はてなキーワード: 夜間部とは
かつて公立高校の教師をしていた。何年も前に辞めて、今は別の教育業に従事している。その頃の思い出が脳裏によぎることが最近よくある。どこかで書いたら心の整理がつくのではと思った。
なお、この日記は身バレ防止のために、ChatGPTにお願いして文体を変えている。鼻に付く文章があれば申し訳ない。
これから書くのは、最後に赴任した高等学校でのことだ。実は普通の高校ではない。訳アリの子が通うための高校だった。
いわゆる、事情がある子というのがいて、全日制の高校に進学するとか、通い続けるのが難しい。そういう子が通うための学校である。仮にポジティブ学園としよう。
3部制を採用していて、午前・日中・夕方以降の3つの中から、自分にとって都合のいい時間帯を選んで履修できる。早い子だと、普通の高校生のように3年で卒業する。
制服か私服か、自由に選ぶことができる。アルバイトができるし、メイクもピアスも全て大丈夫。髪染めもOKで、ピンクや青髪で学校に通う子もいる。
ここに来る前、私は全日制の高校にいた。地元では人気のあるところだった。毎年冬にある推薦入試の倍率は20倍を超える。そういう学校である。人口だと約40万人が在住する地域だったが、その中でもトップに近いところだった。
真面目な生徒たちに囲まれてたと思う。彼らは偏差値の話もしていたけど、それ以外にも部活動とか友達との交流とか、文化祭・体育祭など、とにかく人としての「生きる力」というか。そういうのに溢れていた。
当時の私は、まだ30代のヒラ教師だった。それが高校生のあるべき姿だと思っていた。学業が一番で、余った時間で部活動その他の自己を高める活動に取り組むのだ。
だが、ポジティブ学園に赴任して、現実を思い知らされた。自分がこれまでに教えてきた生徒らは、いわゆる上澄みというやつだった。毎日学校に通学して、学業や部活動や趣味に打ち込むことができる時点で、高校生としては相当できる方である。
今でも思い出す。ポジティブ学園に通う生徒らは……教室の隅でうつむく子や、理由をつけては学校を休む子。授業など聞く気すらない子、授業中に堂々を飲み食いする子。なんというか、彼らには当時の県教委が教育の柱としていた理念のひとつ、「生きる力の醸成」が通用しなかった。
そうした生徒たちに、私は何もしてやれなかった。何をしたらいいのか分からなかった。ただ毎日、教科書に従って授業を進めるだけ。彼らに対して指示や指導をすることはあったけど、そもそも内容を理解できてるかも怪しい。
一応、入学試験はあるのだが、実質的に全員合格させるスタイルだった。普通の高校に行けない子――そういう子のための最後の受け皿としての役割を、ポジティブ学園は担っていた。
最初に話したとおり、ここは「訳アリの子」が通う学校である。不登校経験者とか、昼間は家業を手伝う子とか、家計を支えるために夜働いている子。様々な事情を抱えて、全日制のレールから外れることになった生徒たちが、自分のペースで学び直す場所だ。
赴任の初日、当時の校長は私に言った。「ここは、生徒たちが『それでも学びたい、高校生をしたい』と選んでくれた場所です。先生の役目は、彼らの気持ちを全力で応援することです」ってさ。
さっきと矛盾するようだが、生徒たちはひたむきだった。普通の高校生と一緒で、やる気のある子はいるし、そうでない子もいる。昼間の授業中、うるさい教室の中でも真剣にノートをとる生徒とか。放課後になると、「じゃあ働いてくる~」といった感じでアルバイト先に向かう子もいた(ほぼ金髪の子だった)。
夜間部の教室だと、疲れ切った顔で教科書と向き合う生徒もいた。全日制の「普通」とは違うけれど、彼らには彼らの「普通」があった。
赴任してから次の年度、就職指導を担当することになった。人生初経験である。私は民間企業で被服の営業の仕事をしていた。泥臭い仕事を約十年やっていたということで、白羽の矢が立ったのだと思われる。
これまでの学校では就職する子や、専門学校に行く子は稀だった。仮にいたとして、実際なんの指導も必要なかった。受け入れ先の企業も「なんでこの学校の子が……」といった顔パスに近い扱いだった。
履歴書の書き方一つとってもそうだ。社会人でいうところの空白期間。不登校だったとか、全日制の高校を中途退学したとか、中学卒業してからフリーターだったとか、あるいは何もしてなかったとか。
そういう経歴を書く場面になると、彼ら彼女らは詰まってしまう。無理もない。これまで何度も、そのことで心を痛めてきたのだから。
私は履歴書を読み直す度に、「君の経験は無駄じゃない。乗り越えた証拠なんだ。学校、来てるじゃないか!」と声をかけた。最初は疑いの眼差しだった生徒たちも、次第に心を開いてくれるようになった。心を開いてくれない子もいたけど、それは致し方ないのだ。
私は教師だから、「いつかは通じるはず。別に今じゃなくても、数年後だっていい」と思って就職指導をした。
秋のある日。就職関係のイベントがあった。「○○圏域 企業と学校の交流会」みたいな名称だった。これは、企業と学校(大学、専門学校、高等学校、専修学校その他もろもろ)のそれぞれの担当者が各ブースで話し合いの場をもつというものだ。
企業からは採用担当者が、学校からは就職支援の担当者が出席する。参加団体は企業だけでも100社を超えていた。学校からは、その地域の学校という学校はほぼすべて出席していた。
ここに、私と校長の2人で出かけた。目的は、企業の方々にポジティブ学園を知ってもらうこと。うちの学校にはただでさえ偏見が多い。少しでも解きほぐす必要がある。
たくさんの企業ブースが立ち並ぶ中、それこそ時間が許す中、多くの企業ブースに足を運んだ。校長自らが話をしていた。約十分ごとに挨拶から始まって、学園の概要説明、どういう子がいるかや、これまでの就職実績など。
そして、いつも最後に、「わが校には、難しい状況にある子が通っています。それは事実です。そういう状況でも、彼らは自分の道を切り開く努力をしています。面接の際に見かけましたら、どうぞよろしくお願いします」と相手先企業に伝えるのだ。
企業の反応は……まあ、社交辞令みたいな感じだった。「わかりましたよ、でもうちの会社の採用対象かどうかはねぇ」という表情だった。
そういう反応になるのも無理はない。ポジティブ学園は、県道沿いの大きな平地にある。昔は地域の伝統校が鎮座していた。少子化で別の学校と合併になり、校舎が空いたところに県教委がポジティブ学園を創設した。
例えば、毎朝の登下校時、いや昼以降の登下校時でもそうなのだが……校舎前の県道には、ダボっとした私服で、髪を染色していて、ひと昔前の不良漫画(今時でいうと薫る花は凛と咲く)の雰囲気を漂わせた未成年が闊歩している。初めてその光景を見る人からすると、「そういう高校なんだ……」という感想になる。
だから、企業担当者がうちの学校に対してそういう態度になるのは、ある種の必然だと思っていた。偏見を持たれてもしょうがないって、当時30代半ばだった自分は感じ取っていた。
そうでない企業もあった。社交辞令とかじゃなくて、真剣にこちらの話を聞いてくれる。というか、むしろ聞きたいという恰好で話に臨んでくれる。
半導体装置を作っている会社がそうだった。その時も、校長は満面の笑みで相手方の採用担当者に熱心に話をしていた。
「○○さんは、福山を代表するハイテク企業でいらっしゃる。我が校にも理系の才能を持つ生徒がたくさんいるんです。どうか、偏見なく見てやってください」
そしたら採用担当者は、少し戸惑った表情になって、「私達を馬鹿にしないでください。もちろんですよ(^^)」と答えてくれた。
それから数年か後のこと。ポジティブ学園の進路実績だが、創立当初からずっと変化はなかった。大学進学者だと地元にある限りなくボーダーフリーに近いところか、地元の専門学校、地元の民間企業だった。そもそも、ここまでたどり着ける子自体が少ない。入学した子のうち1/3以上は中途退学してしまう。
