はてなキーワード: 1939年とは
五十噸の補助機関つき帆船で海峡植民地から東インド約二ヶ年の予定で一周しようといふ企てがある――計画者は神戸市元町三丁目近江一郎氏でボルネオやインドに久しく滞留、仏教を研究して最近帰朝した岡本春岳師ほか二名の同志の力を得、海外在留民を慰問し、病没者の展墓弔霊燈台守の慰問をなし、併せてわづか五十噸の小舟で南洋を一周すること自体によって海事思想の普及に資し、寄港地では新聞以外に故国の事情を知りたいと希望している人々のためには最近の東京風景や観艦式などの活動写真を見せるとともに故国の発展ぶりや近情を講演し、商品見本やカタログなどを配って行き、簡単な商品見本市を開き希望者には連絡の労もとり、各地にある日本人会の連絡をつけようといふのである。首唱者近江氏の厳父は日露戦役直後東京朝日新聞者がチャーターして満鮮巡遊団を企てた時のロセッタ丸の船長で、今年はその七周忌に当るので、亡父への供養の一端であると大した意気込みで、目下拓務省に補助の支出交渉中であるが、それが纏まり次第四五月ごろには壮途につきたいと、近江氏は語る。
『明中教育十年』より、「明石中學校十年史」の1932年2月1日の項。
直木由太郎編『家信 みとせのはるあき 上』より、1932年の「五月十六日 神戸より」。
臍主義者近江一郎君はまだ知らぬ人だが、其著「小舟を住家に南洋へ」は近来非常におもしろく感ふかく読んだ書物の一であるので一筆書いておく。
第一此書は君が鎮国丸という小船に乗じて南洋に向ふ途中、琉球近くの与論島に於て、船が暗礁に乗り上げ大破、九死に一生を得たこの死線突破の体験を本として、其遭難の顛末と共に南洋開拓に就て、かねて諸方面に就き自ら準備のために取調べた生きた心得の数々を教へ示さんとするもので、世に机上の空論は多くてもこの書の如く命をかけて出来た書物はまことに稀有と云ふべきで、この点に心ひかれるものがあるのである。
『楚人冠全集』より、1937年の杉村楚人冠「バルサ」という記事。
逓信省の船舶試験場で、近頃絶対に沈まない救命艇とかを作った。(中略)沈まない船といふのは、バルサを用材にして作ったとの事だから、何も今に始まった新案でも何でもない、現に私の友人がこれで救命艇を作って、特許を願ひ出た次第は、一昨年の十一月の「グラフ」に私が書いている。彼は特許が許されないので、気前よくその船を私に呉れて行ったので、私はこれを手賀沼に浮べて、時々漕いで出るのを楽しんで居る次第も、その時に書いた。この贈主の名を近江一郎といふ。朝日新聞社で明治三十九年の夏満韓巡遊の船を仕立てて、日本で初めて新聞社主催の団体旅行を企てた時、その乗艦ロセッタ丸の船長だった林橘治君が、即ちこの近江君の実父であった。
近江一郎の著書で、第一神戸中学校のおそらく1935〜1939年頃の同窓会報に掲載されたコラムを集めたものである。内容としては、神戸一中の卒業生がこんなにすごいことをやった、こういう面白いことをやった、といったもので、上記の「中村文夫(日本板硝子社長)」や「川西実三(埼玉・長崎・京都・東京知事を歴任)」なども登場する。卒業生には海軍関係者が多かったようで、特に奥田喜久司とは親しそうな書き方がされている。内容としては、笑いあり涙ありの平和なものだが、支那事変(日中戦争)が始まったことや、誰それが戦死したというようなことが書かれていたりもする。近江一郎自身のことはあまり触れられていないが、母親の名前が「朝子」ということ、娘がいて神戸の野田高等女学校に入学させたこと、第一次大戦の青島の戦いに従軍していたこと、などが書かれている。
1959年『新民』より、寺岡謹平「祖国の礎 特攻観音の縁起について」という記事。
昭和二十一年から、神戸の人近江一郎という老人がおりまして、南洋で貿易をしておったのでありますが、戦争がたけなわになりますと、日本の航空隊では油がだんだんなくなる。潤滑油をなんとかして作ろうということで満州にわたって白樺から潤滑油を作る研究に目鼻がついた、ということを軍令部に進言致しました。そのときには戦争が終ってしまったので、戦争に敗けたのはわれわれ国民の協力が足りないため、ということを考えまして、なんとかして戦死した御霊をなぐさめたいということで、まず特攻隊の遺族を弔問しよう。御霊に参拝しようという念願を立て、二十一年二月から、全国、北は北海道、南は九州のはてから、ずっと単独で廻って歩いた。
(中略)
はじめのうちは簑笠にカーキ色の服を着た坊さんが現れると、これは押売りか物貰いだろうと思って、虐待された。いろいろ考えた末、各県の世話課に頼んで遺族の住所を調べ、予め紹介してもらって参りました。そこで今度は順序よく運んだ。行くと、先ず以て仏様の前にいってお経を読んで焼香をする。そして般若心経を半紙に書いたものを一枚奉納する。
これは神戸の友人で美田禾山翁という書家がおりまして、その人の仏心で般若心経を沢山書いてもらった。海軍特攻隊の遺族は、二五二五名おりますから、美田先生も老齢ではあるし、耐えられなくなった。そこで誰かに書いてくれということで、私も何百枚か依頼されましたが、電報で何枚どこそこに送れと、こういうふうにくる。
(中略)
そういうものをお土産にもって廻って、六年間というものは休みなく廻りました。とうとうしまいには病気になりまして、二十七年一月二十一日に亡くなられた。その間に約一、九〇〇名の遺族を弔問しております。残ったのは東京と東海北陸の一部で、東京都を最後に残したのは、終ったところでお上に特攻隊の遺族の状況を奏上する、というのが狙いでございました。
『吉川英治対話集』より、1959年の対談での吉川英治の発言。
近江一郎という無名の人がいるのです。軍に徴集されて、なにかのことで満州で塾長をしたのです。開拓民の塾長じゃないかと思うのですが、終戦になってこっちに帰ってきて、さる人の紹介で、私が吉野村に疎開していたときに、杖をついて帰還者の服を着たままでやってきましたよ。そのころ、もう年齢は六十近かったでしょうか。
「いったい君はなにして歩いているんだ?」
「私は帰ってきて、たくさんの死んだ兵隊たちの家を一軒一軒歩いて、そうしてそこに年寄がいたら、年寄を慰め、仏壇があったらお線香の一本ずつもあげさせていただくのを生涯の念願にしている」「収入というものはどうしているんだ?」「収入はありません」「じゃ、どうして食べている?」「子どもが一人あって、女房が神戸の区役所の人夫をしている」女人夫ですね。「子どもは小学校に行っている。お父さんは好きなことをしていいと言うから、私はそれをやる」それから復員局で住所を調べましてね、全国を歩いていました。ほんとうに驚くべきものですよ。あるときその男と話をしまして、こういうふうに戦死者の家を歩いていると、ずいぶんひどいことを言われることがあるでしょうといったら、はじめてその男が炉辺でボロボロ涙を流しまして、このごろは復員局で言ってもらえるのでわかってきたけれども、いちばん最初は九州、あのへんの山間を歩くんですね。なにしにきたとどなられる、弟を死なせたという兄貴がヤケ酒を飲んでいるところにぶつかって、「戦死したものの供養にきたと、それで死んだものが生きてかえるか」と上りかかったところを蹴落とされた。そんな目にも会いました。そういうふうにけとばされたり、つばをされたり、なぐられたりするたびに、「これは陛下の罪滅しになると思って私はしのんできました」というのです。
近江一郎というのは私の中学時代のなつかしい同級の剣友であるが、五年の時、神戸一中を去って大阪天王寺中学に転校し、偶然にも、草鹿さん(註:草鹿龍之介)と同級となり、いずれ劣らぬ剣友同士の間柄だったのである。
近江君と私は一年の時からの同級で、しかもふたりは一時、剣道部の両雄として互いにしのぎを削った間柄で剣友として忘れられない一人だが、まことに気骨のたくましい一風変わった偉丈夫であった。それかあらぬか、一時は満州国に行って馬賊になったとまでうわさされたのであったが、敗戦となるや、彼は決然起って、あの戦争末期の花形として雄々しく散っていった海軍特攻隊の遺族を尋ねて全国行脚の壮挙を思い立ったのである。
しかし何分にも当時世をあげて戦後の虚脱状態にあり、特別関係者以外はだれ一人としてこれを支援しようとする者はなかったが、彼は毅然として、すげがさ、負いずる姿のいでたちで、全く乞食坊主そのままの行脚を続け、全国にわたる戦没英霊の実家を歴訪してその冥福と遺族の慰問に精魂を打ち込んだのであった。
戦後の軍当局と連絡をとったものらしく、一地区ごとに行脚を終わると必ず大阪に私をたずねて来訪し、つぶさにその難行苦行の実情を物語ってその感想録と写真を見せてくれたものだが、ほんとうに涙なくしては聞くことも読むこともできなかった。当時在阪の草鹿さんともいっしょに、時々は三人で食事を共にして、近江君の労をねぎらい、かつ旅情を慰めたものであった。
私の中学校の後輩で近江一郎という男がいて、父親が船長だった関係もあり、南方の島の資源開発を思いたった。ここが素人の私にはわからないことだが、それには沈まない船をつくらなければならないというので、あちこちに設計を頼んだり資金の相談にきたりした。
この話を川西さん(註:川西清兵衛)が聞いて、近江君を助けてやろうということになったらしい。そして近江君の希望どおり不沈船が竣工して南方へ出発したと聞いた。ところが、どうしたわけか帰りがけに台湾沖で沈んでしまったという。なんともロマンチックな話だ。
いとこ婚(いとここん、英: cousincest)は、いとこ同士の結婚のこと。
いとこ婚の扱いは国家や民族、文化圏、地域社会によって異なり、いとこ婚を近親婚の一種と見なして忌避したり法律で禁じる場合も、法的に認められ一般的に行われている場合もある
日本では、4親等以上離れていれば直系でない限り親族同士の結婚も認められているため、いとこ婚が可能である[3]。古いデータではあるが、後藤源太郎の著書『近親結婚と母系制』に世界各地におけるいとこ婚の比率が記載されており、1931年(昭和6年)の東京市で4.0%、1949年(昭和24年)の長崎市で5.24%となっていた[4]。1914年 - 1919年のフランスで0.97%、1925年 - 1939年のイングランドで0.40%、1925年 - 1950年のアメリカ合衆国のボルチモアで0.05%となっており、欧米に比べれば高い[4]。ただし、1955年 - 1957年のイスラエル全土で5.22%と、当時の他の地域と比べて、日本在住の人々のいとこ婚の比率が突出しているわけではない[4]。なお、今日の日本では過去に比べいとこ婚の比率が減少したとされ、調査でいとこ婚の比率は全ての婚姻のうち1.6%だったという1983年の報告がある[5][6]。
