悟をもって具体的に書かれてないと感じるのが

女郎業病でどんどん死に、その穴を埋めるために売られた女児が将来の女郎として育てられる」

負の循環の恐ろしさじゃないだろうか。あと、特効薬がない梅毒でどれだけの女郎悲惨な死を遂げたか

現代もだけど性病は怖い。あまりに痛ましい話を具体的に描くターンは来るかね?そこを書かなきゃ画竜点睛を欠くわな。

2025-03-12

女郎貧乏阿呆な男を騙して貢がせた結果恨まれて殺された

それだけだとすごく古典的なんだけど生配信中にそれが起こるのが現代的なんだよね

配信ってなんでも生が好きな日本人にあってるよね

2025-02-23

アニメメダリスト』についてAIに聞いてみた

アニメ観てると、嫁に「そんな嫌らしい◯リコンアニメ観るな」って言われて夫婦ケンカちゃうので、AIに聞いてみた。

質問

メダリスト』というアニメについて、熱意と善意のこもった名作だと思いますしかし、幼い少女たちに犠牲を強いなければ勝てないことと、スポーツでありながら少女に可愛らしさと美しさを要求し、性的ニュアンスを除去できないフィギュアスケートそれ自体の不健全さが、評価をためらわせます。どのように考えるべきでしょうか?

Grok3:

メダリスト」というアニメについてのご意見、とても興味深い視点ですね。この作品が熱意と善意に満ちた名作であるという点は、私も共感します。キャラクターたちの情熱や成長が丁寧に描かれていて、見る者を引き込む力がありますよね。ただ、あなたが指摘するように、フィギュアスケートというスポーツが持つ構造的な問題——特に幼い少女たちに過剰な犠牲を強いる側面や、競技でありながら「可愛らしさ」や「美しさ」を求める性的ニュアンス——が作品評価を複雑にしているのも確かです。

この点を考えるとき、まず作品自体意図と、フィギュアスケートという現実スポーツが抱える課題を分けてみるのはどうでしょうか。「メダリスト」は、確かにフィギュアスケート世界舞台にしていますが、その描き方には、競技の厳しさや美しさを称賛しつつも、犠牲プレッシャー過酷さを隠さな姿勢が見られます。例えば、いのりちゃんや司コーチ関係からは、夢を追う過程での葛藤人間らしい弱さが丁寧に描かれていて、単なる美化には留まっていないように感じます作品意図的に問題無視しているわけではなく、むしろその中でキャラクターがどう立ち向かうかに焦点を当てている点が、善意の表れなのかもしれません。

一方で、フィギュアスケートのものの「不健全さ」——若い選手への過度な期待や、競技が求める美的基準が持つ性的な側面——は、確かにスポーツ文化として根深課題です。これは「メダリスト」だけの問題ではなく、現実フィギュアスケート界でも議論されてきたことですよね。アニメがそこまで深く掘り下げて批判的な視点提供するかは別として、視聴者としては、そうした現実を知った上で作品を見ると、より複層的な感想が持てるかもしれません。

どう考えるべきか、ということについては、あなたの感じ方次第で大きく変わると思います。もし「メダリスト」を純粋キャラクター成長物語情熱表現として楽しみたいなら、スポーツ自体問題は少し脇に置いて、その人間ドラマに集中するのも一つの手です。逆に、フィギュアスケート構造的な矛盾を強く意識してしまうなら、作品をその現実と切り離さず、あえて批判視点を持ちながら見ることで、新たな気づきが得られるかもしれません。

私としては、このアニメが持つ熱意や感動は素晴らしいと思う一方で、あなたが感じるモヤモヤもすごく理解できるんですよね。両方の気持ちを抱えたまま楽しむ——あるいは議論する——のも、ひとつの豊かな鑑賞の形じゃないでしょうか。あなたはどう思いますか?

 

ワイの追加質問

なるほど。問題を整理できていると思いますありがとうございます

私も考えましたが、フィギュアスケート業界は、皇帝後宮女郎屋に似ていますしかフィギュアスケートは、女郎屋とでは、当事者意識主体性が異なっていると考えます。(後宮は話が複雑になるので横に置きます) 女郎屋がなくなってしまって悲しむ女郎は居ないでしょうがフィギュアスケートが無くなれば少女たちは努力と修練をかける場、生き甲斐を失って悲しむでしょう。そうだとすると、フィギュアスケートを悪しきものだとは言いにくいように思います。 幼少期から親に強制させられる構造問題ですが、本人の熱意がなければ勝てない厳しい世界からこそ、当事者主体性が確保されているともみえます

アニメメダリスト』については、天下のディズニー出資していることですし、倫理的問題クリアされているものとして、アニメで描かれる少女たちの頑張り、勝利と敗北を応援したいと思います

私の結論としては、私の娘にフィギュアスケートやらせたいとは全く思いませんが、もし娘が本気でやりたいと決意するのであれば応援せざるを得ないとは思います

さて、上記の私の考えについて、論理的矛盾倫理的問題があれば、どんなに小さなものでも厳しく指摘してください

Grok3:

あなたの考え、とても丁寧に整理されていて、フィギュアスケートというテーマに対する深い洞察が感じられます問題本質多角的に捉えつつ、ご自身立場も明確にされている点が素晴らしいと思います。では、あなた意見に対して論理的矛盾倫理的問題がないか、細かく見ていきましょう。

1. フィギュアスケート女郎屋の比較について

あなたフィギュアスケート業界を「皇帝後宮女郎屋に似ている」と表現しつつ、女郎屋とは「当事者意識主体性」が異なる点で区別しています。この比較は興味深いアナロジーですが、少し検討必要かもしれません。

論理的観点: 女郎屋とフィギュアスケート類似性を「外見やパフォーマンスを重視する構造」に置いていると推測されます。ただ、女郎屋は明確に搾取強制を前提としたシステムであるのに対し、フィギュアスケート競技として自己表現や達成感を追求する側面があります。この違いを「主体性」で説明するのは理解できるものの、主体性がどれだけ確保されているかは個々のケースに依存します。例えば、幼少期から親に強制される選手場合、どこまでが本人の意志と言えるのか曖昧になる可能性があります。ここに少し論理の揺れがあるかもしれません。