その年のことはよく覚えている。3年生に1人の生徒がいた。名前は仮にケンタとする。プログラミングが好きな子だった。授業中も休み時間も、ずっとPCの画面とにらめっこしていた。授業中にも堂々と副業的なことをしていたが、単位は取っているので見逃していた。
ケンタは、数学や情報処理の成績が抜群だった。数学の問題でも、いつの間にか自分で勝手にアレンジして、勝手に問題を解くようなプログラムを組んだこともあった。
それを友人に共有しようとしたが、難しい様子だった。能力・興味的な部分もあるし、自分だけのノートPCを持ってる子が少ないのもある。
ケンタは中学校の時は不登校だったらしい。原因は、特定の誰かからいじめられたわけではなく、「教室という空間がなんか違うと思った」からだと言う。
大人だったら「息苦しい」ということになるのだろうか。全日制の高校には行きたくないと、自らこの学校を選んだ。
私は、彼の才能を埋もれさせてはいけないと思った。彼とは幾度となく話をしたけれども、ただ生きにくい性格であるだけで、才能はあるのだ。
私は就職戦線が始まる直前にケンタを呼んだ。「この会社を受けてみないか?」と誘ってみた。さっき上の方で話した半導体装置の会社である。半導体以外にも、ディスプレイや機械制御装置も手がけていた。
ケンタは驚いたような、呆れたような様子だった。「知らない会社ですけど、半導体には興味ありますけど、無理だと思います」と言ってた。
「お前はできる。この会社は理系の才能を求めてるし、才能を正当に評価してくれる」
と言うしかなかった。実際、私の出身地域では評判の高い企業だったし、2025年現在では全国的に知名度のある企業にまで成長している。
強引に進めるしかないと思った。何しろ、ケンタは卒業後の進路を決めてなかった。とりあえず先延ばしにしている印象だった。
そこで、ケンタをどうにか説得して、彼の履歴書を添削して、推薦状も書いた。履歴書には、不登校だった過去も、ポジティブ学園を選んだ理由も正直に書かせた。彼のプログラミングに対する情熱を備考欄にこれでもかというほど書き連ねるようにした。
面接練習のとき、ケンタは口ごもることが多かった。相手の目を見て話すことが苦手だった。コミュニケーションが苦手なタイプ。正直、公式な場での会話が難しい子だと思う。
けれど、たどたどしい感じになっても、自分の思いはちゃんと伝えてくる子だった。
「大丈夫だ。プログラミングの話になったら、お前はきっと大丈夫」
※AtCoderで最高位に近い色だった
私はそう言って、彼を送り出した。自分には確信があった。あの会社は、肩書きや学校名じゃなくて、実力で人を判断する会社だと。あのイベントの時、うちの校長の言葉に耳を傾けてくれたんだって。
約一か月後、職場に電話がかかってきた。あの会社の採用担当者からだった。胸がざわついた。
以下、話の内容である。言葉の感じも、当時の手帳を元に大体そのままにしてある。
「あの、ケンタ君の件で、社内で検討を重ねた結果、今回は採用を見送らせていただくことになりました」
「なぜですか?」
「プログラミングのスキルは、正直高いです。うちの主任技術者も高く評価しました。ただ……」
※この時私は、苛々とともにペンをカチカチしていた
「ただ、入社後のサポート体制を考えた際にですね。彼が当社の環境に馴染むことができるか、という点に懸念が残りました。不登校経験があるということも、正直に申しまして、入社後のメンタル面のリスクを拭い切れませんでした」
「それは、偏見ではないのですか?」
言ってしまった!と心の中で後悔した。先方の声が少しだけ硬くなった。
「そう言われても仕方ないかもしれません。しかし、会社の事情があります。我々もギリギリまで議論を重ねました。安易な気持ちで彼を採用して、もし彼が再び辛い思いをすることがあれば、それはお互いに不幸です。今回は本当に申し訳ありません」
電話が切れた後は、多分……しばらくボーっとして、職員室の椅子に座ったままだった。
あの時はこう思った。やっぱり、ポジティブ学園の子はそうなんだ。どんなに才能があっても、過去のレッテルから逃れられない。あの日イベントで抱いた期待を裏切られた気がした。
だが、その後の日々で、冷静になって考えてみた。
採用担当者の言葉に嘘はなかった。彼らは、私が抱えていた不安を彼らなりの言葉で伝えてくれただけだ。
採用すれば良いというわけじゃない。無理に引き受けて、彼の心の傷をさらに深くしてしまうかもしれない。
そう考えたとき、彼らの不採用という決断は、ある意味、生徒のことを真剣に考えてくれた結果なんだと思った。
むしろ、偏見だと決めつけて、彼らに向き合わなかった私の方が……傲慢だった。
ケンタに不採用の知らせを伝えると、しばらく沈黙が続いたっけ。
「そうですよね~僕みたいなのが、あんな会社は無理ですよね」ってケンタが言うと、心にグサッときた。
「ごめん」としか言えなかった。生徒に謝る事態なんて、教師として三流以下だと思った。
ここまでがポジティブ学園での思い出である。それからケンタは、遠方にあるコンピューターの専門学校に進学した。私が様々な方向性を提案して、ケンタと話をした結果、彼が自ら考えて決断したのだ。
ケンタが高校を卒業して、何年もの月日が経った。最初のうちは、メールで年に何度か近況報告をもらうこともあった。プログラミングがやっぱり楽しくて、大会にも出場しているといったことだった。
やがて、やり取りをすることもなくなった。それは彼がナニカに集中するようになったからでは、と心の中で期待していた。やがて、ケンタのことを思い出すこともなくなった。
ある日、一通のメールが届いたのだ。ケンタから。内容は、就職先の内定のことだった。「報告があるのですが、○○(※あの半導体の会社)に内定をもらいました」という端的な文章だった。
「うわっ!」と、思わず声を上げてしまった。その端的な文章の下に、いろいろと書き連ねてあった。彼らしく、無駄が一切ない文面だった。
要約すると、専門学校で就職インターンシップに申し込む際、事前説明会があったとのこと。参加した時、人事の方に「ケンタ君だよね?ポジティブ学園の」と声をかけられたという。
「あの時の採用担当者の方が僕のことを覚えてました。『あの時よりも自信に満ち溢れている』って言われました。」
「専門学校で、僕はプログラミングのスキルだけじゃなくて、コミュニケーション能力も、人との関わり方も学びました。飲食店でアルバイトもしました。おかげで、あの時よりも、面接で自分の言葉でしっかり話すことができたんです。あの時、もし会社に受かっていたら、僕は挫折していたかもしれません。…(中略)…でも、先生が僕の可能性を信じてくれたから、僕を諦めなかったから、頑張ることができた。本当に、ありがとうございました」
キーボードを触りながら、返信しようと思いつつも、手が震えてうまくできなかった。
私はあの時、半導体の会社を偏見で判断した。ポジティブ学園の子だから、そういう目で見たんだろうって。そして、生徒の可能性を信じきれず、不採用という結果に囚われた。
でも、本当にケンタに向き合ってくれたのは、彼らの方だった。再認識させられた。成長したケンタを、あの人達は今度もまたちゃんと見て、採用という判断をしてくれた。それだけだ。
ここで結びにする。
あの学園にいた時は、生徒たちの「訳アリ」の部分に目がいってしまうことがあった。でも「訳アリ」なのは、過去の物語によって起きた結果にすぎない。彼らは皆、自分の人生を懸命に生きている。できる子がいたし、できない子もいたけど、未来に向かって進もうとしていた。
私はもう学校教諭ではない。けど、あの頃は就職指導の先生としてだけじゃなく、人として彼らの未来を信じて背中を押し続けたつもりだ。
自分は応援団のひとりに過ぎないと思っていた。でも、応援された生徒は、やがて自分で未来のことを考えて、切り開こうとチャレンジする。そういう人になってほしいと願っていた。