イスラーム文化圏では地域によって異なるが、サウジアラビアなどではいとこ同士の見合い婚が多い。血縁が濃いことを良しとする文化があること、女性が顔を隠す服装をしているため男性にとって恋愛対象になり得るのが顔を知っている従姉妹に限定されてしまうことといった事情がある。また、預言者ムハンマドの第7夫人ザイナブがムハンマドの従姉妹であることも、いとこ婚が推奨される背景になっている。クルアーン(コーラン)に記述された、婚姻が禁じられた近親者の一覧[7]の中には、いとこは書かれていない。父方いとこ同士の結婚(ビント・アンム婚)は好ましいものとされており、特別な理由がない限り、女性が父方の従兄弟に当たる男性からの求婚を断ることができない、という慣習を持った地域も存在する[8]。
ヨーロッパの王族、貴族の間では、いとこ婚が頻繁に行われている(関連項目の例を参照)。しかし本来は教会法に反する近親婚に当たるとされており、カトリックの場合には教会から特別に赦免をもらい、逆に離婚時にはこれを理由に用いて結婚を無効にする、といったことが行われていた。
主な法制
→「近親婚」も参照
国にもよるが、いとこ婚(cousin marriage)は近親婚を意味し、その制限は近親度数に基づいて行われている。現在の近親度数の計算方法は、同じ祖父母を持つ子孫は近親度1度(いとこかその父母、first cousin)、同じ曽祖父母を持つ子孫は2度(はとこ、その父母・祖父母、second cousin)、同じ高祖父を持つ子孫は3度(third cousin)などとされている。
中世前期のヨーロッパはローマ帝国後期の慣習を引き継ぎ、カノン法に基づいて近親間の結婚を禁じていたが、次第に貴族氏族の近親関係が増えてゆき、最終的には限られた活動範囲で伴侶になる見込みのある相手を見つけることが容易でなくなった。例外的な婚姻(特免の結婚)やその婚姻による子を教会の保護対象とすることを認可されるには教会に莫大な支払いをする必要があり、その金額も次第に増加していった [11]。
1215年、第4ラテラン公会議は7度以内だった近親婚の禁止の度数を4度以内(6 - 16親等以内)へと下げ[12][13]、度数計算方法も改定した[14]。それまでの計算方法は、同じ祖先に行き着くまでの人数にそこから婚約相手までの人数を加える方式だったが、新法では単に同じ祖先に行き着くまでの数となった[14]。
1215年以降は、特免を受けずとも4度までは婚姻可能という習慣が一般的に普及し、近親婚の全体的な経費は下がった[15]。
19世紀になり女性の社会的な活動性が高まると、教会法に基づく規則は次第に廃れ、19世紀にはハンガリー、スペインでは特免は政府によって行われるようになった[16]。
1875年のチャールズ・ダーウィン(1809年 - 1882年)の試算によれば、イングランドでは1度の近親婚の割合は全体で3.5%、中流階級では4.5%だった。貴族階級の中では1819年生まれのヴィクトリア女王とアルバート王配との婚姻が傑出した例外となっているが[17][18]、20世紀にはいとこ婚の割合は1%にまで下がった[19]。
スコットランドの精神科医で学会副委員長のアーサー・ミッチェル(英語版)(1826年 - 1909年)は論文で、近親婚の子孫への悪影響に関するダーウィンやアラン・ハス(Alan Huth)の結論の大きな矛盾を指摘し、血縁の悪影響は適切な住環境によって部分的に解決ができるという仮説を立てたが[20][21]、実際にはそのデータは仮説を証明しうるものではなかった[22][23]。
2002年には『タイム』誌が、男女人口差による男性の結婚難によりいとこ婚が増加していることを報じた[24] 。
アメリカでは、いとことの結婚は25の州で禁止されている。また、別の6州では特殊事情の下でのみいとことの結婚が許可されており、例えばユタ州は双方の配偶者が年齢65歳以上もしくは年齢55歳以上で性的不能に関する証拠を持つ場合に限定して可能となっている。残る19の州およびコロンビア特別区では2008年現在、いとこ婚は制限無しで許可されている。
インドは多宗教国家であり、結婚する者の宗教により法律が異なる。異宗婚の場合に用いられる婚姻法ではいとこ婚を原則禁止としている。同宗婚の場合は各宗教の宗教法に従うため、イスラームなどではいとこ婚が可能である。
東・東南アジア
韓国は1997年まで3度以内の近親同士(高祖父母が同じ近親)の婚姻と、同姓同本(同じ苗字で、同じ本貫を持つ同士)間の婚姻を禁じていた[25]。今日でも民法により近親婚は無効や取り消しになりえるが、その婚姻中に妊娠した場合などについては例外を置いている。
台湾、北朝鮮、フィリピンはいとこ同士(1度の近親)の婚姻を禁じている[26]。
日本では上述の通り、近年は割合は下がっているものの、法的にはいとこ婚は認められている。
中国はかつて農業地域ではいとこ婚も行われていたが、1981年の婚姻法で禁止された[3][27][28]。 中国婚姻法(英語版)は男女が直系の近親にあるときと、傍系の近親であり近親度が3度以内のときの婚姻を禁じている[29]。
1885年に日本人移民制度が開始されて以来、移民会社は権勢を誇っていた
しかし米国はハワイを併合し、1898年移民条例が成立し、1900年、ハワイ移民は一切禁止されて終了
しかしアメリカ軍のケノン少佐は1903年、フィリピンの道路整備のために日本人移民を募集し始めた
多くの日本人移民会社は弁護士が経営しており、彼らは、フィリピン移民事業に殺到した
ミンダナオ島のダバオには日本人が増え、フィリピンの官営地を租借してマニラ麻の栽培を始めた
1906年に九州にブリヂストンが創立されると、日本人は英国マレーシアにも移民して、ゴム農園を開業した
はい、大ヒット作を一つだけ書いた作家は何人かいます。以下にいくつかの例を挙げます。
南北戦争を背景にした壮大なロマンスと戦争の物語。この作品は出版された直後からベストセラーとなり、1939年には映画化もされました。
南部の小さな町での人種差別と正義を描いたこの小説は、ピューリッツァー賞を受賞し、後に映画化もされました。なお、後に『Go Set a Watchman』という続編が発表されましたが、これは『アラバマ物語』の草稿であり、厳密には二作目とは言えないかもしれません。
激しい愛憎劇を描いたこの小説は、ブロンテの唯一の作品です。エミリー・ブロンテは1848年に若くして亡くなりましたが、この作品は今なお多くの読者に愛されています。
この風刺小説は、トゥールの死後に出版され、1981年にはピューリッツァー賞を受賞しました。トゥール自身は生前に出版を果たすことができませんでしたが、母親の尽力により世に出ることとなりました。
北欧諸国にもブルマーらしい写真を見つけることもできた、また、学校の体育で使われたと確認できるものもあった。
〇デンマークの学校教育では、1960年代から1980年代後半にブルマーが採用されている学校があった。また、レオタードを着用する例もあった。
〇スウェーデンの学校教育でも時期ははっきりしないが、ブルマーやレオタードが使われていた。
〇ノルウェーでは学校教育でブルマーの写真が確認できた。また、学校教育外ではへそ出しブルマー、ブラトップにブルマーが確認できた。
〇これは英国での影響かもしれない。英国では、学校教育で導入される以前の1930年代、1940年代から、Women's League of Health and Beautyなどで提灯ブルマーやショーツ型ブルマーが導入されていた。
https://www.youtube.com/watch?v=YmWYxulYQI4&ab_channel=BritishPath%C3%A9
https://www.youtube.com/watch?v=UbO9RAXHdHU&ab_channel=BritishPath%C3%A9
https://www.youtube.com/watch?v=HUrx29uQpwg&ab_channel=BritishPath%C3%A9
そして、これは知らなかったのだが、女性だけの場所では、へそ出しファッションもあったようだ。
https://www.youtube.com/watch?v=2k5uTySJO4w&t=28s&ab_channel=BritishPath%C3%A9
ちょうどビキニの水着が生まれた頃で、少しずつへそ出しの時代が始まっていたようだ。陸上ブルマ以前のへそ出しの存在には驚いた。ヨガと書いてあるが、す1956年代ににヨガが欧州に伝わっていたのが驚きだ。ヒッピーとかの時代だと思っていた。対し蟹欧州のインド研究の歴史は長いが、大衆にまで広がるのにはタイムラグがあったはずだ。いや、ここでヨガが伝わってヒッピーが育っていった?
〇フィンランドでは、女性のみの環境では1940年代から1950年代でブルマー姿になっている女性が見られた。また1970年代のブルマー着用者ではなく、ブルマーそのものの写真も見つかった。現代の学校では、スパッツやレオタードが選べるらしい。
〇アイスランドについては資料が少ないが、現代の生徒でジャージ以外にバレエみたいな恰好をしている例を見つけた。
さて、以前、調査は国ごとにまとめて行うべきで、地域を横断するのは雑になるのではないかと思っていたのだが、こうやってブックマークしておいた画像をもとに1つの記事にまとめると、北欧にはへそ出しがあるという意外な関係性がわかるメリットがあった。
女性だけの環境では、多少大胆な格好をしてもいいのだろうか。あるいは、屋内というか体育館限定なのかもしれない。
かつての記事では、女子は人前ではスカートだが、女子だけの場所ではパンツスタイルで運動したことを書いた。
それと関係しているのだろう。
もっとも、上のWomen's League of Health and Beautyでは、うら若き女性が人前で大胆なブルマーで開脚している。
これは女性の解放・自由・権利が、家父長制に逆らって好きな格好をするほうに向かっているケースで、マドンナやテイラー・スウィフトのレオタードにも似ている。
https://genxy-net.com/post_theme04/328116l/
https://pbs.twimg.com/media/F_vqDL8W0AABet_?format=jpg&name=large
では、韓国のブルマー同然の短パンで腰を振りながら歌う女性歌手は?