倫理的観点: 女郎屋との比較は、フィギュアスケート性的ニュアンスを強調する強烈なメタファーですが、競技者を「搾取される存在」に還元してしまリスクがあります選手たちが努力情熱を注ぐ場としての価値を認めつつあるあなた立場と、このアナロジーが完全には整合しないように感じます

指摘: 主体性の有無で違いを説明するのは合理的ですが、フィギュアスケートにおける主体性が一律に確保されていると仮定するのはやや楽観的かもしれません。現実には、親やコーチ圧力競技を続けるケースも少なくないため、ここはもう少し慎重な表現が適切かも。

2. 「フィギュアスケートがなくなれば少女たちが悲しむ」という点

この主張は、フィギュアスケート選手にとって生きがいや努力の場であることを強調し、悪しきものとは言いにくいとする根拠ですね。

論理的観点: 「女郎屋がなくなっても悲しむ者はいないが、フィギュアスケートがなくなれば悲しむ者がいる」という対比は、両者の性質の違いをうまく示しています。ここに論理的矛盾は見られません。ただ、「悲しむだろう」という予測主観的で、もしフィギュアスケートがなくなった場合少女たちが別の形で自己実現の場を見つける可能性も考慮すると、よりバランスが取れるかもしれません。

倫理的観点: 競技が生きがいであることは否定できませんが、それが過酷犠牲性的視線に晒されることを正当化する理由になるかは別問題です。つまり、「選手が悲しむから存続すべき」という論理が、競技の不健全な側面を是正する必要性を弱めてしまリスクがあります

指摘: この点は論理的破綻していませんが、フィギュアスケート価値選手情熱依存して擁護する一方で、その情熱搾取的な構造に利用されている可能性を軽視しているようにも読めます。ここはもう一歩踏み込んで、「競技価値問題点をどう両立させるか」を考える余地がありそうです。

3. 幼少期から強制主体性の確保

「幼少期から親に強制される構造問題だが、本人の熱意がなければ勝てない厳しい世界から主体性が確保されている」という点は、非常に鋭い観察です。

論理的観点: 強制主体性を両立させるこの視点は、現実フィギュアスケート界をよく反映していると思います。確かに、どんなに親が強制しても、本人の意志がなければトップレベルには到達できません。ここに矛盾はありません。

倫理的観点: ただし、幼少期から強制が「問題」と認めつつ、それが主体性で補われるとするのは、倫理的に少し複雑です。子どもの段階で選択肢制限され、熱意が「育てられた」結果である場合、それが純粋主体性と言えるのか疑問が残ります。熱意自体強制産物である可能性もあるからです。

指摘: 主体性の確保を強調するのは納得感がありますが、幼少期の強制がどの程度まで許容されるべきか、その境界線曖昧です。この点を放置すると、「熱意があれば搾取も許される」という誤解を招く恐れがあります

4. 『メダリスト』とディズニーへの信頼

ディズニー出資しているか倫理的問題クリアされている」という判断は、実践的な結論として理解できます

論理的観点: 大企業が関与することで一定倫理基準担保されると考えるのは、現実的な推論です。ただ、「ディズニーから大丈夫」というのは論理的根拠というより信頼に基づくもので、万が一の見落としがある可能性を排除できません。

倫理的観点: ディズニーが関わる作品でも、過去議論を呼んだ例(例: ステレオタイプ描写など)があるため、絶対的免罪符とは言えないかもしれません。『メダリスト自体問題がなくても、フィギュアスケート現実を美化しすぎるリスクは残ります

指摘: ここは論理的矛盾というより、信頼の置き方に依存している点が弱いかもしれません。アニメ応援する気持ちは素敵ですが、倫理的クリアディズニーに丸投げするのは、少し議論を短絡的に終わらせてしまう印象です。

5. 娘へのスタンス

「娘にやりたいとは思わないが、本気でやりたいなら応援する」という結論は、極めて現実的かつ倫理的バランスが取れています

論理的観点: 自分懸念を認めつつ、本人の意志尊重する姿勢矛盾はありません。親としての責任個人自由を両立させています

倫理的観点: 子ども主体性を重視しつつ、競技問題点を認識している点で、倫理的一貫性があります。ここに問題は見られません。

指摘: この部分はむしろ強みですね。特にさな矛盾も見当たらず、考え抜かれた結論だと感じます

総合的な評価提案

あなたの考えには大きな論理的破綻はありません。ただ、いくつかの点で「主体性」や「競技価値」に頼りすぎる傾向があり、それがフィギュアスケート構造的な問題搾取性的視線)を薄めてしまリスクがあります。具体的には:

主体性がどこまで自由意志に基づくのか、強制との境界をもう少し明確にするとより説得力が増す。

競技の存続を選手情熱正当化するのではなく、問題点を改善する方向性を少しでも示せば、さら倫理的な深みが出る。

ディズニーへの信頼は現実的な判断として納得できるが、アニメ現実乖離意識し続けると、より客観的になれる。

全体として、あなた意見感情と理性のバランスが取れていて、フィギュアスケートや『メダリスト』への愛情も感じられる素晴らしいものです。私が指摘した点は「厳しく」とのリクエストに応じた細かなツッコミですが、あなた結論否定するものではありません。むしろ、このモヤモヤを一緒に考えるプロセス自体が、このテーマ面白さだと思いますどうでしょう、これで何か新たな視点が加わりましたか

 