今は、別の形ではあるけど、若い人にものを教えている。学校と違って、純粋に実務上の知識や技術を教える仕事である。
これからも、誰かの未来を応援し続けようと思っている。それが、訳アリの子の就職指導をしてきた、自分にできる使命なんだと思ってる。
ざっくり状況を話すと、ギャンブル癖があるため家計の管理は夫に任せて、夫からは現金が引き出せない家族カードを預かりそれで普段の買い物をしています。パートをしていて、そのお給料は全額自分の小遣いにできる恵まれた境遇ですが、全額パチンコ屋に費やしてしまい、手元に残った数百円の小銭もギャンブルの資金欲しさに宝くじのスクラッチに費やしてしまう、そんなギャンブル依存症の主婦です。
一時期ギャンブルを止めるための自助会につながりましたが、それでも結局ギャンブルはやめられず、今日もまたギャンブルの資金がなくなりスクラッチに小銭を費やして、手元には100円すらないのが今日の私です。
今日はそんな自分を甚く反省する出来事があったので、それについて書こうと思います。
ギャンブルから帰ってきて、家に「三千円の使い方」という文庫本が転がっていることに気がつきました。
この本を買ったのは私自身です。一時期ギャンブルから離れようと考えていた時に書店で見つけて買ったのですが、そのまま読まれることなく放置されていた本です。
財布の中に3000円どころか100円すらない、自分の銀行口座には1000円もない、そんな状況の今になって、この本を読んでみる気になりました。
小説本で、とある一家のお金にまつわる悩みが描かれるお話でした。
それを今日のうちに一気に読んでしまい、この物語の登場人物たちと自分を比べて、自分がいかに自分のことだけしか考えず、刹那的に生きてきたのか、恥入りました。
特に心に刺さったのは、家計簿で計画や予定を立てる、という言葉でした。
私は普通の家に生まれました。普通というのは、家の収入が相対的貧困には該当せず、多分統計の中央値程度はある家だという意味です。
でも、それって年収400万前後の話で、この収入だと事前に計画をしっかり立てなければ子どもを国立大に通わせることも叶わないのです。
私は女だったからという理由で、両親は大学の学費を用意してくれてはいませんでした。
だから、私は国立大の夜間部に進学して、昼の間のアルバイトの収入月12万くらいから毎月3万を学費に積み立て、家賃や食費諸々も自分で払って大学に通いました。当時はまだギャンブルに手を出しておらず、こうしたお金の使い方ができる人間だったのです。
この頃の私は、確かに家計簿をつけていたし、それで計画を立ててお金を使うことができていたのです。
それを本を読んで思い出しました。
それと比べると今は、なんと刹那的にお金を使うようになったことか。
今は家計簿、いえ、小遣い帳すらまともにつけていないし、だから欲しいもののためにお金を計画立てて使うこともできません。
一方、物語の中の登場人物たちは、とても堅実に、誠実に、切実に、お金と向かい合っていました。
私のお金の使い方には、堅実さも誠実さも切実さもありません。
なぜここまでギャンブルに手を出してしまうのか、自分でも全くわかりません。
自分の金銭感覚が破滅しているのは分かります。本のタイトルにもなっている3000円の使い方。私にはもうそれがわからない。パチンコ屋に行ったら10分ちょっとで消えるお金だということくらいしか頭に浮かびません。
だから、どうやったらまともな金銭感覚を取り戻せるのか、それを考えています。
私はこの物語の登場人物の中で、主婦の真帆を羨ましく思いました。
金銭感覚がちゃんとしていて、家族の未来に備えてお金を貯めていく事ができる。かつての私のようであり、そして今の私とは全く正反対の人。
私は、もしかしたらパチ屋通いをやめることやお金の使い方をどうにかすることよりも、本当になりたい自分を思い描く事が必要なのかもしれないと思ったのでした。
取り留めなくまとまらない話になりましたが、11月に出る新作パチスロのまどマギFをスルーできるよう祈っていただけると嬉しいです。
サンデーはこの中で売上が下の方らしい、そして
今のジャンプははっきり言ってマガジンサンデーよりも書ける人が揃っていない、でもジャンプのほうが売上が大きいらしい。
読める作品を思い出してみると
サンデーは、龍と苺、コナン、MAO、シブヤニアファミリー、白山と三田さん、舞妓さんちのまかないさん、この漫画のヒロインは森崎あまねです、ラストカルテ、BeBlues、君は008、魔王城でおやすみ、レッド・ブルー、第九の波濤、十勝一人ぼっち農園、あおざくら、葬送のフリーレン、古見さんはコミュ症ですの17作品
チャンピオンは、弱虫ペダル、ゆうえんちバキ外伝、あつまれふしぎ研究部、ディエゴ、ハリガネサービス、SANDA、ヤンキーJKクズハナちゃん、もういっぽん、メイカさんはおしころせない、木曜日のフルット、グラップラー刃牙、BEASTARS、バチバチBURST、Gメンの14作品
マガジンは、はじめの一歩、ダイヤのA、黙示録の四騎士、シャングリアフロンティア、カッコウの許嫁、カノジョも彼女、それでも歩は寄せてくる、幼なじみとはラブコメにならないの8作品
ジャンプは、ワンピース、WitchWatchの2作品 (Dr.STONE終わったのが痛い)
Web漫画アンテナ登録作品は(現在更新されてないのが多々ある)
2.5次元の誘惑
38歳バツイチ独身女がマッチングアプリをやってみたヤバい結果日記
47歳、V系
Artiste
DYS CASCADE
GROUNDLESS-アリストリア改国戦記-
Helck
MANGA Day to Day
New's Network
SPY×FAMILY
あそこではたらくムスブさん
アニメタ!
アルテ
イジらないで、長瀞さん
おちたらおわり
おとなりに銀河
お下がりのオンナ
カナカナ
クマ撃ちの女
ゲーミングお嬢様
コーポ・ア・コーポ
こういうのがいい
この世界は不完全すぎる
コワモテ後輩が一日一回好きって言ってくる
サバエとヤッたら終わる
ざんげ飯
それでも歩は寄せてくる
ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド A.S.O
ドルフィン
ドンケツ
なれの果ての僕ら
ぬけぬけと男でいよう
のボルダ
はぐれアイドル地獄変
ひとりでしにたい
ブスなんて言わないで
ペイル・ブルー・ドット バトルアスリーテス大運動会 ReSTART!
ぽちゃこい
マイ・ブロークン・マリコ
まいまいまいごえん
マチネの終わりに
マリッジグレー
ミドリノバショ
やり直し姫は夫と恋したい
ラーメン赤猫
ロリータ飯
悪の糸
囲の王
宇宙の卵
俺たちつき合ってないから
家が燃えて人生どうでも良くなったから、残ったなけなしの金でダークエルフの奴隷を買った。
家性婦とシタ 2
怪獣8号
間くんは選べない
帰ってください! 阿久津さん
境界のエンドフィール
君の心を漢字たい
拳児2
言えないことをしたのは誰?
公爵令嬢の嗜み
好きなオトコと別れたい
高嶺のハナさん
佐倉は私を好きすぎる
最果てから、徒歩5分
三十路病の唄
子供になった俺を妻がめちゃくちゃ愛でてくる ~曜路と乙菜の夫婦生活~
私と夫と夫の彼氏
灼熱カバディ
純猥談
女の解体新書
傷だらけのピアノソナタ
新しいきみへ
推しが辞めた
青とオレンジ
青に、ふれる。
青のオーケストラ
戦争は女の顔をしていない
創世のタイガ
早朝始発の殺風景
誰かのことを好きなだけ
蜘蛛ですが、なにか?
都合のいい果て
東独にいた
独身貴族は気づかない
美木さん、大好きです!
片喰と黄金
僕が夫に出会うまで
僕たちは繁殖をやめた
僕の心のヤバイやつ
僕の生徒はオトナギャル
僕より目立つな竜学生
万引きGメン たつとら!!