わからない。だが、女性が堂々と肌を見せる権利と、それが異性愛者の男性の欲望の対象となることで起きる緊張は、今にもつながっている。
だが緊張は常に悪ではない。そこから新しい思想、ファッション、表現が生まれていく。問題なのは無知や無理解、人格攻撃であり、批判は時には深い理解からなされることだってある。純粋理性批判だって、批判は肯定的な意味じゃない。何ができて何ができないか、境目を知っておくのは大切だ。
話を戻そう。
一方で、これが本当にブルマーだったのかは留保が必要な写真もある。というのも、ごく短いスパッツのサイズが合わず、結果的にブルマーのような形になってしまっていると解釈できなくもないからである(さっきの★をつけたデンマークの写真や、☆をつけたノルウェーの写真)。つまり、結果的にブルマーに見えているだけで、最初からショーツ型ブルマーとして裁断されているわけではないのかもしれない。提灯型ブルマーかはっきりしない写真もある。
今後は他のアーカイブサイトを横断し、さらに事実確認を続けていく必要がある。
今回見つけたのは、例えばデンマークでは第二都市オーフスのアーカイブだが、それこそ首都コペンハーゲンのアーカイブを探せばもっと当時のブルマが見つかるのではないか?
ノルウェーではオスロ博物館の情報もあったが、他の諸国ではどうか。
とはいえ、画像による調査に行き詰まりを感じている。幾分、事実確認よりも画像の狩猟に近づいてきているからだ。
なので、今後は各国の言語で「体操服の歴史」と検索して、それを読むことになるだろうか。
実際、英国やオーストラリアでのブルマーの展開については、個人の記憶や体験をもとにしたブログでの証言をもとにした記事もある。ただし、人口の少ない国では苦労するだろう。前にも書いたように、ショーツ型ブルマーそのものに特に名前がなく、短パンやスパッツの一種ととらえられているとしか思えない国もある。
また、リンクの途切れたバルト三国についても、画像を探し直すやもしれない。
そう、過去の記事を見るとすでにいくらかリンク切れができている。だが、魚拓を取るのも面倒だし、どのリンクが死んでいるかを何十もある記事をさかのぼって調べるのもおっくうだ。
いつ上述の作業をしたり、続きを執筆したりするかは全くの気まぐれ、次回はいつになることやら。下手をすれば来年だ。それくらい面倒くさくなっている。というか、調べまくっていたらブルマがゲシュタルト崩壊を起こしてきた。あの頃のブルマーってあんなにハイレグだったっけ?
資料の豊富にある英語で調べた、ブルマー以外の服や手塚ブッダのおっぱいのほうがしっかりと調べ物をした実感もあるし、バズる。
けれども、少しずつはてな匿名ダイアリーでブクマを稼ぐことへの執着が前よりもさらに薄れてきており、調べものをしても増田に書くかどうか、日々怪しくなっているのである。
やるとしたらトップレスやへそ出しの歴史か、しかしそれもウィキペディアの丸写しになりそうなので、何か別の資料がいる。
それではまたどこかで会いましょう。
イギリスでも学校教育でブルマーが導入される前に、女性だけの集まりでブルマーを採用している例があった。おそらくそれとパラレルなのだろう。
Women's League of Health and Beautyについてはこちら。
https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2011/jan/02/prunella-stack-obituary学校教育外の1939年のショーツ型ブルマーだ。
実際、以前書いたアメリカのブルマーやロンパースーツの記事では、女子だけの場所の服装ってのもあった。
https://thistedbilleder.dk/index.php?pr=101&n=745&img=10150&p=31
……おっと、デンマークのが混在していた!
https://digitaltmuseum.no/021015459515/barn-pa-skolen-jenter-gymnastikk
☆提灯ブルマーとショーツ型ブルマー(右から2番目の人物)の混在。年齢的に、学校教育のブルマーだと確実に言えるのはこれだろう。
男子生徒の体育が上半身裸であったケースは多々あるが、へそ出しというのは珍しい。
https://digitaltmuseum.no/021015859174/johannes-skole
https://digitaltmuseum.no/011012908903/gymnastikk-ved-lademoen-skole
https://digitaltmuseum.no/0210113541906/mensendieckgymnastikk
このサイトは、ノルウェーの各地の美術館のアーカイブを横断的に検索するものらしい。左上に表示されているのは、データのある博物館・美術館の名前だろう。
ブラトップとブルマーの組み合わせが陸上ブルマよりも前にあったのには驚いた。
なお、これは愚痴だが、言語学的な類似があるためか、ノルウェー語で調べ物をしていても、上述のようになぜかドメインdk、つまりデンマーク語のサイトばかりヒットした。
スラブ系の言葉でも似たことが起きていて、同じキリル文字を使っているせいか、バルカン半島の言葉で調べていても、なぜかロシアのサイトばかりヒットするのである。
続きはトラバに。
地上波テレビ、しかも紅白の内容が気になっているおっさんなんて、意識高いはてな村においては最下層の人間として軽蔑されるのだろうが、気になるものは仕方ない。
何が気になっているがといえば、今年の紅白で朝ドラをどう扱うかということだ。
地上波など愚民の見るものと見下して知らない人のために説明すると、紅白では毎年、朝ドラは重要なコンテンツで、主題歌は優先的に選ばれるし、朝ドラの登場人物が応援に駆けつけたり、以前は『あまちゃん』の特別編的なものを展開してみたり、まあいろいろな取り組みをしてきたわけである。
で、今年の下期の朝ドラ『ブギウギ』であるが、笠置シヅ子の生涯を下敷きにしたこのドラマ(ドラマでは福来スズ子)、わりと評判がいいらしい。
なにしろ歌手の生涯の話だから、舞台の歌唱シーンに力が入ってる。そして主役のスズ子を演じる趣里が、なかなかに好演している。
この人は水谷豊と伊藤蘭の娘というバリバリの2世なのだが、もともとバレリーナ目指して挫折した過去があるそうで、女優に転身してからも親のゴリ押しを使った印象が希薄なところが、好感を呼んでもいるようだ。
映画に出てもないうちから映画賞もらったり、なぜかブランドアドバイザーを歴任してたりするどこぞの誰かとちがって、ご両親もしっかりしているのであろう。
ドラマではいい感じに10代から演じていて、とても33歳には見えない。母親役の水川あさみとは実年齢が7歳しか違わないのに親子に見えている。
で、ドラマでは初回で『東京ブギウギ』の公演を再現してみせ、歌唱力もあるところを見せつけて、これはそのまま紅白の企画として使えそうなクオリティであった。
で、今週は、育ての親である服部良一(ドラマでは羽鳥善一)とであって、服部良一・笠置シヅ子としての最初の曲である『ラッパと娘』が大好評になる、というくだりだったが、これもなかなか良かった。
5分の朝ドラで全曲フルコーラスのステージをそのまま流すのは、わりと思い切った演出だと思うが、制作側も趣里の歌手としての実力に信頼をおいているからこそ、だろう。
この『ラッパと娘』という曲、昭和14年(1939年)の日本の曲とは思えないおしゃれな曲なので、知らない方はぜひ聴いてみてほしい。笠置シヅ子のオリジナルも含めてYouTubeにいくつも上がっている。作詞も服部良一だそうだが、変に抒情的な意味などなく、“みんなこの歌歌えば楽しい”くらいの内容であとはスキャット主体なのもかっこいい。日本がアメリカと戦争始める数年前は、まだまだこんな“敵性音楽”が普通に劇場でやれてたんだなあという軽い驚きもある。
で、これを紅白でどう盛り込むのかと考えると、気になるのは羽鳥善一(服部良一)役が、草彅剛ということなのだ。
なにしろ笠置シヅ子の育ての親であり、今週のドラマでも羽鳥善一がノリノリで指揮するバンドをバックに歌うステージが展開されていた。
紅白に趣里を出して企画やるなら、やはり羽鳥善一(草彅剛)も一緒に出ないとすごい不自然なことになるだろう。
おそらく今、NHK内部でいろんな駆け引きやら調整なら行われているのだろうが、堂々と草彅剛を紅白のステージに出したら、ちょっとNHKを褒めたい(←謎の上から目線)
https://www.l.u-tokyo.ac.jp/tokyo-ias/nihu/publications/mers03/mers03_fulltext.pdf
1915/01 H.サミュエル「パレスチナの将来』メモ一一英国保護下ユダヤ・コモンウェルス
ttps://en.wikipedia.org/wiki/The_Future_of_Palestine
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Balfour_Declaration
ttps://en.wikipedia.org/wiki/San_Remo_conference
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Churchill_White_Paper
パレスチナをユダヤ人国家にするとは言ってない。移民は経済が吸収出来る範囲で。
1929/08/23-29 西の壁事件 J133人、Ar.116人死亡
ttps://en.wikipedia.org/wiki/1929_Palestine_riots
嘆きの壁をめぐるデモからアラブとユダヤ人が衝突。ユダヤ人にとって第二神殿の遺跡、アラブにとってアルアクサ・モスクの一部。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Passfield_white_paper
1931/02/13 マクドナルドの BlackLetter
ttps://en.wikipedia.org/wiki/MacDonald_Letter
1936/04/25 アラブ高等委員会結成、全Pスト委員会設置 ゼネスト開始、ゲリラ戦広がる
ttps://en.wikipedia.org/wiki/1936%E2%80%931939_Arab_revolt_in_Palestine
太字じゃないけど重要なので。
1937/07/07 ピール報告書公表 -JA執行委員会「検討する」
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Peel_Commission
委任統治は実行不能、分割勧告。分割内容の評価は色々な立場があるんじゃないでしょうか。
1937/10/01 アラブ高等委員会非合法化/ハッジ・アミーンSMC議長解任 ゲリラ戦再発
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Arab_Higher_Committee
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Supreme_Muslim_Council
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Woodhead_Commission
ttps://en.wikipedia.org/wiki/White_Paper_of_1939
バルフォア宣言のナショナルホームは国家ではない。マクマホン書簡にパレスチナは含まれない。10年以内にパレスチナ国家樹立。移民・土地購入制限。
1939/08/16 アメリカにシオニスト緊急委員会設立決定
American Emergency Committee on Zionist Affairs
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Biltmore_Conference
"that Palestine be established as a Jewish Commonwealth."ニューヨーク開催。無制限移民を求める。1939年白書を拒否。
1943/08/29-09/02 全米ユダヤ会議、ピルトモア綱領採用
ttps://en.wikipedia.org/wiki/American_Jewish_Conference
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-American_Committee_of_Inquiry
10万人の移民。土地譲渡規制撤廃。パレスチナはユダヤ人国家でもアラブ人国家でもない。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/United_Nations_Special_Committee_on_Palestine
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Ad_Hoc_Committee_on_the_Palestinian_Question
もう滅茶苦茶だよ。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Andrei_Gromyko#United_Nations
1947/11/29 国連総会181号決議 ⇒パレスチナ内戦勃発
ttps://en.wikipedia.org/wiki/United_Nations_Partition_Plan_for_Palestine
この数十年だけの問題じゃないんだよ、某放送局の掻いつまんだ説明を少しは読んでみてほしい。
...