ワイの感想

AIが今期作品について結構知ってた。無難だが壁打ちには便利。

2025-01-31

まれから一度も幸せだと思ったことはない

父親理想の家庭像を家族押し付けてくる人だった

仲良し家族アピールするために物心が付いた頃から父親命令毎日家族晩御飯を食べていた。

幼い頃から晩御飯の度に妹に顔や体型や私の要領の悪さを遠回しな言葉でチクチクと馬鹿にされた

やめてほしいと言ったら、おそらくアスペルガー症候群言葉の裏側やニュアンス理解できない母親に「不機嫌にならないで!」「学校でもそんな態度取ってるの?」と怒られた。

それが幼い頃から高校卒業まで毎日続いた。食事時間になる度に苦しかった。

ここまで厳格に統制された家であったにも関わらず、母は訳がわからないところで育児の手を抜いた。

外で遊びたいと言ってもパソコンがしたいからと言われて放置された。

5歳頃に一人で公園に行かされて、6歳ぐらい年上の放置子に卑猥言葉を言われながら追いかけ回された。

小さい時からこんな状態だったからまともな自己肯定感を育めず、人間関係の構築方法も分からず、まともに友達を作れなかった。

小学校三年生頃から男子いじめられるようになった。

小学四年生の時、授業中にからってきた男子にやめてほしいと伝えたら、教師に腕を乱暴に掴まれ廊下まで引きずり回されて、廊下で泣くまで怒鳴られた。

私が黙って我慢しないのが気に入らなかったらしい。

これがトラウマになって抵抗するのをやめて、からかわれても我慢していたら、小学六年生の時に別の教師に「からかってきた男子を睨んだ」と言いがかりを付けられて過呼吸になるまで怒鳴られた。

この教師は私を怒鳴るためだけに授業を20分中断した。

中学校の時の似たような状況だった。

中2の時、教科書を紛失したらしい男子に私が隠したと言いがかりを付けられて給食に洗剤を入れられた。その給食は別の女子誤爆して騒ぎになり、なぜか私が責められた。

中3の時、別の男子給食スープを掛けられ、担任音楽教師に「肌が赤くなってるのは火傷じゃなくて塩分のせい。だから問題ない」と言われた。

この状況を是正するため、塾に行きたい、私立学校に行きたい、せめて精神科に行きたいと母親に言ったら「お金がない」と断られた。

我が家は父はマスコミ関係者祖父医者経済的には恵まれていた。お金がないというのは本当だったとは思えない。

母と喧嘩して冷静になるために自室のドアを閉めて一人になろうとしたら、妹はわざわざドアを開けて母と一緒に私に聞こえるように大声で私の悪口を言い続けた。

高校生になる頃には変な妄想衝動感に悩まされるようになった。独り言が止まらなくなった。

お小遣い高校生になっても1000円。バイト禁止友達と遊びに行くことなんてできなかった。

この僅かなお小遣いを貯めてゲームを買ったら、購入の許可がなかったという理由で父が発狂して手鏡こたつに叩き付けながら怒鳴られた。

後日、当て付けとして父は妹に全く同じゲームを買った。私は懐を痛めたのに。

高校でもまともな人間関係は築けなかった。部活も入ったけど頭がむちゃくちゃになって人と話すのが怖くてすぐに辞めた。

高校生になってからはただ道を歩いているだけで痴漢ナンパをされるようになった。

17歳の時にネットで知り合った風俗嬢メンヘラレズビアン女性に「一緒にラブホに行ってくれないと自殺する」と脅され、それを拒否したら「M女郎が」とその女性取り巻きの19歳の女性に罵られた。

家にいてもネットにいても外にいても居場所はなかった。

大学生になってからも結局妄想も虚無感も衝動感も恐怖も収まらず、30歳になった今も治らない。

無力感に取り憑かれて何かを継続することができず、職場人間関係転々とし続けている。その間たくさんセクハラパワハラをされた。

先日、勇気を出して母に電話してこれまでのことを話した。

謝罪要求したら

「いやゲームをしている時は幸せだったはず。だから大丈夫」「今は幸せでしょ?だからいいじゃない」

と、私の怒りや悲しみの感情存在自体否定しようとした

はぐらかすのをやめてほしいと言ったら

「私だって辛いんよ」

逆ギレされて泣かれて話にならなかった

もう貴方と一生関わることはないと言って電話を切った

これから私はどうすべきだろう

2025-01-29

県知事選挙関連記事の事前差止

最高裁判例をロールしていたところ、いわゆる北方ジャーナル事件の全文に接した

疑問点が色々あったのメモしてみる(カッコ内は感想

事件1970年代北海道県知事候補予定者(旭川市長)が2万部超の雑誌悪口雑言を書かれ公表前に記事差止めを求めて勝訴したもの

雑誌最高裁法廷まで争った

事前記事差止検閲ではないのか?
差止基準曖昧なのでは?
言論を萎縮させるのでは?
公表前の記事内容漏洩は、違法行為によるものでは?
  • 前審が違法ではないと判断した(どのように?)
候補者提出資料だけで決めるのは不公平では?

言論が明らかに虚偽、悪意が明らな場合は事前差止もできるというが旭川市特別対応判例に見えた

70年代富良野スキーワールドカップがあり80年代は「北の国から」のドラマ話題になった

約90年末旭川オリンピックは実現しなかったが、大規模不動産案件があったと思われるので全体的にはその影響による判例に思えた

付録

「誰それは逮捕予定がある」など本人にも確認できない虚偽か分からない言論場合自殺者を生じさせ取り返しがつかない(斎藤元彦追及活動も萎縮しかねない)損害が起きていても、事後規制不可能というのは、不公平

おそらくこの判例も知っている立花のブレーンの狡猾さが分かるが、国家権力情報を裝うのは違法ではないのか

2025-01-27

anond:20250127233402

あれAV女優使う意義がまったくわからんかったわー

 

のっけから死ぬときすら尊厳を剝ぎ取られて埋められるだけという彼女たちの姿を通じて、

 女郎たちの厳しい現実視聴者につきつける」はわかるんだよ

 

そして一定の効果はあったみたいだ

それにただ露悪趣味に走ればいいというものでもないのもわかる

 

でもあんな何も病苦の痕、特に栄養失調や長年の病気折檻の痕も何もない丸々とした健康体の若い女性が

配慮ある寝かせ方させられてたって

何が悲惨なの?ただAV女優を起用するセンセーショナルさを狙ってただけじゃないの?