夢中さ、きみに。
明日の恋と空模様
綿谷さんの友だち
木根さんの1人でキネマ
柚子川さんは、察して欲しい。
幼馴染とはラブコメにならない
踊れ獅子堂賢
龍と苺
隣のお姉さんが好き
隣のガキに懐かれた話
恋とゲバルト
恋人以上友人未満
凛子ちゃんとひもすがら
鬱ごはん
罠ガール
・6人の子供と奥さんを見捨て、子供の幼稚園の先生(青葉母)と不倫の末に結婚した青葉父はやがて3人の子宝に恵まれる
その次男にあたるのが青葉真司
・両親は青葉が小学3年生の時に離婚、父子家庭となった青葉は栃木の学校から埼玉の学校へと転校
・その後、進学した埼玉の中学で虐めに遭い不登校気味になった青葉は最終的に中学を転校
・その後県立高校の夜間部に通いながら県の非常勤職員として勤務する二足のわらじ生活へ
・父の死後、青葉は独り暮らしを開始
コンビニアルバイト等の非正規雇用の仕事を転々とする様になり、やがて家賃を滞納するなど生活苦へと陥る
・2012年にはコンビニに強盗に入るも無事捕まり、懲役3年の実刑判決
統合失調後の青葉はアパートの室内で音楽を爆音試聴するなど果てしのない迷惑行為に及ぶ危険人物へと変貌
・「自分の小説を京都アニメーションにパクられた!」という統合失調症特有の関係妄想を拗らせた青葉
1年近く前に腐れ縁と交友を絶った。
中学校で同級生で、高校は向こうが私立の附属高、私は地元の公立校に入った。
たまに飯を食ったり酒を飲んだり(今は厳しいからできないが)しながらグダグダと近況を話し合った。
大学は私がFラン私立文系、彼女は理系の夜間部を選択し、昼間はSE・夜は学生をしていて、時給が良いからと夜のビルメンのバイトをぼんやりしながらやってる自分よりタフだなあと思った。
私は就活が面倒で、バイト先の上司に「ここって就職させてくれるの?」と聞いたら、女性は人手不足だからとホイホイとバイトから正社員になった。
一方彼女は、大学院に行っていた。院は夜間部の学生でも入学できて、そこで昼間部生になって卒業できると。
「これを学歴ロンダリングと呼ぶんだよ」
と苦笑いして話していたが、SEと夜間部二足の草鞋だけで凄いので、苦笑いでなく誇っていいんじゃないか?と思った。
その後お互い仕事や勉強が忙しく交流が途切れ、数年経ち、私が結婚報告と地方への転居のメールを送ると「今、イギリスに留学しているよ」と返事が来た。読んでみると、どうやら彼女も院を卒業するのを機に結婚をし、夫が留学をするので自分も学ぼうと思ったと。そのやりとりの中で互いのツイッターアカウントも教えあった。
まだまだ学を極めるのかい、英語できるんかい、と、木造アパートで秋刀魚の塩焼きがごちそうでsorry japanese onlyの私(夫婦)から随分違った世界に行ってしまったもんだな…と感じた。
彼女が帰国したあたりで私は妊娠出産をし、目をぐるぐる回しながらワンオペで育児をこなした。その間彼女は技術界隈では有名な企業で仕事をして、コツコツと業績を積んでいた。
私の子が小学生になる直前に、彼女も子を授かり、1年間の育児休暇の間に保育所選びに奔走や、職場復帰のための断乳、体力作りなどをしていた。私はやっぱりぼんやりしながらアパートで秋刀魚を焼いていた。
さすがに子どもが大きくなったからと、私たちは数年後に口利きで手頃な借家に引っ越したけれど、彼女は住んでいる自治体の子供への福祉のなってなさと、両親のヘルプをより近い場所で受けたいからと、分譲マンションを売却し、それを頭金に実家に近いマンションに移り住んだ。
ツイッターで彼女が自作のルッコラとモッツァレラチーズとプチトマトのバジルソースのサラダとかの写真を見ながら、いいもの食べてるなあ、と思いながら小松菜とちりめんじゃこの煮びたしを食べていた。
彼女は企業で確実に出世していって、私は徹頭徹尾ぼんやりしながら何事もこなしているうちに中年のおばさんになっただけだ。
だから私と彼女の距離がどんどん離れていくことに寂しさはない。
私は10万円のジャケットは買えないし、寝巻きに2万円は使えないし、10万円するジャケットを着て行く場所が思いつかない。PTA?
うちの子に公立は向かないから、中受のために受けさせるおすすめの塾は?と聞かれても、私の子は中受するほどの学力もない。
精神や立場的な距離が離れて疎遠というか交流がなくなっても良かった。
家族で北海道に旅行に行ったことと、その時の写真がツイートされていた。ちょうど、札幌での感染拡大が注目やニュースになっていた頃だ。
「お前何考えてんだよ?」とよっぽどリプライをつけたくなったが、いつもなら幾つかつくfavやRTが全くないのを見るに、これが皆の意思表示なのだと、私も何も触らなかった。
そして緊急事態宣言が出て、都会は大変だなあと思いつつじゃがりこを食べながらツイッターを眺めていたら
と、やはり写真付きで、目線はついていたが、マスク姿の彼女と子どもが映っていた。
なんでこいつ、こうなったかなあ?
私より、頭、ずば抜けていいはずだよな?
違う世界の住人になったと思った。
でもそれが、コロナ禍での行動によって、私の中で全て水泡に帰した。
彼女のアカウントをブロックして、スマホから電話番号とメールアドレス、LINEアカウント、全て消した。
さよなら、賢人。
という訳で、上昇婚をしました。豊かな生活を送っていますが、時々どんよりします。
まず、私がどんな環境からこの生活を手に入れたのかをお話ししましょう。
私の実家は年収が400万ないくらいの家でした。兄弟は3人、田舎にマイホームを持ち、母は専業主婦でした。この時点で顔をしかめられる方、多いと思います。そうです、ご想像の通り、この年収でこの生活は非常にカツカツだったと思います。
それでも、時々お金がなくて友達とのレクリエーション(小学校卒業記念で遊園地に行くとか)に参加できなかったこと以外はあまり不自由のない生活を送らせてもらっていたと思います。
しかしながら、大学進学についてはそうも行きませんでした。国立大学の学費すら出せない環境だったからです。私も年間の学費を調べて、年収の1/7を出してくれと言うのは狂気だなと思い、結果、自分で学費を稼ぎながら大学に通う道を選びました。なので、ある国立大学の夜間部に進学したのです。夜間部なら年間の学費が30万程度で済むので、仕送りなしで一人暮らしをしても、昼間にバイトをしながらひと月3万ずつ貯金をすれば良かったのです。家賃は4万、食費1万、水光熱費1万、携帯代だけは親に出してもらって、月10万ほど稼げれば無理なく大学に通える計算でした。月10万だと、時給850円で1日6時間週5日働けば届くので、夜間部で昼間働けるのなら無理のない数字だと思いました。実際はもうちょっと時給が高い仕事にありつけたので、もう少し余裕がありましたが。
そして、大学で出会った昼間部の先輩と卒業後に縁があり結婚して、この生活を手に入れました。
今の生活はとても豊かです。例えば、スーパーで食材を買い物する時に買いたいものの値段を見る必要がありません。大学時代は1食の予算は100円ほど、学食すらめったに使えない有様だったのにです。
周りの人々も豊かです。例えば夫の仕事関係の知り合いは、ほとんどの人が年収1000万は超えているでしょう。今住んでいる区も、平均世帯年収は900万ほどらしいです。
きっとこの先も私は豊かな人々に囲まれて生きていくのだと思います。
私の子どもも、周りの人々の子どもも、大学の学費を親に出してもらうのは当たり前だと思って生きることでしょう。それがどれほど豊かなことなのか、きっと疑問にも思わずに。
私が入った国立大学の夜間部でも、自分で学費を払うような人は稀でした。ほとんどの人は学費も一人暮らしの家賃も仕送りをしてもらって勉強していました。
だから、この国には本当に階級があったんだ、一億総中流なんて嘘だったんだ、と、時々思い出しては実感してどんよりしてしまうのです。
実家には、定年後も働く両親が残っています。兄弟もブルーカラーとして工場で働いていて、多分両親と同じような人生を送るでしょう。けれど、実家のある田舎ではそれが普通の暮らしです。きっと私がこんなことを思ってることを知ったら、ものすごく怒ると思います。
だから、もう実家にはあまり笑って帰れないのです。だけど、この豊かな世界が自分の居場所だとも思えないままです。
せめて自分の子どもにはこの気持ちをわかって欲しいと思ってしまいますが、無理でしょう。
私だけ、この違和感を抱えて生きていく。でも、この罰も今の暮らしと比べるとあまりにもささやかすぎて、やっぱり時々どんよりします。
じゃあ、とりあえず専門学校に通って国家資格を取るところから始めよう。
医療事務や受付をしていた30~40代のおばさんが、働きながら看護学校の夜間部に通って看護師にキャリアアップするケースは案外珍しくない。おばさんができるならおじさんにもできる。大丈夫。
ただ大変なのが、メンタル的なところだ。
看護師になる女っていうのは基本的に気が強くて、ぶっちゃけ学生時代はいじめっ子ポジションだったタイプが多い。