パレスチナ問題がわかる イスラエルとパレスチナ 対立のわけ
どうしてイスラエルはこの土地で建国されたのか。それを知るには、2000年前に歴史を遡る必要があります。
イスラエル建国までの歴史
70年 |ローマ軍がユダヤ人の王国の神殿崩壊 2世紀前半 |「ディアスポラ」本格化 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1897年 |第1回シオニスト会議 1914年 |第1次世界大戦始まる 1915年 |フセイン・マクホン協定(アラブ人に独立国家を約束) 1916年 |サイクス・ピコ協定(英仏が中東を分割支配する密約) 1917年 |バルフォア宣言(ユダヤ人に国家建設を支持) 1933年 |ナチスが政権につく ホロコースト=ユダヤ人の迫害・虐殺 1939年 |第2次世界大戦始まる 1947年 |国連でパレスチナ分割決議採択 1948年 |イスラエル建国
パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありました。しかし、この国は2000年ほど前にローマ帝国に滅ぼされてしまいます。このとき、ユダヤ人は、パレスチナを追い出されて世界に散り散りになります。これを「ディアスポラ」と言います。
その後パレスチナの土地の支配者は、歴史に応じて変わっていきますが、アラブ人、今で言うパレスチナ人が住み続けることになりました。散り散りになったユダヤ人はヨーロッパや中東、アフリカで暮らすことになります。ただ、特にヨーロッパでは差別や迫害に苦しむことになりました。ユダヤ教の国で新しい教えを広めたのがイエス・キリストです。彼はユダヤ教の聖職者たちと対立し、十字架にかけられてしまいました。このため、のちにヨーロッパでキリスト教が広がると、ユダヤ人はキリストを処刑した人たちとみなされ、差別や迫害の対象になってしまいます。ユダヤ人はそれぞれの土地で、普通の人がなかなか就かないような仕事に就かざるを得ませんでした。その代表例が金融業です。やがて金融業の需要が増すにつれ、その土地土地で富を握るようになります。また、昔から自分たちの宗教を守るのに熱心で、子どもの教育にも力を入れてきました。識字率が高く、知識階級の中でも影響力を持つようになります。いろいろなことが重なって、疫病などの災難が起きるとユダヤ人を迫害する、という歴史が繰り返されてきました。
迫害が続く中、19世紀にユダヤ人たちの中で、かつて王国があったパレスチナの地に戻ろう、国をつくろうという運動が起こります。これを「シオニズム運動」と言います。それが現実化してくるのが第1次世界大戦の時です。イギリスが「ユダヤ人の国家建設を支持します」と約束して。ユダヤ系の財閥、ロスチャイルドから資金援助を引き出そうという狙いです。
...
大粛清(だいしゅくせい、露: Большой террор)とは、ソビエト連邦(ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代にソビエト連邦および衛星国のモンゴル人民共和国等で実行した大規模な政治弾圧を指している。スターリンからすれば、粛清とは、党の浄化を意味した
山本懸蔵(日本共産党員。1937年11月逮捕、1939年3月銃殺)、
伊藤政之助(日本共産党員。1936年11月逮捕、1937年銃殺)、
国崎定洞(ドイツ共産党所属でソ連に移住した元東京帝大医学部助教授。1937年8月逮捕、同年12月銃殺)、
1940年1月1日までにポーランドとフランスを降伏させれば達成できる。
1936年にポーランドに自力で正当化して1937年に併合、1938年〜1939年にフランス戦(連合国戦)やって降伏させて達成。
「ラインラント」は取らない。戦争することで非武装地帯が解除されるので自動達成できるため。
「四ヶ年計画」から始まる工場がもらえるツリーを適当に取る。あと「陸軍の諸改革」を取った。師団速度が上がる陸軍長官が好きなので。
政治力+15% の閣僚を二人雇ったらポーランドに正当化、という手順をやった。でもこれ、たぶん閣僚雇う前に正当化始めたほうがよかった気がする。その後は「労働条件の改善」をしたり、陸軍長官と空軍長官を雇ったり、「幻惑の紳士」を雇ったりする。
最初になんとなく民需工場を二つ建てて、あとはずっと軍需工場を立てた。たぶんずっと軍需でいいと思う。
歩兵装備の出る数だけ歩兵を徴兵する。ポーランド国境に並べる。開戦までに歩兵24師団の追加を目論む。
諜報機関設立して暗号部門を五つ強化するまで進めて、諜報員を二人出す。その後はしばらく強化しない。アンシュルスなど済んで民需に余裕が出来たら再開する。諜報員はポーランドに仕込む。
正当化が終わったらすぐに宣戦。東側飛び地の東プロイセン国境に24師団歩兵を並べておき、ここは動かさず固めておく。広い方の国境に歩兵24師団を並べて開戦と同時に突っ込ませる。戦車と騎兵は別の軍団にして、西プロイセンとダンツィヒに突撃して東プロイセンと繋ぎに行く。飛行機を全て西ポーランドに飛ばして補助。
海軍は特にすることはない。暇なのでバルト海で通商破壊したり機雷撒いたりしとく。
ある程度押し込んで東プロイセンと繋がったら、東プロイセンの軍団も南下を開始。ワルシャワとあと少しを押さえたらポーランドは降伏する。
講和会議では全併合する。国際緊張度が上がるが仕方ない。傀儡化するとたぶん実績が取れなくなる。(一敗)
「ラインラント」が自動達成できるので取る。「アンシュルス」が取れるようになったらすぐ取る。
その後は産業系を適当に取って内政。あらかた取ったら「東方地帯の再要求」の後、「ダンツィヒか戦争か」をポーランドがいないので自動達成、「マジノ線迂回」で開戦事由を取りに行った。でも NF で開戦事由取るより、自力で正当化した方がよかったような気もする。
ポーランド戦が終わったら諜報員をフランスに仕込む。「協力政府の作成」を一段階やって降伏を早めておく。その後はフランスの諜報網は休止、ベルギーとオランダに諜報員を入れて開戦に備える。
軍需工場や合成精製所を建てる。対仏戦直前は、レーダー建てたり対空砲建てたりしてた。
歩兵師団と軽戦車師団を適当に徴兵する。出せれば中戦車を出したかったが、間に合わなかったのでこれで押し切った。
NFで得た開戦事由で低地地方にまとめて宣戦。すると英仏が宣戦してくるので世界大戦勃発。歩兵師団を仏国境に並べて固めておく。マジノ線に突撃するのは無謀なのでここは動かさない。残りの歩兵師団と戦車師団を補給ができそうな数だけ低地地方に突っ込ませる。予備の師団はオーストリアで待機。
空軍は戦闘機を少しドイツ領の防空に配置し、残りを全部低地地方に飛ばす。
海軍は動かしてもボコボコにされるだけ。交戦を避けながら機雷を撒いたり、スペイン沖の深海でちょっと通商破壊したり位しかできない。
しばらくするとイタリアが枢軸に加盟してくれるので、すぐに予備師団を伊仏国境に貼り付ける。準備ができたらイタリアを参戦させて攻撃開始。
低地地方が終わったら南下。諜報網も再開。フランスの勝利点を少し取ったら降伏してくれて実績が達成できた。実績が取れたのでここで終わり。
original story as written by Hans Christian Andersen から リトルマーメイドになった時点では欧州大西洋(北部)の話だったみたいだが、2023版はカリブ海あたりに舞台が移されている
そこでは、ご当地風味の演出として民衆が出てくるミュージカルシーンで楽器「スティールパン」によって曲が演奏されている
「BGMにスティールパンの音がする」ではなく、明確に人間族がスチールパンを叩いている映像が見られる
スティールパンは白人の奴隷抑圧、から生まれた楽器なのは譲るとして
「トリニダード・トバゴはイギリス領となりましたが、黒人奴隷たちの待遇は相変わらず最悪なもので、しばしば植民地の政府や警察相手の暴動が発生。
その発生は「カーニバル」の時期に決まって起こっていました。
キリスト教の謝肉祭の文脈と、アフリカの楽器を用いた祝祭の伝統が融合してできたものなのですが、興奮して盛り上がりすぎて日ごろの鬱憤が全部出てしまい、暴動に発展するケースが多々あったのです。1880年、イギリス植民地政府は「カーニバル暴動」を取り締まるため、金属の棒を用いるパーカッション音楽を全面禁止にしてしまいました。
黒人たちは、竹の棒を使ってフライパンやドラム缶を叩いて音楽を楽しみ始めました。それをタンブー・バンブーといいますが、しばらくしたらそれすら当局によって禁止されてしまいます。」
「1939年、ウィンストン・スプリーという人物がボロボロになったドラム缶を叩いて直そうとしたところ、凹んだ箇所によって異なる音が出ることを発見。スティールパンの元となる楽器を偶然生み出し、一躍黒人の間に広まります。
これが有名になったのは1941年。」「このような発展から「20世紀最後にして最大のアコースティック楽器発明」と呼ばれており(要出展)」
スティールパンが存在するのは、本来ならば20世紀以後。現在も職人の高度な技術によって製造されている。
馬車と帆船が移動手段なのにスティールパンが存在するリトルマーメイド世界は、幕末にシンセサイザーを演奏する武士がいる江戸みたいな世界だということになる。(BGMにシンセサイザーの音が聞こえる映画ではない)(自動車は19世紀には実用化されている)
トップ10に昭和(1926年~1989年)のコンテンツが6本
もう終わりだよこの合衆国
| 1 | Top Gun: Maverick (トップガン マーヴェリック) | $718,732,821 | 1986年の映画『トップガン』の続編 |
| 2 | Black Panther: Wakanda Forever (ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー) | $429,946,777 | 1966年登場のアメコミキャラ |
| 3 | Doctor Strange in the Multiverse of Madness (ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス) | $411,331,607 | 1963年登場のアメコミキャラ |
| 4 | Jurassic World: Dominion (ジュラシック・ワールド/新たなる支配者) | $376,009,080 | 1990年の小説および1993年の映画『ジュラシック・パーク』の続編 |
| 5 | Minions: The Rise of Gru (ミニオンズ フィーバー) | $369,500,210 | 2010年開始の映画シリーズ『怪盗グルー』のスピンオフ |
| 6 | The Batman (THE BATMAN-ザ・バットマン-) | $369,345,583 | 1939年登場のアメコミキャラ |
| 7 | Thor: Love and Thunder (ソー:ラブ&サンダー) | $343,256,830 | 1962年登場のアメコミキャラ |
| 8 | Avatar: The Way of Water (アバター:ウェイ・オブ・ウォーター) | $317,418,839 | 2009年の映画『アバター』の続編 |
| 9 | Sonic the Hedgehog 2 (ソニック・ザ・ムービー/ソニック VS ナックルズ) | $190,872,904 | 1991年登場のゲームキャラ |
| 10 | Black Adam (ブラックアダム) | $163,506,640 | 1945年登場のアメコミキャラ |