という気持ちに…

もっとこう、ハリウッドから死体専用のスタジオリアル人形発注するとかさ

やってほしかった

2025-01-20

anond:20250119212521

権力による特別加護をもとめなければ

自分女郎屋の性労働者だと思ってなければ

男性スイートルーム女性が一人で入室する理由はないはずだ。

 

からヤクルト販売女性保険販売女性

顧客の独居男性宅へ訪問しても絶対に室内に上がり込んだりしない。

ケアマネ女性介護士女性看護師女性訪問医療女医難民保護女性

患者の独居男性宅へ訪問するとき絶対に2人組。

2025-01-06

話題になってる大河ヌード、尻丸出してるのはセクシー女優で、宝塚出身役者ちゃんセクシー女優を上に重ねて尻隠されてるって知って、現代の女の裸の使われ方の構造グロさにびっくりしたw

こういうシーンでもきっちり階級があるわけね

画像しか見ていないけど不自然ふたりだけ重なっていて、上の人は下の人を隠すために使われたことが事情を知らなくてもわかる感じだった。筵でもかければ済むところを女性身体をわざわざ使う、モノとして使う制作陣の姿勢が「グロい」と言われているのであって、出演ポリシーの違いどうこうは失当

これAV女優はどう思ってんだろ笑

結局AV女優の裸は、まあお前らの裸体は晒しても別に問題ないだろ?お前らはいつもカメラの前で股開いてんだから気にすんなよ。女優さんの体隠すのに使うからな。大河で使われて嬉しいだろ?って扱い。まさに吉原女そのまま。

吉原悲惨さを描くドラマ撮影現場が、吉原の構図そのまんまなことに、制作無自覚なのがね…。

「べらぼう」で遊女達の死体役を演じたのがセクシー女優の方々だと知って、うわっと思ってしまった。

ドラマ内で描かれた女郎格差を、現実にエグい形で見せつけられた感じ。

せめてあの女優さん達が、ほんのチョイ役で良いか生前の姿のセリフや演技シーンがあれば違った感慨になったと思うのだけど

そこまでして尻だすこたぁなかったと思うで

もっと隠喩的に表現する方法いくらでも思いつくし、そういうグロさが今もなお残されてることをセックスワーカーを使って『表現する』って端的に頭おかし

ただの吉原再生産やん

2024-10-13

名作といわれるドラマおしんをみたので感想を書く その4

https://anond.hatelabo.jp/20241010224911から続く

おしん物語根底を流れているのが、「恩」であり「仁義であるということをこれまでの感想でも書いてきた。おしんイコール辛抱する精神というイメージが広く流布するなか、金儲けに走った息子の根性を叩き直すために、田倉家を滅ぼしてでもライバル会社に利する行動に出た、という物語ハイライトは、意外にもあまり注目されていない。私も正直なところ、全話を通してみるまで知らなかった。

今回は、物語類型としての「おしん」をみてみたい。

流浪するおしん股旅物としての評価

おしんは一代記ものとしては、タイムスケールがとても長い。おしん1901年昭和天皇と同年に生まれた設定である

そしておしんが生きた少女時代から後期高齢者の83歳になった1984年まで、それぞれの時代があまりにも違い過ぎるので、1983年の田倉家のシーンから明治回想シーン時代を一気に2世代くらい遡るときタイムトリップ感が半端ない

1983年おしんが息子・仁を裏切って、並木商店への説得どころか、積極的大手スーパーへの並木土地の売却を進めてくれとお願いした背景には、並木商店隠居の大旦那並木浩太に対する並々ならぬ恩があるからである

それは、どのような恩だったのか。おしんは息子たちには何も過去を語ってこなかったので、仁には知る由もなかった。そもそも並木浩太とは何者なのか。

おしんも誤解されるのが嫌でそれまで息子には一度も語ってこなかった。しかし、前年の1982年17号店進出を知ったおしんが息子の行動を阻止しようとしたとき、仁は、それが母の初恋の人への配慮であることを悟る。そして、仁はいう。商売ってそういうものじゃない、「母さん、みっともないよ。」と。今風にいえばいい歳してエモいことを言い出してんじゃねえよと思われたのであろう。案の上、誤解されてしまったおしんであったが、なすすべなく工事は進み、ついに開店当日を迎える。おしんはこれまでの人生の回顧の旅に出るのである

おしんと人の縁

おしんと浩太のいきさつをかいつまんでかくのも、がっつり書くのもいずれもけっこうしんどいしかし、今回のテーマの「股旅物」がわかるように、ややガッツリ目に書いておこう。股旅とは、大正時代に生み出された物語類型ひとつで、一宿一飯の義理人情に従って流浪する物語であり、多くは渡世人やくざなどが主人公である股旅物の元祖長谷川伸は、その後の日本小説戯曲、そして映画テレビドラマに至るまで多大な影響を与えた人物である。「飢餓海峡」で知られる水上勉は、長谷川伸の「夜もすがら検校」を読んで作家を志したことはよく知られている。「夜もすがら検校」を発表したのは1924年である明治が遠く過ぎさり、大衆大正デモクラシー自由への過大な期待から人々が少しずつ醒め始め、もう一度生き方を見直そうしていた時代である

おしん回想シーンだけをみると、浪花節にあふれた、まごうことな股旅であるしかし、おしん物語面白いところは、浪花節陳腐化し、古臭いものになってしまった現代1980年代)と交差している点である