実習(インターンみたいなものだと思ってくれ)の看護学生がナースセンターに来て「今日からよろしくお願いします!」と挨拶したときに「(全員無言)(上から下までジロジロ見定め)……足引っ張んないでよ」の一言くらいのことは平気でやる。それで心が折れるようなら看護師なんて務まらないからビシバシ厳しく!って理論だ。
そういうのを乗り越え、晴れて看護師として働き出すとセクハラパワハラが待っている。
あのな、男の看護師を嫌がるのってジジイなんだよ。体拭かれるのとか、あからさまにガッカリした顔するわけ。あまつさえ「医者になれなかったんだろ、気の毒になぁ」とバカにしてくる。年配のドクターにも言われるけど、適当に受け流すしかない。
・6人の子供と嫁を見捨て、子供の幼稚園の先生(青葉母)と不倫の末に結婚した青葉父は3人の子宝に恵まれた
その次男にあたるのが青葉真司
・両親は青葉が小学3年生の時に離婚、父子家庭となった青葉は栃木の学校から埼玉の学校へと転校
・その後、進学した埼玉の中学で虐めに遭い不登校気味になり、最終的に中学を転校する
・その後県立高校の夜間部に通いながら県の非常勤職員として勤務する二足のわらじ生活へ
・父の死後、青葉は独り暮らしを開始する
しかし不況の煽りで県の非常勤職員を雇い止めになった青葉は、コンビニアルバイト等の非正規雇用の仕事を転々とする様になり、やがて家賃を滞納するなど生活苦へと陥る
・2012年にはコンビニに強盗に入るも無事捕まり、懲役3年の実刑判決
・服役中か、または出所後のいずれかの時点で青葉は統合を失調する
統合失調後の青葉はアパートの室内で音楽を爆音試聴するなど果てしのない迷惑行為に及ぶ危険人物へと変貌
・「自分の小説を京都アニメーションにパクられた!」という統合失調症特有の関係妄想を拗らせた青葉
遂に2019年7月、京都アニメーション社屋にガソリンを用いて放火、70名を死傷させ、自身も重症を負う
・火傷の治療を受ける過程で医療従事者達との交流を通じて初めて人の優しさに触れた青葉、感涙する
・2020年、恋に落ちる
経済的な事情もあり、1.2年次は母親に援助してもらいつつ、残りは総て払いながら行きました
この五年、何とかやり遂げて安心したけど、現役生が働きながら夜学に通うこと、これは安易にはおすすめできない。
まず単純に体力がもたない。俺の場合、現場仕事をやりながらの生活だったから、朝5~6時に起床し、現場から学校へ直行するので、終わるまでほぼ休息がとれない。帰宅するのは23時頃で、加えて一人暮らしだから速攻寝るわけにもいかない。ブラック自慢の好きな人は大したことないとか言いそうだけど、たいていの人はこの生活に意味を見いだせずに辞めていってしまう。
各大学の夜間部は、この所 どんどん閉鎖されて、受験生や向学心のある社会人の選択肢からだいぶ外れていってるだろうけど、もしも夜学を視野に入れてる人が居るならば、本当によく考えてもらいたい。人は、出来ること、出来ないことがそれぞれある事を認めなければならない。奨学金を貰わずに学費を払い、且つ生計をたてるには、(貯金無しの状態なら特に)おおよそ手取り30はないと厳しい。それを高校卒業したての若者が稼ぐには、肉体労働或いは深夜の高時給のバイトなどしか選択肢が無く、故に体力の消耗も激しい。実際、五年間耐えた自分も、この最後の半期は精神をおかしくして一時仕事が出来なくなったし、三年次は毎晩朝までトラックの運転手をしていて、何が本分かを見失い常に心は壊れかけてひとりで泣くこともよくあった。
卒業が決まって本当に嬉しい。俺にとって大学は、物事を深く、様々な側面から考える機会を与えてくれた存在で、その価値は自己満足ながら卒業まで耐えてよかったと疑いなく言える。人は、一度決意した物事も、たいてい継続の最中に「そうでもなかった」とか「本当にやりたいことじゃなかった」などと考えるものだ。それは実際、事実 間違っていない事の方が多い。しかし一度決めたことをやり通した経験の無い者は、何よりも、自分を信じることが出来ない。自尊心の欠如は、人間本来のその他の欲求を欠くことにつながる重要な事柄だ。この事に気づくのに、俺は四年半も掛かった。だから途中で投げ出してしまった人を安易に批判は出来ない。やり遂げなければそれに気づけないから。
それだけ、働きながら学ぶことは、大いにリスクのあることだ。
もしもこうした選択肢を考えている人が居れば、本当に よく考えて、選択してもらいたい。
ともかく、卒業できてよかった。
さて、極論的な表現で恐れ入りますが、こちらで質問したいことの結論を書かせていただきますと、
「高校進学することなく、中卒後即座に大手美大予備校の昼間部に所属し、3年間誰よりもデッサンと色彩構成と立体制作に明け暮れ、現役で東京藝術大学デザイン科に合格する」
この進路の舵取りは一般的に考えて極論中の極論だとは思いますが、この事の是非を質問として問いたいです。いかがでしょうか。
長くなりますが、このように考えることになった経緯をお話しますので、お時間ありましら是非一読いただき助言いただけましたら幸いです。
この目標を確実に達成するためにどうすればいいのかを考えますと、やはりデザイナーの最高の教育機関たる東京藝術大学デザイン科に入り、数多くの作品を作り最高のポートフォリオを仕上げた上で卒業し、新卒でデザイナー入社試験を受けるのが最良との思いに至りました。
東京藝大は気が狂ったレベルの難関です。それは充分に理解しています。
ですので、1%でも高い確率で東京藝大デザイン科に入るためには1秒でも長い時間を実技対策に投じて腕を磨くことが重要と考えます。そのことを考慮した場合、一般の美大受験生と同じように高校通学に併せて美大予備校夜間部に通い対策をするというようなことでは、藝大デザイン科合格45名の椅子を巡る戦いに現役で確実に勝てる確率は相当低いと言わざるを得ません。
藝大デザイン科現役合格というのは、はっきり言って狂気の沙汰です。であるから、こちら側も狂気的姿勢で受験に臨む他ありません。一般的な受験生と同じ姿勢で臨んだのでは勝てません。そこで考えた受験戦略が「中卒後即大手美大予備校昼間部通学」というストラテジーになります。
一つは、他の藝大志望高校生に対し実技研鑽で圧倒的な差を付けられるということです。
藝大志望の高校生が予備校で使える実技学習時間は夜間の3時間のみ。週5日通うして一月の学習時間は3(h)×5(d)×4(w)で60時間に過ぎません。対して、昼間部は基本的には一日6時間ですが、朝の教室解放後最速でアトリエに入り制作を開始することで実質7時間は制作できます。これを一月やりますと7(h)×5(d)×4(w)で140時間。高校夜間部生に対し一月で約2.4倍の実技学習時間が実現し、現役生という枠の中であれば圧倒できます。
二つ目の利点は、「昼間部に三年通うことは実質的に三浪するのと同程度の力になる」という点です。藝大受験においては、当たり前ですが現役生以外に浪人生も相手取って戦わなければなりません。私も予備校見学に行った際に目にしましたが、浪人生というのは化け物みたいな画力を持っています。そんな彼等とも刃を交えて戦う必要があるのであれば、彼等と同じ土俵に入って学ぶのが一番です。そのための昼間部通学でもあるわけです。いくら浪人生といえども、三年も浪人している人間はなかなかいません。ですので、ここで私が高卒年齢に達するまでの昼間部三年通いという戦略を実行することで、浪人生以上の経験と実力を18歳時点で積み込めると考えたわけです。
以上がこの戦略の利点となります。ここまでやれば高い確率で藝大デザイン科に現役合格できるのはないかというのが私の考えです。
何故私がここまで現役合格にこだわるかといえば、それは就活の際に一歳でも若いというアドバンテージを得たいがためです。
私が目指す企業は任天堂です。任天堂ともなればゲームCGデザイナーの椅子を巡って日本最高の戦いが繰り広げられるわけです。そこに上がってくるライバルは様々な意味でデザイナー志望として最強の人間達であり、そんな中で勝ち抜いていくためには何か一点でも彼等に対し有利を取れるポイントを稼ぐ必要があります。それが年齢というわけです。藝大生は浪人生の割合が比較的高く、現役年齢であるだけで就活の際は彼等に対し有利を取れます。突出した才能を持っていないにもかかわらず、何が何でも任天堂に入りたい私としては、わずかでも有利になれるポイントをかき集めて戦いに挑むしかないということです。
「中卒後即美大予備校昼間部通学」という戦略を実行するにあたり、学科はどうするのかという声がありますが、学科に関しては独学で充分やっていける学力的自信を持っていますので問題ありません。中卒ということは大学進学時に高卒認定を受ける必要がありますが、試験問題を見たところそれも余裕で突破できるでしょう。
藝大に対する熱意のあまりつい長文になってしまって申し訳ないですが、ご助言いただけましたら幸いです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
◆追記◆
もう夜も遅かったですし、この記事を投稿してからすぐに寝たんですが、喉が渇いて水を飲みに今起きて何気なく増田を開き直したらこんなにも助言の声をいただけてて本当に嬉しいです…!!