出典: Domestic Box Office For 2022 - Box Office Mojo https://www.boxofficemojo.com/year/2022/?grossesOption=totalGrosses
過去いろいろな座り込み運動と呼ばれる行為が行われていたが必ずしも24時間座っていたわけではなく、24時間座ることが定義ではない
(3011日もの長い時間をアピールするなら、日中くらいはいてほしいのは分からんでもない)
公民権運動としての座り込みのもっとも初期の一つが1939年(所和14年)アメリカアレクサンドリア図書館の座り込みは
一般の単語のため他の多くの一般的な用語と同様に厳格な定義は存在せず多くの定義があるが
おおよそ纏めると、伝統とは、過去に行われた習慣や物等を指し、ある世代から次の世代に教えられることによって、現在も相続されているソレ
いずれも何年以上立たなければ伝統ではない という定義はなない
(世代間で継承されたそれを伝統と呼ぶんだから、親子2代で伝統たりうるんだけれど、3代くらいは続いてほしい)
(世代間の交代が1年毎に行われる学校とかだと数年で伝統になったりもするs)
伝統に訴える論証
「それは〇〇の定義により伝統ではないから~」という伝統でない事でもって否定するのではなく
伝統であることはその主張の正しさをなんら保障しない。伝統ではなく明確なエビデンスをもってその主張の正しさを証明せよ
そもそもの問いの立て方が間違い(酷いストローマン)。ホロコーストでのユダヤ人の犠牲者は、大雑把に言えば、アウシュヴィッツで100万、その他の約四箇所(マイダネクは少ないので計算から除外)の絶滅収容所で200万、ソ連等のその他の地域での虐殺で150万、ゲットーや強制収容所などで100万、その他50万、合計で600万人と言ったところ(繰り返し言うがかなり大雑把)。つまり、ホロコーストの象徴になっているアウシュヴィッツでは約100万人なので、それを6倍もストローマンした虚言・戯言である。
また、アウシュヴィッツでさえ「骨まで残さず焼却した」だなんてことはない。むしろ、非常に荒っぽい不完全火葬で、細かい話だが炉の中の死体を載せる格子から下の灰皿に落ちた残骸は、掃き出してランマーで細かく砕いて、集めて近くの川に捨ててしまったのである(司令官を含む複数証言)。他のヘウムノなどの絶滅収容所では焼却後、粉砕機を用いて骨類は砕き、周辺の土地へばら撒いた。また、犠牲者数こそ数万と少ないものの、マイダネク収容所には大量の遺骨が残っていた。「Majdanek bone」とすればその画像が得られる。
もしそうならば、確かに、大雑把に絶滅期間を500日とすると、十万体しか処理できないことになる。しかし、それは明らかに嘘である。何故ならば、別の収容所であるマウトハウゼン強制収容所の衛星収容所であるグーゼン収容所では、一基の火葬炉あたり、1日あたり20体以上の火葬をしていた記録が残っているからである。アウシュヴィッツには絶滅の現場であるビルケナウだけで46基の火葬炉(マッフル数)があり、1日あたり少なくとも900体処理できたことになって、500日なら45万体である。それでもまだ半分以下だが、アウシュヴィッツでは実は一体ごとに火葬するなどと言う丁寧な火葬などせず、複数遺体を同時に火葬していたので、能力自体はもっと増える。それに、ビルケナウの火葬炉はトリプルマッフル炉や八連マッフル炉になっていて、遺体を入れて火葬する場所が内部で繋がっており、高温を維持しやすい構造となっていて、連続焼却を前提とした構造だった。民生火葬場とは全く違い、遺骨を遺族に返却する必要はなかったのだ。(あっても、適当に遺族に誤魔化して骨壷に入れて渡した)さらに、犠牲者が多かった時期は、野外焼却を実施し、司令官のヘスは自叙伝で「ほとんどの火葬は野外焼却となった」と書いている。以上、百万体程度は十分可能だった。
実は、アウシュヴィッツの火葬炉は、最初の二日間程度、炉内を高温化するためにコークスが必要だっただけで、遺体の火葬自体にはコークスはほとんど必要なかった。何故ならば、複数遺体を同時に連続的に火葬していくので、それらの遺体自身が燃料化したからである。燃えにくい痩せてガリガリの遺体の場合にはコークスは追加されただろうが、太った新鮮な遺体(つまりは収容所に収容されずに即日ガス室で殺された人)ならば燃料替わりにさえ使われた。これらについての細かい技術的な話は、遺体処理を担当したゾンダーコマンドだったヘンリク・タウバーの証言を読むといい。
アウシュヴィッツの様々な議論(9):証人の宣誓供述書1:ヘンリク・タウバー|蜻蛉|note
青酸ガスの爆発濃度下限値は56000ppmであり、人間の致死濃度はせいぜい2000ppm程度(一般には300ppmとされるが諸説ある)である。いずれにしても、ガス室内だけの話であり、ガス室外に漏れ出したとしても、濃度は低下してしまうため、引火の危険があるとは考え難い。否定派は、シアン化ガスの「濃度」を無視する傾向がある。実際には例えば、10ppm程度だと致死に至る可能性は極めて低い。そもそも青酸ガスの元であるチクロンBは害虫(及び害獣)駆除剤であり、害虫駆除作業で使える程度の安全性がなければ使えなくなってしまって全く意味がない。なお、詳細な話をすると、この火葬場の隣のガス室は、アウシュヴィッツのメイン収容所にある、現在でも観光用に公開されているガス室(第1ガス室)のことであり、ユダヤ人絶滅の現場であるビルケナウのガス室のことではない。流石に第1ガス室で処刑最中には、隣で火葬作業をしていたとは思えない。そこでは毎日稼働させるような大量の処刑はしていなかったからである。ビルケナウのガス室では、火葬場はガス室から離れていたので、引火の危険性を考えること自体おかしい。
遺体搬送の働き手は、いつ死んでもいいユダヤ人のゾンダーコマンドである。また、20時間の換気は、ディゲシュ社が想定した害虫駆除作業箇所でのものであり、様々な場所を想定した上での安全性を配慮しただけのことであり、必要十分な時間よりかなり長いマージンをとっている。しかしアウシュヴィッツのガス室は、室内はガランとしたただの空間であり、致死濃度でさえなければ、あるいはガスマスクを使用していれば、少なくとも死ぬ危険はなかったのである。実際、何人かのゾンダーコマンドの証言ではガスマスクをつけていたとの証言がある。十分な換気能力の換気装置のあったガス室と、自然換気で行ったガス室があったが、生存者証言によるとわずかに体調を崩した程度の証言があるのみで、死者があったと言う証言はない。また、非常に細かい話としては、地下型のガス室になっていたクレマトリウム2や3では、金網投下装置なる特殊なチクロン投入装置があり、これを利用してユダヤ人殺害を確認したのち、ガスを放出し続けるチクロンBを容器ごと天井から引き抜いたため、「ガスを放出し続けるチクロンB」の問題はなかったのである。
それは、ロイヒターやルドルフは、殺人ガス室とされた場所には存在していない、(シアン成分が鉄分と結合して化学変化した長期的に安定的な)プルシアンブルーを害虫駆除室で試料採取し検量したからである。プルシアンブルーが、青酸ガスが使われたら必ず発生するという証明は一切されていない。その上、害虫駆除室の壁面をよく見ると、プルシアンブルーのある場所とない場所がはっきり分かれており、これは青酸ガスが存在してもプルシアンブルーが発生しない場合があるという証明になっている。プルシアンブルー以外のシアン化物質成分は、非常に水に流出しやすいことがわかっている(ビルケナウのガス室のあった火葬場は全てダイナマイトで破壊されており長年に渡って雨曝しだった)。さらに、害虫駆除室と殺人ガス室におけるチクロンの使い方は、その残置時間が全然異なる。害虫駆除ではシラミはなかなか死なないので、通常は丸一日の燻蒸を行ったのに対し、殺人ガス室では証言によるところ、せいぜい三十分以内であった。死体の火葬処理の方に時間がかかるため、一箇所のガス室での集団処刑はせいぜい1日に一回、多くても2回が限度だった。したがって、殺人ガス室の後とされる場所にプルシアンブルーが生成されていなくても、何ら不思議はない。以上のことから、プルシアンブルーを含めない検査方法でなければインチキである。それをやったのが、ポーランドの公的機関であるクラクフ法医学研究所であり、結論として殺人ガス室があったとみなして良い結果を得たのである。
ロイヒター&ルドルフレポートに対抗したクラクフ報告とは。|蜻蛉|note
野外焼却の証拠は、まず司令官ルドルフ・ヘスの自叙伝に記載されているものがある。他にも複数人の証言がある。また、1944年中の米軍による航空写真にそれら証言が伝える場所での煙が写っている、さらにはユダヤ人ゾンダーコマンドによる極秘に取られた焼却中の写真もある。さらには1960年代に行われた民間会社による野外火葬場所の発掘調査で遺灰などが発見されている。否定派は、「アウシュビッツに焼却用の燃料がなかったこと」「どのくらいの燃料が必要だったかの客観的根拠」など、否定すべき内容についての証明を一切行っていない。なお、アウシュビッツ・ビルケナウ収容所は、十万人規模の囚人と二千人規模の親衛隊員を有する巨大施設であり、燃料不足で燃料を使わずに活動・生活していたなど信じ難い。ユダヤ人絶滅は「総統命令」として実施されており、極秘作戦だったから、遺体の証拠隠滅も必須であり、戦争遂行と同じであって、何が何でも実施したであろうことは想像に難しくない。彼らは命令で動いていたのである。否定派は、何故ユダヤ人絶滅をやっていたのかを全く考慮していない。戦況が敗戦必至になって、絶滅作戦が中止されたが、それもまた親衛隊トップのヒムラーの命令であった。
今更何を……。[しかしいまだにアンネの日記のデマはツイッターなどでしばしば流れる]
Twitterホロコースト否定論への反論(18):アンネ・フランクの日記|蜻蛉|note
昔からあるアルマナック・デマと呼ばれる既に何度も論破された愚論。戦後のセンサスがアルマナックに反映されるのは1949年まで待たなければならない。それまでは、単に1939年の値からの推計値を記載していたのである。また、ニューヨークタイムズは後日、その数字を1200万人に訂正している。
ダッハウに米軍が入った時、大量の囚人の死体があったのは周知の事実である。ガス室のあった建物であるバラックX周辺にも遺体が山積みとなっていた。そして「浴場へ」と書かれた看板のある、ダミーシャワーのついた謎の部屋……、戦時中からドイツ軍がユダヤ人のガス処刑をしていることは広く連合国側に伝わっており、これらの状況からダッハウのガス室で大量虐殺をしていたと誤解しても致し方のない状況であった。米軍は当初勇足で「ダッハウのガス室での大量虐殺」を報告してしまった。しかし、直接的な目撃証言や裏付けのある証拠が当初は見当たらず、ガス室でのガス処刑があったとは言えないとわかるのは1960年代まで待たなければならなかった。のちに僅かな目撃証言と文書資料が見つかったが、裏付け能力に乏しく、「実験的なガス処刑があった可能性がある」くらいしか言えない。いずれにしても、歴史的事実がさまざまな調査研究により、後々になってより詳しく判明していくのは当たり前のことである。とくにおかしいところはない。
知らんがな。確かにNHKの番組ですら誤ったホロコーストの内容を伝えていることはある。実は著名な研究者ですら、非常に細かいところで誤った記述をしていることもある。しかし、日々のニュースでさえも、「先ほどのニュースの中に誤りがありました。訂正してお詫びします」を聞かない日はない。人は誤りを犯す生き物である。それが何か?