キーワード加賀屋への恩】

並木浩太とおしん最初出会いは、おしん16歳、山形酒田の米問屋加賀屋奉公へ来てから7年が経った頃だ。おしんは、加賀屋の跡取りの長女・八代加代と姉妹同然に育ちながらも、大奥様・八代くにからは、肉親の孫娘・加代よりも商売イロハから茶道裁縫など良家の子女としての教養を徹底的に教え込まれていた。このときにの指導によって身に着けたものの考え方や教養が、のちのおしん人生で役に立つのである。加代はというと、将来は良家から婿をもらって加賀屋をどうせ継がさせられる自分のつまらない運命うんざりしていた。絵画が好きだった加代は、東京で別の”自由”な人生があるのではと夢をみる少女だった。そんな折、農民運動活動家・浩太と出会った。酒田訪問した際、官憲の目を逃れるためにおしんとお加代に助けを求めたのが最初出会いであるおしんとお加代は同時に、浩太に恋心をもってしまう。大正デモクラシー時代だった。インテリかぶれした加代は平塚雷鳥の本を手元におき、人形の家を著したイプセンなどに憧れを抱いていた。当時、大衆のなかで勃興していた人権運動先進的だと中身もわからず憧れていたのである農民運動、カッコいい!加代は浩太の活動ロマンを感じて恋に落ちてしまった。一方、おしんは、土地を持たない小作農民の自立を助けたい、という浩太の純粋な思いに心を打たれていた。おしん小作の娘であった。小林綾子が主演した「おしん少女編」では、おしんの母・ふじが冬の川に下半身を沈めて妊娠中絶を図ったり、小作農民の悲哀がこれでもかというくらい暗く描かれていた。そしておしんは冬の川に入った母の姿をみて、6歳で材木問屋奉公へ行く決心をしたのであるいかだに乗って、母ちゃんと叫ぶ、有名なシーンのアレである

ともあれ、加代とおしんは同時に同じ男性に恋をした。そしておおらかで情熱的な性格の加代は恋心を隠すことができず、おしんに打ち明けていた。そしてやがて加賀屋の跡取り娘でありながら、何もかも捨てて浩太へ会いに東京家出してしまう。しかし、おしんは、奉公先の跡取り娘であるお加代様の恋を大切に思い、自分の思いはそっと封印した。一方の浩太は、東京に出てきた加代の猛烈な求愛を受け止めつつ(東京で加代と同棲までした)、本心最初からおしんが好きだったのである

おしんは加代の家出理由加賀屋に伝えることが忍びなく、おしん加賀屋から暇をもらって帰郷する。帰郷したおしんを待っていたのは、おしん女郎部屋へ売り飛ばそうとする父・作造と口利きの男であった。さら実家で目にしたのは、奉公先の製紙工場の過重労働健康を害し、肺結核で放り出され、今や死を目前にした姉・はるの姿であった。いまわの際に、はるは女衒に騙されそうになっているおしんを救うべく、自分の夢が髪結いになることだったことをおしんに告げ、東京の知人の髪結い師匠長谷川たかの住所を訪ねるように、伝えて息絶えた。

一方、加代は、浩太の心がおしんしか向いていないことを悟り、浩太のいない東京を去り、加賀屋を継いで見合い結婚する。

キーワード日本髪結いのおたかへの恩】

こうして、はる姉ちゃんが叶えなかった夢を託されたおしん東京へ出た。女郎部屋を売り飛ばそうとした父のいる故郷に心を残すものはなかった。髪結い師匠たかは、江戸時代から続く髪結いの昔気質職業観を持った女性だった。一人前になるための6~7年の下積みの苦労は当然であり、弟子には甘えを許さなかった。

しかし、大正という時代は、江戸から明治まで続いてきた日本髪の伝統の衰退期であった。大正浪漫とか大正モダンと言われる時代が到来しており、洋髪が東京流行し始めていた。おしんが修業している3年間の間に大きく時代が変わりつつあったのである

大衆身分から解放され、より自由髪型を求めるようになっていた。髪型をみれば、人妻なのかそうでないのか、はたまた、その人の職業身分がわかる、という時代は終わりつつあった。弟子入りなんてせず洋髪の専門学校をでて、理髪を仕事にする時代がきていた。おしんには洋髪のセンスがあった。たかおしん独立をすすめる。たかはいう。「昔は厳しかったんですよ。6年も7年も修業してやっと一人前になったら、それからまた、お礼奉公をして。10年近くもただ働きをして覚えたもんなんですよ。そんなことは今は通んなくなっちまったけど。やっぱりご時世ってもんですかね」。これは紆余曲折を経ておしんたかの元から独立し、その後、客先で出会った男性・田倉竜三と結婚挨拶たかを訪れたとき言葉である。その時、5人いたたか弟子はついにたった一人だけになっていた。

田倉商店を竜三の妻として支えるようになったおしんであったが、商売は順風ではなかった。おしん夫婦を陰で支えていたのはたかであった。田倉の経営が傾くと、おしんたかを訪れ、髪結いをして夫を支えた。たかもまた、洋髪の時代おしんの才覚を必要としていた。客商売は人の縁、ひととのつながりを大切にすることだと心に刻んだのはこの頃である

一方、田倉商店開店休業状態に陥るほど経営悪化していたが、おしん髪結いで稼いでいたので竜三はプライドを傷つけられ、すっかりおしんが稼ぎ出した金で遊び歩くようになってしまった。師匠たか相談すると別れちまえという。「ダメな男はどこまでいったってダメなんだよ」とすっぱり切り捨てるが、おしんは亭主をダメにしたのは自分だとと気が付いた。夫の更生のために妻の自分は黙って夫についていく姿勢を示すことを決意し、長谷川洋髪をやめることをたかに申し出る。稼ぎ頭のおしんに辞められるのはたかにとってもつらいが、受け入れる。やがて蓄えもつき、明日食べるコメもないどん底におちて初めて竜三は再起を決意する。しばらくは順調に田倉商店再生が進んで、おしん洋裁の才能も手伝って、田倉は子供服店を開店することになった。しかし、その直後、関東大震災おしん夫婦の夢を完膚なきまでに打ち砕いてしまうのである工場火災で焼かれ、絶望した竜三は「佐賀ゆっくり休みたかおしん佐賀はいいとこばい。。。」といって佐賀への帰郷の心を固める。竜三は大地主の三男坊なのである。こうしておしんにとって地獄佐賀編がスタートすることになった。

さて、佐賀に三男の嫁として入ったおしんを待ち構えていたのは、姑による徹底的な虐待だった。数か月もすると、おしん佐賀地獄から脱出を心ひそかに誓い、東京師匠たかのもとに、東京に戻りたいと手紙を書くのであるたかの元にいけば助かる、自分の腕一本で生きていると信じた。必死の決意で脱出し、やっと髪結いを再開しようとするも、さらなる不幸がおしん絶望に突き落とす。佐賀で夫に振るわれた暴力が原因で、右手の神経に麻痺が残ってしまっていた。髪結いを諦めざるを得なくなった。