明日も早いため、またすぐに寝るのですが、明日また時間ができたらまとまった時間に皆さまのご助言を読ませていただき、可能であれば返信もさせていただきたいです。
本当にありがとうございます…!!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
◆再追記◆
ブコメにも沢山ご意見をいただきありがとうございます!
再び起きてしまいましたので、改めて寝る前にできるだけお返事を。
トラバとは違って、直接お返事をすることのできないブコメにこちらで返信をしたいと思います。
id:sangping 他人事だから適当に言うけど「任天堂に入りたい」が真の目標なら、もっと直截「任天堂に」狂気をぶつけた方がいいんじゃない?まずは任天堂の人事や経営陣にアポを取って話を訊いてみるとか。犯罪にならない範囲で。
「任天堂に直接狂気をぶつける」心に刺さりました。名言ですね。任天堂社員の方はSNSに情報を漏らさない(Facebook上であっても自分が任天堂社員であることを名乗らない)というのは聞きますが、もし任天堂社員の方と連絡が取れる機会がありましたらダメ元でダイレクトアタックしてみたいと思います。まだ何者にもなっていない有象無象の坊主のために任天堂の方のお手を煩わせるのは恐縮ですが、聞けるだけのことは聞きたいなと。
id:i5s4y デザイナーです。デザインの技術はテクノロジーでひっくり返されるので、そうならない基礎教養を高校できちんと学んだ方が良いと思います。あなたが構想しているのは “現在の” 任天堂の入り方です。
デザイナーの方に意見を頂けて嬉しいです!数年前にGoogleがAIにこの世の終末みたいな絵画を描かせたり、はたまたpixivでは綺麗な自動彩色サイトが流行ったりと、デザイン・クリエイティブの分野でもひしひしとテクノロジーによる作画技術の代替が起こっている波を確かに感じますね。高校で学べる範囲のことでテクノロジーに抗する、あるいは利用する教養を得られるとしたら数学・英語でしょうか。それらは情報デザインの分野とも結び付きますし、一考させて頂きたいですね。また恥ずかしながら、私は浅学ゆえに "未来の" 任天堂の入り方は分かりません。ただ愚直に、"現在の" 任天堂の入り方に固執し我武者羅に頑張るしかないところは恥じ入るところです。ですが、今後成長していく中で "未来につながる" 構想が獲得できましたら、より合理的に方針を転換して戦っていきたいです。
id:tsubo1 このブコメを書こうとして、書いては消し、書いては消しして10分経った。私はあなたの若さが持つデタラメな焦りが羨ましいよ。あなたの書いていることは隅から隅まで全くの見当違いだが、その情熱はいいと思う。
ありがとうございます。不覚にも、ウルッときました。私のこの殴り書きのような粗削りの計画書に何かを感じ取っていただき、ブコメを書くのに多少なりともの時間を掛けていただいたということに対して、私の方も沁み入るものがあります。ブコメやトラバを確認しますと、やはりこの計画が如何に無謀で見当違いかを思い知らされますが、情熱を評価していただけた点に深く感謝致します。
id:migurin 職種は違うがデザイナー歴約15年です。応援します。ただ、技術はいつかアドバンテージではなくなります。自分自身を磨くことを忘れないこと。入社を目的にせず、人を豊かにすることを目的にすることを勧めます。
デザイナー歴15年という、ベテランの方にもご意見を頂けて嬉しいです!応援頂き誠にありがとうございます。技術的アドバンテージに限りがあり、それに抗するため自分磨きを続けるという事、ご指摘いただきありがとうございます。深層意識に刻み込みます。私も、任天堂に入れたら、そこで世界の人々の感情を豊かにするゲーム作りに携わりたいと願っております。
id:MiG 技術を伸ばす「だけ」ならいいかも。でも遊びを作るのに遊び(も含めたいろいろ)の経験がないのは就職活動〜その後の職業人生で逆に不利になることが多いように思う。当方ゲーム会社勤務10年超デザイナーヨリ。
ゲーム会社勤務歴10年のデザイナーの方からもご意見を頂けて大変嬉しいです!美術版受験ガリ勉になるのではなく、様々な遊びが必要であるということ、良く分かります。今の計画を白紙に戻し高校へ行くというのはまだ抵抗がありますが、少なくとも確定している未来として藝大(あるいは万が一失敗したら武蔵美・多摩美)に入ってからはうんと遊びたいですね。芸術に関することだけでなく、都内で、そして海外で、様々な遊びを経験し糧としたいと思います。
id:manganzenseki 任天堂のデザイナーになった知人が何名かいるけど、みんな私大でしかもファインアート出身。あと受験漬けの美術版ガリ勉よりも教養あったりスポーツなどに秀でた人の方がするっと受かるよ。広く感性も磨くべし。
任天堂デザイナーになったという貴重な知人の方の例を紹介いただきありがとうございます!私大(武蔵美・多摩美)からも任天堂への内定を出していることは存じ上げていましたが、しかしその採用率となると藝大有利だろうという思い込みがありました。しかし知人の方の全員が私大出身であるということで、必ずしも藝大に固執する必要が無いということを気付かされたのは大きいですね。いずれにせよ藝大の魔に魅入られた私は藝大を目指しますが、万が一受験に失敗した場合は私大受験に切り替える柔軟さも持ちたいと思います。教養に関しては、藝大同期にゼルダ青沼さんがいらしたトラバの方の投稿を読んで重要性を改めて認識しましたね。ありがとうございました!
id:kash06 桁外れに難しい目標であるから、極限まで自分を伸ばす方法を……その覚悟は凄まじい。今の増田には考えづらい事だが、そのルートに乗れなかった時の為の保険を考えられる人が、うまく助言できる事も加えて願う
藝大の倍率はかつては東大の10倍以上にも及び、過酷すぎる競争になるのは火を見るより明らかでしたので、その対策の最善を考えていった結果の産物でしたね……。目指すルートに乗れなかった時の保険(藝大失敗→武蔵美・多摩美 任天堂失敗→他の有力ゲームメーカー)は既に決めてあるので、あとは私に最終的に損切りする覚悟があるか……ということでしょうね。ありがとうございます!
いただいたトラバ、ブコメは全て拝読してます。本当に参考になりました。
この記事を投稿した時はチラホラとした反応がある程度を想像してたので、全てのトラバなりブコメにお返事できると思っていたのですが、予想外に反応いただけたため全てのトラバ・ブコメに返信することは難しく、せっかく貴重な意見をいただいたのに申し訳ありません…!