……ほんとにネット界隈(特にTwitter、Youtubeあたり)は修正主義支持者が多いので、誰か手伝って欲しいくらいなんだ……
いま、ウクライナにおける市民の損害は図形構造的進捗を見せており[和訳者註: 多角形に拡大しているということか]、我々への抵抗は強まるのみである。歩兵による市街への進入はすでに試みられており──20の空挺集団のうち、"限定的"成功を収めたものは一つのみである。モスルの侵攻を思い出してほしい。これは法則である──すべての国家で発生する。新しいものではない。籠城戦をする? ヨーロッパにおける直近の十年紀において──セルビアが最も好例であり、都市は籠城下においても年単位で機能を維持できる。ヨーロッパからの人道的支援車列は時間の問題である[5]。我々の条件的締切日は六月である。条件的というのは六月にはロシア経済は存在しないからである──何も残らないであろう。概して、来週には(ロシアにおいて)、二大勢力(主戦と反戦)のいずれかで崩壊が起きるであろう、単純に現在の緊張は持続不可能であるからである。我々は何らの分析も持たず、我々はこの混沌への予報を出せず、誰も何も何らの確証を持って言うことはできない(ロシアにおいて)。
直感に頼って行動するのであれば、そして高ぶった感情とともにするなら、それがポーカーゲームということにはならない。しかし我々はなんらかの選択肢が奏功することを祈って賭金を積み増すしかない。これにおける悲劇は計算違いを起こして全てを失うことは容易にあり得るということだ。概して、ロシアに出口はない。勝利の可能性のある選択肢はなく、敗北しかない──ここが瀬戸際だ。(英訳者註: 休憩。続きはあとでやる)(英訳者註: 続きの後半はもっと面白く、前向きなおどろきで終わる)
100%、我々は前世紀の過ちを繰り返したのだ、"弱い"日本を足蹴にして素早い勝利を得ようとして、わが陸軍がまったく壊滅状態にあることが判明した時の。そして我々は勝利まで戦い、そしてボリシェヴィキを陸軍で再教育のため徴兵した。そしてこれらかろうじてもののわかるボリシェヴィキどもは反戦標語を拾い上げあのようなことを始めたのだ…… :kyoumokawaii:
前向きな点の中から: 我々は懲罰部隊を前線に送ったようなことは徴候もないようあらゆることをなした。もし政治犯や社会的不要分子を徴兵したならば陸軍の士気は負の領域に入る。
敵(ウクライナ)は動機付けられている。怪物のように動機づけられている。戦いを知り、潤沢に有能な指揮官をもつ。彼らには武器と支援がある。我々は単純に人的破局(human catastrophe)の先例を樹立するであろう。
我々が最も恐れていることとは: 首脳部は古い問題を新しい問題で覆い隠そうとしている。大まかにこの理由により、2014年にはドンバスが起きた──我々は西側に対してクリミアでのロシアの春を攪乱せねばならず、ためにドンバスのいわば危機が西側の注意をすべて引き付けてくれねばならず、そして交渉材料になったのだ。しかしさらに大きな問題がそこで起きてしまった。そして我々はエルドアンにサウス・ストリーム(ガス)から4本のパイプを引き込むよう圧力をかけることを決断してシリアへ進入した。これはスレイマニ([イラン・]イスラム革命防衛隊)が自分たちの問題解決のため我々に意図的に誤情報を渡した後のことだ。結果として、我々はクリミア問題を解決することができず、そしてドンバス問題も去ることはなかった。サウス・ストリームは2本パイプに後退し、シリアは[和訳者註: ロシアの支援に]ぶら下がっている──我々が去ればアサドは転覆し我々はまぬけに映り、とどまることは難しくまた要点をなさない。
筆者はなにものが"ウクライナ電撃戦"を考えついたのか知らない。我々があらゆる事実の入力を受け取っていたならば、我々は最低限でも初期計画に議論の余地があり、大部分は再検討を要することを指摘していたであろう。大量の再検討がなされなければならなかった。
いまや我々は首まで[英訳者の表現]に埋まっており、我々は何をすべきかも理解していない。"非ナチ化"や"非武装化"は強固に定式化された変数をもちそれにより目的達成度を評価しえるものではなく解析的分類たりえない。[6] いまや我々は、いずれか精神的に破綻した助言役がヨーロッパに対して衝突を仕掛け、制裁緩和を要求するよう首脳を説得するまで待ったまま動けない状態にある──彼らは制裁を緩和するか、あるいは戦争になる。そしてもし西側が拒絶すれば? その場合において筆者は我々が、1939年のヒトラーのように真の国際紛争に引き込まれる可能性を排除しない[7]。我々の"Z"は鉤十字と等しくなるであろう。
局地的核攻撃の(ウクライナにおける)可能性はあるか? ある。軍事的目的のためではない。かような兵器は防衛突破の役に立たない。しかし他のすべて(西側)を恐怖させる目的を伴う。
Changelogを入れたら末尾が切れてしまった…Changelogはリプにします。https://anond.hatelabo.jp/20220308162009
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https://twitter.com/igorsushko/status/1500301348780199937
最初はTwitterに流しましたが(https://twitter.com/Vorspiel2/status/1500677825044819971)、誤訳を修正し、追加情報を入れて清書しました。
なお、この文書の真正性について、まずこちらの評価をご参照ください。(イギリスの情報サイトBellingcatの幹部Christo Grozev氏による)
https://twitter.com/christogrozev/status/1500196510054637569
以下はその翻訳です。
昨晩[日本時間3/5早朝]、FSBの内部告発文書と称するものが公開された。そこには、ロシア軍のウクライナでの失敗と、今後数週間~数ヶ月におけるロシアの惨状の予測が記されていた。これが本物かは分からない—ウクライナは以前に、心理戦の一環として偽のFSB文書をリークしたことがある。
だがこれはそれとは違うようだ: 情報源は信頼できるもので(gulagu.netの創始者)、偽造にしては遥かに長い文書だ(長くなるほどボロが出やすくなる)。
私はこの文書を、知己のFSB職員2人(現職または前職)に見せた。2人とも、これは間違いなく同僚が書いたものだと判断した。彼等は結論のすべてには同意しなかったが、それはさておき。
文書はこちら。一読の価値がある: https://www.facebook.com/vladimir.osechkin/posts/4811633942268327
内部告発というのが仮に真であったとしても、内容に虚偽が含まれている可能性にご注意ください。
更に、私はロシア語は分からないので、露→英訳時に意図的か否かを問わず誤情報が紛れ込んでいる場合にはそのままになります。この点について、ロシア語が理解できる方はチェックをお願いします。
以下本文です。
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[冒頭は英訳者Igor Sushko氏のコメント。氏はウクライナ出身・アメリカ育ちのレーシングドライバー]
以下は、現職のFSB分析官による、ロシアの現状分析を英訳したものである。長いスレッドになるので心して読んでいただきたい。シェア歓迎。全文で2000語以上になる。カーテンの裏で起きていることに対する高度な洞察であり、幅広い題材を含む。
文意を明確にするための補足を、必要に応じて括弧書きで加えている。[日本語訳時に、追加の補足を角括弧書きで入れている。] では始めよう:
最近はろくに眠れていない。ほぼ24時間勤務で、頭に靄が掛かったような状態だ。過労なのだろうが、まるでシュールな世界の住人になったような気分だ。
パンドラの箱は開いた—本当の世界規模の惨劇は今夏までに始まるだろう—全世界の飢餓は避けられない。ロシアとウクライナは小麦の主要産地なのだから。(コメント: 世界規模の飢餓が起きるという予測には同意しない。)
我が国の指導者層に本作戦(ウクライナ侵攻)を決断させたのが何かは分からないが、彼等は揃って我々(FSB)の責任だとしている。我々の分析は非難され、もっと沢山報告を出すよう、最近はますます圧力を掛けられている。
こういう政治コンサルタント、政治家、権力者ども全員が混乱の元凶だ。何より重要なのは、誰もこんな戦争が起きるとは知らなかったということだ—開戦は誰に対しても秘匿されていた。
一例を挙げる— ロシアに対する隕石攻撃(コメント: 西側諸国による制裁を指すと思われる)[これは露→英訳時のミスと思われる。詳細はhttps://anond.hatelabo.jp/20220322231355を参照]があった場合の結果と影響の分析依頼があったとしよう—
そこで攻撃のモードを分析するが、一方これはあくまで仮説であって細部を強調するな、とのお達しがくる。なるほどこのレポートはどこぞの官僚がチェックリストとして使うもので、分析結果はロシアにとってポジティブなものでなくてはならない、
そうでなければ「仕事ができていない」と詰問されるんだな、と理解する。したがって、我々にはどんな攻撃にも対抗手段が揃っている、という結論を出さざるをえない。もう完全にやりすぎだ。
ところが、蓋を開けてみればこれが仮説ではなく現実に起こっており、こんな仮説に基づいた分析など全くのゴミ屑になってしまった。制裁に対抗できていないのはこのためだ。こんな戦争が起きることは誰も知らず、従って制裁への対抗策も準備していなかったのだから。
これは秘密主義と裏表だ—誰もが知らされていないのなら、準備のしようがあるだろうか?