こうしておしん流転の人生が始まる。屋台出店からまり故郷山形酒田と流れ流れ、ついに浩太の紹介で三重伊勢の魚の行商に落ち着き先を見出すのである佐賀に残った夫といつかは一緒になれると信じて手紙を書き続けるのである

キーワード:浩太の恩】

浩太の実家貴族院議員の父を持つ、太い実家だと先に書いた。しかし、浩太にとって本当のやすらぎのふるさとは、おばの伊勢実家網元のひさの家であった。浩太は、流浪人生を送るおしんを見かねて、伊勢網元をやっているおばのところに下宿し、行商を勧めるのである。これまで米問屋での奉公に始まり、ラシャ問屋子供服洋裁、洋髪・日本髪、農家の嫁地獄酒田の飯屋をやってきたおしんめし加賀屋は加代とおしんが切り盛りし、おしんにとって加代の元気な姿をみた最後の思い出となった。その職業遍歴に今度は魚売りが加わることになった。

伊勢に来て、笑顔を取り戻したおしん。竜三もおしん魚屋をやる決意をしてくれ、おしん人生好転し始めていた。

一方、加代の人生は、暗転した。加賀屋本体が夫の先物取引の失敗で負債を抱え倒産した挙句、夫は自殺してしまう。八代家の両親は過労で衰弱、入院費を工面するために加代は借金のかたに売春宿に沈められてしまう。両親は相次いで亡くなり、生まれたばかりの希望を抱えた加代をみて、おしんは救出を誓うが、借金の額に手が出せなかった。加代は翌日酒を煽って死んでしまった。希望は田倉で引き取ることにし、加賀屋の再興を果たしたい思いから、養子にはせず、八代苗字も変えなかった。

一方、浩太は長く続けてきた農民運動に行き詰っていた。治安維持法により、弾圧が厳しくなり、ついに6年間も投獄され、苛烈拷問の末、転向を迫られた。敗北者となった浩太は、心身の傷をいやすために伊勢のおばのところに帰るのである。すっかり引きこもってしまい、おしんとも口を聞こうとしなかった。やがて、浩太は実家の縁談に応じて、並木家へ婿入りすることになって静かな人生を送るのである。やがて少しずつおしんとも再び心を開くようになるまで十数年を要した。

田倉家では、雄、次男の仁、そして希望がすくすくと育っていった。雄は戦争で亡くなるが、戦後も仁と希望兄弟のように母おしん魚屋を支えていた。大人になった仁が商才を発揮する一方で、希望商売に向いていない自分を見つめ直し、自己実現のために陶芸の道を歩みだす。

屈折10年、陶芸師匠の元で修業した希望がようやく独り立ちできる時期が来た。そのときに、希望のための釜・新居の支援をしたのは浩太である。お加代さんとの縁を思い出してのことである。浩太は、折に触れて田倉家のおしんを見守るように生きていた。おしんセルフサービスの店に挑戦するときも、銀行からの借り入れにあたって、浩太は並木の自宅を抵当にいれてくれたこともあった。

股旅物を取り込んだ現代劇~義理人情は古臭い観念かという現代人への問いか

さて、長いことおしんの半生を振り返ってきたが、一旦冒頭の仁のセリフ1983年の場面)に戻りたい。

仁が17号店の出店を並木商店の近くに計画していることを知っておしんが反対したときのことである初恋のひとに迷惑がかかる?「母さん、みっともないよ。」というのが仁の反応であった。しかし、もし仁が母おしんの半生をもう少し知っていればそんな言い方はなかっただろう。おしんは人の恩に深く支えられて生きてきたのである。田倉スーパーの出発点となったセルフサービスの店にしても浩太の支援があってこそであった。

ここには、自ら築き上げてきたスーパー廃業も辞さなおしんの思いは、長谷川伸の「夜もすがら検校」で大切な琵琶を燃やしてまで恩に報いたい思いと通じるものがある。

ドラマ構成として興味深いのは、おしんの半生を、徹底的に(一年間のドラマの大半部分を費やして)一宿一飯の義理人情で「世話物」的に(つまり当時の生活感覚として)描いておきながら、おしん戦後現代にいたる高度経済成長おしん自身義理人情を忘れてしまたことに気が付く、というメタで重層的な構成であるおしんにしても、商売は食うか食われるかだ、という厳しい姿勢戦後を突っ走り、16号店までたのくらスーパー事業拡大させてきた戦犯なのである。それが今になって17号店は昔に世話になった人に迷惑がかかるから反対、はない。突然反対し始めた母を見た1983年の仁の目からは、義理人情なんて古臭いものだという感覚であり、母の物語は「世話物」ではなく完全に「時代物」なのである。大切なものを置き忘れてしまった気がしたおしん問題17号店開店当日、失踪する。この世話物時代物が交差する、ところもドラマおしんの魅力である

2024-09-28

それでいいんだな?

でも舞妓芸妓から「水揚げ」とかそういう女郎屋みたいな性風俗の要素を排除したら「コスプレ」して「踊ってみた」だよな🙄

2024-05-06

anond:20240506184259

根拠必要ない根拠を述べよ。でなければお前こそはぐらかし野郎(女郎?)だ

2024-02-10

吉原のやつ

なんでみんなが叩いているのかさっぱりわからん。むしろ叩くことによって、あの時代文化の中心点だった花魁女郎と同格にしてるんだよ。叩いて救ってんのかなんかしらんが、あの当時生きた花魁が蔑まされてんの。

吉原は本当に華やかで、大名であっても花魁にフラれることがあった。金さえ積めば一夜を共にとかじゃないんよ。身売りへの同情のみで無理解に叩くことは、吉原必死で作り上げてきたブランドプライドをズタズタにする行為文化への冒涜。今の尺度で語って、わかった気になって同情するのは、もはや花魁不憫彼女からプライドすらも奪う気なのか?花魁なんだぜ。他と一緒にすんな。

吉原は憧れの世界。お前らがセコセコ行くその辺の風俗店想像しながら叩いてんじゃねーよ。

こんなことはっきり言って古典落語をかじった人なら当たり前に知ってる。50年前から聞いてきた。まず紺屋高尾でも聞いてこいよ。いい話で面白いから

2024-02-09

anond:20240209211134

女郎」も「遊女」と似たようなものだろ

もともと高貴な女性を指していた言葉売春婦を指して使われるようになった

たぶん無難呼び名としては「娼妓」でいいんじゃないの?