改めて申し上げますが、いただいたコメントは全て拝読してますので、皆様のご回答全てが私にとって等しく参考になっています。
小さい頃に親が離婚。父親に二人のきょうだいとともに引き取られる。父親はタクシー運転手。まあ裕福な家庭じゃないわな。高校は夜間部へ進学し、昼間はお役所でメールボーイのバイト。この頃はまだ無垢だったとの同僚の話。ただ経費削減により三年か四年でメールボーイの仕事は打ち切りに。
その後非正規労働を転々とする。父親が仕事中事故を起こしクビになる。数ヶ月後に父親は自殺。それをきっかけに青葉一家は離散。
やがてコンビニ強盗や下着泥棒などやるように。実刑ついて刑務所へも行く。更生施設から出てさいたまに住む。隣人にこっちは余裕ないんや殺すぞと言う。そして京アニ放火。動機は小説を盗まれたから。
無敵の人をうまないと言っても、親の離婚による自尊心や自己肯定感の喪失とかどうしようもない。今後こういうやつは増えていくんやろうなあ
埼玉県内の中学校を卒業後、同県内の高校の夜間部に通いながら、県の非常勤職員として勤務していました。その後は人材派遣会社に登録をしたり、茨城県内の郵便局に勤務したりしていた記録が残っている。
郵便局での勤務を始めたのは2009年。その3年後、青葉容疑者はある事件を起こす。
2012年6月20日未明、当時34歳だった青葉容疑者は茨城県内のコンビニエンスストアに包丁を持って押し入り、男性店員から現金を奪って逃げた。その後同日11時頃に警察署に自首したため、強盗と銃刀法違反で逮捕されました。自首した理由について『オウム事件の高橋容疑者のように逃げられないと思った』などと不可解な供述をしています。当時は茨城県内の雇用促進住宅の3DKに住んでいました
青葉容疑者は服役後、さいたま市の保護観察施設に入寮。刑務所を出所した際に帰る場所がない人が最大半年間入れる施設で、宿泊代や食費の実費負担はない。
「2016年7月頃には退寮し、その後はさいたま市のアパートに居を移しました。2018年頃から住民との間でたびたび騒音トラブルを起こしていて、複数回通報もあった。今月14日には20代の隣人男性の部屋のドアを執拗に叩くなどしている。その後も部屋のドアを叩かれたため男性が苦情を言いに青葉容疑者の部屋を訪れたところ、胸ぐらをつかまれた。男性は近くの交番に通報しています
お忙しいところ恐れ入ります。
S高校に在学中の出来事についてお知り頂きたいことがいくつかあるので、メールを送らせていただきました。
私のいた1年B組の担任の数学教諭のK先生の言動についてです。
・入学して間もない頃の数学の授業中、K先生が「ノートを書くのが遅い子は数学ができない」という話をされたあと、「増田とか書くの遅そ~」とクラス全員の前で言われました。
・学校に登校して教室に向かう廊下で、K先生に会ったので私が「こんにちは」と挨拶をしたら、「あれ?昨日いた?」と開口一番に笑いながら言われました。
・数学の授業の休み時間に教室で同じクラスの友達が「疲れた」と言ったところ、それを聞いたK先生が「S高の授業で疲れたなんて言ってたら他の学校行ったらどうなっちゃうの?ずっと夜間にいるの?」と大きい声で言いました。
私は中学校で色々なことがあり不登校になって、高校では心機一転頑張ろうと無遅刻無欠席で高校に通う中
挨拶してすぐ「昨日いた?」と笑いながら言われたり
自分が選択したS高校の夜間部という道を他の高校と比べて否定されたことが、とても辛くて、今でも思い出すと涙が出ます。
「中学生のときに、色々な悩みや不安、手助けが必要だった生徒が自分の居場所を見つけられる学校」
「欠席が多い生徒も活躍し、自分を変えられる場所」だと書いてあるのに、そんな風に言ってくれる先生は一人としていなくて、K先生には上記の無神経な言動をとられ
私のような生徒はどこに行っても馬鹿にされて、嫌がられるんだと悲しい気持ちでいっぱいです。
K先生が私を故意に傷つけるつもりはなかったとしても、学校の先生、特に夜間部の先生は、生徒への発言を充分に考慮するべきではないのでしょうか。
現在はS高校の通信制に通っていて、夜間部に戻るつもりはさらさらありませんが、今でも心に傷が残ったまま辛いので、このようなメールを送らせていただきました。
教育委員会の皆様はどのようにお考えですか?
ご返信いただけたら幸いです。
2日後に「該当の職員については校長を通じて厳重に注意したいと考えています」と返信が来たけど
多分そんなに怒られてないだろうなぁ
お忙しいところ恐れ入ります。
S高校に在学中の出来事についてお知り頂きたいことがいくつかあるので、メールを送らせていただきました。
私のいた○年○組の担任の数学教諭のK先生の言動についてです。
・入学して間もない頃の数学の授業中、神原先生が「ノートを書くのが遅い子は数学ができない」という話をされたあと、「増田とか書くの遅そ~」とクラス全員の前で言われました。
・学校に登校して教室に向かう廊下で、K先生に会ったので私が「こんにちは」と挨拶をしたら、「あれ?昨日いた?」と開口一番に笑いながら言われました。
・数学の授業の休み時間に教室で同じクラスの友達が「疲れた」と言ったところ、それを聞いたK先生が「S高の授業で疲れたなんて言ってたら他の学校行ったらどうなっちゃうの?ずっと夜間にいるの?」と大きい声で言いました。
私は中学校で色々なことがあり不登校になって、高校では心機一転頑張ろうと無遅刻無欠席で高校に通う中
挨拶してすぐ「昨日いた?」と笑いながら言われたり
自分が選択したS高校の夜間部という道を他の高校と比べて否定されたことが、とても辛くて、今でも思い出すと涙が出ます。
「中学生のときに、色々な悩みや不安、手助けが必要だった生徒が自分の居場所を見つけられる学校」
「欠席が多い生徒も活躍し、自分を変えられる場所」だと書いてあるのに、そんな風に言ってくれる先生は一人としていなくて、K先生には上記の無神経な言動をとられ
私のような生徒はどこに行っても馬鹿にされて、嫌がられるんだと悲しい気持ちでいっぱいです。
K先生が私を故意に傷つけるつもりはなかったとしても、学校の先生、特に夜間部の先生は、生徒への発言を充分に考慮するべきではないのでしょうか。
現在はS高校の通信制に通っていて、夜間部に戻るつもりはさらさらありませんが、今でも心に傷が残ったまま辛いので、このようなメールを送らせていただきました。
ご返信いただけたら幸いです。
うちの大学にも夜間があって俺は昼間も夜間も受けたことがある。そして昼間の方に進学し、今は卒業を控えている4年だ。
俺は一浪のとき全然勉強しなくてどこにも受からなかったから仕方なく夜間を受けたんだがそれも受からなくて二浪することになった。さすがに二浪のときはそこそこ勉強したから一浪のとき夜間で落ちた大学に昼間で入学することができた。
大学に入ってから夜間の同年代の方とも話す機会があったけど全員が昼間に対して引け目とか対抗心とかそういうのを持っているみたいだったよ(全員と言っても俺が話したことのある同年代の夜間主の人は3人だけだが)
日が落ちた大学で俺が帰路を歩いているときに今から授業に向かうと思われる夜間の人達とすれ違うと、一浪のときもし夜間で受かっててそのまま進学したら人生どうなってたんだろうなと考えることがあった。履歴書に夜間と書く必要はないから就職で不利になることはない、昼間の学生と同じ水準の講義を受けることができるから学業面では変わらない、って事実を理性ではいくら理解していてもきっと心の奥にはなにか引っかかるものが残ったんだろうなと思う。
増田が最初から夜間部への進学も想定して大学受験に臨んだのなら別だけど、もし俺のように昼間の大学への進学しか考えてなかったのに受験がうまく行かなくて急遽追加募集で夜間部を受けたりしたなら余計にちょっと考え込んでしまう瞬間もあるだろうなと思う。というかいろいろ考えた末の日記が元記事なんだろう。
でも事実だけを考えてみると、夜間でも新たな出会いとか充実した経験を得られるチャンスは昼間と全く変わらないだけあるんだと思う。周りからの評価も昼間と変わらないと思うし実際自分が夜間の人と出会ったときも夜間の人なんだ~以外の感情はなかった気がする。というかどういう感情だったか思い出せないくらいどうでもいいことだったと思う。
っていうのは綺麗事すぎるか。夜間なんだ…って思われることは多少あるかもしれない。でもそれって自分が楽しければ十分カバーできない?