カディロフは激おこだ。ウクライナが「FSBからキーウのチェチェン部隊の情報をもらった」と吹聴したことで、我々(FSB)と連中は一触即発になりかけた。
カディロフの部隊は戦闘に入る機会すらなく壊滅し霧消した。FSBからウクライナへのリークがあったという情報を私は持っていないので、推測するにその可能性は1-2%だろう—とはいえ、可能性を完全に排除できるものではない。
我々の電撃戦は完全に失敗した。そもそもが完遂できないタスクだ: ゼレンスキーと部下を開戦3日で確保し、主要な建物をすべて占拠し、城下の盟を誓わせたとしたら、
ウクライナの抵抗は最小限に抑えられただろう。理屈上は。だがそれがどうした? こんな「理想的な」展開であってさえ、解決不能な問題が残っている: 我々は誰と交渉する気だ?
ゼレンスキーは排除するとして、よろしい、では合意に署名するのは誰だ? ゼレンスキーが署名するなら、彼の排除後は合意は役立たずだ。ОПЗЖ(ウクライナの親露派野党)は協力を拒否している。
臆病者のメドヴェドシュク[実業家。プーチンの友人]は逃亡。指導者は他にもいるが—ボイコ[野党党首]は拒否、彼の支持者も理解しないだろう。ツァリョーフ[DPR・LPR議会議長]を呼び戻そうにも、ロシア国内ですら不評。ヤヌコーヴィチ[前大統領]を戻す? どうやって?
占領は不可能、ということになれば、我等の撤退後、[ウクライナ]新政府は10分ももたずに倒されるだろう。
占領するにしても、必要な人員がどこにいるというのか? 司令部、軍警察、防諜、諜報—ウクライナ人の抵抗を抑え込んだとしても、50万人は要る。これに更に補給と兵站が加わる。
こんなのは決まりきったことだ—質の悪いリーダーシップを量で補おうとするなら、何もかも分が悪くなる。繰り返すが、これは「理想的なシナリオ」での話だ。現実はそうではない。
それでどうなっているのか? 総動員を掛けることはできない。理由は2つ:
1)総動員を掛けたらロシアの国内問題で自壊する: 政治でも経済でも社会でも。
2)我々の兵站は今日ですら伸びきっている。これだけ巨大な分遣隊をウクライナに送り込めたとして、何が得られる? ウクライナ—広大な国土を持ち、我々に向けられる敵意は半端ない国において。
我々の道路はこんな大部隊の補給に耐えうるようできていないから、何もかもがストップするだろう。現在の混乱状況を鑑みれば、指導者層がどうにかできるものでもない。
この2つの理由が同時に存在している。どちらか一方でも、失敗には十分だというのに。
ロシア軍の損失について: 実数は分からない—誰にも。開戦から2日間は何がしかの情報が入ってきたが、今となってはウクライナで何が起きているのか誰も把握していない。主要師団との連絡は途絶えている。(!!)
通信は回復するかもしれないし、攻撃を受けて散開しているかもしれない。司令官ですら戦死者数・負傷者数・捕虜数を把握できていない。戦死者の合計数は千人単位だろう。1万人か、5千人か、2千人ですんでいるか。
こんなことすら、司令部の誰も知らない。もしかしたらロシア兵の戦死者は1万人近くかもしれない。しかもここにはDNRとLNRの戦死者は含んでいない。
ゼレンスキーを殺害ないし捕縛したとしても、状況は変わらない。我々に向けられる敵意はチェチェンのそれ並だ。今となっては、ウクライナの親露派ですら公然と我々に反抗している。
それもこれも、(ロシアの)トップがすべて決めたから。こんなシナリオ(ウクライナ侵攻)など、先制攻撃を受けない限り起こらないと聞かされてきたから。
我々が脅威を高めていくのは、戦闘によらず交渉で結果を出すために必要と聞かされていたから。ウクライナ国内でのゼレンスキー批判の準備も、ウクライナ侵攻など考慮にも入れていなかったから。
今日、ウクライナ市民の死者数は幾何的に増加しており、抵抗は強くなる一方である。歩兵部隊は都市侵入を試みているが—落下傘部隊20隊のうち、わずか1隊が「暫定的に」成功を納めたのみ。
モスル侵攻を思い出してほしい。まるで同じだ—どの国でも起こることで、何も新しいことなどない。ここ数十年のヨーロッパでは—セルビアが一番良い例だろう—都市を包囲しても数年は持ち堪えられる。ヨーロッパからウクライナへの人道的支援が始まるのも時間の問題だ。
我々のひとまずの期限は6月だ。というのは、6月になったらロシアには経済というものが無くなるからだ—何にも残らない。
大局的には、来週には(ロシアで)(戦争賛成派対反対派の)両者の一方が崩れるだろう。こんな(ロシア国内の)緊張状態は長続きできない、というだけのことだ。
分析のしようもなく、混乱状態で予測の立てようもなく、何が起きるか確度を持って言える人間など(ロシアには)誰もいない。
直感に従って、しかも強い感情に動かされて行動するなどというのは最早ポーカーではない。だが賭け金は釣り上がってしまい、どれかしらの手段はうまく行くだろうという望みに掛けるしかない。悲しいけれど、人間は往々にして計算違いを起こすし、そうなればすべてを失うことになる。
見渡してみれば、ロシアにはアウト[ポーカーにおいて「これを引けば勝てる」というカード。「勝ちの目」]が無い。勝ち筋などなく、どうやっても負けるしかない—ということだ。(ここで一旦中断。小休止後に再開する)
(ここから後半。こちらはもっと興味深く、ラストには喜ばしい方向で驚くべきことが記されている)
我々は前世紀の失敗を100%なぞっている。「弱っちい」日本を蹴散らして瞬く間に勝利するつもりが、実は我々の軍はずたぼろだった。[日露戦争]
その後、また勝ちを目指して戦争[第一次世界大戦]をおっ始め、軍隊再教育のためにボリシェヴィキの徴兵を始めた。当時よく知られていなかったボリシェヴィキは戦争反対のスローガンを掲げ、ああいった行動に出た…
プラスの面も見よう: 懲罰部隊を前線に送り込むなんてことは考えもしないよう、我々は手段を尽くした。政治犯や社会不適合者を徴兵したら、前線の士気は下がるだけだ。
敵軍(ウクライナ)の戦意は高い。恐ろしく高まっている。戦い方をよく知っているし、有能な指揮官も多数居る。武器も補給もある。世界的な人道破局の舞台を整えているようなものだ。
我々が最も恐れていることは: 首脳が古くからの問題を新しい問題で糊塗しようとしていることだ。ドンバスで2014年に起きたことの大きな理由がこれだ—我々は西側諸国をクリミアの「ロシアの春」から引き剥がす必要があった。それで、いわゆるドンバス危機を演出し、西側の注意を逸らして
交渉材料にするしかなかった。だがそれで問題はさらに大きくなった。そこでエルドアンに圧力を掛けてサウス・ストリーム(ガスパイプライン)を4本引かせた上で、シリアに侵攻した。
ソレイマニ(イスラム革命防衛隊)が自分側の問題を解決するために、わざと偽情報を我々に流したために起きたことだ。その結果、クリミアの問題は片付けられず、ドンバスの問題も無くなっていない。
サウス・ストリームは(ガスパイプライン)2本に減らされ、シリアは宙吊り状態だ—我々が撤退すればアサド政権は倒され我々は無能扱いされるが、我々が駐留し続けるのも困難だし意味もない。
こんな「ウクライナ電撃戦」を誰が思い付いたのかは知らない。もし仮に我々が正しいインプットを受け取っていれば、少なくとも初期の計画には疑問点があり、大部分を再評価するよう指摘できただろう。それはもう大量に。
それが今や、我々はクソみたいな(PGな言葉遣いは英訳者による)ハマリ状態で、どうしたら良いかも分からない。「非ナチ化」「非武装化」というのは分析のカテゴリには無い。というのも、具体的に数値化されたパラメタが無く、目的達成を何をもって評価できるのか分からない。
今や我々は、頭のおかしい参謀がトップにヨーロッパとの紛争を決断させるのをただ待つだけだ。要求は制裁の緩和だ—制裁を弱めるか、それとも戦争か。
西側が拒絶したら? その場合、本物の国際紛争に巻き込まれる可能性も否定しない。1939年のヒトラー同様に。我々の「Z」[紀章]は鉤十字同様に扱われるだろう。
(ウクライナでの)局地的な核攻撃はありうるか? イエス。但し軍事目的ではない。こんな兵器は防御を崩す役には立たない。使うなら目的は我々以外(西側諸国)の恫喝だ。
我々はウクライナに全責任をおっ被せるシナリオの土壌を作っている。ナルイシキン(ロシア対外情報庁官)と配下のSVRは、ウクライナが密かに核兵器を製造していた、という証明をせっせとこさえている。クソったれ。
連中は、我々がとっくに分析し放棄した論を押し通そうとしている: [核兵器開発の]専門家やウランがあったことの証拠や証明など、でっち上げることは不可能だ。ウクライナには劣化同位体238[ウラン238。劣化ウラン]が1トンある—だが問題にはならない。核燃料サイクル上、作り出すことを秘密にはできない。
「汚い爆弾」にしても秘密裏に製造することはできない。ウクライナの古い原発では、それに必要な物質は副産物として最小限産出されるのみだ。アメリカはMAGATE[IAEAのロシア語表記]と共にこういう施設を監視しているから、こんな論など出したら馬鹿にされるだけだ。
1週間後には何が起きているだろうか? 2週間後でもよい。我々はドツボにハマり、古き良き、空腹の90年代を思い出すことになるだろう。
市場が閉じつつあるのに対抗して、ナビウリナ[ロシア連邦中央銀行総裁]は正しい措置を講じているようではあるが、所詮は船に空いた穴を指で塞ぐようなものだ。状況はどのみちどんどん悪化し続ける。3日とか5日とか7日、などのうちには最早解決しない。
カディロフが地団駄を踏んでいるのも故ないことではない。彼等には彼等の野心がある。彼は「無敵」として名をあげた—もし失敗したなら、自分の部下達に引き摺り下ろされることになる。
それからシリア。「諸君—耐えろ、ウクライナは片づける、そうしたら我らのシリアでの地位を強化する。」実際のところ、ロシアの分遣隊はいつ補給が切れるかも分からず、その後には熱波が待っている…