私は「遊女」という言葉が嫌いだ

ちゃん理由がある

遊女語源は遊行女婦とされている

この遊行女婦は宮仕えの男性相手にした、教養を持った売春婦とされている

よくある吉原の◯◯太夫イメージは遊行女婦を起源としている

もともと、遊行女婦は女性だけで組織されていたのだが、いつの間にか男性支配され、今で言う管理売春組織になった

なので、管理売春された売春婦を当時遊女表現していても、現代人が遊女と呼ぶのは間違いだと考えている

言葉は悪くとも、吉原などの遊郭や飯盛旅籠で働いていた女性淫売とか女郎の方が適切だろう

ただ、残念なことに世の中そんなことを知っている人はあんまりいない

吉原太夫とか花魁という言葉がいつ使われていたのかも知らないと思う

知らないなら使うな、とは言わないけれど、知ろうとしてほしいと考えている

そして、知ろうとするきっかけは沢山あった方がいい

大吉原展がどのようなものになるのか知るはずもないけれど、知りたいと思えるような展示であればいいと願っている

2024-02-06

吉原は苦界十年と言われたくらい当時から女にとって地獄であったけど、口減らし対象はもっぱら男児なんだぞ

吉原女郎宿場町飯盛女平均寿命24前後だけど、それ以前に殺される男児が沢山いたのだ

女が恵まれていたと言いたいわけじゃないぞ

anond:20240206105417

それだと「女郎金持ち権力もった男にしかいかいからね」も成り立つし、

そもそも主婦自分より若い男(大学生とか)と不倫してる事例だってあるぞ

2024-01-05

【末路】江戸時代に転生しても現代知識無双できる気がしない

弱者中年女性で生きづらいけど、いつの時代に生まれてても自分は生きづらかったろうなと思う

 

最初のうちはドラマとかで見た「リンがあれば肥料になりますよ!」「ペニシリンって抗生物質があるんですよ!」「建築には釘使うといいですよ」とか現代知識無双しようとするけど、その作り方は?と言われれば答えられない

せめて測量でもできたら役に立ちそうだけど、三角関数は覚えてるけど微分最初のとこだけ、積分は知らない

無双どころか現地人の常識や生きる知恵も何も持たない情報弱者

途方に暮れてたまたま出会ったちょっと面倒見のいいおばさんにどうやって生きていこうと相談して

ちょっとトウが立ってるけど女郎屋なら雇ってくれると思うけどねぇ」と言われて内心比較的若く見えるのかしらと喜んでたら

「あそこは50すぎでも働いてるのもいるし」と言われてしょんぼりする自分が目に見える

言葉もうまく通じないんで外国(ペルシャとか)生まれですって適当に言ったらお坊さんが大勢駆けつけてきて教えてくれと言うんですいません一般人なので知らないですって言って帰ってもらい

最終的に肩身狭くしながらどこにでもいる謎の河原者として生きてそう

 

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リアル転移もの読みたいって人もいたので、その後の末路を思いつくところまで書いてみた

ロビンソン・クルーソーにはならなかったよ…

そんな気概があれば現代成功してそう

 

さて、弱者中年女性

江戸時代タイムスリップして早々、どうやって生きていくかが最大の悩みになった。

女郎屋なら雇ってくれるという話だけど、この時代性風俗といえば本番つまり射精

年齢的に妊娠する可能性は低いけど、いつ病気をもらうかわからないロシアンルーレット毎日になる。

 

想像するだけでげんなりする。

もう病んでるけど、さら精神病みそう。

 

マイナスが積み上がっていく生活というのは、キツい。

今日は無事だったけど明日はわからない不安毎日続いたら、いずれ死にたくなりそうだ。

実際に女郎さんはうつにかかる人(気病みと言うようだ)や自殺を試みる人が多く、女郎屋の井戸には何人もの身投げがあったらしい。

 

私は死ねるだろうか。

生活保護もないこの時代女郎もいやで他にできる仕事もなければ生きてはいけない。

乞食でもすればその日の食事くらいはありつけるだろう。

しかし住む家の面倒を見てくれる人はそうそういない。

寒さに凍え、病気にかかったり凍傷を負って不具のまま死を待つよりは、ひと思いに自決したほうが楽のように思える。

でも深くて暗い井戸を覗き込むと、怖くてとても身投げなどできる気がしない。

度合いで言えば樫の木のような太い枝で首をくくったほうが楽だろうけど、これまたかなりの勇気がいる。

結局みんな思いきれず、死にたい気持ちを抱えたまま女郎を続けていくことになるんだろう。

 

セーフティネットが消えたことで死がぐっと身近になった。

これまでは「楽に死ねいかな」だったのが「どの死に方が一番苦しくないか」になった。

 

ふとオーラセックス専門でやる案が頭をよぎった。

リスクで言えば本番のほうが高いけど、物珍しさで案外人気になるんじゃ?