だから昼間主に進学したかったけど夜間主に進学することになった学生のデメリットは自分の心の奥のちょっとした引っかかりだけなんだと思う。逆に人によってはそれが一番解決することの難しい問題であり、それを解決するには充実した大学生活を送る以外の方法はないんじゃないだろうか。
親に迷惑をかけまくって二浪させてもらって昼間の大学に進学してヘラヘラ過ごしてきた俺に言われるのはムカつくかもしれないけど、四年間耐え忍ぶって発想はすこしもったいないんじゃないかと思った。だってそういう自分の心持ち以外には夜間のデメリットってなくない?普通に昼間主に進学するのと同じ志でいればいいと思う(たぶんそれが一番難しいんだけど)
四年間楽しい大学生活だといいね。俺は入学から卒業まで一貫して劣等生で努力もしなかったことをやや後悔してるからぜひ勉強を頑張ってください。昼間も夜間も人生の中でどれだけ充実した四年間を送れるかは自分にかかってるのは同じだよ。
小さい頃から、うちにはお金がないと言われて育った。なので、物心ついた時からうちは貧乏なのだと思っていた。
実際小学生の頃、鉛筆を最後まで使うという節約のために鉛筆ホルダーを使わせられ、それを見た小学校の先生に悪いことだと怒られ、それを聞いた母が学校に「うちは貧乏だから節約してるんだ!何が悪い!」と怒鳴り込みに行き、先生が「かっこつけでつかってるのだと思いました、すみません」と謝る、などという一幕もあった。
私はマンガが好きだった。なので中学生の頃マンガの専門学校に行きたいと思いマンガ雑誌の広告にあった専門学校の宣伝を読んでみたが、入学金100万(確か)の時点で諦めた。
じゃあ普通に進学しようとし、どこの高校にしようかと両親と相談した。両親は「お前を大学に行かせることはできない、その代わり高校は私学でもいいから好きなところに行け、その分の金は貯めてある」と言ってくれた。それなら、ソコソコの成績なのでソコソコの公立進学校に行きたい、と主張した。が、大反対された。「大学に行かないんだから進学校に行く必要はない!」と。じゃあ好きなところに行けってどういうことやねんと思ったが、その進学校に行きたいのは大学に行くためではなく、単に学力的に手頃で駅から近く通学路に本屋さんがいくつもあるからだと主張したら、しぶしぶ許してもらえた。
しかし実際に入学してみると、1年生の段階で理系に進学したいか文系に進学したいかまだ決めていないかを訊かれた。その答えで2年次から進学先別にクラス分けがされるような高校だった。
うちの両親は私がそういう校風に感化されて大学に行きたいと言い出さないか警戒していた。だから常々言われた。「お前を大学に行かせることはできない、もし大学に行きたいのだったら自分の力で行け」と。私も最初は大学に行く気は無かった。
だが周りのクラスメートたちは徐々に大学に行くため予備校に通い始める。そんな中で私は思った。私だけが大学に行けないのは許せない、と。みんなは普通に大学に行けるのに、自分が大学に行けないのが悔しくてたまらなかった。だから、「自分の力で」大学に行くための算段を始めた。
まず学費の問題から私立は不可である。しかし、国立の学費も半年で30万と高すぎる。一年通ったら60万だ。60万といったら我が家の年収の約1/6であり、親には到底頼めない。奨学金も調べてみたが、そもそもが借金であること、利子なしの一種は月額5万円であることを考えると、自然と選択肢は狭まってきた。自宅から通える国立大学はあったが、通学費が半年で15万くらいかかる場所にある上学力的にも厳しい。そうして最終的には、すごく家賃の低い部屋に住み、奨学金も借り、バイトで月10万ほど稼ぐこと前提で、学費が国立大の半額になる国立夜間部を目指すことにした。
夜間と言っても国立である。自宅から通える国立大学ほどではないが、今の学力では到底届かない。そのため、一年浪人することになった。宅浪するかどうか迷ったが、自分の頭と意志の強さを信じられなかったので、予備校の月謝制講座を2コマだけ取り、バイトで月5万ほど稼いでそれを右から左へ月謝に充て、予備校と自宅でみっちり勉強した。
それでも最後の関門があった。入学金である。夜間であれども20万ちょっとは入学金として必要だったが、バイトのシフトもこれ以上入れなかった上、バイトを増やすのは勉強時間的に不安でもあった。
なので、そこは両親に頼み込んだ。1年かけて頼んだ。
最初両親は、私が本気で自力で大学に行きたいと思っているとは思わなかったらしい。とにかく反対だけされた。金は出せん、諦めろ、それだけだった。
それでも私がバイトをしながら予備校に通い夜遅くまで勉強していると、「勉強なんかするな!無駄なんだから!」と部屋に怒鳴り込んできた。
けれどもめげずに勉強し続けた。
時には不安になり、大泣きもした。これほど勉強しているのに、両親がお金を出してくれなかったら何もかも無駄になる。なぜうちにはお金がないのだろう、と。
そんな気持ちが最後には届いたのか、両親は大学に行くことを認めてくれた。入学金と部屋を借りるためのお金に関しては出してくれることになった。12月のことだった。
残りの予備校代も貯まったことだし、そこで私はバイトを辞めラストスパートに入った。
そうして無事に合格し、家賃的にも距離的にも大学に通えるレベルの部屋も無事決まり、私は大学に行けるようになった。大学に行ってみたら夜間部であっても周りがお金持ちばかりでカルチャーショックを受けたが、それはまた別の話。
そうして今思うと、両親には無理をさせたな、と思う。世帯収入300万台の家であり、5人家族で、田舎ながら一軒家のローンも背負っている。その両親にとって、予定していない出費入学金と引越し代合わせて30万強はいかほど大変だっただろう?
高校時代にしていたバイト代をお小遣いに充てず、ちゃんと学費として残しておくべきだったと後悔しきりである。
でも、それでも私は幸運だった。本当にギリギリのところで両親に助けてもらえたからだ。親との関係が本当に悪く、助けてもらえない人もいるだろう。親に本当にお金がない人もいるだろう。だから、自分一人でも頑張れば進学できる、とは主張できない。
残念ながら、もうだいぶ前から通学制の大学(学部)は昼間部も夜間部も
毎日18時から授業を受けに行ける社会人なんてものはファンタジーになってしまった。
これは仕方がない。
「多くの大学がキャンパスライフを楽しむところで、大学は勉強するところではないから」
なんて揶揄しているつもりでバカ丸出しのコメントしている方もいるが、
代わりに社会人の受け入れの場として主流になっているのが通信教育。
通学制の大学生が約200万人に対して、通信制の大学生が約20万人。
http://www.uce.or.jp/about/status/
ただし、日本の通信教育課程はまだ紙ベースのテキストでちまちまやっているのが多い。
一方、アメリカではオンラインの通信教育が盛んで、世界のどこからでも受講できる。
特に近年は州立大学が学位の出るオンライン課程に力を入れている。
(そこを無視してMOOCsを革命だなんだと騒ぐ向きの多いことったら!)
それでは ”online degree program” で検索してみよう。
英語さえできればいくらでも学びの場が広がっている。金もあればなお可。
追記:オンライン課程をディプロマミルと混同するナイスボケなトラバいただきましたが、
当然ここではaccreditedな課程の話をしてるのよね。
ただ、多くの人が大学に求めるのは、通信教育だけじゃ埋められないものだったりする。
それは実物に触る実習だったり、対面で先生に対して疑問をぶつけることだったり、
先生が出した難題にクラス全体で知恵を共有してチャレンジすることだったり。
擬似的にオンラインで体験できるかもしれないが(まだ)本物とは程遠いもの。
ここ、何とかならないものかね。