トルコは海峡を封鎖したし、シリアに物資を空輸するのはかまどに金をくべるようなものだ。しかもだ—これはすべて並行して起こっている。ひとまとめにして分析する時間すら無い。
我々の現状は1943-1944年のドイツのようなものだ—だがこれはウクライナでの「初期状態」にすぎない。
過労でくらくらするし、これは夢で、実は以前と何も変わっていないのではないかと思うことすらある。
監獄について—今後も悪化するだろう。ナットは血が滲むまで締め付けられるだろう。どこでも。有り体に言って、純粋にテクニカルな観点では、現状をコントロールし続けるにはこの手しかない。
我々は既に総動員体制だ。だがこんな体制は長く続けられない。タイムテーブルがどうなっているのかは分からないが、状況は悪化の一途だ。国家統治というのものは、総動員を掛けたら狂い始めるものと決まっている。しかもだ: 100mを疾走できるとして—それをマラソンでやったらどうなるか。
で、ウクライナ問題について100m競走よろしく飛び出したものの、よく見たら参加登録したのはマラソンだった、ということだ。しかもこれは、現状のかなり簡潔な要約でしかない。
更に皮肉なことを言えば、私はプーチンが核の赤ボタンを押して世界を終わらせるとは信じていない。
まず、それを決められるのは1人ではない。誰かが反対するだろう。このプロセスには多数の人間が関与している。「赤」ボタンを1個押すだけ、というものではない。
経験的に知られているとおり、制御構造に透明性があるほど、問題点は見つけやすい。誰が何をどうコントロールしているか混沌としているにも関わらず、虚勢を張った報告ばかりが飛び交う状況にこそ、問題が潜んでいるのが常である。
「赤ボタン」システムが言われているとおりに稼働するかは確信が持てない。それに、プルトニウム燃料は10年毎の交換が必要だ。
3つ目、これが最も唾棄すべきで悲しいことだが、私個人の信念として、側近や忠臣すら近づかせないようになったプーチンが、自分自身を犠牲にするなどとは思えない。
プーチンが恐れているのがCOVIDなのか暗殺なのかはどうでもいい。もしプーチンが、自分が最も信頼していた人々すら恐れているのだとしたら、自分自身と最愛の人々を破壊するなんてことができるものかね? (英訳終)
TBSが燃えている。4日前の2月24日、駐日エストニア大使館がTBS NEWSのツイートに「TBSさん,またですか..いいかげんエストニア,ラトビア,リトアニアを“旧ソビエトの国“と呼ぶのはやめてもらえます?歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国はソビエトの継承国家ではないです。2月24日エストニア104回目の独立記念日の本日から、もうこの呼び方はやめていただきたいです」とリプライしたからだ。
https://twitter.com/estembassyjp/status/1496798387856834561
エストニアと言えば把瑠都と仮想通貨しか知らない俺も、うっかりエストニアを「旧ソ連」と呼んで国際問題を召喚しかねない。保身のために「エストニアは旧ソ連じゃない問題」について検索してみた。
「まとも検索」で「エストニア 旧ソ連」を検索すると、政府や国立機関のページが見つかる。バルト三国は「旧ソ連」と呼ばれているのか?
・外務省 わかる!国際情勢(2011年) 「現在のエストニアは,バルト三国中もっとも経済状況が良好で, 2011年1月に旧ソ連の国として初めてユーロを導入しました。」
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol80/index.html
・国立国会図書館 リサーチナビ(2022年2月更新)「旧ソビエト連邦構成国(ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、以下略)の鉄道地図が掲載されています」
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-371.php
日本政府公認旧ソ連である。専門家が書いた本なら如何と志摩園子氏の「物語バルト三国の歴史」(2004年)を手に取れば、「旧ソ連邦に属していた三国は、新たな国家建設に当たって(以下略)」と開幕即旧ソ連判定である。
では逆に何故、「旧ソ連」と呼ぶのが「不正確」なのか?この本に沿って俺なりにまとめると、今のエストニアにあたる地域は、18世紀くらいからロシア帝国に支配されていたのだが、ロシア革命後の1918年に独立を宣言した(※国際的な承認は1920~21年)。しかし1939年、ナチスとソ連の秘密協定で勝手にソ連の勢力圏と決められてしまい、1940年6月にはソ連軍に占領された。そして逆らう奴らは逮捕、追放され、占領下で選挙を実施して人民議会を開き、この議会がソ連編入を決めた、ということらしい。要はエストニアはソ連軍に占領されながら「ソ連に加盟します」と言わされたわけで、ぐうの音も出ない茶番である。リトアニアとラトビアも同様の茶番でソ連に「編入」している。
エストニアに言わせれば、こんなふざけた経緯の「ソ連編入」が無効で違法なのは明々白々、俺たちバルト三国は半世紀間「占領」されていただけなので旧ソ連呼びは「歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国はソビエトの継承国家ではないです。」ってツイートにつながるんだろう。
けど実際1991年までは政治も行政も経済もソ連の一部として回ってたんで、日本の外務省や専門家が「旧ソ連」と呼ぶのも当然と言えば当然。無茶苦茶なやり口で併合されたとはいえ、実際ソ連だったんだもん。
なぜ駐日エストニア大使館は「行き過ぎ」とまで思えるほどブチギレたのか?「アジア経済研究所」というJETROの付属研究所が出している雑誌「アジア経済」に、ロシア政治研究者・バルト諸国政治研究者・中央アジア政治研究者の座談会(2021年7月30日収録)が載っている。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajiakeizai/62/4/62_79/_html/-char/ja
バルト諸国政治研究者の中井遼氏が「旧ソ連」問題を語っている:
中井「それと,最近やりにくいなと思うことがあって,「旧ソ連」というとすごく怒る方がいるんです。日本だと目立たちませんが,英語圏だと議員や外務省とメディアが一緒にキャンペーンをはって,former Soviet Union とか ex-Soviet states といった呼称を使った記事や表現に対してものすごい勢いで抗議運動をやるんです。まだアカデミックなところではそこまで来ていませんけど,私ですら多少の圧力は感じますし,現地の研究者と話していると大変そうだなと思います。」
岡(※中央アジア政治研究者)「なるほど,これは地域名称の難しさですね。」
中井「バルト 3 国のなかで,とくにエストニアとラトビアは,そもそも国家理念としてソ連だったことはないという建前なんですよ。」
要はエストニア大使館の怒りのツイートは、エストニア外務省の「キャンペーン」の日本編なのである。これはまさに政治的に正しいか否かという問題——いわゆる「ポリコレ」なのでは?と雑に納得すると専門家に叱られるだろうか。「歴史戦」チックな問題なのかもしれない。
どっちにしても、駐日エストニア大使館の言い分はあまりにも強気だ。「エストニアがソ連だったことはない」という歴史認識は別に世界のアカデミックの常識って訳でもなさそうなのに、「旧ソ連」呼びを「不快だからヤメテ」ではなく「歴史的にも法律的にも不正確」とまで断じているんだから。グルジアがジョージアになったのとは根本的に質が違う要求だし、「呼ばれたくない呼び方はやめようね!」程度の問題だと考えてるなら、エストニアの歴史認識を実のところ解っていないままってことになる。
俺としては、日本外務省や日本のバルト三国専門家もバルト三国を「旧ソ連」と呼んでいるわけで、TBSがここまで炎上したのは可哀想な気がする。エストニア政府の歴史認識を尊重すれば「旧ソ連」と呼ばないのが親切かつポリティカリーにコレクトだけど、無茶苦茶な併合とはいえバルト三国が旧ソ連の一部だったことは確かだし、オウムの件のように明らかにTBSが悪い事件まで持ち出してぶっ叩くほどのことかというと疑問。けど炎上のおかげで俺のような無関心人(むかんしんちゅ)までバルト三国の歴史にちょっぴり詳しくなったんだし、エストニア外務省の「旧ソ連と呼ぶな」キャンペーンは今のところ成功していそうだ。
それにエストニアのキャンペーンを抜きにしても、「旧ソ連」という枕詞はそろそろお役御免かも。TBSは「バルト三国」の知名度が低いと感じて「旧ソ連」を加えたんだろうが、専門家をもってして今や「普通の民主主義の経済的に安定した国」(座談会の中井氏)と言わしめる国々をいつまでも「旧ソ連」と呼び続けるのは、間違いじゃなくとも何か変な感じだ。
...ここまで書いてから気付いたんだが、「エストニアの政治と歴史認識」(著者小森宏美氏)というどうやらそのものズバリの専門書が発売されているらしい。
シヴェリア鉄道は日独同盟の生命線だったからな。水野晴夫監督に倣ってシヴェリア鉄道を奪取していれば
1939年9月に第二次世界大戦が始まったが、当初、ドイツとソビエトは独ソ不可侵条約により友好関係を維持した。日本は同盟国のドイツにシベリア鉄道で大量の物資を供給していた。
しかし、1941年6月にドイツはソビエトに侵攻して独ソ戦が始まったため、ドイツ向けの輸出は困難となった。ただ、1941年4月に日ソ中立条約を結んでいたため、日本人がシベリア鉄道を使うことは可能だった。第二次世界大戦末期、1945年5月のドイツ降伏後にビザが下りた駐独大使館員や駐欧州大使館員が日本への帰国に使用した。
しかし、ソビエトはドイツ降伏後に極秘に対日戦の準備を進めていた。シベリア鉄道の輸送力を使い大量の兵員と物資が満州国境に輸送され、8月9日にソ連対日参戦となった。