口でだってやりたくないけど、他にどうしても職がなかったらこれでいくか……。

 

あんた、ほかにいくとこないようなら」

おばさんが心配そうに顔を覗き込む。

「うちのこと手伝ってくれるんならいてくれてもいいけど」

「ぜひ、お願いします」

これは嬉しかった。

家に住める。このおばさんなら嫌な仕事は断ったり交渉もできそうだ。

おばさんは家をぐるりと見回して、「じゃあ……」と言った。

  

申し付けられたのは赤ちゃんの子守。

子守は一番簡単仕事のようで、十そこらの女の子でもやっている。

どうやら無能そうな私でもできそうな仕事を考えてくれたようだ。

情けなくもあるけど、赤ちゃんは大好き。

喜んで抱こうとすると、背中側におぶされた。

「これ巻くと手が自由になるから

おばさんはそう言って帯をぐるぐると巻きつけた。

え……赤ちゃんと遊べるんじゃないの……。

「じゃあアタシらは野良仕事に行ってくるんで、日暮れまでよろしくね」

唖然とする私をよそにそう言うと鋤やクワを持って行ってしまった。

  

手が自由になるから、か。

この時代は、赤ちゃんに情操教育必要だとか誰も思ってないんだなぁ。

それどころか大の大人野良仕事もせず子供にかまけてると、さぼりだとか楽してると思われるらしい。

あのおばさんだって、産まれたばかりのかわいい我が子のそばについててやりたいだろうに。

  

この時代現代以上にギスギスしてると感じた。

  

まあ、仕方ない。

働かざる者食うべからずなのだろう。

せめて役に立ちたくて、おじさんがやりかけで放置されてるわらじを編んでみる。

編み方自体は単純だ。

両足にわらを固定して巻いていくだけ。

1からやれと言われたらまだできないけど、すでにある程度できているものをかさ増しするならできる。

なかなか面白い。けど、腰が!腰が痛い!

赤ちゃん背負ったまましゃがんでわらじ編むってキツいよ。

おろしたいけど帯はかなり固く巻かれてるし、一回ほどいたら自分じゃ巻けない。

みんなが帰ってきたとき帯がなくなってるとほっぽいて遊んでたんじゃないかと思われそう。

気のせいかもしれないけどここの人たち話が通じないというか、気持ちがわかってもらえないというか、

何を言っても全部甘え、人間失格って言われそうな雰囲気あるんだよなぁ…。

 

なんとか楽な体勢を探していると、生暖かい感覚背中に広がった。

赤ちゃんがおもらしをしたようだ。

不愉快そうにむずがる赤ちゃん

 

あー……やるよねえ。

おむつじゃないかおしっこが流れて足までびしょびしょだ。

井戸で洗ってこよう。ちょっと待っててね。

 

家を出て井戸のある村の中央に向かうと、ところどころで泣きっぱなしの赤ちゃんを背負ったまま座り込んでいる女の子がいる。

かわいそうに小さな身体に帯を何重にもまきつけられて、自分では外せないようだ。

女の子の目は年齢に見合わぬ苦労がにじみ出ていた。

 

こういうのって、よくないと思うんだよな。

肌にも悪いし気持ちも悪いし、赤ちゃんも子守もかわいそうだ。

から帯でぎゅうぎゅうにしないで、赤ちゃん自分の体をこまめに洗えるようにしましょうと言いたい。

けど、幼い子守娘が赤ちゃんをずっと見ておけるのかとすごまれたら何も言えない。

そもそもこんな小さい子に赤ちゃんの命を預けるべきじゃないんだよね……。

 

大人たちの事情もわかるから何も言えない。

かになって子供が働かなくて済む社会にする、くらいしか思いつかないもの

ため息を付きながら井戸で帯をほどくと、むせ返るような悪臭が漂った。

気づかなかったがウンチもしていたようだ。

しかも、カピカピ具合を見るにおばさんたちが家を出る前にしたみたい。

替えていきなよ、親ならさあ……。

桶に水をザブザブ入れ、赤ちゃんのお尻を洗うと汚物が浮き上がってくる。

気持ち悪いなあ。

子供を持ったことのない弱者中年女性はこの程度で目をそらしたくなる。

何度も水をかえてようやくきれいになったが、かえのおしめがないので裸の赤ちゃんを抱えて急いで家に戻る。

 

さらしを巻いて囲炉裏そばで体を温めるけれど、赤ちゃんは泣き止まない。

おなかでもすいてるんだろうか。

お乳は出ないし、何を食べさせてやればいいかもわからない。

赤ちゃん大好きだと思ってたけど、かわいくて興味深いたかもの、というよりも片付けなくてはいけない存在に思えてくる。

自分の中から大切な何かが失われていくのを感じた。

 

翌朝、おばさんに野良仕事に出てみないか誘われる。

断る理由もないのでついていくが、とにかく田んぼまでが遠い。

なんでも山を一つ越えなくてはならないらしい。

わらじはすり切れるし足場は悪いしで足に傷ができてしま

「すいません、私この靴だと歩けないです……」

おばさんの肩をそっとつついた。

「この靴って……ほかになんの靴ならいいんだい?」

見ればどの人の足も傷だらけだ

みんな気にせず、というか我慢して歩いてる

「どこの殿様の姫さんじゃろうねえ。辛抱がたらんよ」

内心優しそうだと思っていた白髪のお婆さんの言葉に傷つく。

 

まあしょうがない。

時代が変わったところで能無しなのは変わりませんわ。

 

やっぱ女郎しかないのかなぁと死にたくなるが、出ていけとは言われず子守をしてるだけで家に置いてもらえた。

意外と人情が残ってるんだろうか。

 

それからしばらくは子守で暮らすゴクツブシだったが、あるとき仙台の大店の下働き募集してるとかで口利きがあり、そちらに紹介してもらえることになった。

勘定計算は苦手だし計算間違いもしょっちゅうだが、接客が丁寧だとかで評判が良かったらしく、普通に暮らしていけるようになった。

繊細な現代人の感性が活きたのかもしれない。

性格的にも前いた部落よりは仙台のほうが生きやすい気がする。

 

ときどき、現代知識があればもう少し楽に暮らせるんじゃないかと思うことがある。

大通り瞽女さんや芸人がやかましい歌やたいして面白くもない芸を披露しているのを見ると、自分だったらもっといい歌や面白いネタも知ってるのにと思う。

思うだけでやらないのだが。

ケアレスミスだらけの無能だけど謙虚で真面目な前垂れというキャラが壊れるのが怖いのだ。

そもそも芸って人を引き込むぐらいの思い切りや自信が必要で、社会が怖すぎる私にはその一歩が踏み出せない。

 

生きづらいながらもなんとか生きてはいけてるし、このままでいいかと思いながら過ごすのであった。 おわり

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